ワン・ツー・スリー
ワン
あまり天気が良かったものだから、近所の公園に散歩でも行こうとして、スニーカー履いて、部屋を出たのが間違いで、自転車のチェーンは外れるわ、その時転んでカゴが曲がるわ、野良犬に吠えられるわ、知らないおっさんに怒鳴られるわ、ウンコ踏むわ、黒猫に横切られるわして、しかも突然雨まで降ってきて、しょうがないから家に帰って、ベッドに寝転がって「来月からマジメに働こう」とマジメに声に出して言ったらおかしくて腹抱えて笑い転げたのだった。
君に会いたい。
やることないからマンガ読んで、飽きて、また外に出て近所の自販機にタバコを買いに行ったら何故か売り切れてて、もうちょっと歩いたところにある次の自販機まで足を伸ばしたらその途中で本日二回目のウンコ踏んで、もうスニーカーを捨ててやろうかと思ったんだがそのスニーカーは一時期流行った限定モデルで、高くて、その流行はとっくの昔に終わったんだけども、そういう理由で俺は、僕は、アスファルトにソールを擦りつけるようにして歩いて家に帰った。
何もすることがないからみんな働いているのだなあと、こういう身分で思います。ゲームやったりマンガ読んだりビデオ観たりしてもどうせ飽きるし、そんなことしてたら金が、いや、そんなことしなくてもどうしてだか金が減っていくので、飯を喰わなければたぶん死ぬので、飯を喰うために一日の短期バイトをしてみたら、ああなるほど、こうして社会は成り立っているのか、と妙に感心して、その足でファミレスに行って一番高いやつを注文して喰ったら思ったより美味くなかった。
その後風呂場でスニーカーをごしごし洗ってると知らない間に後ろに花巻が立っていて
「何やってんだ?」
と言うので
「スニーカー洗ってます」
と言うと
「何それ。内職?」
と変な顔をされたので
「内職です」
と答えたら花巻は「ふうん」と言いながら僕のベッドに腰を下ろしてタバコに火をつけた。
時々花巻は合い鍵を使って(どうしてこいつが僕の部屋の合い鍵を持っているのかは長くなるので省略)部屋に勝手に上がり込んでゴロゴロするので僕はちょっと迷惑だったんだけれども、花巻を見ていると「ああ下には下がいるのだなあ」と思って安心したりもするので、僕は同情のこもった目で花巻を見下すことによって日常の幸福を得ている。
花巻は僕と同じように無職か、気分と季節によってはバイト君になったりして、つまりいわゆる社会の底辺組であったので、僕とずいぶん話が合って、とある建設現場から二人で逃げ出した時に仲良くなって以来付き合いは続いていた。花巻はタバコをうまそうに吸っていたがよく見るとそれは僕のタバコだったので僕は「おい」と声をかけた。
「金ないのよ」
「働けよ」
「嫌なのよ」
「お前もスニーカー洗えよ。もう片方洗ったら金分けてやるよ」
「いくら?」
「一足千円。確か月末振り込み」
テレビを見ようとしていた花巻はその言葉に飛びついて「代われ」と言いながら風呂場に入ってきたので、僕は花巻と交代してベッドに戻ってテレビのリモコンを押した。ちょうど昼過ぎだったのでそういう番組がタラタラと流れて、チャンネルを変えても同じような映像がタラタラと流れて、あるチャンネルではチリチリ頭の芸能人が新商品を使ったら魚のフライがうまく揚がったとか言って騒いでいたので、そして会場のみなさんに衝撃が走ったらしかったので、僕はゲラゲラ笑ってテレビを切ってリモコンを壁に投げつけた。その音を聞いて花巻が風呂場から顔を出して「どうしたの?」と訊いてきたので「みんなが俺を殺そうとするんだ、みんな俺のこと見張ってるんだ」と言ったら花巻は何も言わずまたスニーカーをごしごしと洗い始めた。
僕は君に会いたい。
ツー
田舎から東京に出てきた就職組でも残っているのは鶴ちゃんくらいで、あとはみんな半年、遅くとも二年くらいで会社を辞めてどこかにパラパラと散っていった。そのうちの一人である友人が僕に言い残した言葉はこうだ。
「アホくさ」
僕は他にもいろいろ訊こうとしたんだが何かその一言が全てを物語っている気がして黙って一人でビールを飲んだ。花巻にその話を聞かせたらあいつは大マジメな顔をして
「分かるよ。ホントそうなんだよな」
と肯いたので僕が「就職したことあんの?」と訊くと「無い」と言う。
そんな具合にタラタラとした日常を過ごしていたら僕の付き合っていた咲樹ちゃんまでどこかに行ってしまった。彼女はマジメで堅いところに務めていたからまさか辞めるわけがないだろうと思っていたら僕が知らないうちに会社を辞めてしかも引っ越しまで終わらせていた。僕はその手際の良さに感心してそれを伝えようと思って電話をかけるとコール音ばかりで電話に出ない、しかし鶴ちゃんがかけると電話に出る、なんて、実に不可思議な現象が起きて、それはいつまで経ってもそうであったので、僕はそのうち電話をかけるのを止めた。
花巻はフラれた僕を笑いながら慰めてくれて、僕が立ち直りかけるとまた落ち込ませて、また励まして、そういうことを暇つぶしにやっていたみたいだけど僕はそれどころじゃなく、さあどうする、これから僕はどうするべきなのだ、という実に具体的で困難な問題に直面していたのだった。
カッコいい選択肢としては彼女の居場所を突き止めて追いかけて会いに行く、という方法があったが、それは花巻に「それアレだよ、なんだっけアレ。とにかく止めとけ」と釘を刺された。まったく不便な世の中だった。不便で、その上つまらなかった。この恐ろしいつまらなさのためにみんな頑張って就職した会社を辞める羽目になって可哀想だと思うんだが、それは僕にしたって同じことで、アルバイトが続かないのも、昼間からごろごろしてるのも、すべては社会が悪いんだぜーとか言っていると今度は鶴ちゃんから怒られてしまった。
「お前さ、社会とか親とかに甘え過ぎ。あと友達は選べよ」
鶴ちゃんの言う通り僕がそれほど必死になって働かなくていいのは親がいるからで、僕は実は専門学校に通っていることになっているのだった。月々に送られてくる学費に頭を下げながら僕はその殆どをごろごろすることに費やしていた。ごろごろするにも金がいるのだった。それは花巻も同じことで、あいつも何かしら理由をつけて仕送りのようなものを貰っていると聞いたことがある。そんな感じで僕たちは割と平凡な、退屈な、そしてそこそこ豊かな生活に浸って浸って浸りつくしていたのだが、それは実はとても危ういものでもあった。どんな風に危ういのかと聞かれると僕たちと同じような暮らしをしてみて下さい、としか言えないのだが、それはとにかく、時々真顔になるくらい危ういのだった。
そんなある日、部屋でごろごろしていたら花巻から連絡が入った。あのさ俺さ、川ですげえもん見つけたんだけどよ、そう堰を切ったように話し出す花巻の声を聞きながら僕はきっとこの前のスニーカーの件がバレて花巻が壮大な復讐に出たのだ、と思った。ようするに手の込んだドッキリだと思ったのだった。しかしその予想は外れた。花巻は電話を切ってから三十分後にそのすげえもん、を手にして現れた。
「お前これどう思うよ。場所が場所だからさあ、アレなんじゃないかと思うんだけどよ」
「アレって何だよ」
「リストラを苦に、とか」
「だったらそんなの持って帰って来んなよ」
「いや、とにかく中身見てみろって」
花巻が持ってきたのは古い革張りのビジネスバッグだった。花巻は近くの川で釣りをしていてそれを見つけたのだと言った。第一発見者だと言って騒いだ。僕はその鞄の中を覗き、ごそごそと手を入れて、いくつかの書類を取り出して床に並べた。花巻はタバコの煙を鼻から吐きながら自慢げに言った。
「俺よく分かんねえけど、それ、ひょっとして何か金になりそうだったりする?」
「お前やっぱ一度就職した方が良かったかもな」
「何でよ」
「お前バカだろ、こんなのただの消耗品の書類だよ、ここ読めよ、第十三期中間報告書って書いてあるだろ? 要するに冴えないオッサンの冴えない日常ってことだよ」
僕がそう言うと花巻はタバコを吸う手を止めて僕を見た。
「お前さ、アタマいいよな。前から思ってたけど」
「お前がアホなの」
「そうなの?」
「そうなの」
花巻はやがて書類の意味を理解したのか、肩を落とし、溜息をついた。何だよちくしょう、ああもうつまんねえなあ、僕はそう呟く花巻の気持ちが理解できた。それに黙ってはいたが僕も少し浮ついた気分になっていた。事件だ、と思った。けれどそれは裏切られた。このままいくと恐らく花巻が僕を飲み屋に連れていって、ぐだぐだといろんなことの愚痴を言い、笑い、最後には二人で酔いつぶれて金が無くなっていつものように悲惨な朝を迎えることは確実だったので、僕は花巻にある提案をすることにした。
「あのさ、お前、金が欲しいんだったら一つ方法があるよ」
「何だよ」
「これ持ち主に返せばいいじゃん。下らない書類でもそいつにとっては大事だったりするんだよ。謝礼とか貰えると思うよ」
それを聞くと花巻は身を乗り出してきた。僕は花巻を見て、こいつ案外仕事に就いたら金のために必死になるんじゃないかと思った。しかしそれはたぶん間違っていた。花巻は今の自分に少しだけ足りないものを求めているだけなのだった。金が増え、欲しいもの、例えばターンテーブルなんかを買ってしまうと花巻はもうそこで仕事を辞めるだろうなと思った。そしてそれは僕も同じことだった。
花巻はさらに鞄をひっくり返してごそごそと調べ、すると中から三通の封筒が出てきた。どれも同じ住所宛だったので、それが持ち主の住所だということは明らかだった。
「近くじゃんよ」
「どうする? 持ってく?」
「でもこいつ死んでるんじゃねえの?」
「だとしても家族が有り難がるよ。遺品だっつって」
「マジかよ、それカタいじゃん。あー、久しぶりだなカタい仕事」
そうして僕たちは知らないオッサンの鞄を届けるため、謝礼のため、その翌日に昼下がりの明るいホームに立ったのだった。
スリーアウト
電車に揺られながら花巻はぼんやりとしていた。目的の住所は東京から一つ隣の県だった。と言っても僕たちは県境の近くに住んでいたので、実際は電車でわずか七駅ぶんの距離だった。
僕は単調に過ぎる窓の外の模様を眺めていた。それは風景ではなく模様だった。電柱やマンションや高圧線が窓枠の長方形のなかをゆっくりと通り過ぎていった。太陽の光が足元にあった。僕はスニーカーの先をその光のなかに入れた。暖かいのだろうと思ったが別にそうでもなかった。僕は吊革にだらしなく体重をかけてだらしない腹が出ている花巻を見上げた。花巻はあくびをしながら言った。
「俺さ、昨日すげえ夢見たよ」
「知らねえよ」
「あのさあ、ロシアかどっかの寒そうなところでさ、俺がゾウに乗ってんだよね」
「ロシアにゾウはいません」
「そうなの?」
花巻は吊革を握ったままぐりんぐりん揺れた。周囲の乗客が何人か花巻を見た。迷惑そうだった。花巻は彼らの視線に気付いていないのか、その妙な運動を続けながら言った。
「これ聞いた話なんだけどさ、俺のツレがさ、こないだオオカミ見たんだって」
「どこで?」
「調布」
「調布にオオカミはいません」
「いや、夜だったからはっきり見てないらしいんだけどよ、あれ絶対オオカミだったって言うんだよ」
「日本にオオカミはいません」
「そうなの?」
花巻はぐりんぐりんを止めてまた大きなあくびをした。僕は窓の外を眺めた。ちょっと前まではこの路線をしょっちゅう使っていたなあと思った。東京方面に行くと咲樹ちゃんのマンションに着くのだった。逆方向に乗ったのは初めてだった。何してんだろうと思った。しかし咲樹ちゃんのマンションへ向かったところでそこにはもう彼女はいないのだ。そんなら逆の方がいいやと思った。逆方向に何があるのかは知らなかったが、少なくともオオカミには出会わないだろう。
咲樹ちゃんのことが頭から離れなかった。別に初めて失恋したわけでもないのにどうしてだか僕は咲樹ちゃんのことを考えてしまうのだった。別れてみると意外にそれほど真剣じゃなかったことにも気付いて、そう言えば大切な話もしなかったなあ、と反省したりして、付き合ってたのもたった半年で、もういいや次だよ次、という具合に本来ならそうなっていたはずが、どうしてだか、ふとした時に咲樹ちゃんの顔が浮かぶのだ。それは未練ではなかった。それとは何か違う。
花巻はぐりんぐりんを止めたかと思うと次に吊革を何個も持ってそれにぶら下がって足を上げた。僕は注意するのも面倒くさいので放っておいた。また周囲の人々が迷惑そうな顔をした。僕はこいつら何が迷惑なんだと思った。お前らに何か迷惑かけてるのかよと思った。迷惑って何だろうと思った。狭いよこの電車。花巻は猿のように笑って言った。
「俺の乗ったゾウがさ、空飛ぶんだけど、それが耳じゃねえんだよ、手をこうやってさ、パタパタさせて」
しばらくして電車を降りた僕たちは住所と地図を片手に街へ出た。思った通りそこはかなりの田舎だった。太い国道に太い歩道があった。僕たちは車の走らないだだっ広いアスファルトを横目に見ながら、タバコを吹かして、歩けば30分くらいだと駅員が言うその距離をゆっくりと歩いていた。風景が横長だった。水を張った田圃があって、森が遠くに見えて、道路沿いに規則正しく電柱が並んでいた。その電線には同じように雀が規則正しく並んでいたので、花巻は転がっていた石を電線めがけて投げつけた。その石は狙ったところと全然別の方角に飛んだ。雀は僕たちを見下ろしていた。彼らは誰も驚かなかった。それに腹を立てた花巻が電柱をよじ登り始めたのでさすがに僕は「お前なあ」と言って花巻のズボンのベルトを引っ張って止めた。
「さっきからお前、なんかイライラしてない?」
花巻はクソ、と言いながらまた石を拾って投げた。今度は雀の少し近くに届いた。けれど雀は飛ばなかった。そのずっと向こうには青い空があった。ところどころに雲が高く浮かんでいて、僕はそのちぎれたような形をした雲を見上げた。あの高い場所に風はあるんだろうか、雲は、動いているのか、動いていないのか、じっと目を凝らしているとかすかに動いたように見えたんだが、それは単なる目の錯覚かも知れなかった。雲は青い画用紙に貼り付いているようにも見えたし、恐ろしいほどゆっくりと流れているような気もした。
気付くと花巻の姿が無かった。周囲を見回してみると、少し離れた家の飼い犬にケンカを売っている花巻が見えた。花巻は狂ったように吠える犬に「殺すぞてめえ、クラァ!」と怒鳴っていた。僕はそういうのがとても嫌だと思った。時々花巻は理由もなくイライラすることがあった。僕はそれが嫌だった。「行くぞ」と花巻に声をかけ、僕は足を速めて歩き出した。後から花巻はついてきた。
歩けど歩けど黒いアスファルトは続いていた。一点透視法だか何だか、地平線のその向こうまで延々と電柱が立っているような気がした。同じような家が並び、同じような塀が続き、イライラが続いていた花巻はそんな風景に我慢が出来なくなったのか突然僕に100mダッシュを持ちかけてきて二人で用意ドン! と走り出したのはいいんだけどもどこがゴールか決めて無かったので僕は途中でバカバカしくなって走るのを止めたら花巻はさらに向こうへ走っていって何かにつまずいてこけた。
花巻が足を引っかけたのはアスファルトにせり上がった木の根っこだった。どこにそんな木があるのかと思って見回すとその木は既に僕たちの頭上にあった。巨大だった。あんまり大きすぎて気が付かなかった。太い道路沿いの住宅地のなかに何故かその巨大な木はあって、周囲の建て売り住宅もその幹を避けるようにして経っているのだった。辺り一面が影になっていた。僕たちもその影の下にいた。花巻は惚けたような顔をしてその豊かな枝葉を見上げて言った。
「何これ」
「街路樹じゃなさそうだな」
「何でこんなとこに生えてんの。意味分かんねー」
花巻がそう言うので僕は呆れた。
「花巻さ、この木って何年生きてると思う?」
「5年くらい?」
「お前 やっぱ会社じゃなくてもう一回小学校に行けよ」
「10年?」
「あのなあこれだけデカい木が5年や10年なわけないだろ? もっとずっと昔だよ。100年は超えてるよ。だから俺が何を言いたいのかと言うと、この木がこんなところに生えてるのがおかしいんじゃなくて、住宅地が後から出来たんだから、お前のゆってんのは逆なんだよ」
花巻は僕の話を聞いていないのか、木を見上げたり、ごつごつした幹に触ってみたりしたあと、腕時計を見て僕に言った。
「もう30分過ぎてねぇ?」
僕は自分の時計を見た。花巻の言うとおり駅員に言われた所要時間をけっこう過ぎていた。
「通り過ぎたか?」
「戻って探そっか」
僕たちはそう言って元来た道を戻り、表札を見ながら歩き、戻りすぎたと思えばまた引き返し、表札を見ながら歩き、そういうことを何度か繰り返していたら無職生活の我々はあっけないほど簡単に疲れ切ってしまい、花巻が大事そうに抱える鞄のことも、発生するはずの謝礼のことも、なんだかどうでも良くなってきて、自販機でジュースを買い、道ばたに腰を下ろし、二人でタバコに火をつけた。
僕はタバコをプカプカさせながらさっきの大木を眺めていた。木の頭は住宅地から頭一つ飛び抜けていてこの周辺ならどこからでも見えるのだった。それは緑色をしたキノコのようにも見えたし、大きな傘のようにも、霧のようにも見えた。油彩絵の具のような色の濃い緑が住宅地の頭上を支配していて、それはどこかしらバランスを欠いた、少しズレた現実のようで、気になって、僕はそれをじっと見ていた。しばらくして花巻は言った。
「そろそろ帰りますか」
「帰るの?」
「これ以上疲れるとね、楽して儲けようという俺の美学に反するんだよね」
「美学?」
「いいからもう帰ろうぜ」
「その鞄どうすんだよ」
「どっか質屋にでも持ってくわ」
花巻はそう言って立ち上がり、まあヒマ潰しにはなったな、というような感じの軽い溜息をついた。僕は言った。
「質屋に行ってもそんなの相手してくんないって」
「そうか?」
「それだったらオッサンの住所と、その下に俺たちの連絡先書いてさ、どっかに置いときゃいいんだよ。この辺の近所の誰かがさ、気付いて、そいつのところに持っていくと思うよ」
それを聞いた花巻は目を輝かせて言った。
「お前ってホント頭いいよな」
「お前ってホント頭悪いな」
「うるせえよ」
「あの木のところにでも置けば目立つだろうな」
僕たちはそうして再びあの大木の下に立った。大きな影の中はひんやりと湿っていた。花巻は鞄を木の根の辺りに放り投げ、それを満足したように見下ろした。僕は木にもたれてジュースを飲んだ。ごくり、と喉を鳴らすと目の先に重く伸びたいくつもの枝葉が見えた。それらは午後の日の光を受け、すべての恵みを身体に取り込んでいた。薄い葉が透けて血管のような細い筋が見えていた。風が吹くと彼らは一斉に揺れた。まるで渋谷の雑踏のような音がした。それは不意に僕の耳元に届いた。大きな音だった。僕は少し気になって頭上を見上げた。誰かがいると思ったからだ。けれどもちろん誰もいなかった。それくらい人の気配がしていた。なぜか、自分が生まれてから今までずっとここに座っていたような気がした。それは大事な何かを忘れてしまった時に感じるような居心地の悪い感覚だった。花巻は大木から離れる時「しっかり頼むぜ」と言って木の幹にローキックを入れた。けれど枝葉は揺れなかった。僕たちはその住宅地をあとにして、帰りの電車に乗った。
電車のなかで、花巻が「あー!」と大声を出した。もちろん乗客全員が振り向いた。僕は花巻に言った。
「どうしたの」
「連絡先の紙、入れてない」
「お前バカだろ」
「サイテーだよ、やっちまったよ」
「でもさ、木の神さまとか、木の精霊とかがいてさ、うまくやってくれんじゃないの」
「そうだったらいいんだけどなあ」
「でもお前、さっきローキック入れてなかった?」
「あ、入れた」
ショックを受けている花巻から視線を外し、僕は向かいの窓の外に目をやった。行きと違い今度は物凄いスピードで風景が飛んでいった。台風のようだった。それと同じくらいの激しさで僕たちは日常に戻ってゆくのだと思った。僕は鞄の主のオッサンのことを考えた。本当のところ、オッサンはもう新しい鞄を買っているだろう。書類も中間報告の時期を過ぎていてあの書類はもうゴミだろうと思った。オッサンはあの木の近くに住んでいて、毎朝何も気付かないままその前を通り過ぎるのだろう、鞄は近所の口やかましい誰かによってゴミの日に放り出されるだろう、そして何事も無かったかのようにまた朝が来て一日が始まるのだろう、過去も未来もオッサンは会社に通う、昨日も明日も僕たちは部屋でゴロゴロする。
咲樹ちゃん、と僕は声を出しそうになって慌てて口をつぐんだ。彼女にたまらなく会いたくなった。僕たちの電車は東京方面に向かって全速力で走っていた。風景が溶け始めていた。そのスピードで、突風の速さで、僕は咲樹ちゃんに近付いていくイメージを描いた。