都市とサロン
あまり知られていないことだが、俺の実家である「ヘアサロン平口」の朝は早い。普通の会社員が眠い目を擦りながら歯磨きをしている頃、親父は既に制服に着替え、ソファーに座りながら客が来るのをじっと待ちかまえている。しかしもちろんそんな時間から客など来るはずも無く、俺は親父を尊敬するどころか少し頭が弱いんだろうと思っている。
毎朝親父は入り口の丸い大きなドアノブを見つめながら店のテレビの朝のニュースを耳だけで聞いている。時々、冷め切ったコーヒーに口をつける。
床屋の朝が早いのには歴史があるのだと親父は言う。何でも明治の時分、床屋が日本に誕生したばかりの当時は髪は朝一番に切るものだったらしい。今ほど髪型が複雑ではなく、また多様化もしていなかった為、サラリーマン連中はヒゲを剃るような感覚で床屋を利用していたのだと親父は煙草を吹かしながら俺に説明した。ほんとかどうかは知らない。たぶん嘘だと思う。「床屋は今も昔も庶民の味方だ」と自慢げに話す姿は堂々としたものだが、この時代に朝早く店を開けることがどうして庶民の味方になるのかも分からない。
「陽次、お前、学校はまだなのか」
「今から行くんだよ」
「重役出勤だな。呑気なもんだ」
「まだ朝の8時なんだけどな」
床屋の息子が大学で都市環境学を専攻しているということについて、同じ大学で犯罪心理学を専攻している幼馴染みの日向は「私んとこなんてスーパーじゃん、知ってるくせに」と笑いながら言う。
「最近さあ、うちもようやくコンビニっぽくなってきたんだけど、まだ夜9時で閉まるんだよね。うちの親あんまり分かってないんだよ」
日向の家の店は俺が生まれた当時は隣町で唯一のスーパーだった。ところが俺たちが中学に上がる頃、空き地にどこかの大手が進出し、さらにコンビニも激増して、いつの間にか時代遅れの個人商店になってしまっていた。日向の家はそれでも細々と営業を続けていたのだが、一年ほど前、遂にコンビニのフランチャイズ化という現実的な選択肢を受け入れた。今ではあの見慣れた「大塚マート」の黄色い看板は外され、代わりに真新しいセブンイレブンの原色のロゴが光っている。
「けどあれだね、私たちはもっと親に感謝しなくちゃね。陽次んとこもそうやって息子を大学まで入れてくれたんだから」
食堂でサンドイッチを頬張りながら日向は俺にそう言った。昔から近所の人が口を揃えて「あの子は本当にいい子だよ」と言っていたのを思い出す。その通り、日向はとてもいい子に違いない。礼儀正しくて、頭が切れて、誰に対しても思いやりがある。大学で時々見かける日向はいつも人に囲まれて笑っている。俺の友達も言っていた、あの子ってなんかナイチンゲールみたいだよな。
しかしそんな上辺だけの印象は得てしてアテにならない。幼馴染みである俺は日向の悪いところも色々と知っている。とにかく男にだらしがないのだ。
男にだらしがない、と言ってもそれは言葉通りの軽いものではなかった。俺は日向が二度目の中絶をした時に本気で怒ったことがある。日向は目に涙をためて「ごめん」と俺に謝った。俺はその台詞に憤りを感じた。俺が聞きたかったのは「ごめん」などと言う謝罪の言葉ではなく、もっと別の何かだった。
木造モルタル二階建ての俺の家は、そこかしこに昭和の匂いを発散させながら今もなお潰れずに建っている。一階の半分以上が店舗に取られているせいで、居間と台所が一緒になった狭い空間で親子三人が暮らしている。
三年前に婆ちゃんが亡くなってからは、婆ちゃんの部屋が俺の部屋になった。大学生になって遂に手に入れた自分の部屋だったが、それまでずっと婆ちゃんが暮らしていたせいで窓を開けても仏壇の匂いがする。初めのうちはルームフレグランスなんてものを買ってきて使ってみたのだがまるで効果は無く、俺は友達を自分の部屋に呼んだことはほとんど無い。
その日、授業が終わって家に帰ると何やら店の方に人だかりが生まれていた。裏口から入る時に店の中を覗いてみると、思った通り稲田さんが髪を切りにやって来ていた。
稲田さんというのは何だったか忘れたが競輪だかヨットだか何かのプロで、ウチの親父と仲が良く、時々この店にも顔を出す。稲田さんの職業にまるで興味の無い俺とは違い、稲田さんはおっさん達には有名な人らしく、稲田さんが来た時には決まってその噂を聞きつけた近所のおっさん達がぞろぞろとやって来て店内に群がるのだった。人だかりの中心の稲田さんはいつもサインや握手をしてにこやかに笑っている。ああはなれねえなと思いながら俺は階段を上がる。俺ならあいつらを蹴り飛ばしているだろう。
自慢じゃないが俺は排他的で愛想が悪い。そんな俺が大学では日向と一緒にいたりするもんだから、日向の友達や日向を狙っている取り巻き連中は口を揃えて「不思議だ」とか「もったいない」とか勝手なことを言っている。しかもそいつらは最後には決まって「けど、日向だからああいうのとも付き合えるんだよ」なんて納得するのだ。
後期試験が近付いていたので、その日は学内の図書館で資料を漁っていた。俺の専攻する都市環境学は学問としての歴史が浅いのでいつも資料を集めるだけでも一苦労する。時には社会学や地質学や歴史学の分野の本を借りてくることもあり、もっと他のジャンルから引用することだってある。
そういった理由で「江戸の名景・百選」を手にとって読んでいると、運悪く図書館に来ていた日向に見つかり、笑われてしまった。
「そんなの読むんだ」
日向の笑い声に数人の学生が迷惑そうに俺たちを見た。声でけーよ、と俺は日向に注意し、日向がまだ少し笑いながら「ごめん」と謝った。
「言っとくけどこれ資料だからな」
「知ってるよ」
「お前は? もう終わり?」
「うん。今から友達とカラオケ」
「余裕じゃん」
「私はちゃんと授業出てるからね」
事実、俺は日向が単位を落としている姿を見たことが無い。テストの度に右往左往する俺とは違い、日向は学徒としての本分を全うしているのだった。日向の目標は学者になることで、院に進むことも既に決めてあるのだと言う。俺は日向なら教授にでも学者にでも何でもなれると思っている。そういうタイプの人間なのだ。
「じゃ、行くね。陽次は頑張って勉強しなさい」
「うるせー」
その色の香るような後ろ姿を見送りながら、さて、俺の目標って何だっけ、と思った。実は俺は他の連中のように呑気でいられる状況ではない。ぼんやりしていると実家の床屋を継がされてしまうのだ。俺一代限りじゃ寂しいよなあ、最近親父は俺に聞こえるようにそう呟く。そんなら俺を大学になんか入れるなよ、そう反論すると「馬鹿野郎お前、今の世の中は何やるにしたってガクが必要なんだ」と怒られた。都市の未来を考える環境学と町の床屋さんが具体的にどう絡んでくるのか俺には全く分からない。例えば10年後に大がかりな駅前開発が行われるとしたら、この街に生きる人々はきっとこんな床屋の存在など簡単に忘れ去ってしまうだろう。
髪を切らなくたって人は生きていける。俺は常々そう思っている。
日向の様子が少しおかしくなったのは後期試験が終わってすぐのことだった。俺は帰り道に日向の実家の「元・大塚マート」に立ち寄り、それとなく様子を窺ってみることにした。
レジにはいつも通り日向の母親が立っていて、あらあ陽次君久しぶり、と俺に手を振った。最近全然見かけないから下宿でもしたのかと思ってたのよ、ちょっと待っててね今日向呼ぶからね。ひなー。ひなちゃーん。
俺は店内に置いてあるコミック雑誌をぱらぱらとめくりながら日向を待った。どうして日向の様子が変化したくらいで俺がわざわざ様子を見に来たのかと言うと、何か嫌な予感がしたからだ。これだけ付き合いが長いと分かることもある。予想通り日向は寝間着姿&ぼさぼさの髪のまま階段を降りてきて「何」とくぐもった声で言った。また部屋で泣いていたのだ。
「いやべつに用事ないけどさ」
せっかくだから上がって行きなさいよお、と日向のおばさんが俺に言う。一瞬だけ日向が迷惑そうな顔をする。俺は構わず「それじゃちょっとだけ」と答え、靴を脱ぐ。
この「ぐしゃぐしゃの髪で迷惑そうな顔をする日向」を学内で知っている人間は一人もいないだろうと俺は思う。こういう時の日向は外部からの情報を完全にシャットアウトして内に閉じこもってしまう。部屋に鍵をかけ、外が晴れていようが、雨であろうが、試験中であろうが、友達が困っていようが、まるで関係が無い。そこには既にあのキャンパスで見せるような明るく優しく人のいい日向の面影は見当たらない。
俺はそんな日向の部屋に入ることの出来る限られた人間だったので、自ずと使命感のようなものが生まれてくるのだった。日向は黙って階段を上がり、自分の部屋に入って電気をつけた。俺も黙って後に続いた。
「コーヒーでいいよね」
俺がふかふかのカーペットの上にあぐらをかくと日向は俺にそう言い、髪を手ぐしですきながら再び階段を降りていった。思いっきり嫌そうな顔をしながら、けれどコーヒーをいれてくれる。日向らしいと俺は思う。
湯気を立てたカップが目の前に置かれると、俺は取りあえず「ありがと」と言ってみた。日向は俺の顔を見ずに黙ってベッドの中に入ってしまった。それ飲んだら帰って的なムードが漂う中、俺はちびちびと熱いコーヒーを飲みながら頃合いを見計らって日向に声をかけた。
「なあ」
もちろん反応など無かったが俺は続けた。
「こないだ言ってたカラオケの『お友達』と何かあった?」
日向が寝返りを打ち俺に背を向けた。俺はその布団の膨らみに向けて言った。
「お前さー、もういい歳なんだからさー、いや歳喰ってるって意味じゃなくて大人だってことだけどさ、大人なんだから、何ちゅうか、倫理観?」
俺の知る限り、学内で日向が男好きだという噂はこれまで立ったことが無い。それは日向の性格と立ち回りの巧さだった。日向はいつも一人で誰のものにもならないんだよな、何か、みんなのものって感じでさあ。一度食堂か何かで日向の友達が俺に向かってそう話した。俺は大声で笑いそうになったが黙っておいた。あれだけの数の男と付き合っていて何が「誰のものにもならない」だ。こいつは誰のもんにもなるんだよ。この、ノーメイクの腫れた目をして俺の前で布団にくるまっている日向はただの日向だ。夜になると一階から野球中継の音が聞こえてくる大塚マートの、大人しそうなおじさんと調子のいいおばさんの間に生まれた、その辺の一人の女子大生だ。そこにどんな幻想を抱こうがあいつらの勝手だが、一緒にいるんなら日向のことをもっとちゃんと見てやれよと俺は思う。男好きだという噂が立たないのはつまりそういうことだ。
ただし、彼らの言うことは一つだけ当たっている。日向は誰のものにもなってしまうが、確かに、いつも一人なのだ。
「倫理観って何」
布団の奥の方からくぐもった声が届いた。俺は勢い良くコーヒーを飲み干してから言った。
「犯罪心理やってるやつが俺に訊くなよ」
するとしばらく間を置いた後、日向が言った。
「考えたことないや」
おそらく日向はこの先も倫理とは関係の無い場所で生きてゆくだろう。一階のナイター中継とは関わらない場所で、大教室のレーザーポインタとは関わらない場所で、日向はずっと目を腫らし続けるのかも知れない。
大学に入ってからの日向の何番目かの男は、とにかく金遣いの荒い奴だった。そいつがつぎ込むのは麻雀でもパチンコでも無くファッション方面で、毎日のように服を買いに行くと言って日向を連れ回していた。
日向も日向でそいつに同調するようにコートやバッグやイヤリングを買い、学内では控えていたが私服で会う時の格好はみるみるうちに変わっていった。俺は何度かキャンパスでその男を見かけたことがある。ファッション雑誌の切り抜きのようなスタイルと髪型でそいつは自慢げに最新のアイテムを着こなして歩いていた。男は顔を見れば分かると昔からよく言われている。日向には悪いが、実際に話すまでもなく一見しただけでそいつはバカの顔をしていた。そしてそんな男に引っかかる日向もバカに違いなかった。
「彼と一緒に買い物してると、時間なんて忘れちゃうんだよね」
お前が忘れてるのは時間じゃなくてカードローンの利用限度額だろう、そう思ったが俺は黙っていた。その時、日向は本当に楽しそうな顔をしていたからだ。
お互いが一緒にいて楽しいと思えるのなら、俺だってべつに横から口を出すつもりは無い。基本的にそういう方面には干渉したくないとさえ思っている。
しかしその後日向が金のことで相談にやって来た時、俺はさすがに何かを言わざるを得なかった。閉店後の薄暗い照明の下、店のソファーに座った日向は始終黙って俯いていた。こいつに何を言えばいいんだろうか、俺は溜息をつきながら「いくらだよ」と訊いた。日向は小さな声で「10万円だけ」と呟いた。俺は店内の何もない空間に目を落として言った。
「貸せるけどな」
もし一人で買い物に行ったのなら、日向は俺に金のことで迷惑をかけることは無かった。日向の金遣いが荒いんじゃなくて、単にそいつと別れたら済む話なのだ。それを分かっていたから金を貸すこと自体は何とも思わなかったのだが、とにかく俺は日向のこんな姿は二度と見たくないと思った。
「ほんとにごめん。ごめんね」
コーヒーをいれてやると日向はそれを両手で包むようにして持ち、少しずつ口に含んだ。俺は日向の目が覚めるようなきつい一言を用意していたが、結局その日は何も言わなかった。良くも悪くも日向ならどうせその男とも長続きしないだろうと考えたからだ。
その夜は朝方まで二人でテレビゲームをして過ごした。テレビ台の下、客用に用意されたゲーム機は夜に触るとひんやり冷たかった。店に置いてあるゲームソフトはおっさん向けに麻雀と囲碁とゴルフだけだったので俺たちはゴルフを選び、コントローラーを握った。
俺も日向も何も喋らなかった。スイッチを入れると場違いなアップテンポのBGMが流れ始め、俺はテレビのボリュームを少し下げた。ゲームが始まってからも俺は時々液晶の青白い光に照らされた日向の横顔を眺めていた。そのせいか連続でバンカーを喰らい俺は最初から苦戦を強いられることになった。
夜の淡い陰影に包まれ、口元を薄く開いた日向の横顔は、俺でさえ見とれてしまうほど美しかった。
それは恋をしている女の顔だった。
どこにそんな金があったのか、その日の朝、親父が急に実家を増築すると言い出してテーブルの上に自作の間取り図を広げた。朝飯を喰っていた俺は「何なんだよ」と言いながら慌てて味噌汁とシーチキンを隅に退けた。母さんは黙ってその下手くそな間取り図を覗き込み「いいわねえ」なんて呑気な感想を口にしたのだが、親父は「もう金ちゃんに頼んでるからな」と言って自慢げに腕を組んで俺たちを交互に見た。金ちゃんというのは店の常連の工務店の社長だったのでどうやらそれは思いつきだけでは無さそうだった。
「家もそろそろ古くなってきたし、孫のことも考えねえとな」
「孫?」
バイトが終わって家に帰ると早速その金ちゃんが店に来ていた。親父と金ちゃんは店のテーブルに図面を広げ、ここはこうした方がいい、そっちは狭くていいから、なんて顔をつきあわせながら具体的にやっているのだった。俺はどうも分からないことが一つだけあったので、夕食の席になるのを待って親父に訊いてみることにした。
「あのさ」
「何だ」
「増築って結構金がかかるんだよね」
「まあな」
「んじゃさ、最初からこんなに狭く造らなけりゃ良かったんじゃないの? 店と一緒にした時点で家が狭くなるのも分かってただろうし、そもそも部屋が少なすぎるでしょ」
するとどういうわけか親父は母さんの方をちらりと見た。そして母さんは照れたように笑いながら俺の顔を見た。その笑顔の意味が分からないでいると、親父が急に俺の腕を引っ張って店の中に連れて行った。
「何だよ」
「ちょっと来い」
親父は店のソファーに俺を座らせると煙草に火をつけた。よく分からないまま俺は親父の渋い横顔を眺めていた。親父は俺の向かいに座り、しばらく俺の顔を見つめた後、灰皿を真ん中に置いて言った。
「お前、いくつになった」
「ハタチだよ」
「そうか」
おい。ちょっと待て。これあれか。実はお前は養子だとかそういう話か。俺は何か分からないが物凄く嫌な予感がした。人間のそういう部分にまるで鈍感な親父ならこういうタイミングで言いそうだと思ったのだ。ちょっと待ってくれ俺まだ心の準備が、そう言いかけた時、親父が鼻から煙を吐きながら言った。
「俺はな、堕ろせって言ったんだよ」
「は?」
「ガキは作らないって言い聞かせてあったんだ、けどな、母さんがどうしてもってな。まあタネ蒔いた俺も悪いんだけどな」
俺が呆気にとられていると親父は続けた。
「いや、けど生んどいて良かったなって」
親父はそこで咳払いをするとソファーから立ち上がり、俺に背を向けたまま言った。
「家が狭かったのは、まあ、そういうことだ」
それから三日後にはもう家の周りに足場が組まれていた。親父はついでに店の内装も変えるつもりらしく、食卓には新しい店舗のイメージ画像のカラーコピーが無造作に置かれていた。見るからに時代遅れのデザインだったが俺は何も言わなかった。
試験休みも半ばを過ぎた頃、突然日向の母親から俺に電話があった。何をするでもなく昼間から部屋でごろごろしていた俺が何事かと思って電話を取ると、電話越しの日向のおばさんは何やらうろたえた様子で俺に言った。
「陽次君、ちょっと来て欲しいのよ、日向がねえ」
寝ぐせを直すヒマもなく俺はそのままの格好で大塚マートへ駆けつけた。ドアを開けると、そこにはおばさんが所在ない様子で立っていた。
「ああ陽次君、ごめんね、日向がねえ、一昨日くらいからねえ」
二階へ上がり日向の部屋のドアをノックしても反応が無かった。おばさんが言うには日向が一昨日の夜から部屋に籠もりっぱなしで、その間、食事もまるでとっていないとのことだった。
「こんなこと初めてでねえ、悪いと思ったんだけど、陽次君ならと思ってねえ」
おばさんが階下に降りていくのを見届けた後、俺はドア越しに日向を呼んでみた。
「おい。生きてるか」
もちろん簡単に返事があるはずも無く、俺はしばらく間を置いてもう一度ノックしながら声をかけた。
「フラれたん?」
おばさんには悪いが俺はこの時点で全く心配はしていなかった。こんなこと初めてだと言うおばさんは単に日向のことを知らなさすぎるだけで、当然こんなことは初めてではないし、飲まず食わずだと思い込んでいるのも勘違いで日向ならしっかり隠れて食ってるはずだと思ったからだ。俺が心配していたのは日向の今の状態ではなく、どちらかと言うとその原因だった。
思った通り、しばらくすると中から健康な反応があった。
「帰って」
「開けてくれないなら、おばさんに言う」
「本気で怒るよ」
「いいよ別に」
俺がそう答えると少し間があり、やがてあっさりと鍵が外れる音がした。俺は平気な顔をして無遠慮に中に入った。
カーテンが閉め切られた部屋は薄暗く、その隙間から太陽の欠片があちこちに強く射し込んでいた。日向はまるで重病人のように布団を身体に巻き付け、ベッドの脇にうずくまって動かなかった。今日はさすがにコーヒーはいれてくれないだろうと思いながら俺はいつものように座布団に腰を下ろした。
「カラオケ野郎と別れたくらいで、母親心配させるんじゃねえよ」
「学校にビラ貼られた」
「何だよそれ」
「あることないこと、嘘ばっか。ゼミの子が言ってた」
それだけ言い終えると日向は声を殺してすすり泣きを始めた。今回もろくでもないことになったなと俺は思った。
「そのビラ、まだ貼ってあんのか」
俺がそう言うと日向は首を横に振って言った。
「すぐにその子が剥がしてくれたけど。でも。エッチな写真とか。わけ分かんない」
日向の涙声を聞きながら俺は溜息をついた。そんな男に惚れたのもそんな男にエッチな写真を撮らせたのも全部日向が悪いのだが、それは今に始まったことではなかった。幸い試験休み中で、その子によると数枚しか貼ってなかったそうで、実際にビラを目にした人間はほとんどいないだろうが、それでも日向のダメージは大きかったに違いない。学校のどこかにまだビラが残っているかも知れない。あるいは知り合いがそれを既に見てしまったのかも知れない。不安はいくらでも膨れ上がる。まあ、部屋に閉じこもるのも無理は無かった。
俺は部屋を出て一階に下り、おばさんと喋りながら日向が落ち着くのを待った。おばさんはまだ心配していたが俺は「大丈夫ですよ」と丁寧に念を押した。おばさんに説明しながらも俺は自分で何が大丈夫で何が大丈夫じゃないのかさっぱり分からなかった。
シャワーを浴びて着替えを済ませた日向を連れて外に出てみると、既に太陽が大きく傾いていた。久しぶりの外界にくらくらしている日向の腕を引き、俺は実家の方を目指して歩いた。とにかく何かうまいものを喰わせてやろうと思ったのだ。日向は特に抵抗するでもなく、人形のように黙ったまま俺の後をついてきていた。
ちょうどタイミング良くその夜はすき焼きだった。親父が留守だったのでその隙に母さんが奮発したのだ。久しぶりにやって来た日向に母さんはしきりと肉を勧めた。日向はまだ外の世界に慣れないようにぼんやりしたまま鍋をつつき、それでもおいしかったのか、時々ふと嬉しそうな顔をして俺を見た。俺はそんな日向を眺めながら何かたまらない気持ちになった。
メシを喰い終えると俺たちは誰もいない店内で食後のコーヒーを飲んだ。ただでさえ辛気くさいムードなのに線香の匂いがする自室へ行く気にはならなかった。白色の蛍光灯の下、日向は時々カップから口を離して立ち昇るコーヒーの湯気を確かめていた。
俺がコーヒーのおかわりをしようと席を立った時、それまで黙っていた日向が短く言った。
「ごめんね」
「うるせぇ」
俺がそう言うと日向は敏感に反応し、口を閉ざした。それは俺と日向の間で幾度となく繰り返された会話だった。また今日も不毛なやり取りで終わるのか、そう思ったが、やはり俺に言えることは何も無かった。
コーヒーを飲み終えた後、どちらが言い出すでもなく俺たちは店内のテレビでゴルフゲームを始めた。キャラクターを選び、俺は意味もなくボタンをぺちぺちと押して何度も素振りをした。画面の中のドライバーがそれに合わせて空を切り、俺はそういや前にもこんなことがあったなあと思い出していた。
素振りを終え、最初のショットはまずまずの位置に決まった。続いて日向に順番が回り、日向のキャラクターが美しいスイングでボールを捉えた。同じ方角、同じような位置。俺のボールのすぐ側に日向のボールが転がる。いつからこんなことを繰り返しているのだろうかと俺は思う。日向が隣に座っている。遠くで母親がトイレに入る音がする。
「ねえ」
コースを半周ほどした時、不意に日向が口を開いた。日向は画面を見たまま言った。
「何かおかしいよね」
言葉の意味がよく分からなかったので俺は黙っていた。日向は簡単なパットを手堅く収め、俺に若干の差をつけてそのホールをクリアした。
「もう終わらせたいなあ」
うまく集中出来ず、俺はタイミングを外してミスショットをしてしまった。溜息をついて俺は言った。
「日向さ、もう結婚しろよ」
「そういうんじゃなくてね」
「知ってるよ」
日向は白い画面を眺めながら誰に言うでもなく呟いた。
「いろんなことが私の前をどんどん過ぎていって、それがずっと続いていって、最近ね、ちょっと疲れたかもね」
俺は黙ってゲームに集中した。それ以外、今の俺に何が出来るのか分からなかった。何が正しくて何が間違っていて、どうすれば良くてどうすれば悪いのか、ぐちゃぐちゃ考えていたら肝心のショットすら外してしまい、結局このコースで日向に勝つ見込みは消えてしまった。どうしようもなかった。
差が埋まらないままやがて最終ホールに差しかかった時、突然店の玄関が開く音がした。驚いて振り返ってみると、玄関からベロベロに酔っ払った親父と有名人の稲田さんが肩を組んでどかどかと入ってきた。
「おう日向ちゃん、久しぶり」
「お邪魔してます」
「陽次、水くれ、二つ」
急に何だよと思いながら俺は台所に行き、渋々コップに水を入れた。通りがかった母さんに聞くと父さん今日は稲田さんと飲んで帰るって言ってたのよ、あの人の試合を観に行ったんだって、と俺に教えてくれた。店に戻ると親父と稲田さんがソファーにのびていて俺は黙ってテーブルにコップを置いた。
「すまないねえ陽次君」
「いいっすよ」
そう答えながら日向を見ると、日向は自分の勝ちに決まった消化試合を終わらせるために一人で二役をこなしてゲームを続けていた。既にトリプルボギーを3回もやらかしていた俺はそこそこ上手い日向に及ぶはずも無く、酒臭い親父の相手をしながら日向の動かすキャラクターを目で追っていた。
やがて日向が全ホールを終わらせた時、ソファーに沈んでいた稲田さんが身体を起こして言った。
「それゴルフゲームかい」
日向が肯くと稲田さんは立ち上がってコントローラーを握り、「じゃ、僕と勝負しよう」などと言い出した。近所の人気者もこうなるとただの酔っぱらいオヤジだが、それでも日向は持ち前の人のよさで「いいですよ」と答えた。「負けんなよ~」と俺が声をかけ、「稲田さん、もうちょっと休みなよ」と親父が言った。
「大丈夫だよ、さあ、かかってきなさい」
何が「さあ」なのか分からなかったが、結局勝負は日向の圧勝だった。俺はその結果に別に驚きもしなかったが親父と稲田さん本人の反応は明らかに妙なものだった。二人とも酔いが覚めた目で日向を凝視しているので俺が「何だよ」と言うと親父が呆然とした顔で言った。
「日向ちゃん、あんた、プロに勝っちゃったねえ」
「プロ?」
「えっ、この人知らない? プロゴルファーの稲田浩一知らないの?」
「マジで?」
ぽかんとしている日向の代わりに俺がそう叫んだ。それまでぼうっとしていた稲田さんは俺の声にふと我に戻って自分の鞄を漁り、中から何やら長細いものを取り出すとそれを日向に手渡した。
「これあげるよ」
日向が受け取ったものは立派な金色のトロフィーだった。状況が飲み込めていない日向に稲田さんは笑いながら言った。
「今日のトーナメントで貰ったんだけど、最後に負けちゃった。まいったね」
試験休みが終わる直前、日向が俺の家を訊ねてきた。何か用かと訊くと唐突に「髪を切って欲しい」と言われた。美容院に行けよ、俺がそう言うと「陽次が切って」と譲らない。何考えてんだよ俺免許なんて持ってねえよ、第一、人の髪切ったことねえもん、色々と説明したがまるで聞いては貰えなかった。
深夜、親父がようやく寝静まった頃、俺と日向はこっそり店に侵入した。最小限のライトだけを点け、日向をシートに座らせてカバーをかけてやると、俺はいつも親父がやっているように日向の髪を部分的にスプレーで湿らせ、軽く櫛を流した。
「知らねえぞ」
「陽次、なんかホントの床屋さんみたいだね」
「ほんとに知らないからな」
「しつこい」
昔、何度か酔っ払った親父の講釈を耳にしたことがあったので、その記憶を掘り返しながら俺は恐る恐る日向の髪を手に取った。自分の硬い髪とはまるで違い、日向のそれは指の間からさらさらと絹のようにこぼれ落ちた。それは何か新鮮な体験だった。知らない人の、いい匂いがする髪だと思った。
「長さはショートボブでね」
何が何だか分からなかったが、俺は思いきってハサミに力を入れた。じょきん、と乾いた音がして日向の黒髪がばらばらと床に散った。うわあ、と思って鏡を見ると日向はそんな俺を面白そうに見返していた。
「何だよ」
「べつに」
日向がまるで緊張していなかったので、二回目以降は肩に力を入れずに切ることが出来た。相変わらず素人の散髪だったが、俺はハサミを止めることなく日向の髪をどんどん切っていった。
「陽次、跡継がないの?」
「継ぎません」
「才能あるんじゃない?」
「まさか」
深夜の店内は恐ろしく静かで、その何も無い空間に髪を切る単調な音だけが伝わっていた。日向の髪は俺の手や足元にぱらぱらと落ち、そのいくつかは光の届かない闇の部分に飲まれていった。
「かゆいところはございませんか?」
「何言ってんのよ」
「言ってみたかったんだよ」
冷たいハサミが光を反射して鏡に映り込んでいるのが見えた。俺は何か気恥ずかしくて日向から目を逸らしていたが、時々目に入る鏡の中の日向はいつもより几帳面な顔をしているように思えた。
「ところであのトロフィー、まだ持ってんの」
「ちゃんと部屋に飾ってるよ」
「これ終わったらさ、すぐにちゃんと美容院行けよ」
「うん」
俺は日向の肩に乗っていた髪の毛を軽く払った。それはひらひらと舞いながら、リフォームしたばかりのまっさらなリノリウムの床に落ちていった。親父には悪いが、やっぱり俺はこの店を継がないだろうと、日向の髪を切りながら思った。俺たちは流れて流れて、流れる先へ行くしかないのだ。
日向がちょっと眩しそうにしていたので、俺はライトの向きを少し変え、それからまた日向の髪をそろそろと切り始めた。
了