追撃
湿度九十パーセント。
その女子高生は持っていた黒い傘を振り回したが、若い男は振り下ろされたそれを掴んで強引に奪い取り投げ捨てた。もう一人の男が女子高生の襟口を掴んで力任せに引っ張る。女子高生はいとも簡単に床に倒れた。黒い髪が薄汚いクリーム色の床に広がる。
ひとけのないセンタープラザの地下で二人の若い男にからまれている女子高生を西嶋は見つけてしまったのだった。
終電間近のこの時間に一人、短いスカートに細く白い足でこんな場所を通り抜けようとするなど、雨季のアマゾンをオープンカーで通り抜けようとしているようなものだ。たちまち血に飢えた蛭と下品な蛇と意識の薄弱な猿がぼたぼたと降ってきて、いくつ体があっても足りないに決まっている。深いブッシュの中で玩具のようなクラクションなど何の役にも立たない。どうせそのクラクションを耳にするこの辺りの連中など蛭や蛇とそう変わらないのだから。
西嶋はヘッドホンをしているので、彼らが何をわめきながら争っているのかは聞こえない。その場から十メートル程離れた新聞の自販機に凭れて様子を見ていた。
今も昔もこの街は何も変わらない。若い男達も若い女達も欲しくもないものに青い手を伸ばし、その腕を傷だらけにしながら、夏でも長袖しか着ることの出来ない大人になっていくのだ。西嶋はスーツの袖をめくり腕時計を見る。もうすぐ大阪向きの終電が出る。一週間ぶりに家に帰ろうと思っていたのに。今頃マンションのドアの前には新聞が高く積み上げられていることだろう。まあ、西嶋にとっては珍しいことではないが。
ポケットから小銭を出し自販機で新聞を買う。一面は横浜の連続放火事件。御苦労さん、と呟き、西嶋はこの春横浜に転勤になった犬渕のことをことを思い出していた。
犬渕は同期だが、西嶋とは正反対の生真面目な模範生で横浜行きは栄転だった。転勤の朝、新神戸の駅まで送ったのは西嶋だった。助手席の犬渕は西嶋に
「おまえみたいな男は向こうにはおらんやろな。おまえみたいに真面目な男は」
と言った。三宮駅のガード下は四方から合流してくる車で入り乱れていた。
「それが横浜風の冗談か? しょうもない」
「アホか。神戸ヤクザの暖簾分けや」
そう言って犬渕は笑った。
「神戸も横浜も何も変わるか。どうせおかしな奴らがもっとおかしな奴らに趣味の悪い冗談を言うとんねん。それを真面目な俺は片っ端からつっこんで回る。もっと真面目なおまえは不機嫌な詩人みたいな顔して連中の冗談を笑って回る。無視もせずに、笑って回る」
だからおまえは模範生だって言うんだよ。もう偶然にも会うことはないだろうな、犬渕。なぜか俺には分かるよ。
ハンドルに顎を乗せた西嶋はオリエンタルホテルの尖った先端を見上げながら思ったのだった。
新聞を広げ、読むフリをしながら女子高生と二人の男達に近付いていく。女子高生は尻餅をつきながらも抵抗していて、それをからかうように男達は髪の毛を引っ張ったり、スニーカーの先で小突いたりしている。
西嶋はすっと男の背後まで来ると、新聞を頭からすっぽりと被せた。手品師のよな優雅な仕草であった。そして振り向いた男の顔面に力一杯拳をねじ込む。ふいをつかれぐらりとよたついた華奢な体の中央、みぞおちに革靴の爪先を入れ蹴り離すと、若い男はうずくまり嘔吐した。もう片方が西嶋の胸ぐらに手をかける。西嶋はズボンのポケットから催涙スプレーを取り出して男の右目に吹きかけた。近頃の催涙スプレーは昔に比べるとずっと強力になっている。これだけの至近距離で直接吹きかけられれば失明することだってある。顔面を抑えてのたうち回る若い男は自分が一体何をされたのかさえももはや理解していないだろう。蝮の毒は視力障害を引き起こす。想像力の貧困な子供が夜の森で遊んでるから噛まれるんだ。涙を流し苦しそうに暴れる仲間に気付いた男は吐瀉物を口の回りにつけたまま立ち上がり、西嶋に掴みかかろうとする。根性だけは認める。しかし考えなしの根性など状況を悪くするだけだ。誰だこいつらに下らない向こう見ずなど教え込んだのは。
西嶋はもう一発腹に蹴りをお見舞いする。そしてそのまま男に馬乗りになると、同じように目にスプレーを吹き付け、今度は大きく開いた口にスプレーの先を突っ込むとありったけのガスを喉に注ぎ込んだ。男の歯がカチカチとスプレー缶を噛んだが、やがて顎から力が抜け、先よりも激しく吹き上げるように嘔吐した。男の口から吐き出された黄色い液体は西嶋のスーツのジャケットに飛び散った。蛭が潰れた。
西嶋は男から下り、ジャケットのポケットから携帯電話とくしゃくしゃの領収書と小銭を出して、ズボンのポケットに突っ込んだ。念入りに内ポケットもまさぐり、何も残っていないことを確認すると西嶋はジャケットを脱いで男の顔に被せた。こんなどこにでもある安物のスーツで足がついたりしないことを西嶋は知っている。
女子高生は目の前の惨劇に最初は呆然としていたが、すぐに立ち上がり、脇に転がった自分の傘を拾うと、その柄で男達の顔面を思いっきり殴った。やはりこの街は男も女もどうかしている。
西嶋のスーツの上から男の顔面を殴打する女子高生の手を取って西嶋は制止する。何て残酷な目をしているのだろうか。無邪気に女子高生をからかっていたこの男達の淀んでいた瞳とは全然違う。女子高生は振り上げた腕を下ろすと、傘を開こうとしたが、骨がボキボキに折れたそれは死んでいて、彼女は苛立たしげに投げ捨てた。
彼女は西嶋の腰の後ろに刺さった拳銃に気が付いたが何も言わなかった。目を逸らし、舌打ちすると
「ほんまに、雨やのにどうしてくれるんよ」
と呟いた。
誰も乗っていない止まったエスカレーターを歩いて上り地上へ。なぜか女子高生は西嶋についてきた。賢明だ。そう何度も助けてやるほど西嶋はお人好しではない。
地上に出るとこんな時間だが、まだ人は消えていない。店舗は全てシャッターを下ろし、どこかへ通り抜ける人々がアーケードの下をぱらぱらと歩いている。とは言え、さすがに腰の銃が目立つ。
西嶋は拳銃を外し、女子高生に
「袋か何か貸してくれへんかな」
と言った。女子高生は「私の鞄に入れとけば」と言い手を差し出す。茶髪のどこにでもいそうな女子高生。高校生にしては化粧が濃いんじゃないか。最近のお嬢さんは物怖じを知らない。西嶋は一瞬考えたが拳銃を渡した。
「うわ重たい。本物?」
「そう思うなら撃ってみたらいい」
女子高生はカーネルサンダースの人形に銃口を向け、引き金を引いた。ガチャリ。
弾切れだ。女子高生は何もなかったかのように銃を学生鞄にしまった。
「あの二人、ほっといたら死ぬかな?」
「死ぬことはないと思うけど」
「でも一応警察に電話しとくわ。いい?」
好きにしていいよ、と西嶋は小さく頷く。女子高生は近くの電話ボックスに入って、電話をかけた。西嶋は公衆電話に貼られたピンクの広告を一枚剥がす。蛍光色の小さな水着を身につけた女。給料日前なんだよ。
「イタ電やと思われたかな」
女子高生は素直な表情を浮かべる。西嶋はお子様に興味はない。いくら気取ってみたところで十代は十代の目つきをしている。あつかましく、正直で、傷つきやすい目。彼女らの若さは西嶋をどうしようもない気分にさせる。
「お兄さん、どうすんの? 私これから帰るけど」
お兄さん。普通にオッサンと言えば良いのに、こいつらの開き直りときたら何だろう。西嶋は三十三歳。お兄さんと呼ばれて喜ぶ年齢ではない。
「もう電車はないよ、お嬢さん」
「タク使うから」
「あっそう」
「一緒に行く?」
「やめとく」
繰り返すが西嶋はお子様の気まぐれに興味はないのだ。気まぐれが本当に似合うのは大人の女だけだ。
「怖いお父さんが出てきてケジメつけられたないからな」
若い女は冗談にも無反応だ。
「私、お姉ちゃんと二人暮らしやけど、どうする?」
と女子高生は、ケータイで姉の写真を西嶋に見せた。
西嶋は恥さらしだ。世の情けない男の代弁者だ。笑うしかなかった。女子高生に連れられてタクシーに乗る。投げやりな気持ちだ。ポケットからタバコを出す。空箱だった。
「すいません、そこのコンビニで停めて下さい」
と、女子高生が言う。
コンビニの前でタクシーが止まると、女子高生は走ってレジに向かう。
「お兄さん、気をつけた方が良いですよ。最近の子供は怖いですから」
と、失礼な運転手が話しかけてくる。お兄さん。まただ。それとも女子高生の本物の兄にでも見えるのだろうか。まさか。
「黙って運転してろよ。お化け様やねんから」
「お化けはいいですけど、ちゃんと払って下さいよ」
どこまでも礼儀を知らない運転手だ。ま、払うのは俺じゃないけどね。
女子高生は戻ってくると、はい、と西嶋の膝の上に煙草を一箱置いた。最近のコンビニは誰にでも煙草を売る。
「助けてくれたお礼」
催涙ガスが幾らするかなど知らないのだろう。あと、安物のジャケットの値段も。
「ちゃんと窓開けて下さいよ」
信号に引っかかりながら2国を東向きに進む。
「名前は?」
「西嶋」
「西嶋さん何してる人?」
「正義の味方」
「ふうん」
「名前は?」
「ミツコ。井沢ミツコ」
ミツコも煙草を吸っている。海側に阪神高速の明かり、山側に六甲の山影。
「何してるん?」
「見て分からん? 高校生やん」
「あんな時間まで何してたん」
説教臭くならないように西嶋は聞く。催涙スプレーをぶちまけて、タクシーに乗りこんでおきながら説教も何もないが。こういう時に内股でも撫でながら話せたら決して説教臭くなどならないことを西嶋は知っているが、しない
「夜間高校やねん」
「へえ」
「嘘やけどな」
とミツコは笑った。西嶋は深くシートに沈み、車のまばらな国道を見ていた。久々に穏やかな気持ちになっている。不思議だ。大抵人を殴ったり傷つけた後は目が冴えて眠れないものだ。今は眠くこそないが、いつものような胸に詰まるドス黒いものが感じられない。雲の中を行くように安らかだ。このどこにでもいそうなミツコという女子高生が関係しているのかもしれない。普段の西嶋は夢もほとんど見ない。見ても悪夢だ。そんな西嶋が今夜は子供の頃にでも戻ったかのように凪いだ心地で、ミツコの吐く煙草の煙を吸っている。疲れただけかもしれない。
「私には情熱ってもんがないねん。西嶋さんもなさそうやね」
西嶋は黙って聞いていた。
「嘘つきやからかな。嘘をつき続けて、いつの間にか情熱が冷めきったような気がする」
ミツコのその言葉に続けて西嶋は思う。俺達は世界に散らばる光を集めて、嘘の隙間を埋めようとしているばかりだ。光なんてどこにでも転がっているわけではない。しかしその存在を確かに感じている。微かだが感じてはいる。目を閉じていても分かる。いくら俺達が偽って生きたとしても、それら微弱な光は消えもしないし、離れてもいかない。その正体が何であるかは知らない。
「次の信号の所、左」
「え、伊丹ちゃうんでっか? まだ住吉やで」
「予定が変わったんです」
悪びれずに言う女。最近の子供に騙されてるのはオッサンの方だ。西嶋は愉快な気分になった。
翌朝、ミツコの姉のベッドで西嶋は目を覚ました。柔らかな羽布団。キングサイズのダブルベッド。淡い黄色のカーテン越しに初夏の日差しが差し込んで、西嶋の裸の胸に降り注いでいる。どれもこれも時代錯誤なぐらいに豪奢な部屋。カジュアルさなど欠片もない先時代的なインテリア。西嶋には全く分からないが、壁にかかった裸婦の油絵もおそろしく高価なものに違いない。サイズが大きいものが高いことぐらい西嶋にも分かる。あの額一つだって西嶋には買えないだろう。
横ではミツコの姉が下着一枚でまだ眠っている。
この女にお似合いの部屋だな。上品な睫毛と言い、整った鼻筋と言い、そんな使い古された形容が相応しい美しい大人の女。安らかな、悩み一つないような寝顔をしている。見知らぬ男とでも快楽を思う存分に貪れる女というのは満たされた顔をする。ベッドの下に脱ぎ散らかされた女のワンピースとブラジャーまでが、静物画のように西嶋の目に映った。
上半身を起こすと、西嶋は窓際のグラスに手を伸ばす。ぬるくなった中国茶を飲む。陽光の中を泳ぐ細かな埃までが妖精か何かのように親近感を持って感じられる朝。枕元の重い硝子製の時計を手に取る。もう昼前だ。完全に遅刻だがこの二週間家にも帰らず働き続けたのだ。問題はない。それらのことはもう遠い昔のことのように思える。
煙草に火をつけた。
女は佐智子といった。英語とスペイン語が話せるのだそうだ。サイドテーブルに重ねられた洋書を一冊手に取る。こんな女を満たすことの出来る何が書かれているのだろう。単調に書き連ねられたアルファベット。とても人間が書いたものとは思えない。これならあの絵の方がよっぽどマシだ。手に洋書を開いたまま、西嶋は油絵を見ていた。
「早起きやねんな」
と佐智子が目を覚ます。
「裸の女の絵なんか飾ってて面白いか」
西嶋がそう言うと、佐智子も体を起こして絵をじっと見つめた。
「よく分かんないけどね、面白いのは苦手なのよ」
ベッドを抜ける佐智子の完璧な体、傷一つない背中。小さな尻を包む青い下着。
「すぐに行く?」
「いや」
「じゃあシャワー浴びたら?」
ベッドに腰掛け、西嶋の手を取る佐智子。そして西嶋の指先の匂いを嗅ぐ。
「煙草の匂いがすごいわよ」
そう言い残して佐智子は部屋を出て行く。西嶋は自分の指の匂いを嗅いだ。煙草の匂いに混じって、佐智子の体の匂いがした。
下着とズボンだけを履いてリビングに行くと、佐智子は濃い緑色のワンピースを羽織って大きなソファに座りテレビを見ていた。感情のない目で料理番組を見ている。
「氷もらうよ」
と西嶋が言うと黙って頷いた。
キッチンのテーブルの上に、ミツコの書き置きを見つけた。
『おはよう。静かだったから起こしませんでした。冷蔵庫に美味しいプリンがあるので食べて下さい。物騒だからアレは私が持って出掛けます。夕方からこの店で働いてるので取りに来て下さい』
文章の下に店の住所が書かれていた。
屈強な黒人のボディーガードのように巨大で、艶々と光る冷蔵庫の冷凍室から氷を二つ取り出し口に放り込む。西嶋の朝の習慣だ。
「妹、もう出掛けたみたいやで」
「学校でしょ。あの子、真面目やから」
西嶋は熱いシャワーを浴びた。濛々と湯気で満たされる浴室の中、西嶋の口の中で氷はすぐに溶けて消えた。勢いよく溢れ出るシャワーを頭から浴び、体が熱を取り戻し始めるのを感じる。何も考えられない。死ぬ時は風呂場で死にたいな、なんてことを思う。
その時、リビングの方から大きな音がした。シャワーを浴びる西嶋にもはっきりと聞こえたそれは何かの割れる音だった。割れるなんて生やさしいものではない。爆発し弾け飛ぶ音だ。シャワーを出しっぱなしにしたまま浴室を飛び出した西嶋がリビングに見たのは、砕け散ったブラウン管と、いかにもヤクザ風の男に羽交い締めにされる佐智子の姿だった。男は西嶋に「あんた誰だ」と言った。
男の手には刃渡り20センチにも及ぶ鋭利な包丁が握られ、その先端が佐和子の眉間に突きつけられている。酔っているのでもラリっているのでもなく、男はしっかりとした口調で「近付いたら殺すから」と言った。
「お前、ハチジョウのツレか?」
ブラウン管にはチェーンソーが突き刺さっている。まともな奴じゃないな。昨日のあの若い連中とは全然違う。
「ハチジョウ? 知らん」
「その人は関係ないわよ」
「黙れ」
男は空いた方の手を佐智子の上顎にかけ、思いっきり上に引っ張った。佐智子の顔が苦痛に歪む。
「まあ落ち着け。な、服ぐらい着させてくれよ。いいだろ?」
「動くなって言ってんだろうが!」
男が声を荒げる。
「はいはい、動きませんよ」
言いながら、西嶋は男の顔にどことなく見覚えがあることに気付いた。しかしどこで見たのか思い出せなかった。短く刈り揃えられた形の悪い頭。ありふれたチンピラの顔だ。
素っ裸で立たされながら、いくら俺でもこれはきついな、と思う。一旦部屋から逃げるにしてもこの格好では出れない。さてどうしたものか。埒があかない。
「おい、おまえ。ハチジョウ分かるか」
「だから知らんって」
「プロレスラーのマイルド八畳だよ。知ってるやろ」
マイルド八畳。体重160キロ。日本人離れした体型と、人間離れした卑劣さで有名なレスラー。有史以来最強の悪役として頭角を現し、掟破りの下克上で各団体を転々とする流浪の化け物は、半年程前に某団体の会長をリングサイドで血祭りに上げ、その場で練習生達のリンチに合った。それ以来リングには上がっていない。干されたのだ。ワイドショーによると、決して少なくはない借金を背負い失踪中だとか。
西嶋も何度かテレビでマイルド八畳の試合を見たことがある。怪人と呼ぶしかないその図体は、リングの中であまりに巨大だった。肉の塊。残忍な目。展開を無視し、血塗れになり、這い蹲りながらも相手に向かっていく執拗さ。それらは見る者に驚異と戦慄を与える。観衆はその異形に、人間の底知れぬエネルギーを見て取り、同時に嫌悪感を覚えずにはいられない。西嶋も例外ではなかった。負けて泣き狂う大男の姿は、感動の欠片すらなく、肥大化した幼児の身勝手でグロテスクなドキュメンタリーでしかなかった。プロレス界に初めて生まれた本物の悪役。最初で最後のヒールと人々は呼んだ。
「おまえ、あいつ探してここに連れて来い」
「俺が?」
「偽物連れてきたりしたらな、この女ぶっ殺すから」
あんな巨漢の偽物などいる筈がない。
「無茶や。あんたらが探しても無理やってんやろ? 俺なんかじゃ見つからんよ」
「立場ってもんが分かってないみたいやの」
男は包丁の先を、佐智子の口に突っ込んだ。佐智子は目に涙を浮かべる。
「わかった。わかったから待て。待って下さい。何でも見つけてくるから、な。落ち着け」
男は佐智子の口から包丁を抜こうとしない。
「でもさ、ヒントちょうだいよ。ヒント。いくらなんでも何の手がかりもなしで見つかる筈がないやん。大体この辺りにいてる筈だとか。あそこの店のシャンディガフが好きだとか、なんかあるやろ? 佐智子知らない?」
素っ裸の西嶋は精一杯明るく言う。道化回しが、これじゃ本物の道化だ。この俺が三枚目もいいところだ。
「おい、おまえ。なんかあるやろ」
と男が佐智子の口から包丁を抜いて促す。佐智子はひとしきり咳き込んだ後、言った。
「税関の裏、エンゲルビルっていう雑居ビルのプールバーの上に八畳の新しい女が住んでる」
どういう関係か知らないが、簡単にマイルド八畳を売りやがって、と西嶋は思った。しかし次の瞬間、西嶋を見上げた佐智子の目を見て、それは何らかの俺に対するメッセージだということが分かった。佐智子の目は何も捨てていない。
「何? ちょっとメモするから待て」
そう言うと西嶋はキッチンのミツコのメモの裏に、佐智子の言った内容をメモするフリをして『クソ野郎はクソ喰って死ぬ』と書いた。
「じゃあ俺探しに行くけどさ、その間にその女に手出したら」
「色男、分かってるからはよ行け。明日の夜明けまでや。間に合わんかったら通勤ラッシュの連中がえらいもん見ることになるやろなあ」
「服ぐらい着せてくれ」
西嶋は脱衣場で下着とズボンを履く。そしてさっきのメモをポケットにねじ込んだ。ポケットには財布と携帯電話。寝室にシャツを取りに戻ろうとすると、男が「俺が取ってきたるがな」と言い、佐智子に包丁を突きつけたまま寝室に入り出てくるやいなや、西嶋のシャツを破り捨てた。これじゃ脱衣ゲームだ。わけのわからない男とかかわる度に服を失っていく。勘弁してくれよ。これでマイルド八畳に会ってズボンまで剥がれた日には、ゴングが鳴るぜ。バカバカしい。
「ちなみに警察に通報したりしたら、まずいですよね」
「かまへん」
男は冷たく言う。
「どうせ俺らももうここにはおらんから」
「じゃあどこにマイルド八畳を連れて行けばいいのか分からない」
「八畳に聞けば分かるわ」
「ああそうですか」
西嶋は佐智子に手を振って部屋を出た。佐智子にこの意味が分かるだろうか。マイルド八畳なんて知ったことじゃない。ましてや一夜限りの美しい女のことだって知ったことじゃない。だからあんたは自分で何とかやりな。どうせ自業自得のことなんだろう。平凡に地道に生きてる人のところにはプロレスラーを訪ねてヤクザが来たりしない。しかし、あんたは美しすぎた。運があるよ。おまけに妹も勘が良いし。
西嶋の職業は刑事だ。上半身裸で住宅地を歩いてる分には、そうは見えないかもしれないけれど。
住宅街の公園横の入り口、電話ボックスから署に電話を入れ、後輩の瓜沢を呼び出した。
住民が西嶋を通報するよりも早く瓜沢はやって来た。
「西嶋さん、なんすかその格好」
瓜沢は自分のジャケットを脱いで西嶋に渡す。西嶋はそれを羽織ると助手席に乗り込んだ。
「勘弁して下さいよ。何があったのか知りませんけどやりすぎですよ」
「真っ直ぐ署に戻れ」
「ほんとに」
西嶋は呆れ顔で車を出した。気の早い蝉が鳴き始めている。
「それ、課長が渡せって」
ダッシュボードの上には、手錠と西嶋の警察手帳が置いてある。
「大体ね、手帳を返す時には銃も一緒に返すもんですよ。一人で何をしようとしてるんすか」
「それ聞いたらさ、おまえも共犯やで」
「ほんまに勘弁して下さいよ」
西嶋は昨日の昼間、ある児童売春グループのアジトに一人で踏み込んだ。何も立派な証拠はなかった。ただ一度西嶋が買った中学生が西嶋に場所を漏らしたのだった。彼女は助けて欲しいと言った。西嶋は知るかバカと言って、彼女を帰した。それから数日、西嶋は中学生の告げたそのアパートを張った。常時5人の小学生や中学生がアパートに出入りしていて、それは異様な光景だが、そのうらぶれた町では誰もそれを不審だとは思わない。そこではスーツ姿の西嶋も、ランドセル姿の女の子達も、あからさまな極道も、野良犬や野良猫と変わりない。野良犬が目立たない町では、誰が歩いていてもそれはそういうことなのだとして人の興味を引かない。どんなに妖艶なドレスを着込んだ女も、狂ったように泣きわめきながら道を行く男も、それは人の苛立ちを刺激こそすれ、何らかの感傷を誘ったり、ましてや「良識」と比較されたりもしない。ここで暮らす者達にとってそれは当たり前のことであり、洗練されたレストランで気配なく水を注いで回る最高級の給仕を当然のこととする世界と同じだ。幸福感に満たされた者達も不幸感に満たされた者達も、周囲の物事に興味など持たない。
西嶋はそんな町の片隅で、仕事に出掛ける女の子達を見ていた。どいつもこいつもつんとした顔をしている。どこに行っても携帯ゲームに夢中のガキどもや、オシャベリしか能のない若いブスどもの方がよっぽど可愛く思える。そのくせ助けて欲しいなどと分かったようなことを口走ったりする。俺には到底分からない。こいつらは自分のしていることも分かっている。たぶん。昼下がりに喫茶店でバカ笑いをしているオバハン連中よりも自分のしていることの惨めさを知っているのだろう。しかしそれ以外に何があるのかなんて、彼女達には分からないし、まさか俺にも分からない。俺のように刑事になれば良いんだよ、なんて思うか? まさか。街や人が自信いっぱいに提案する幸福のイメージは彼女達にとって何の魅力もないのだ。希望と勇気に溢れたポップスなど最初から彼女達には関係がないのだ。愛と恋の世界も、汗と友情の世界も、竜と魔法の世界も、銃と号砲の世界も、詩と宇宙の世界も、つまらないのだ。つまらないことを強要することが救いなのか。俺には到底分からない。どこへ助け出せというのか。だから西嶋は待っていた。誰かがあの部屋に火を放つのを。彼女達を救うためではなく、彼女達の世界を壊すために、燃え上がる部屋の中で黒い弾丸を彼女達の脳を映す鏡に向けて放つ。炎を照り返す鏡は粉々に割れ、壊された世界で彼女達はどこに向けて歩き出すだろうか。西嶋の胸に去来する苛立ちが何に根ざすのかなど、どうでもいい。たぶん下らないものに決まっている。
行きつけのスナックで咲というホステスは言った。
「白馬に乗った王子様っていうのはマシンガンを提げてやってきて、そして全てを穴だらけにして、そして愛してるのはお前だけだって私に言う、そういう危険なものよ。西嶋さん、その腰の銃であのママの顔を穴だらけにしてくれたら私は本当に何でもしてあげるわ」
そんな下らないものなのだ。おたふく顔のママの顔を穴だらけにしたいのと同じ。
「そんなもん、何も変わらへんやろ」
「でもね、悪夢と、悪夢のような現実と、どっちかって言うたら、悪夢のような現実を取るな、私は」
「じゃあ自分でやればええやんけ」
「いらん。西嶋さんは女心が分かってへんわ」
「何やねん」
「私みたいに綺麗な女はな、終わらせてくれる男しか待ってへんわけ。あなたと一緒なら死んでもいいわ、っていうのは、あなたと一緒に死にたいんだけど、あなたにはそんなことは出来ないでしょうって言ってるのよ」
「そんなんは嘘や」
「こないだこれを言ったら、おっさんに顔を思いっきりどつかれたわ。な、ほんまに嘘やったらさ、どつかれてまで言わへんよ」
「みんながみんなそうじゃない」
「さあ、そういうのは何の役に立つのかしらね」
西嶋は黙って、水割りの氷を手で掬って噛んだ。
「怒った?」
「いや。咲ちゃんの言う通りかもしれへんな。みんな病気の部分は同じかもしれへん」
「ふうん。西嶋さんらしくない」
悪夢のような現実か。咲ちゃんはどうしてそんなものを取ると言うのだろうか。俺の知らない何かを知ってるんだろうな。俺の全然知らない何かを、隠しているのだろう。西嶋は思った。
西嶋が警察官になった時、西嶋の父は彼に言った。
「スナックのお姉ちゃんちゅうのはほんまに偉い生きもんや。お前もああいう風に生きろ。その時その時の客のことだけを見て、一生懸命に尽くす。ただ真っ直ぐに自分の仕事に向かってる。途中で躊躇ったり迷ったり、そんな素振り一つせえへん。それはな、凄いことやぞ。俺はな、尊敬しとんねん」
「西嶋さん、刑事さんちゃうかったら付き合うてもええねんけど。嫌やろ? 自分の女を逮捕なんかしたくないやろ?」
「アホか。男なんか、みんな自分の女に手錠かけとんねん」
「女はみんなその腕に嵌められた手錠を足から抜いて、その首にかけられた首輪を天使の輪とすり替えて、そしてエンゲージリングと避妊リングの区別もつかんねんで」
高らかに笑う、本当のところ咲ちゃんは何歳なのだろうか。
出勤前の課長の机の上に手錠と警察手帳を置き、弾を詰めた銃を手に西嶋はアパートのドアを蹴破った。しかしそこにあったのは使い古され色褪せた毛布の山と、空っぽの食器棚や箪笥だけであった。その鮮やか且つ幻想的なやり口に感心するしかなかった。「おまえらも一生懸命生きとんな。諦めもせんと」と呟き、西嶋は毛布の山に腰を下ろし、煙草を一本吸うと部屋を出た。
「咲ちゃん、あんたはいいねえ。白馬に乗った王子様がマシンガン持ってやって来るから。俺はあかんわ。悪者もケツまくって逃げてまいよる」
アホやなあ、西嶋さんは。そういうのを平和ボケって言うねんで。そんで、それしかほんまの平和なんてもんはないねんけどな。咲ちゃんはそう言うだろうなあと西嶋は思った。
「昨日の昼間、ハーバーランドの立体駐車場で銃撃戦があったんですけど、西嶋さん、銃どうしたんですか」
なんだかんだ言っても瓜沢も三年目だ。見ないフリをしながら、見ているところは見ている。山手幹線が石屋川を渡ったところで瓜沢が言う。
「先輩のじゃないでしょうね。たぶん課長も勘づきながら黙ってくれてますけど。すぐにバレますよ」
「大丈夫や。安全なところに預けてあるだけやから」
瓜沢の言うハーバーランドでの銃撃戦というのは、児童売春グループに逃げられた後、ドーナツショップで西嶋がコーヒーを飲んでいると、血まみれの男の体を、まるでクリーニング屋の集配のようにいっぱい詰め込んだ白いマイクロバスが通過したのでドーナツショップを飛び出し、走りにくいリーガルの革靴で追跡して、マイクロバスが入り込んだのがハーバーランド南側の立体駐車場の中だったというわけだ。鉄の階段を5階まで駆け上がった西嶋は、がらんとした駐車場の一番奥に先程のマイクロバスが停まっているのを見つけ、拳銃を構えた格好で近付いた。さっき見た血まみれの男達が人形やマネキンでないことなど、西嶋には分かっていた。いや、もしあれらがマネキンの類であったとしても、あの赤黒い色は本物の血の色であり、そこでは犯罪に絡む何かが起きている。刑事として働く程に西嶋のそういった勘は鋭くなっていった。
西嶋は柱の陰から車に近付き、一気に飛び出ると、その運転席に銃口を突きつけた。しかしそこには何者の姿もなく、また後部のスペースにもさっき見たような男達の死体の塊はなかった。しかしそこには死体の気配があった。蝿や蛆虫が集まり始めている。間違いない。この車だ。この車が死体を運んでいたのだ。
その時、西嶋の顔の右側、車のサイドミラーが弾け飛んだ。西嶋は身を伏せた。そして今サイドミラーを破壊した弾丸が飛んできたとおぼしき方向に視線をやる。西日が眩しくよく見えない。その光の中で5、6人の男達がこっちを見て立っていることは分かった。西嶋は続いてよせられた銃弾の一斉射撃の中を柱の陰まで転がるようにして逃げた。マイクロバスの側面には蜂の巣のように黒い穴が空いた。
西嶋はすぐに応戦した。しかしいくら何でも火力が違いすぎる。相手の持っているオートマチックの銃に比べて西嶋のナンブでは、棋士が巨乳のキャットファイターにケンカを売っているようなもので、何も期待出来るものではない。このままでは時間の問題でやられてしまう。そう考えた西嶋は、一か八か降参しようと思った。柱の陰からコンクリートに銃を滑らせる。両腕を頭上に上げ、すっかりその中の鉄色を剥きだしにしたマイクロバスの側面を背に立った。
エレベーターの扉が閉まるところだった。西嶋は慌てて、自分で捨てた銃に駆け寄り、それを拾い上げると半分転んだままの姿勢でエレベータの扉に向けて連続発砲した。黄色い鉄の扉が火花を上げる。エレベーターのオレンジ色の階数表示は無情にも流れるように地下2階まで下りて、そして階下からの大きな爆発音とともにオレンジの表示も消えた。
その後、西嶋は南京町に逃れ、お気に入りの漢口飯店で不機嫌にディナーを貪り、そして家に帰ろうとセンタープラザの地下を抜けているところで、若い男にからまれているミツコを見つけたのだ。だから西嶋の銃は弾切れだった。
「紛失届け出して下さいよ。銃だけじゃなくてホルスターも無くしたんじゃないんですか」
そうだ。ホルスターを佐智子のベッドルームに忘れてきた。あれにも御丁寧に警視庁の刻印が入ってるからな、あのヤクザみたいな男に見つかったら俺の素性がバレるんだろうな、と西嶋は思った。全くバカバカしい。最近は刻印入りのホルスターや制服ぐらい、いや、本物と何一つ変わらない偽造拳銃だって、ちょっと調べて金さえ用意すれば後腐れ無く店頭で買えるというのに、刑事だけが本物であることに縛られて行動せねべならない。「瓜沢、悪いねんけどさ、お前のチャカ一日だけ貸してもらえんかな?」
「嫌ですよ」
「なんで」
「なんでって。あたりまえですよ」
「お前、あれやろ。まだ撃ったことないねやろ」
「ありますよ」
「訓練でやろ?」
「バカにしてるんすか? 絶対貸しませんから」
「弾だけでもいいからさ」
「嫌ですって」
「お前、こういう言葉知ってるか」
「知りません」
「ま、聞け。人間、一度きりの人生」
「分かりました。弾を半分あげます」
「中途半端やのぉ」
「ま、こういうもんですよ」
瓜沢は前を向いて運転しながらポケットをまさぐり、6発の銃弾を西嶋に手渡した。
街路樹が青々と繁る盛夏。坂の多い街。蜃気楼の中に、風鈴を売り歩く屋台の姿が浮かんでいる。
「あとね、課長から伝言があるんですけど、聞きますか?」
「聞かない」
「分かりました」
署の裏口から戻った西嶋は、まず自分のロッカーで新しいシャツに着替えた。ジャケットの替えは持っていなかったけれど、今日は暑すぎるから問題はないだろう。隠すべき銃だって持っていないし、と思った。
瓜沢のジャケットを瓜沢の机に投げるように置く。背後から課長が「西嶋、遅れて来て挨拶ぐらいせんか!」と怒鳴る声が聞こえるが、西嶋は無視してコンピュータ室に飛び込んでいく。
腕まくりしてキーボードを叩く西嶋。あっという間に灰皿は吸い殻でいっぱいになる。そして西嶋は見つけた。
曽和仁志。絹川組系の構成員。前科一犯。野球賭博か。いわゆるチンピラだな。ディスプレイのその顔を西嶋はニヤニヤ見つめていた。大物の先生方よりも、こいつらの方がよっぽどおもろいことをしやがる。単独で予想のつかないこと。警察はそういうものに対応しきれない。子供の凶行や思想犯の脅迫にいくら警戒態勢を敷いたところで、警察の仕事の大半は操作不能になった大人達の懐柔だよ。難しい動機や革命なんてものはあとの連中に任せる。社会的な原因を究める学者さんや一般市民の皆様のことも知らない。あっちだって俺のことやこいつらのことなんて知ったこっちゃないだろう。俺にはこいつらの相手がお似合いだよ。金と暴力の動機が俺を高ぶらせる。
曽和の顔をプリントアウトしている間、ディスク上にファイルされた顔を次々とクリックしてめくっていく西嶋。その姿は、自分のコレクションを夜中うっとりと眺めるマニアにしか見えない。
まず、佐智子が言っていた八畳の女が住んでいるというアパートに向かった。税関の裏手の路地を東向きに1ブロック行った所にエンゲルビルはあった。ビルと呼ぶにはあまりに小さなただのアパートだった。どこかの誰かが半分冗談でビルと名付けたのだろう。なかなか良い趣味をしている。一階は佐智子の言った通りプールバーになっている。プールバー「リゾートの日付変更戦」。こちらもネーミングの由来が全く読めない。出鱈目な時代の出鱈目な街に違いないけれど、何にでも適当に名前を付けれる程めちゃくちゃだとは西嶋は考えていない。要するに、この辺りの連中がめちゃくちゃなだけだ。これでプールバーで聞き込みをして、プールバーの主人が話す言葉がエスペラント語だったりしたら幾ら何でも俺にはお手上げだ。原住民相手に保安官をしてるんじゃないんだから。
「営業は夜から」
「マイルド八畳来てねえかな?」
「エイト? 今日はまだやな」
エイト。マイルドエイトか。ちゃんとした名前も付けれるんじゃねえか。
「あんた何? 借金取り? やったら無駄やから帰りな。エイトは逃げも隠れもせえへんけどな、その代わり一銭も返す気はないから」
頭の薄い老人が言う。痩せ細った体にオーバーオールというのも案外似合うものだ。
「借金取りじゃないねんな。私、マイルド八畳のファンで」
西嶋がそう言うと、禿老人はレジのお金を数えながら、
「じゃあそういうしょうもない冗談言うて殺される前に帰った方がええわ」
と言った。そう言われて引き下がれるわけもない。何しろこっちには美しい女の命がかかっているのだ。
「ここの上に、マイルド八畳住んでるって聞いたんだけど」
「こんなボロアパートにあの御仁が住めるワケがあらへんやろ」
「おっかしいなあ。女と一緒に住んでるって聞いてんけどなあ」
「テレビの人間か? 帰ってくれ」
「いいじゃないですか。お父さんも好きでしょう? ワイドショー。どうせどこかから漏れるネタですよ。新鮮な方が高く売れるんだけどなぁ」
「この街ではな、金なんかなんぼあっても同じなんや。一昨日出直してこい、小僧が!」
「お金以外にもありますけどね」
老人の目つきが変わったのを西嶋は見逃さなかった。
「例えば、来週ライオンズ戦のネット裏。どうですかね」
それは西嶋が以前押収した偽造品だった。が、西嶋はそれで観戦に行くつもりでいたのだから大奮発だ。
「おそらく先発は川越」
「兄ちゃん、そんなしょうもないもんで喋れるんはちょっとだけやで」
老人は西嶋に椅子を差し出した。
「煙草も一本貰えますかね。五年前に火事をしてから妻に停められてましてね」
美味そうに煙を吸い、ゆっくりと吐く。こんなにもゆっくりと煙を吐く人間を見たのは初めてだった。
「・・・やで。それはわしも聞いた話やけどな。あれは何かおそろしい女に違いないわな」
「で、その女の名前」
「それは言えんわ」
「なんで?」
「わしらかて信頼第一ですやん。客をテレビに売ったとか、マズイでっしゃろ?」
「ここまで喋っといてよう言うな」
「何を言うてますの。ここまではただの噂ですがな」
西嶋が溜息をついた時、店の扉が勢いよく開いた。
「お客さん、営業は夕方・・・」
と言いかけた老人の表情が強ばった。逆光の中、銃を構えたシルエットが扉の内側に仁王立ちになっていた。西嶋は咄嗟に自分の腰に手をやったが、そこに銃はない。
「クソジジイ、よくもそんだけ喋ってくれたな」
これじゃ今朝と同じじゃねえか、と西嶋は思った。今度はジジイを守るのか。これじゃ本当に正義の味方じゃねえか。
「ダメなジジイやとは思ってたけど、ほんまにどうしようもねえな、てめえは。約束ぐらい守れよ。それに西嶋さんも西嶋さんや。ちゃんと私の店まで取りに来てってメモを残したのに、先にこっちに来んねんから」
ミツコは銃を西嶋に投げた。
「なんやミツコ! お前さんらグルか。こんなジジイを騙してどないしようっちゅうねん!」
「別に騙してへんよ。こんなジジイ騙してもどうにもならんし。行こ、西嶋さん。もうここにはマイルドはいてないから」
「すんませんね、おじいちゃん。明日のワイドショー楽しみにしといて」
「なんやねんお前らは! わしにも話の筋を教えんか! わしが聞くのは噂ばっかりやないか!」
助手席にミツコが座る。シートベルトをきちんと締める。
「だって、ここまで来て捕まったりしたら大変やん」
後ろで髪の毛を一つにまとめて、ずっと行動的に見えるミツコ。佐智子とは全然違うけれど、確かに美人に見えなくもないこともない。
「とにかく六甲山ロープウェイに急いで。そこでマイルドに会えるから」
「じゃあ、地下鉄とバスで行くか。Uラインカードも買うか?」
「どうして?」
「だって、これ神戸市のアピールみたいやんか。次は何処? グリーンスタジアム?」
「アホなこと言うてやんと急いで。この車パトライト付いてないの?」
「ありますよ」
西嶋は窓を開けてパトライトを乗せ、六甲山に向けてアクセルを踏み込んだ。
「六甲有馬ロープウィイって確か、どっちかっちゅうと有馬側やんな」
「せやで。そんなんも知らんの?」
「やとして、三宮からどうやって行くん?」
「行き方はあんねんで。阪六から16系統のバス路線を上がっていって、ケーブル下駅からまずは山頂に行ってもらって、そんで山頂巡回バスで・・・」
「ええわ。はしょるわ」
ロープェイのゴンドラの中でのマイルド八畳との格闘は、西嶋にとって正にものすごいものだった。こんな狭いゴンドラの中で必殺の催涙スプレーをぶちかましたらものすごいことになるだろう。かといって真っ正面からやり合うにはマイルド八畳はフィジカル的に優位すぎた。そのパンチはものすごく、首を締め付けてくるパワーは首をしめているのか折ろうとしているのか分からないくらいものすごかった。地上数十メートルのゴンドラの中で暴れるには、マイルドは巨漢すぎる。ロープウェイのワイヤが大きくしなって、前後のゴンドラも巻き添えになって跳ねるように揺れている。西嶋はマイルド八畳の眉間を何度も殴った。ダメージがあるのかないのかも分からない。八畳の眼球は通常の人間に比べて2倍はあるんじゃないかという巨大さで、更に黒目の割合が非常に大きく、その様子からダメージを測ることは出来なかった。突進してくる体をはねのけ、大きく傾いたゴンドラの中で八畳の肩に肩車になり、その眉間を殴る。八畳は西嶋を頭に乗せたまま、ゴンドラの窓に激しくヘッドバットをして、西嶋の肋骨にひびを入れる。眼下の緑の森と、神戸港の真っ青な海。霞んだ瀬戸内海を視界の隅にしながら、西嶋はまるで無重力、その肩口に激しく肘を入れても何の手応えもない。金的を蹴ろうが、その突進は止まらない。口いっぱいの血を飲み込みながら、アクションゲームなんかでこういうデカイだけのボスっているよな、と思った。そういうボスは大抵弱点を十発も殴れば死ぬんだけど、こいつこれでも人間やもんな、簡単には死んでくれねえなあ。撃つしかないのか。まだ有馬側の駅に着くまでには随分距離がある。このままでは到着する前に俺がくたばってしまう。相撃ち覚悟で催涙スプレーをかますか。しかしそれにしたってこの巨獣相手に有効だという保証はない。というかまず効かないのだろう。撃ちたくはない。ここで俺が撃ってしまえば、ミツコの願いを反古にすることになる。佐智子は明日の朝、三宮駅に無惨な姿を晒すことになる。しかしこのままだったら俺は死ぬぞ。八畳の平手打ちが西嶋のこめかみに直撃する。八畳の頭突きが西嶋の股間に突き刺さる。足を踏みつけられる。体重が3倍もある相手ってのがこれほど厄介だとは思いもしなかった。いや、これが町中であったならまだ戦えたかもしれない。しかしゴンドラデスマッチはひどすぎる。こうなることが分かっていた筈のミツコは、最初から俺を殺すつもりだったのか。まさか、そんな筈がない。俺が死んだところで何の意味もないからだ。考えろ、考えろ。この八畳の攻撃をかいくぐって対抗する方法が何か一つぐらいある筈だ。
それは賭けだった。西嶋の腕が噛み千切られるのが先か、八畳の呼吸を止めてしまうのが先か。大きく開かれた八畳の口に西嶋は右腕を思いっきり突っ込む。その虚空に腕を投げ入れる瞬間、西嶋は死を覚悟した。一気に肩まで差し入れる。あまりに大きすぎる洞穴。未踏の禁忌。突然足元に現れたブラックホールに吸い込まれるように、時空はねじれたかと思った。しかし次の瞬間、西嶋はその奥に確かな感触を持った。いけると西嶋は思った。八畳は振りほどこうと西嶋の体を持ってゴンドラの壁に叩き付ける。西嶋の手は八畳の喉の奥、気管支の分かれ目に爪をかけ力一杯握りしめていた。痛みに気管はより強く締まり、振りほどこうとする八畳の思いとは裏腹に、西嶋を強く八畳の中に食い込ませるだけであった。のたうちまわる巨体。壁に叩き付けられていた西嶋の下半身から力が抜ける。もう感覚は全く残っていない。いや、もはや西嶋には意識さえもなかった。気道を確保出来ない苦しみに、ついに八畳はすべての動きを止め、仰向けに倒れた。これまでで一番大きくゴンドラが揺れた。マイルド八畳の体の上で、西嶋の左手が小さくガッツポーズをした。
マイルド八畳さえ確保してしまえば、あとはこっちのものだ。無事にマイルド八畳を連れて西嶋がロープウェイ下駅の改札に現れると、ミツコは泣きじゃくって二人に抱きついてきた。
「二人とも無事で良かった!」
捕まった八畳は素直なものだった。曽和の写真を見せると、
「こいつ知ってる。汚い金を持ってくる」
と言った。
「こいつの待ってる所へ行きたい。マイルド、知ってるか?」
「第二突堤」
もうロープウェイはこりごりだ。ワンボックスのタクシーをチャーターし、北区から新神戸トンネル経由で3人は神戸側へ戻った。トンネルを出る頃にはすっかり空は宵闇に染まり、街は季節外れのイルミネーションに輝きを増していた。クライマックスに相応しく、カーニバルの夜のような荘厳さと華やかさに満ち満ちている。さすがに疲れているのか、西嶋の目にはそんな風に映った。
しかし第二突堤で西嶋達を待っていたのは、曽和ではなく曽和の死体だった。冷たい闇の中で曽和は死んでいた。そしてその傍らには、一着の巨大なリングコスチュームと、一枚の地図が置かれていた。地図中の赤い丸印を見た瞬間、マイルド八畳は立ち上がり吠えた。それは神戸港に響き渡る咆哮であった。人々の慟哭を吸い込む竜巻のような、激しすぎる咆哮であった。
ワールド記念ホール。リング上では、サラサラダイヤモン・グルーンタペストリーの凶悪ペアが佐智子クインシージョーを二人がかりでいたぶっていた。佐智子クインシージョーのレオタードはサラサラダイヤモンの鋭い爪によって片方の肩紐が切られ、佐智子クインシージョーは常に右手で胸元を押さえながら戦わねばならなかった。超満員六千人の観衆の激しいブーイングにもひるむことなく、凶悪ペアはリング狭しと佐智子クインシージョーの髪を持って引きずり回し、リングから突き落とし、引っ張り上げ、顔面の上に尻を押しつけて座り、やりたい放題の一方的な試合展開だった。
佐智子クインシージョーのドロップキックは空を切る。その背中はトップロープから舞い降りてきたグルーンタペストリーの必殺ニーニーニーの餌食になる。声にならない嗚咽が漏れた。客席から悲鳴が上がる。誰の目にも佐智子クインシージョーに勝ち目はなかった。
サラサラダイヤモン・グルーンタペストリーペアはとどめをさしに来た。もう佐智子クインシージョーにかわすだけの力は残っていない。このままレオタードをひんむかれて、そのささやかな陰毛という名の尊厳と表現の自由を白日に晒してしまうのか。肩の上に足、平たく言えば人間トーテムポールと化したサラサラダイヤモン・グルーンタペストリーは、せーのーで一人のジャンプ力の二倍高く飛び上がった。統一王座を奪取せしめた究極の必殺技エンデバーが佐智子クインシージョーを襲う。
その時だった。バサリ。
もう一度。
その時だった。バサリ。
天井から舞い降りてきたXOサイズの朱色ガウンがグルーンタペストリーの顔面を包み込んだのだ。会場中が息を飲んだ。
視界を失いバランスを崩したグルーンタペストリーの踵がサラサラダイヤモンの右の触覚に命中する。佐智子クインシージョーの両脇に二人の怪人は激しく墜落した。
鷹山ひろし『僕は泣いていない』のイントロ、トランペットのメロディーが場内に流れた。観客達は知っている。これが誰のテーマソングなのかを。あの真紅のガウンが誰のリングコスチュームなのかを。あのガウンが脱ぎ捨てられた時、リングに奇跡が起こることを! 大歓声がワールド記念ホールに爆発した。
「悪役ぶるのもそれまでだ! 本物の悪玉の恐ろしさ、目にもの見せてくれよう!」
西嶋とミツコは、マイルド八畳Tシャツを着てセコンドに立っている。スタンドには課長や瓜沢の姿も見える。みんな声を枯らして声援を送る。そうだ、これは夢じゃないんだ。
ラブウェーブ・イン・ワールド記念ホール・KOBE。
(End)