ん2
コトちゃんのこと
有名なスナック「うかあれ」の中でも、あまり人気のないコトちゃんが言っていた。
コトちゃんは滅多に話さないので、その声は貴重だ。
常連客達の最低に上品な笑い声。ママ達の激しすぎる相槌。そして止めどなく湧き出てくる色褪せぬ冗談の渦の中に、コトちゃんの言葉は弱々しく浮かんだ。
あたし、いつも思うん。
最初、それがコトちゃんの声だとは気付かなかった。聴いたことがなかったからだ。そうかな。どこかで聴いたことのある、懐かしいような、何かを思い出させるような、そういう月並みな言葉が、とてもよく似合う。
いつか電話の向こうから聞こえてきたような、とか。
擦り切れて失われてしまったカセットテープの、とか。
中古で買った電話に残された留守録、とか。
罪悪感と結びついた、とか。
あんな地味な女のさあ、どこがええんよ、小山内。
そんなんちゃいますよ。
窓の外は真っ黒、そこに白い言葉が浮かんで、コトちゃんの横顔がいつもより綺麗だ。酔っぱらった小山内はそう思った。
これは夢やろう? そして、目が覚めよるやろう?
絵里ちゃんのこと
帰宅途中、乗換の駅で出張帰りの同僚達に会った。
「一杯だけ行かね?」
「行こうよ、絵里ちゃん」
「やめとくわぁ」
「なんで? 一杯だけやん」
「二杯でもよかよぉ」
「ごめん。約束があるけん」
「もしかして彼氏できたん?」
「まじかよ。俺、西野さんいいなあ思てたのに」
「根性なしのくせに」
下りの電車がホームに入ってきたので、私は濁すようにその場を去る。
私は彼らのことが嫌いじゃない。どちらかと言えば好きだ。どちらかと言えば、というのは、学生時代、同じ教室にいた人々などに比べてという意味だ。
私にしては、いい会社に入ったと思う。
勤務時間も短くはないし、それなりにプレッシャーも強い。それでも人々は穏やかで愉快だ。人数が少ないせいか、ルールもそれほど厳しくないし細かくない。全く嫌いじゃない。本当に。これまで私が属していた世界が異常だったのか、こちらの方が珍しいのか。
たぶん後者なんだろうな。
嫌ったり、嫌われたりしてきた、嫌い合う人々ばかり見てきた時代はそんなに昔のことじゃない。
油断しちゃだめだ。
温かいシートに座って、眠らないように、乗り過ごさないように。
吊り広告を読んだり、車内の人々を観察したり。
途中から乗り込んできた学生らしき女の子二人が、猫を飼う話をしているのを聴いたり。
でも、私は同僚達と一杯だけ飲みにも行かなかったし、彼氏だっていることにしてしまった。そして私は何も考えていない。何も考えていないから、こんなことは続かないと思う。
続かないも何も、もう三十歳。薬だって、飲み続けないといけないらしい。
私の中の夜景が電車の揺れに合わせて細かく揺れている。私はそう簡単に夜景に手を出したりしない。
先生は「過鎮静」と言った。
二十二時半。快速電車から吐き出された人々は、所狭しとロータリーに停車したお迎えの車に乗り込んでいく。タクシー乗り場にも行列が。
改札の脇に、おじいちゃんが迎えに来ている。
おじいちゃんは車の免許は持っているが、車を持っていない。
毎日、会社のある駅から電話を入れて、自転車で迎えに来てもらう。雨の日も風の日も。私が駅に着くより、おじいちゃんの方が遅かったことは一度もない。
自転車は古く錆びて重く、嫌な音がする。荷台に座布団が括り付けられていて、錆がスーツに付かないようにしてくれている。
きっと、八十を越したおじいちゃんを荷台に乗せて、私が自転車を漕ぐべきなんだと思う。
でも、私がおじいちゃんを乗せたりしたことはない。
そんなことこれからも絶対にない。
住宅地の中の夜道を、私達は二人の家に向けて流れていく。遅く、遅く。
ちゃんとライトを点けて、道路の真ん中を、堂々と。
小山内さんのこと
これは夢やろう? そして、目が覚めよるやろう?
コトちゃんの言葉の、その続きはなかった。言葉を探したり、考えたりしている顔ではなかった。
よく眠って、目が覚めたような、顔をしていた。
また新たな常連がやって来て、彼は既に酔っぱらっていて、子供が高校に合格したと言って泣いて笑った。両親に似てアホの娘がよお、どこにも行かしてやれんと思てたアホがよ、自分でなんとかしよったわ。
小山内さん。
コトちゃん、それ俺のじゃないよ。勝手に開けたらママに叱られるよ。
よくある話なんやけど。
そう言ってまた黙った。俺は片方の耳で一緒に来た連中の話を聞いて、片方の耳で コトちゃんの真っ黒な目の音を聞いている。。
もしかして、コトちゃんはもうすぐここをやめるのかな、と思った俺に根拠なんかなかった。
そう思ったら、何だって起きるような気がした。
今日は何時上がり?
いつもと同じ。
いつも何時かなんて知らんわ。
ママに聞いて。
聞けんよ。
小山内さん。
はい?
子供とかいよる?
おらんよ。結婚もしとらんのに。
私、おるよ。
嘘だよ。
嘘なんかつかんよ。だから、話せないのさ。
お祝いということで、客で来ていた酒屋の親父が店から樽酒を持って来させた。こんなちいこい樽なんか初めて見よるわ。世の中には大きいちいこいやのうて、それぞれの一番ええサイズっちゅうもんがあるっちゅうこっちゃ。でかてもしゃあない。アホみたいや。
コートを取り違えて帰る人。お金を払いすぎる人。寝たままタクシーに乗せられる人。覚えていた筈の詩が思い出せない人。小山内さんも帰った。
全ての客が帰ってから、私達はグラスを食洗器に突っ込む。
使用済のおしぼりを籠に入れて勝手口から出す。
ママは売上を金庫に入れる。
それだけしたら私達は家に帰る。
小山内さんは、明日にでも一人で店に来るだろう、と思う。
私にだってそれくらいは分かる。
でも、その通りに来るとしたらあの人はいいな、とも思う。
私には子供なんていない。
今日も白い首して一人で眠る。私は眠ってばかりだ。
明日は小山内さんと眠るかもしれない。
絵里ちゃんが通院のこと
病院の待合いのソファは白。混み合うことはない。私の知る限り、混み合っている精神科というのは無い。
がらんとして、小綺麗で、静かで、清潔で、良心的で、背徳感で。
小雨で。
もっと目隠しでもして、お揃いの診察着でも着て、鳥の図鑑でも与えられて、時計やカレンダーが外されていて、聞こえない音が鳴っていて、トイレに鍵がかからなくて、水道をひねっても水が出ない、そんな精神科には行ったことがない。
「西野さん、どうぞ」
私の先生は、若い男の先生だ。
診察室に入ると、大体いつも目薬をさしていて、失礼、と言う。
「かわりありませんか」
と言うので、
「かわりありません」
と答える。
かわりなく、眠っているのか、眠っていないのか、分からない。眠らないと人は気が狂って死ぬそうだから、まさか眠っていない筈はないのだけれど、眠った記憶が私にはない。
何種類かマイナートランキライザーを試したけれど効果は見られなかった。
眠れない(眠っているか分からない)ことで、昼間激しい睡魔に襲われるかというと、そのようなこともない。だから日常生活に支障はない。
ただ、全く休むことなくずっと起きているというのは………よくわからない。
明け方、カーテンの色が変わっていく速度を、私は毎日知っている。
誰か一緒に眠る人はいませんか、と聞かれたことがある。眠っていることを、確認できる人。
「すいません。いません」
最初の診察の時に家族関係の聞き取りがあった。
「両親は二人とも若くして亡くしました。兄弟は元からいません」
「母親は狭心症の発作です。父親は事故です」
「母方の祖父母も他界しています。父方の祖母も」
「今は父方の祖父と二人で暮らしています」
「仕事は私がしています。祖父は年金を貰っています。持ち家ですので、生活には困っていません」
「祖父も現在まで病気をしておらず、昼間は一人で家のことをしています。デイケア的なものにも行っていません」
「家族関係は特に悪くありません」
何度目かの通院の時に、過鎮静。と先生は言った。
誰か一緒に眠る人、というのは、恋人の存在を指しているのだと思うけれど、もう三年近く、私には一緒に眠る人などいない。三年前ということは、まだ父親が生きていた頃だ。父親は、あの頃、私に恋人がいたことを知っていただろうか。
一度、入院して眠っているか看護士に確認してもらったことがある。私は三日間、薬を飲んでも全く眠ることができず、その時はさすがに辛くて家に帰らせてもらった。
社員旅行、と、おじいちゃんには嘘をついた。
おじいちゃんには頼めない。
おじいちゃん、ちゃんと私が眠れてるか、起きて見てて欲しいの。
そんなの無理だ。
大体、今は眠っているか分からないだけで、それ以上私は何も求めてはいないのだと思う。初めて通院した時のような状態ではない。ちゃんと話せるし、ちゃんと黙ることだってできる。仕事にだって続けられている。
その昔、私がちゃんと眠れていたころのことを思い出そうとしても、もう取り返しがつかない。
かわりなく、かわりのない医療費を払おうと待合いで座っていると、声をかけられた。
「絵里やんね?」
そこにいたのは、高田という元恋人だった。
私は運命論者なんかじゃない。
高田と私は、それぞれの処方箋を持って、病院の裏にある院外薬局へ行く。
小雨の中を小走りで。
かわりのない薬を処方してもらいに。
ミツのこと
高田のような不真面目な人間が、きちんと通院して、欠かすことなく薬を飲んでいる。
不思議な気分になる。
私が眠っていない間に、色んなことが起きたんだね。
大衆食堂で向かい合って定食を平らげ、慣れた調子で錠剤をテーブルに並べる男と女。高田の薬は私の知らないものだった。
もう私は、言葉で言うなら、何の恨みも持っていない。
高田は私と付き合っていた頃、もう一人、ミツという二十歳そこそこの若い女と二股をかけ、ミツには日常的に暴力をふるうようになったらしく、やがてそれは警察沙汰になってしまった。私は当事者ではなかった。蚊帳の外の存在であり、自然と雲のように消えた。
その後の詳しいことは知らない。高田からは何の連絡もなかった。
しかし、なぜかミツから謝罪の手紙が届いた。それはそれは重苦しく、正直な謝罪の文章だった。贖罪でも懺悔でもなく、どこか慰めに近かった。変な女だと思った。怒りはなかった。恨みもなかった。気持ち悪かった。
警察沙汰にまでなったのに、高田とミツは一緒に暮らすようになったようだった。
半年もせず「高田さんとは別れることになりました」という手紙が、箱入りの桃と一緒に届いた。ミツの住所は山梨県になっていた。
翌年の夏もミツから桃が届いた。
おじいちゃんは、これはいい桃だと言った。
私は仕方がないので礼状とお断りを送った。
でも今年も桃は届いた。そして、数日して、ミツが家にやって来て、「西野絵里さんですね。榎本ミツです。初めまして」と言い、泊まって行った。
家に家族以外の人間が泊まるのは初めてのことだった。おじいちゃんは私が思っていたよりもずっと社交的で、山梨県に行った話などをしてくれた。
ミツは楽しそうにおじいちゃんの話を聞いてくれた。
ミツの左腕は今でもうまく曲がらない。普通のブラジャーなんか出来ないので、もういつでもノーブラなんです、と彼女は言った。
おじいちゃんはミツのために、新しいバスタオルをどこからか出してきてくれた。
「私、高田さんのケータイいつも盗み見てたんで、絵里さんのこと知ってるんです」
「それさ、私に言わない方がいいよ。私が嫌な思いをする」
「そんなことはないですよ。絵里さん、素敵なこと書いてましたよ。憧れました。私も、こういう大人になりたいって」
「そういうのってさ」
「本で勉強するんです」
ミツには私の布団で寝てもらった。
私は、ずっと使っていなかった両親の、母親が死んでからは父親が一人で使っていた布団を押入から引っ張り出して、それで寝ることになった。黴臭くはなかった。昨日まで使われていたかのように、いい匂いがした。
「私は今でも高田さんのことが好きです。絵里さんは?」
「まさか」
「私は警察に言ったりしたくなかった。私達だけの問題だった。そして、気が付いたら私一人だけの問題になった。高田さんは何も言わずにいなくなりました」
それでよかったのさ、と私は思った。
「高田さんは悪い人じゃありません。あの人だけです。人の悪口を言いませんから」
「言えないだけよ」
「どうして、言えないんですか?」
翌朝、ミツは山梨に帰るのだと言った。せっかくだからこっちの友達のところにでも行かんの? と言うと、そんなのいません、とミツは言った。
「友達なんて、絵里さんしかいません。絵里さんも、山梨に来てください。富士山に登りましょう」
どうして、私とミツが友達なんだ、と思った。溜息が出る。
「富士山はやめとくわ」
「どうして? あそこは高いだけじゃないのに」
「ミツさ、高田のこと探しに来よった?」
「はい。絵里さんのところにはいませんでしたね」
「やめとき」
「ごめんなさい。これは私だけの問題なんです」
後日、ミツからは一宿一飯の御礼だと言って、カタログギフトが届いた。添えられていた手紙には「冗談ですよ」と書かれていた。あの女、なかなかやりやがる、と私は思った。
高田にその時の話をすると、お前は本当に変わってる、と呆れ顔で言った。こんな風に呆れる人の顔を見たのは随分久し振りな気がした。おかしかった。
ミツとは連絡とったりしとる?
してるわけないやろ? お前さ、頭おかしいよ。
仕方ないやろ。やって治療中やもんね。
育ちがいいのさ。
だから仕方ないじゃない。
そんなの、お前の友達かておかしいて言いよるやろ。
こんなん話せる友達なんかいないわ。
ミツしか。
高田さ、ミツのところに戻ったりさ。
せんて。
頼むよ。
昔の男とやるのは簡単だ。
昔の男とやるのは初めてのことじゃない。
忘れたサインもすぐに思い出す。
懐かしい歌を聴くのと同じ。リフレインも、長さも、知っている。上手じゃないのも知っている。
高田、あんた最低なんだから、ミツのところに顔出したりするんやないよ。やりたくなったら私のところにおいでよ。
私はそんなことをわざわざ言ったりしない。
暗くなる前に私はホテルを出て家路についた。暗くなるとまたおじいちゃんに迎えに来てもらうことになる。今日はおじいちゃんに迎えに来てもらいたくない。
駅から家までの道を歩きながら、もう高田に会わないでいいように病院を変えないといけないなと思って、橋の上から診察券を川に捨てた。夕暮れ、紫色の川はだらだらと流れている。拾った誰かが代わりに病院に行け。
入浴剤のこと
同僚の結婚式の二次会に行った絵里は、引き出物として入浴剤のセットを貰って帰ってきた。
久し振りにお酒を飲んだ絵里はまさか気分が良くなってしまった。医師からは飲酒は控えるように言われていた。でも途中からは抑えることが出来なかった。私を叱る人なんて誰もいないのだから、と絵里は思った。
社員同士の結婚だったから、二次会は大いに盛り上がった。
絵里の他にもひどく酔っぱらったのがたくさんいた。社長に至っては泣き崩れて介抱されていた。
酔っぱらった男性社員の一人がマイクを握って絵里にプロポーズをし、勝手に砕け散った。
男性社員は泣きながら飲まされまくって、さらにぐでんぐでんになり、酔っぱらった別の社員に両側から支えられて絵里のところにやってきて、先の非礼を詫びて、また泣いて、結婚は別としておつき合いできませんか、と、ひどい呂律で言った。
女性社員達に「酔っぱろうて告白するなんか最低」と言われ、男性社員達は「お前らはなんもわかっとらん」と言い返し、絵里はその中心にいて、周囲が思っている以上に酔いが回っていたので、「私には好きな人がいますので、だめです」と言って断った。
どこの誰ですか、と男性社員が詰め寄ろうとしたので、情けないわと言って、先輩が彼を引きずって行った。あの人、悪い人じゃなかよぉ、と囁いてくる人や、あないな童貞やめといた方がよかと言ってくる人達でひとしきり盛り上がった。絵里ちゃんて何も言わんで笑とるだけかと思とったけど、ちゃんと言うときは言うのねえ。見直したわよ。好きな人、おるんな。おばちゃんの若い頃にそっくりだわ、わははは。
絵里は集団を離れ、壁際の席で水を飲んでいた。
腕時計を見る。そろそろ帰らないとおじいちゃんが迎えに来れなくなってしまう。
そう思っているところに、ひょろっと背の高い若い男が来て、「僕も西野さんのこと好きなんです、本当は」と、さらっと言った。「僕は、西野さんが病院に行ってることも知ってます」
あらら、と思った。
「ありがとう。でも通院歴なんて今時珍しくもなんともないわ」
「僕も同じ病院なんです」
「そんなんで人を好きになるかな?」
「そんなもんですよ」
「そうかな?」
刈り上げのなんだか小洒落た今時の男の子。
「うちの会社の子?」
「そうですよ。あれ? さっきの好きな人って、僕のことやなかったんですか?」
私、今日はもう帰るから、と言うと、帰らなくてもいいじゃないですか、これからどっか行きましょうよ、と言う。だめ。じゃあ送って行きます。もう帰りたいんです。一人で帰れるから大丈夫。もっと若い子送ってあげなさいよ。
「ねえ、名前は?」
「藤田です。藤田渡」
「無理だわ。やっぱ今日は酔っぱらってるから覚えられないわ」
「じゃあ、次は必ず」
「若いのに気の長いことで。大体のこと、次なんてないんよ」
「若くないですよ。西野さんとたぶん同じくらいですよ」
「知らないよ」
おじいちゃんの自転車の荷台で、私は終始上機嫌に鼻歌なんか歌いながら、そんな気がした。
私、生まれて初めてプロポーズされよったよ。
断ったさ。
断っても良かったんよ。
あんまり知らん人やったからね。
絵里ちゃん、白い服よう似合うから。なぁ。
このままやと一人になりよるわ。
じいちゃんじゃなぁ、もう、なんもしてやれんよ。
住宅の中に激しく子供を叱る母親の声と、泣きわめく幼い子供の声が響いていた。
おじいちゃんの自転車はとても遅い。
お願いやから、このまま、遅いままで、いければいいのだけど。
どうか、私が忘れませんように。
私は忘れすぎる。
最後に残される私はみんなの希望だ。幸せになる。そんな気がした。
なあ、藤田渡。あいつ今頃、若い子達とよろしくやってるのかな。
楽しくやれよぉ!
今日ね、入浴剤貰ったんだよ。お風呂に入れようね。
でも、間違った。袋を開け、白い粉を一気に湯船に入れる。入浴剤はどこかの温泉の成分のやつではなくて、ミルク風呂で御丁寧にバニラの香りまで付いていた。
おじいちゃんは文句も言わずに、その甘ったるい風呂に入った。
絵里は風呂の外でおじいちゃんの黒縁の眼鏡をティッシュで綺麗に拭きながら、ごめんねと言った。
牛乳の味はせんね、と言ってみたが、聞こえていないのか、絵里にはウケなかった。
川俣のこと
あたしね、今、ドーパミンを遮断されてるの、だから、あんまり感じないの。
それでもいい?
川俣は正直だ。嘘つきだけど。
嘘をつきながら、巧みに、誰よりも正直な気持ちで部屋をいっぱいにしてしまう。
部屋に上げた時点で、いや、電話が鳴った時点で、いや、出会った時点で、いや、いっそ二十一世紀になった時点で、俺は川俣に騎乗位でイかされているようなものだったのかもしれない。
川俣はその名の通り、黒い髪の毛が長くて、腰が細くて、尻が丸くて、愛想のない、どこに出しても恥ずかしいくらい恥ずかしくない「いいオンナ」だ。北国の生まれだけあって、色だって白いし、嘘がつけるくらい頭も悪くないし、正直で勝負するくらいひどく頭がいい。
電話してきて、キスくらいならすぐにできるでしょうと言ってきた川俣は、泣いているのかと思ったけれど会ってみたら何でもなかった。酔ってもいなかった。
都会、夕暮れの物陰で人影は重なり合い、長く舌を絡ませていると何も考えなくなった。
眠りそうになった。
俺達は休日の普通電車の優先座席に座って、窓を薄く開けた。
ローは将来は何になりたい?
俺?
いい年なんだからさ、言っちゃいなさいよ。
いいよ。
何も考えてないんでしょう。
川俣は?
老夫婦が乗ってきたので席を譲った。
夫婦は下りる駅まで何も話さなかった。
久し振りに来たけど、やっぱりここは遠いわ。
ローは風俗とか行かないの?
行かない。
どうして。
金がないから。
嘘だ。私が男だったら絶対行ってる。
女だってさ、そういう店あるだろ?
あれは、あんまりよく無かった。
そうか。
ファミリーマートの前を通った時に、ゴムないよ、と言うと、今日は大丈夫、と川俣は言った。
なんでゴムないの?
なんでって?
いつもストックしてないの?
使わないから。
ちゃんと付けた方がいいよ。
違うよ。しないんだよ。
した方がいい。
とりあえず食事をするところが、川俣のよくわからないところだ。
長い髪を縛って、フライパン振って、塩焼そば作って、第三のビール飲んで、テレビを消してから、食器を流しに入れて、ジーンズから脱ぐ。
何が恥ずかしいって、下着に染みがあるのが一番恥ずかしいんだわ。
川俣、白い下着なんだな。黒だと思ってた。
私ね、自分からやりに行くの、生まれて初めてよ。されるばっかりだったから。
好きなのよ。思春期みたいにさ。
俺はさ。
正直に言うけど。
川俣のことは怖いんだけどな。
そんなことは知ってるわよ。
絶対に最後に苦しむのは俺だろ?
染み、付いてるでしょ?
付いてるよ。
でもあんなに長く抱き合ってたら、黒い下着でも一緒だったわ。
川俣の陰毛は濃く固かった。俺はそれを触りながら、以前にも川俣とこうして遊んだような気がした。それは決して悪い意味ではなかったけれど、そういうのは、普通に考えると他の女の子の記憶に重ねているようできっと普通の女の子だったら傷つくだろうと思って口にしなかったら、川俣が俺のチンコを触りながら、大きくないのね、と言ったので、誰と比べて言ってる? と言うと、夢で見たやつ、と笑った。
ほんとに綺麗な体だね。
話しながらしよう。恥ずかしいから。
何も話すことないよ。好きだとか、愛してるだとか?
それでもいいよ。
無理だよ。
そうだ、出会った頃の話をせん? あの頃の私をさ、成仏させてあげたいわ。
俺さ、そんな壮大な話、もたないぜ。
そうなの?
そうだよ。
練習、練習。今日から練習しよう。
俺もドーパミンを遮断してもらおっかな。
いる?
やめとく。
やめときな。
とりあえず入れようよ。
早いくせに、せっかち。
ぬるりと吸い込まれるように入ると、川俣は楽しそうに笑った。川俣は自分の足を抱きかかえるようにして、丸くなる。白い太股に青い血管が浮き出ている。
インターネットで地図を見ていて急に白と青で埋め尽くされた不気味で美しい模様が画面いっぱいに迫ってきたことがある。カムチャツカだった。あれは一体何だったんだろうか。夢だろうか。白と青の大陸に俺は興奮し、時間を忘れてカムチャツカを彷徨った。
いいねえ、セックスって。やっぱりいい。私、最高に好きだわ。
感じないんじゃなかった?
気持ちいいよ。たぶんいかないとは思うけど。
川俣は思っていたよりもずっとすごかった。結局、川俣が俺の上に乗る形になり、俺はいきそうになりながら、止められたりしながら、大きな声まで出す羽目になった。川俣はその都度、本当に嬉しそうにして汗を拭った。
私、何歳になってもやりたい。
私がそう言うと、ローは、俺も、毎日、朝晩、やりたい、と苦しそうに言った。
ローは私の乳首を触りながら、目を細め、ちゃんと顔見せてくれよ、と言った。
なあ、川俣。
ん?
俺さ、もういきたい。
参った?
参った。
練習する気になった?
なった。
謙虚でよろしい。
じゃあ、全部出しましょう。
川俣のこと2
ある日のセックスの後で川俣は気絶でもしたかのように動かなくなった。
俺は何が起きたのか分からないから、軽く頬を叩いたり、強く手を握ったりした。目の前で手を振っても眼球が動かない。救急に電話するしかないのか、と、電話に手を伸ばそうとした瞬間、川俣は大きく息を吐いた。
無動って言うらしいの。いつだったか誰かが教えてくれた。
なんで? これまでこんなのなかったじゃん。
今日がすごく気持ちよかったからじゃない?
と、川俣は冗談ぽく言った。
下らない嘘だから、俺は何も言わなかった。
無動なんかじゃないよ、川俣。それは無動なんかじゃない。全然違う。
薬を飲んでないんだろ? 川俣。
私は、もう薬を飲みたくありません。
でもそんなことを言いたくありません。
そんなことを言っても、飲まなければいけないことは分かっているからです。
「幻覚」や「妄想」や「言語」が私を乗っとってしまうからです。
でも、私は分かっている。
押さえ込まれた幻覚や妄想や言葉は、健康なインフルエンザみたいに、温かくして横になって寝ていればどこかへ消えるわけではないし、痛いの痛いのが飛んでいくわけでもない。レッテルを貼られたそれらは、もう逃げ隠れせず一層活発で過激な方法で薬の力を除外しようとしている。
そんなことを私は恐れている?
果たしてそうでしょうか。
飲まなければいけない。飲まなければ、私の幻覚や妄想や言語が、私の視界や記憶や思考と入れ替わるから?
違うよ。
建前はやめようよ。
ねえ、先生。
もう、やめませんか。
そんなことは不可能ですよね。やめることは不可能ですよね。
実は、建前が大切なのですか? 事実と思われていることが、実は巧妙に仕組まれた建前であって、建前だと思われているものが大切なことで、建前として隠されているのですか?
実は、副作用が作用なのですか? そんなことはあらへんよね?
ねえ、ロー。
私、見せたいんだけど。狂ってる私のことを。
一人の中学生が大量の睡眠薬を飲んで死にました。自殺でした。
それは私の兄でした。
いじめられていた。ずっと。
私達はそれを知っていた。
取り乱した母は泣きわめき、こうなることは分かっていたと言った。
父は穏やかに、よくがんばったね、と兄に言いました。
私達はもう、そのことについて、何も話しません。
地域のいじめ被害者の会からは今でも定期的に何かが郵送されてきます。見つけた家族の誰かが黙って処分しています。
いつか私にも子供が生まれたりするでしょうか。
それは男の子かもしれないし、女の子かもしれません。
彼や彼女は、いじめられて、そして何も言わずに、自ら命を絶つかもしれません。
それを確実に避けることなんてできません。
避けることのできる確率を上げたりすることだってできません。
それは、一人の人間として見た場合、そうなるかならないかの五十パーセント固定の物事であり、そして、いつも必ず、一人の人間の出来事だからです。私達にできるのは、避けようとすることではなく、そうなった時に向き合うことしかありません。やりかたも分からないことと、向き合って、ついこの間まで子供だったやつが、やっていくのです。
ねえ、死んだりしなくていい。文字通り、私達が何でもしてあげる。
君は本当によくやっている。
死にたくないと死にたいの区別がつかなくなって、それは、したいとしたくないの境界がなくなる瞬間で、言葉が意味を失う瞬間かというと、言葉が凶暴化する瞬間だったりする。逆転した言葉に安い防衛線は簡単に破られる。死にたくない、は、死にたいということ。死にたいは、死にたくないということ。そして、死にたくないは、死にたくないということ。そして、死にたいは、死にたいということ。
私は、子供を産んで育てたいと思うようになりました。
私は、そうなった時に一緒にそのことと向き合う人と生きていくのです。
ロー、あなた、いじめられてたよね?
そんなことをローに聞いたりしません。
動けなくなって、心配するローが揺すってくれている時の私は幸福感に包まれている。何かを忘れることで手に入れる幸福感ではない。すごいスピードで私の見てきた、してきた色んなものが体の中を流れていきながら感じる距離感と安心感で、私はそれを幸福感と呼ぶ。
二度も、三度もそういうことが繰り返される内に、ローだって慣れてくる。
それでも私は構わない。
私を生き返らそうと、体を突っついたり、生きているか確認してくれたりするローのことが私は好きだ。
生き返る瞬間の私は、やっぱりもう薬なんか飲まないでおこうと思う。
一般的なセックス後の過度の脱力状態かもしれません。
体質のものです。いきすぎたりすると、そうなる人ってよくいるらしいですね。
でもやっぱりこれは、無動の一種なんだと思うよ。緘黙なんだと思う。
昔からあるんだ。緘黙。病院に行ったりするようになるずっと以前から。
出ちゃうんだよ、きっと。子供に戻っちゃうんだよ。
助けてなんて言わない。黙ってるから。ずっと一緒にいよう。私達は、二人で子供を育てよう。
川俣の汗には薬の成分が溶け出している。俺の汗とはどこか味が違う。
ローはそれを舐めながら思った。
夏が来た。
夏が来たこと
それからしばらく小山内さんは店に顔を出しませんでした。
次に店に来たときには夏になっていました。
小山内さんはよく日焼けをしていて、全然似合っていません。私が悲しそうな顔をして見ていたものだから、それに気付いた小山内さんは私の方にやって来て、夏を連れて来たよ、と言ったのでした。私、夏は嫌いです。そんな顔をしていたら、夏は好きやなくても夏の海は好きやろう、と言って、声帯模写で波の音をやってくれました。夜の波、雨の波、夜明けの。全部一緒でした。下手くそ、と思って、私が手本を見せてあげると、コトちゃん、いつまでこの店で働くつもりなん? と、小山内さんは言いました。
先のことなんて考えません。
もう私は一度終わったからです。一度逃げたからです。
何からですか? 人生から? 自分から? 未来から? 他人から? 言葉から? 色んな立派な言い方があるんですね。
どれだっていいんです。
全世界の子供達が毎日頑張って逃げないのとは、全く正反対のことを私はした。
言い訳なんか、しすぎて、全部ゴミだった。
温かい慰めや、優しい沈黙や、思いやりの詰まった冗談を、もらったりもした。
私には何も出来やしない。
約束なんか、とても。
あとは、いけるところまでいくだけだと思いました。もう「蛍の光」が流れているのだと。
小山内さん、何も答えなくてごめんなさい。
だから、今日は一緒に帰ってください。
小山内さんのよく日に焼けた背中は火傷のように熱い。
くそお。
コトちゃん。
夏の間に、プール行こうな。
いいんだよ。
子供達の見てる前で、長ったらしいキスすればいいんだよ。
小山内さん。
嫌いなタイプの人間を弄ぶのは、やめてください。
コトちゃん。
君は、なにも喋らない。
それは、より夏だった。
若い警官のこと
若い警官は今月の日報の束を頭から読み返していた。
くそ汚い字。変わり映えのしない毎日。毎日、小さな何かが大袈裟に起きて、忘れられていく。
「次は水曜に来よるから」
非常勤の押本のおっさんが帰る。やっと。とっくに勤務時間は終わっているが、だらだらとパイプ椅子に座って話し込んで、日付が変わってから帰る。毎度のこと。変わり映えのしない毎日。
「ええのお。俺もサイゴンなんか行ってみたいわ」
ただでさえ変わり映えのしない派出所の中で、矢内巡査長、もう今週何度目か分からない同じ台詞を吐くのを若い警官は、グレイト、と思いながら聞いている。
「定年まで頑張ったれ。わ、なんね、雨降っとるんけ」
「ほんまね」
強くはないが、大粒の雨がぼたぼたと大きな音を立てて落ちてくる。
夜の光を歪める透明の雨。
白いヘルメットの押本のおっさんはスクーターに跨ると、カラカラとおかしなエンジンを鳴らせて帰って行った。
整備不良だな、あれは。
誰だったか。
ヤクザと警官を外見で見分けることは不可能だと言っていた。まったくその通りだと思う。
まだ若いせいだろうか、自分は全くそのような見た目ではない。このまま続けて行けば、押本のおっさんや矢内さんみたいになるのだろうか。
書きかけの辞表は、やっぱりくそ汚い字で、我ながら嫌になる。
ドリーに「代わりに書いてくれよ」と頼んだら、辞表なんかいらないわよ、ばかみたい、と言われた。
こんな子供が書いたような辞表、受理されないだろうな。
たぶんヤクザは辞表なんか書かない。
このままでは県警の信頼と威厳を著しく損なうことになると思われ一身上の都合により退職させていただきたきます。
あんた、天才やない?
ドリーは人を褒めるのが下手くそだ。フェラチオも下手くそだけれど。
結局、辞表は書きかけのまま。雨が強くなってきたし、パイプ椅子はぎしぎし鳴った。
改札口を出たところに老人が一人で立っている。
最初、若い警官の目には小学生くらいの子供のように映った。次に小柄な獣のように。次に幻のように。そして、裸のように。
「矢内さん。もう終電、いきましたよね」
巡査長は抜いても抜いても無くならない鼻毛を抜きながら、変な声で、ん、と言う。
「なんか年寄りが一人、改札んとこに立っとるんですけど」
「男? 女?」
「たぶん男です」
「あと五分してもまだいとるようならお前行って」
俺、寝るよ。そう言うと、巡査長は奥に消えた。ひどい雨音の奥の四畳半では、きっと夢も見ないだろう。宇宙の最果てみたいな部屋だ。
五分後、若い警官は黒い傘を差して派出所を出た。雨は強くなり、駅前のアスファルトは川のようになっている。改札とは反対側の商店街にも人影はない。白く街灯はところどころ消えて、とぎれとぎれに商店街の中を続いていく。夜になれば蘇る、駆けだして行った遠い子供達の記憶のように。
一度だけドリーと行った沖縄の国際通りの夜を思い出す。深夜、酔っぱらったドリーは若い警官の知らない歌を鼻歌で口ずさみながら、街灯の下をだらだら歩いていた。早くホテルに戻ろうと言っても、ドリーはだらだらだらだら。その歌を聴いたことはなかったし、鼻歌なので歌詞も分からなかったけれど、なんとなくその歌は、こんなことは長くは続かないというようなことを言っているような気のする、とても綺麗な歌だった。ドリー。歌上手かったんだな。そんなことも知らなかったよ。
ドリーの男癖が悪いのは知っていた。
でも、疑念も確信も、口に出さなければ、実はそんなになんでもない。
口に出して言ってしまうと、全然違う。
退職届を出してから、ドリーには言おうと思っている。
全部知ってるんだ。
そのことを。
老人は自転車を支えながら改札の前に立っていた。ボケているようには見えない。でも痩せ方は病人のようだ。
「おじいちゃん。こんばんは」
と、若い警官は言った。
老人は小さく会釈をした。ように見えた。力がない。
「もう終電行きましたよ。誰か待っとるの?」
しばらく間があった。警官なんか嫌いなんだろうな。
「孫が帰る筈なんだわ」
「そうなんですか?」
「すぐ帰るて電話あったんやが、それから遅すぎる」
「何時頃ですか?」
「八時」
「遅すぎますね」
嫌な雨だった。
「お孫さんはおいくつですか?」
「二十八」
大人か。
「お嬢さん?」
老人は頷いた。扱いが難しいケースだった。
「お孫さんは携帯電話とか持ってないんですか?」
そう聞くと、老人は年季の入った財布から、小さく折りたたまれた紙片を取り出して警官に渡した。
電話をかけたことはないと言う。
「派出所に行きますか」
と言うと、拒むように老人は改札の内側を見つめた。
仕方ないので警官はその場で自分の携帯電話を取り出し、紙片に書かれた番号を鳴らしてみる。
ホームの電気が端から順に消えていくところだった。
呼び出し音はいつまでも続いた。
どこでどんな携帯電話が鳴ってるのか震えてるのか、警官は頭の中にドリーの携帯電話が震えていることを想像していた。
三度かけなおしてみた後、大丈夫です、すいませんでした、そう言って、老人は自転車に跨って夜道に消えた。
駅は闇に沈んだ。
明日の朝、ニュースでは、どこか遠くの町で起きた事件が流れるのだ。必ず。
住友のこと
月が明るく、打ち上げられ、乾燥した海草のこんもりとした塊は黒い瘤のように、砂浜の所々に散在していて月面のようだ。その合間を縫うように、宛てもなく彷徨い歩く住友の後ろを歩きながら、僕は彼女の影ばかり見ていた。
それは、僕が憧れていた頃の住友の影とまるで異なっていた。あの頃、いつも岡崎と手を繋いで跳ねるように歩く影とは別人のように思われた。いつもそんな二人の後ろを歩いては、僕は岡崎の影と重なる彼女の影ばかり見ていた。
およそ五年ぶりに会った住友は髪を短く切っていて、車を運転していた。化粧が薄く快活に笑うところは何も変わっていなかったけれど、どことなく投げやりな気もした。僕達は揃って同じテレビ番組を見たり、同じ思い出を抱いたりして、同じ通信方式を用いて同じ言葉でやりとりをし、そして同じ程度投げやりになるのだけれど、それよりもう少し投げやりな気がした。
彼女の影があの頃とまるで違っていたのは、今にも飛んでいきそうに重力が弱くなっていて、空気が薄くて砂浜との摩擦も小さく、歩きにくそうで。
夜の穏やかな波は月明かりを反射して滲んだ白い帯となって打ち寄せている。
住友のヒールさ、見覚えあるよ。昔から履いてるやつだろ? 暗くても分かるよ。
離れたところに、一本のビーチパラソルが立っている。夜だというのに。誰かの忘れものだろうか。
やがて僕達はその下に座った。砂は冷たくも温かくもなかった。
岡崎と住友は高校を卒業してからもしばらく付き合っていた。僕も呼び出されて、一緒に遊んだりした。何をしたかな。ドライブに行ったり、山に登ったり、飲んだり、歌ったり、そんなのか。楽しかったかなあ。岡崎や住友は楽しかったのかなあ。
岡崎は浮気っぽい。そんなの誰もが知っていた。
あいつは狂ってる。みんなそう言った。
住友のことは岡崎にとって保険みたいなもので、優しい嫁さんみたいなもので、ただの帰る場所で、岡崎は余所で、そういうのが好きな女を見つけ出しては甘い言葉を囁いて、楽しんでいる。
当時から住友が何も知らないはずがなかった。
僕は、岡崎から他の女の子達の話を、自慢っぽくだったり、被害者気取りだったり、または住友への懺悔だったり、数多く聞かされてきては、何の感想を言ったこともなかった。何が本当で何が嘘かなんて分かるはずもないので、どうでもいいことだった。
その頃の岡崎は言っていた。
住友だってやってること。
僕は何も知らない。少なくとも、僕は住友と何もなかった。
そんなことは岡崎だって分かっていたはずだった。
時折、強い風が吹いてビーチパラソルがばたばたと鳴った。なぜそんな風が急に吹いたりするのか分からない。それが意志を持った何かの仕業であるかのように思えるのは、誰のせいでもない。
住友は僕の肩に頭を乗せ、こんなことばっかりしてきたけど、中江にだけはこういうことをしないと思ってた、と、聞いたこともない声で言った。
住友の唇は冷たくて、僕はすぐに、してはいけないことをしたような気がした。
僕達はバイパス沿いのライダーを相手にやっているような店で遅い夕食を食べた。
見るからに結婚式帰りの僕達には場違いな店だった。
こんなのが効いてるのか、さっぱり分からない。
食後、笑ってそう言う住友は白い錠剤を飲んだ。
本当は、さっきの薬を飲んだ時は運転したらいかんのだって。
助手席の僕は住友の鼠色の胸の膨らみを見ていた。
僕と住友は正反対だ。
僕はそう言った。
僕は住友とだけ、こういうことがしたいと思ってた、と言った。
赤信号が長い。住友の目も赤いし、髪も赤いし、手も赤い。
私は、中江みたいな男って、いやだ。
中江みたいな。
彼女はそう言って、運転席の窓を開けた。
周右衛門くんのこと
私には一人だけどうしようもなく好きになった人がいて、その人は、まあ誰が見ても物静かで綺麗な顔立ちをしていて縁なしの眼鏡が誰よりも似合って細くて多い真っ黒な髪は襟足だけがいつもちょっと跳ねていて髭も生えないし眼鏡に指紋も付かない大きな声も出さない清潔で地味で大体いつも同じような服を着て電車の中ではいつも座らずにイヤホンを耳に突っ込んで何か聴いている人だった。
ただ名前だけがちょっと変わっていて、河本周右衛門くんといった。
学年でも目立つ方だと私は思っていたのだけれど、卒業してから一度ユキとうっちゃんとタバ子に、それとなく「河本くんって格好良かったよね」みたいなことを言ってみたのだけれど、三人の反応は揃って「誰それ」だった。
私の中では、学内でも周右衛門くんは「噂の彼」ってやつで何人もの何十人もの女の子達が彼に憧れたり告白したり友達になったりいい感じになったりして、高嶺の花、って男の子の場合は言わないのか何て言うんだろう、身分違いかな、みたいな感じで、私なんかは絶対に近付いちゃいけない、そんなことしたらみんなの笑いものになってしまう、そんなふうに思っていたので、彼女達の反応はとても意外だった。
男子好きで噂好きの三人が分からないなんて、そんな筈がない。
私は揃って三人にからかわれているのだと思った。私なんかが周右衛門くんのことを持ち出したりするものだから、ここぞとばかりに私を笑おうとしているのかもしれない。だから私は狼狽して顔が赤くなっているのを三人に悟られていないか注意深く見ながら、名前間違ってたかな、高校の時の同級生だったかな、と誤魔化そうとした。
でも手練れの女三人は、「あの神野が男のことを発言した!」と色めき立ち、河本って誰よ、吐かんか、絶対に逃がさんよ、と息巻いた。
私、この三人のこと、好きだ。面白いの。
私の知らない話ばっかりする。私の知らない感情で話す。すごく泣いたり、すごく怒ったり、すごく笑ったりする。強引で、私はいつも予定を無理矢理合わせられたりしてきた。でも、それで良かったんだと思う。だって彼女達と合コンに行くためだけに、嘘をついて仕事をさぼらされたり、親に嘘をつかされたりしてきたけれど、そのことは結果的に別に何の問題にもならなかった。
出会いんためなら、ちょいくらいの嘘と無理は神様も見逃してくれよる、とタバ子は胸を張る。
タバ子は旦那さんの前でもその調子だから私なんかはドキドキするけれど、旦那さんの杉本さんは別段気にする様子もなく、機嫌良く息子のケントくんと遊んでたりして、大人だなあ、と思う。
神野は何も分かっとらん。あれは大人なんかやない。と、ユキは言う。
あれが男と女なんよ。ダバダバなのよ。お互いに見栄っ張りで、甘えたで、愛しとるの。
ユキはバツイチで、子供はいない。
うっちゃんは結婚こそしていないけれど、もう長く付き合っている肥満の彼氏がいて、その彼氏というのがちょっと有名な漫画家で、忙しくてほとんど会えないらしい。ユキとタバ子に言わせると、うっちゃんの彼氏の描くマンガはちょっとエロいけど、女の子はみんなうっちゃんに似とって、変な気分になりよる、ということだった。
似とるも何も、あの時なんて、みんなおんなじやない、と、うっちゃんは言う。
私はあんまり分からない。
連れて行かれた合コンで知り合った男の子達と何度かホテルに行ったりしたことがあるけれど、たぶん、私がやってることと、ユキやタバ子やうっちゃんがしているのは、根本的に違ってるんだと思う。私の感じと、三人が話している感じでは、全く違うことをしているようだった。
もしかしたら、三人が相手のことを愛していて、私は彼らのことが好きじゃないから違うのかな、と本で読んだようなことを考えたりするけれど、全く逆のことを書いてある本もあるし、やっぱり私にはよく分からない。
結局、その日は三人の追求から私はシラを切り通して逃げ切った。
もちろん甘い三人ではない。
後日、土曜日の朝から呼び出されていつもの待ち合わせ場所、テレビ塔の下に行くと、正真正銘の周右衛門くんが立っていて、私は立ちつくしてしまった。
立ちつくしている女に気付いた彼は、首を傾げた。
それがどういう意味なのか、午前中の空の下で私にはよく分からない。
私は、だめだと思った。
神野、それじゃだめだ、と私は思った。
みんな、神野はもうだめだ、と彼女は思った。
私には特にここぞって時に着るような服があるわけでもないし、メイクだってほとんどできない。だからもし今日ここで周右衛門くんに会うことが分かっていたとしても、何の準備ができたわけでもなかったと思う。明日だとしても、来週だとしても、服を買いに行ったり、美容院に行ったり、きっとしないと思う。しないというか、出来ないと思う。
三十歳にもなって恥ずかしいけれど、やっぱり立ちつくしているだけだと思う。
でも、絶対に今日じゃない方が良かった。
私、今日は生理のど真ん中なんです。
思ってから真っ赤になる。
三人の楽しそうな大爆笑が聞こえるような気がした。
私は周右衛門くんに近付いて、ごめんなさい、と言った。言ってからしまったと思う。失礼だよね。そんなのおかしいよね。
彼は、私の顔を覗き込む。
ほら。やっぱり。全然変わらんね。神野さんのこと知っとるよ。
と、彼は言った。
その時、上空を横切ったジャンボジェットの影の中にすっぽりと入った二人は、同時に空を見上げ、そして神野さんは周右衛門くんの腰に抱きついた。
頼み込んできたあの三人が彼女のその行動を褒めるのか笑うのか叱るのか、僕には全然分からない。
いずれにせよあの三人は、彼女のことをもっと好きになるだろう。
僕はそう思うよ。
おめでとう。神野さん。
休日のこと
非番だった。
明け方に雨は止み、快晴。
昼飯は先月台湾旅行に行ったドリーが買ってきた何味か分からないパッケージのラーメンを食べた。食べてみても何味か分からなかった。
ドリーは今頃友達とアメリカ旅行中だ。
お土産、何がいい?
インディアンが被ってる鳥の羽がいっぱい付いとるの。
あんたはお土産無し。
どうせドリーは正体不明の食べ物を買ってくる。
ドリーは自称グルメだというが、そうじゃないと俺は思う。ただの欲望の豚だと思う。
ひどい。人権侵害。公務員にあるまじき発言。別れたら全部表沙汰にするから、お金で解決してよ。俺はもう自分から辞めるんだよ。辞めるならさっさと辞めなさいよ。
ドリーのアメリカ旅行は一週間。
その間に辞表を出そうと思っている。
そしてたぶんアメリカからドリーが帰ってきたら、俺達は別れるんだろうな。俺はもうドリーの健全か不健全か分からないような男遊びに振り回されるのには疲れた。
アメリカに行く前に別れたりしたら、きっとこいつは旅行中にめちゃくちゃしやがるんだろうな、と思っていた。
思っていたら、旅行に行く三日前に、ドリーから別れを告げられた。
格好つけの俺は言いたいことの半分も言えないまま別れた。
罪悪感をチャラにするために別れるというのなら、それは正解かもしれないよ、ドリー。
嫌味の一つも情けない。
別れても愛してるとか言ってやれば良かったのかな。あいつの得意な北京語で。
ドリーには通用しないな、そんな安い呪い。
そういうわけで非番の夏、俺にはすることもない。辞表を書く気も失せていた。
退屈だ。
退屈なんていつ以来だろう。
なんだろうな。ドリーが家を空けることなんて全然珍しくなかったのに。そんな時も、なぜか退屈ではなかった。嫉妬深い俺はずっと何かに嫉妬し続けていたんだろう。
そういう意味では信がたいけれど、今の俺はもう別れを受け入れて、ほっとしている。
ドリー、アメリカでめちゃくちゃしてやがるのかな。
もういいよ。俺にはもう全然分かんねえから、もういいよ。
退屈から、懐かしい何かを嗅ぎ取ろうとしている。
煙草の本数は不思議と減った。
ドリーと付き合うようになる前の俺って、どんなやつだったっけ。
携帯電話のアドレス帳を頭から見ていく。懐かしい名前はたくさんある。思い出せることもある。けれど連絡して会おうと思えるのは、男も女も、誰もいなかった。誰も、だ。
静かに澱んでいく。音楽を聴く気が全くしなくて、オーディオを見つめた。
ドリーがどこからか持ってきた温湿度計、プラスチックの部分は割れて欠けているし、ガラスも黴でも生えているのかくすんでいる。それが壊れずに正しい値を示しているのか見分ける術はない。時計の秒針が正しい一秒を刻んでいるのか分からないように。
私ね、思うの。年々時間が経つのが速くなるとか言うでしょ? 年末になるとお母さんとか言うじゃない。今年も短くなったとか。あれって諸説あるのね。生きてきた分母が大きくなるにつれ、相対的に一年の占める割合が短くなっていってるんだとか、あと、小さな質量の生物なんかにとっては降ってる雨を飛びながらかわせるくらい時間の流れは遅くて、だから小さな子供の頃の時間はゆっくり感じていたんだとか。でもね。違うのよ。たぶん。本当に時間の流れる速度が速くなってるのよ。要するにこの星が自転する速度も公転する速度も実際に速くなってるのよ。時を星の回転基準で決めて、色んなものを周期と呼んで計ろうなんてさ、星占いも信じない時代には合わないのよ。
ドリーは大学も出てるし、本も読むし、英語も北京語も話せるし、頭が良かった。
俺とは違う。
ドリーが言っていた正しい時間の計り方も忘れてしまった。
頭が良くなんかないわ。友達が少なかっただけよ。
貧しさを理由にしないこと。
弱さを理由にしないこと。
謙虚なこと。
そして、明るいこと。
俺、明るいだけならいけそうだ。
あんたはいいな。
私、それが一番難しいと思う。
俺は泣いている。誰も見ていないし、別にいい。俺の部屋だ。
その時、携帯が鳴った。見知らぬ番号だった。
ドリーのはずがなかった。よく知らないけれど国際電話なら非通知のはずだ。でももしかしたら今時は旅行会社が海外でも使える携帯電話を貸してくれるとか言うし。
もしもし。
聞き覚えのない女の声だった。
もしもし。
先日、何度かお電話いただいてたみたいなんですが。
彼女が誰なのかを思い出すまでに時間はかからなかった。正確な秒数は分からないけれど。
事情を話すと彼女は丁寧に詫びた。
俺は笑った。いい年した女の夜遊びをどうこう言うような美学なんて俺は持ち合わせていない。
おじいちゃん、過保護なんじゃない?
と俺が言うと、そうなんですけどね、と女は優しく笑った。
どうして今頃?
忘れてたんです。
ちゃんと家には帰りました?
帰ってなかったら捜索願出てますよ。過保護だから。
笑い方がやっぱり優しげで、俺は思いきって言ってみた。
ちょっと誰かに聞いて欲しい話があるんだけど、折り返してもいいですか?
と俺が言うと、女は笑って、いいですよ、変なの、と言った。
中江のこと
思っていたよりも海に出ているサーファーの数が多くて、私は中江を捜すのを諦めました。
朝、携帯を鳴らしても全然出ないので、初めて実家に電話をしたら、人の良さそうなお母さんが、ここに来ていると教えてくれたのでした。中江はこういうお母さんに育てられたんだなあと思いました。
車で三十分、行ったことのない場所。
オーバードーズ気味のくせに、いつも以上に慎重に運転している自分がおかしかった。
あんな薬、本当はただのビタミン剤なんじゃないの。
水色のパオは田園を抜け、
ガソリンを入れ、
古びた公団の並ぶ丘の麓を抜け、
焼却炉の脇を抜け、
真夏の白い空の下を海に近付いていた。
私は思う。馬鹿のせいか、何年も何年も、おんなじことばかり思う。
私のように何の取り柄もない人間は、あくせく働いたり、だらだら働いたり、調子のいいことを言ったり、情けないことを言ったり、好きになったり、飽きたり、責任を感じたり、無責任に安心したり、嫌われたり、笑われたり、笑ったり、別れたり、忘れたり、幸福感を感じたり、ぬくもりを感じたり、睡眠不足で、運動不足で、飲み過ぎで、気付いたら一人で、ダイレクトメールが届いてて、一度読んだマンガをもう一度読んで、おおむね退屈な人生を繰り返していくことになると思ってたし、実際にそんな感じでやってきた。古くて安くて可愛い愛車に乗って色んなところに行って、誰にも見せないくせに、自分でも見ないくせに写真を何枚か撮って、空腹を感じないから何も食べない、そんな休日を過ごしていく。
誰かがいれば楽しく過ごす。楽しいから楽しく過ごせるわけではないと思う。楽しくしなければいけないから楽しく過ごしている。それは簡単なことだけれど、恐ろしいことだと私は思う。
ガソリンスタンドでカーステレオのボリュームを消したことにも気付かないまま、住友は前を向いて運転していた。誰もいない公園では蝉の声がわんわんとしている。
私は、本当に中江と結婚したりすることができるのでしょうか。
中江は、本当に私と結婚したりすることができるのでしょうか。
あの頃、岡崎と一緒になって中江の前でベタベタしていた馬鹿な私のことを、中江は許したり忘れたりすることができるのでしょうか。
私はどうなっても構わない。もしそのことで中江から暴力を振るわれるようなことがあったとしても、私は元からそうだったし、もう一度やり直すだけのこと。
悲しいのは、中江にそんな人生は似合わないのではないのか、と思うこと。
今、住友の言うとることは全部合ってる。
中江はそう言った。
住友は、病気になって本当に良かったんやと思う。治しちゃいけんよ。
中江は頭が悪いのだろうか。頭がおかしいのだろうか。
もし他の誰かが言ったのなら、なんにも私のことを知らないくせにと子供みたいに泣いてしまうようなことを、さらりと言って私に受け入れさせてしまった。
泣きながらでも思っとることが言えるようになったんやろ?
中江は頭が悪いんだと私は思います。思ってることが言える? そんなの言えないよ。
中江、会いたい。
会って、私は思ってることなんか言えんって、はっきり言ってやろうと思う。
結婚なんかできんって。
でも、私は中江のお母さんに教えられた海岸の、だだっ広い駐車場に車を入れる頃には、もしかしたら、頭が悪いのは私の方かもしれないと思っていました。
思ってることは、全部、口にして言ったことの方かもしれんって。
思ってるだけのことなんて、全部、嘘っぱちなのかもしれんって。
駐車場には、海から上がった男の子のウェットスーツを引っ張って脱がせる女の子の姿があった。
エンジンを止めた車の中から、私は彼らのように強くないんだな、と思って見知らぬ二人のことを見ていた。彼らだって嫌なものと戦っているに違いない。
彼らのように強くなりたいな。
住友、やめてくれよ。一緒にやろうよ。一人じゃ無理だよ。
そう怒ったように言って中江は、病室のベッドの上で身動きのとれない住友の手を強く握った。住友の涙は首筋を伝い、シーツの色を変えました。住友さんは泣きながら、頷きました。
いつまで経っても浜に中江の姿は見あたりませんでした。
陽が傾き、一帯の色が変わり、海鳥が騒々しくなり、海は凪ぎ、サーファーの姿は一気に減りました。それでもいつまでも海と戯れている人はいましたが、その中に中江の姿はありませんでした。
もしかしたら中江のお母さんの勘違いで、今日は海になんて来てなかったのかもしれない。
でも、もしかしたら海で溺れたのかもしれない、なんて、そんなドラマみたいなこと、あるわけないよね、と思いながら、私は海を見ていました。
中江、どこで何をしてるんだろう。
携帯の不在着信の多さに、中江はちょっと引いてしまうかもしれないな。
そろそろ引き上げよう。
若い女がいつまでもこんなところに座っていたら、悪い輩に声をかけられるかもしれない。
スタイルが良くて爽やかでエロくて知的なやつなんかに。
ごめんね。今の私は中江のもんだよ。
立ち上がってお尻の砂を払う。パーカーのポケットに手を突っ込むと、薬が一錠入っていた。私はプロだから水なしでも飲める。今日はもうこれで終わりにしようと思った。
ずっと昔から、学生の頃から、一番好きで一番静かな気持ちにしてくれる曲がある。その曲だけが何度もリピートするようにカーステレオで設定し、ボリュームを上げ、私は薄暗くなった駐車場から車を出した。
薄いカーテンだけ閉めておけば、それでいいさ、とその曲は歌っていた。
なんだろう。誰が何と言おうと、悪い一日じゃなかったよ。
(End)