これでおねつはかってしばらくおまちください

 

 

 

 倍音階全鍵録音方式に似て






 いまのはソのおと。
 これはレのおと。
 ド♯。
 またド♯。
 いまのはわかった?
 ぜんぜん。
 ファ。
 ソ。
 ソレ。
 ソレソ♯。
 しずかだ。
 シだ。
 いまのは?
 シでしょ?
 あってる。
 ほんとに?
 うそ。
 なにかんがえてんの?
 ともだちのこと。
 だろうな。
 かんがえてるだけよ。
 かんがえてるだけか。




 どちらもバスルームまで裸足で行ってコックを絞めようとしない。
 もうぬるくだるくなったであろうバスタブの湯の残骸に落下する、蛇口から落ちる水滴、の音がベッドの上の二人に届くのを二人は同じ表情をして並んで薄い布団の上で聞いている。どっちが湯を止めたのか、どっちがバスルームのドアを開けっ放しにしたのか、どっちがホテルに行こうなんて言い出したのか、どっちが先にその気がなくなってしまったのか、どっちが先に生まれて、どっちが先に死んでいくのか、それは二人にとってはいつもどうでもいいことなのだが、そういう二人のことを人々は「暗い恋人達」と呼んだり、時には「理想の恋人達」と呼んだりした。二人はそれをいつも不思議な気持ちでいつも聞いていた。自分達よりもずっと静かな恋人達や、ずっと幸福そうな夫婦はたくさんいる。不思議なもんだね、と若宮は言う。三輪は、人はよく間違うものよ、と言う。同じことを何度も言うし、何度も聞くしね。




 窓、あけていい?
 あくかな? 前はあかなかったよ。
 あいた。




 8階の部屋からは一軒家や小さなマンションが混在した無計画で先時代的な住宅地を見下ろされ、そしてすぐ向こうに淡い紺色の山影が迫っている。淋しい街の灯に足元から照らされた美しい稜線だ。
 窓から身を乗り出して東を見ると黒い一帯が見える。
 この国で最も大きな川だ。河口まではまだ200キロもあるというのに川というより海にしか見えない。
 日中はぼんやりと霞んで何も見えない対岸も、夜には光の帯になる。対岸に光っているのはこの国で最も大きな都市であり、私達の住む町だ。
 ちょうど10年前に川の地下に高速鉄道と在来線の枝線と自動車のためのトンネルが開通し、あそことここは繋がった。高速鉄道はそのままこの街の地下を通過し山の向こうへ向かう。在来線は1時間に数本往復しているが、そこを行き来するひとは少なかった。働きに行く人々が朝晩にいくらかと、あとは目的のない者が都市からぶらりとやって来たりした。
 あっちにはあらゆるものが揃っていたし、こっちにはそのごく一部を真似たものがあるだけだからだ。何も珍しいものなんかない。
 若宮と三輪が乗ってきた昼下がりの電車でも、何人かそういった無目的らしき人の姿を見かけた。大体無目的な人は本を読むでも睡眠をとるでもなく、窓のない車内の壁を見つめていた。いや、何も見ていなかった。見ないようにしているように見えた。若宮は甘えるように三輪の肩に頭を乗せ、顔を彼らの方へ向けていた。三輪は若宮の頭の重みを感じながら、イヤホンから聴こえるシンセサイザーのボリュームを少し下げた。
 三輪は、この無目的な男のどこが好きで一緒にいるのだろうと考えてみるが、無目的なところが好きなんだと思わずにいられない。若宮にしたって、三輪の無目的なところを感じて一緒にいるに違いない。
 無目的という呼称が流行語になったのはもう何年も前のこと。ちょうどこのトンネルが開通した頃だっただろうか。今でもその生き残りはたくさんいるが、わざわざそんな古臭い呼び方を引っ張り出してくる人は少ない。今の世代に無目的という言葉の示していた雰囲気を正確に伝えることはきっと難しい。あの頃を生きていた人々でも正確に思い出せる人は少ないだろう。決してネガティブな意味ではなかった筈だ。
 たまに若宮が言う。僕らはどっかで何かを。三輪は音楽のボリュームを上げた。




 やっぱり窓しめて。
 水のおと、きこえなくなちゃった。
 ここにくるの何回目かな?
 わかんない。




 この短いワンピースは私のお気に入りだ。焦げ茶色の薄いコットン。もうすぐ冬だから兄のスタジアムジャンパーを借りて羽織ってきた。兄はとっくに結婚して外国に住んでいる。だから私がジャンパーを借りたのは兄ではなく、高校生だった兄だ。
 はっきり言って高校生だった頃の兄のことなんて全く思い出せない。でもきっとそれ以上に兄の方は妹がいることだって忘れてしまっているのではないか、そう思っていた。
 だから兄からケータイに電話がかかってきた時、私は驚きと緊張でほとんど何も話せなかった。離婚して再婚したんだと兄は言った。自分の妹なんだから自分の口からちゃんと言いなさいと母にでも言われたのだろうと私は思った。再婚相手のお腹には子供もいるんだ、女の子みたいだと言った。




 おまえは心配になるくらいいい子にしていると聞いたよ、
 少しくらい自分のことだけ考えてもいいんじゃないか、
 俺が言ってもせっとくりょくないけどさ、
 おまえは昔からそうなんだから、
 好きなようにしなよ、
 そりゃあ、してるんだろうけどさ、
 今度、姪っ子連れて帰るよ、
 なにか欲しいものある?
 まあ、そっちの方がなんでもあるんだけどな、
 お酒とか飲むのか?
 私、お守り、みたいなのがいい。
 お守り?
 いいよ。俺、そういうの得意なんだ、
 おまえ、人を見る目あるよ、
 なにかあった?
 何のお守りがいい?
 なんでもいいか、
 いっぱい買ってってやるよ。




 一つだけでいいと三輪は言った。兄は一度も名前を呼ばなかったな。結婚おめでとう。そんなこと言うのおまえだけだよ。おかんには怒られたよ。待てよ、嫁さんにも言ってやってくれ、と言った兄は強引に奥さんと電話をかわったが、電話ごしに聞こえてきたのは聞いたこともない外国語だったけれど、三輪は結婚おめでとうございます、と言った。電話をかわった兄は、いい声だって言ってるよ、俺もそう思う、と言った。
 賛成。と若宮は言った。
 三輪の声は何かに似てるんだ。
 でも、ずっと思い出せない。
 パンツを一枚欲しいとか言わないから、声を録音して欲しいって言ったら、嫌かな?
 そんなの恥ずかしいに決まってるでしょう。
 パンツの方がマシよ。
 ちがうんだよ。三輪の声は、パンツだって含んでるんだよ。
 三輪の声を聞いてるとさ、下着姿だってソーキされるんだよ。
 思い出しそうになるっていうのは、未来?
 あ、ちょっと待って。
 思い出して、固くなる。
 歌う声じゃない。話す声。
 じゃあ、電話でもなんでもいいから勝手に録音すればいいじゃない。
 いいの?
 いいわよ。
 そのかわり、私だってそれくらいのお願いを聞いてもらえるわけでしょう?
 もちろん、いいよ。




 若宮と三輪は暗い恋人だと言われる。
 そりゃあ恋人の声をデジタル化して通勤中に聞いている若宮のことを大多数の人は「変わった人ですね」とか「おもしろい人ですね」とか言ったり、「失礼ですが恋人はお亡くなりになられたのですか?」と聞いたりする。三輪は、若宮は私が死んだ時に備えたりしているのかもしれない、と思う時もある。だから三輪は自分が死ぬ時のことを悲劇的にイメージすることもないし、非現実的なわけでもない。若宮が録音された声を聴いて、悲しくだらしなく勃起するのだろうか、しないのだろうか。
 そういうことを考えていると、確かに暗いと言われることも的外れではないような気がするし、みんな同じよようなものだろうという気もしてくる。
 おまえらは、見せようとも、隠そうとも、どういう風に見せようとも、どういう風に隠そうともしていないから、暗い恋人だって言われんだよ。ヘイユー、と友人の大深は言う。大深、それ以上は、年が明けてからにしよう。






 シ♭。
 ミ。
 レレ。
 今のは何でもないおと。
 これも。
 なんでもない音なんてあるの?
 あるわよ。あたりまえでしょう。
 大学6年も行ったくせに何勉強してきたのよ。
 理屈は全部、向こう側へ行くためでしょう。
 あ、ンのおと。
 なにそれ。
 これは、ズのおと。
 で?
 なあ、やっぱりパンツも欲しいな。
 いいよ。
 なんでもいいんだな。
 あたりまえでしょ。
 あ、リ♯のおと。




 眠りの中の若宮を、会ったこともない女が雑木林の中へ誘っていく。女は背が高く、腰が細く、そのくせ足取りは力強く、若葉のブナ林だろうか、木漏れ日の中を確信的な足取りで進む。若宮はどうやら子供のようだ。子供の足には、女の歩く速度はとても速く、若宮は息を切らせながら彼女について行こうとしている。女には一切躊躇がない。時々若宮のことを振り返るけれど、それはついて来ているかを心配しているというよりは、逃げ出していないかを確認しているかのようである。やがて若宮は歩けなくなり、巨大な木の根を背にへたりこんでしまう。酸欠と夢があいまって狭すぎる視界の中央に女の去った方向を捉えてみても、何万年も前から続いてきた景色が風に揺れるばかりだ。恨めしさと無力感も地面に下ろして、林の恐ろしいざわめきの中に身を置いていると、傍らにさっきの女が戻ってきていることに気付いて、飛び上がる程驚く。教えてください、と若宮は言う。素直で若い自分の声に、僕は一体何を聞こうとしているのかと緊張した。教えることは出来ない、と女は言う。自分で考えなさい。考えたことが真実ですよ。嫌だと僕は言う。それじゃあいつもと同じじゃないか。僕は考えていないことが知りたい。甘えてはいけない。どこの誰がそんな素晴らしいものをおまえなどに与えてくれるものか。若宮は何かを言い返そうとしたが躊躇った。いいから立ち上がりなさい。立って歩きなさい。できることは、時間と空間を動かすことしかない。女は頭にはちみつの壺の形をした帽子を被っている。女は履いていた黒いズボンを脱いで、立ち上がれない僕の横に座り込んだ。僕の手を彼女の生暖かい内腿の間に挟み、それから放し、僕の方を見ずに、悪業を行わずに他人の悪業を知ろうなんて都合が良すぎると思わないか? ばかやろう。わかるだろう? おまえが知りたがっているのはこういうことなんだよ。そんなことは十分知ってるんだろう? やめときなさい、と三輪の声がした。泣きながら訴える三輪の声に、幼い僕はどうしていいのか分からずに、謝るように三輪の名を呼んだ。


 ああ、いいよ。そのつもり。わかってる。


 光村から電話があって若宮は目を覚ました。
 三輪は目を覚まさなかった。まだ北回帰線のあたりを浮遊しているようだった。そんなところを飛んでいてチェックアウトまでに間に合うのですか?




 そこ、やっぱ電波悪いよな。
 そうかな?
 なあ、もう少し話さないか、
 もしかしたら、さ。
 そんなのなんにもないよ。
 三輪、なんかブツブツ言ったりしてない?
 してねーよ。


 地下鉄のホームにあるファーストフード店で朝食を食べながら、昨夜光村から電話があったことを三輪に伝える。
 三輪は笑った。
 そしてトンネルを抜けて向こうに戻ったら、もう一回ホテルに行こうと機嫌良さそうに言った。
 すぐに?
 すぐに。
 三輪は全然泣いてなんかいない。でも三輪は、お願い、と言った。








 ベースボールは9回までなのに、ボーリングは10回まである。
 ベースボールは3アウトでチェンジなのに、ボーリングは1ストライクでチェンジ。
 唯一延長10回だけが、それでも3ストライクでチェンジだ。
 ボーリングはとても奇妙なスポーツだ。
 立地だって奇妙だ。区のスポーツセンターにはないくせに、民生委員も近付かないような繁華街のど真ん中にあったりして、おまけに24時間営業だったりして外観だけだったらラブホテルと見分けるのが難しかったりもする。スポーツ施設らしいのは、真夜中に駐車場でパトカーが燃やされたりすることぐらいだろうか。
 区のスポーツ施設はオシッコくさくて嫌いだけれど、ボーリング場は好きだ。
 青山はボーリングをする時は「ぶるう」と登録する。MFMは「みずき」と登録する。
 みずきというのはMFMが小学生の頃、好きだった女の子の名前だ。以来、RPGもハンドルネームもクレジットカードのパスワードも全部みずきだ。みずきちゃんとはその後どうなの? さあ。あんまりみんなから好かれてなかったから、どうなんだろうね。苦労してるんじゃないかな。深夜のボーリング場で働いてたりするかもしれんよ。
 青山とMFMは1レーンずつ使用する。それぞれ黙々と投げるだけだ。
 たまに相手のスコアを見上げ、また無表情に自分のゲームに戻る。
 隣のレーンにやたらかわいい男子の一団が来たりしても、相手に教えたりしない。一人でゲームを休んで煙草を吸いながら彼らの小さな尻を眺める。
 一晩で大体8ゲーム前後投げる。
 アベレージはMFMの方がいくらか上。トップアマだった禿の父親に幼い頃から叩き込まれた美しいフォームは、学生時代には同級生の女子に気持ち悪いと声を揃えて言わせるには十分だった。青山は堅実だ。ミスが少ない。よほど難しいピンでない限りは、二投目は確実に取ることが出来る。ルックスも悪くない。クール。スコアとは逆に都市ボーリング界の日なたと日陰を歩いてきた二人だったが、当人達はあまりそのことを気にしない。トップボーラーとして分かり合う部分があるのだろう。
 しばらく黙って二人のゲームを眺めてみよう。


 2ゲームも見ると飽きた成子はスニーカーを脱いでソファの上に胡坐をかき、ケータイを取り出して手町のサイトに繋いだ。
 成子は手町のサイトは好きだ。今ではどれくらいのフォロアーがいるのだろう。実はあまりいないのかな。アカウントも必要としない上に、アクセスカウンタも設置されていないので一体毎日どれくらいの人が書き込んだり見たりしているのか全然分からない。でも一時間として何も更新されない時はない。いかがわしい情報やら、真面目な話やら、見当違いな話やら、つまんない話なんかが、それぞれ手町自身の言葉か、手町に対する言葉か見分けがついてるのかついてないのかよく分からない調子で続いていく。
 最初は一人のミュージシャンがこのサイトのフォロアーであることを告白し、その後も何人かの著名人がそれに続いた。それでもアカウントがないために、どの発言が誰の発言であるかも分からず、一時期魔女狩りのようにサイトは荒れたが、手町本人が大鉈を振るって、幾つもの発言を強制的に削除し、それにより一時的に攻撃の的にはなったが、冷めた人々は去って、以来穏やかに更新は続いている。
 手町本人のことを知っている人は、この中に何人いるんだろうと成子は思う。
 もしかしたら今も残って更新しているのは手町本人を知っている人達だけなのかもしれない。そうじゃないと、この穏やかさを納得できないような気がする。
 私の知っている手町はここでカリスマと崇められる手町と1ミリの狂いもない。どんな形容詞もそのなめらかな肌の上をすべり落ちてかのような、唯一「普通の」だけを許すかのような、羨ましくなる佇まい。似ているようで似ていない感じ。ほとんどの男共は恋人や妻に土下座して慰謝料払ってでも、手町にラブソングを贈りたくなるというか、なんとかなるような気がしてやがるのではないだろうか。ま、女達も偉そうなことは言えない。どこかで手町と自己同一化を計っていることを否定できないし、また、手町のような友達がいることは私の自慢でもある。それを素直に認めさせるところが、手町のただならぬところだ。
 私も実際に実物に会うまでは疑ってかかっていた。
 そんな風に言われるやつは結局裸の王様で付き合うことなんか出来ないだろう。いやあ、手町、大好きだ。


 深夜は客が少ないせいでジュークボックスにコインを入れる人はほとんどいない。空きレーンのモニターには洋楽のPVが延々と繰り返し流れていて、フロアのBGMは映像とは関係のないクラブミュージックが大音量でかかっている。成子は空腹を覚え、自動販売機で焼きおにぎりを買って半分だけ食べた。
 ボーリング場はアルコールの販売が禁止されている。が、ここは古いせい、では済まされないけれど、カウンターで注文すれば大きなコカコーラの紙コップにビールを入れて出してくれる。ビールも飲みたい気がしたけれど、今日は車で来ているので、まあ車を置いて青山かMFMに乗せて帰ってもらえば済む話ではあるのだが、いつ終わるとも知れぬこの男共のゲームに最後まで付き合いきれるかどうかも定かではないので、やめておいた。飲酒運転なんて、私はできない。
 成子はカウンターに向かい、500円を払ってコインを6枚買った。その足でジュークボックスの前に立つと、クラブ系のランキング上位から6つをリクエストした。一際大きな音がスピーカーを震わせ、MFMと青山は同時に成子を振り返った。成子が無表情に小さく手を振ると、二人はそれを無視、揃って10本のピンを弾き飛ばした。
 真面目、と成子は独り呟いた。
 MFMと青山は長いキスをした。
 手町の真似をしたリクエスト方法。手町とは全然違う手の振り方。そんなの、あの男二人だって知っている。
 最近はこういう音楽が流行ってるんだね。変な街。
 意味ありげな数字のカウントダウンとカウントアップに合わせて緑と青が交錯していく下で、スローモーションの生活をする男女。
 知らねーよ。
 いい音楽。
 手町、私今いつものボーリング場にいるよ。ガラガラに空いてるよ。おいでよ。
 と、成子は手町のサイトに書き込んでみる。


 MFMは5ゲームを連続で投げ終えた後、休憩をとった。
 トイレを済ませ、靴を脱ぎ、ソファに仰向けに横たわると、成子の手渡したおしぼりを顔に乗せた。
 もうやめよっかな、俺。とMFMは言う。
 まだ5ゲームじゃない。
 そうじゃなくて、ボーリング。
 なんで。
 わかんね。
 青山となんかあった?
 なんか?
 青山も遅れて5ゲーム目を終えた。青山の方がトータルで30ピン程多い。青山はジュークボックスでクリスマスソングをリクエストした。青山は持参した水筒から、よくわからないスペシャルドリンクとやらを飲んだ。MFMの枕元に座り、MFMの顔からおしぼりを取ると、その匂いを嗅いだ。
 泣いた?
 泣くか。
 何それ、負けてるからってやめるの?
 そんなんじゃねえよ。やめようと思ってるから負けるんだよ。
 自慢になるか。
 青山とMFMはゲイだ。もう随分長い。よく冗談で、30歳を過ぎたらゲイは卒業なんてことを言っていた二人もとっくに30なんて過ぎてしまった。当たり前だ。ゲイだろうが、そうじゃなかろうが、時は残酷だし、私も年をとった。私なんてこいつらよりさらに年くってる。
 若いヤツは馬鹿だ。
 でも私も馬鹿だ。青山とMFMはずっと一緒にいるのだと勝手に思い込んでいた。
 青山が結婚するん、だ、と、私は、この時初めて聴いた。
 え? 誰と? 男? 女? いつから? どうして?
 私が聞くよりも早く、MFMが仰向けのまま、目を見開いたまま、どろりとした涙を流したから、私はぎょっとして声が出なかった。でも、もう一度MFMの顔を見ると、その瞳には涙なんて全くなかった。単なる私の見間違いだった。
 たまんないなあ、と思った成子は青山のレーンとMFMのレーンに一投ずつ放った。
 私だってこいつらに付き合って、数え切れない程の夜を投げてきた女だ。腕に覚えはある。二人の使っているボールは成子には重すぎたけれどフォームを崩さないように、筋肉が千切れないように真剣に思い切り投げた。
 ボーリング場の天井には蛍光塗料で満天の星空が描かれている。
 二人の男は黙って見ていた。
 ほとんど空きレーンだから、ずらりと並んだモニターには自転車でプレゼントを配るサンタクロースの映像がどこまでも続いている。クリスマスフォーエバーったって、サンタクロースにも体力の限界があるし、ラップランドだって温暖化に晒されてるそうだし、私はケーキもあんまり好きじゃない。
 二投目が青山のレーンのピンを倒した瞬間、ゲイ二人は飛び上がるよう歓声を上げた。
 成子、すげえ!
 そう叫んだ二人はソファの上で抱き合って、何も気付いていない成子にモニターを見るよう何度も指差した。
 ②⑦⑩、③⑦⑩ピン残し。クリスマスツリーだぞ、成子!


 先に帰った方がいいのかなと思ったものの、さっき手町のサイトに書き込みをしたので、ここを離れたくないなと思った。
 成子の残したクリスマスツリーを、ゲイ二人は完璧に美しく倒した。そしていつまでも抱き合っていた。
 ソファでヨガをしながら、そんな二人の姿を羨ましいようなぞっとするような気持ちで見ていた成子は、おもむろにさっきの書き込みがどうなったかを見てみた。書き込みに対して、2件の返信らしきものがあった。一つは「ゲイどもによろしく」という、あの辺りの連中の誰かの書き込みがあった。
 もう一通は、「なる、今から行くよ。手町。」という書き込みだった。


 成子はこれまでに何度も明け方のボーリング場に酔いつぶれ眠りこけた青山とMFMを迎えに来たことがある。そんなときの二人はいつもソファに身を寄せ合って座り、こんな体勢じゃ苦しいんじゃないのかなと成子は思うのだけれど、なんとも言えない幸福そうな、子供のような表情で、同じ夢を見ている。








 松井あさひくん。あさひくん? 聞こえたら「はい」って言ってごらん。
 あさひくんは表情を変え医師の方を丸っこい目で見るけれど返事をしない。
 ずっと普通に話していたんです。そうです。4歳ですか。その当時に心当たりはない、と。でも潜在的なものですからねえ。大人でも同じでしょう? 何にだって原因はあるんですけど、ほとんどの原因は遠くにあるものですよ。そして本人にしろ、本人の無意識にしろ、言いたくないものでしょう? 絶対に言いたくないことがあるのでしょう。言いたくないことを言ってもらうのは容易なことじゃありません。それは松井さんも分かりますよね? はい。子供だって同じです。言えばいいのにとか、言った方がいいのにとか、決してそういうものではありません。これは結論として言うのでは決してありませんが、言わなくていいんだよ、というのが最良の選択、という場合もあります。お父様は? この子が1歳になる前に別れました。そうですか。そのことが関係していると松井さんは思われていますか? いいえ。わかりません。お仕事は? 自営業で町の電気工事屋をやっています。お金には困っていない。余裕という程のものではありませんが、何人かの従業員にお給料を払いながらどうにか。あさひくんのことはこれからも継続的に診ていく必要はあるでしょう、同時に松井さんのこともフォローしていく必要があると思います。はい。よろしくお願いします。あのお、今は幼稚園に行ってるんですが、このまま行かせていいものでしょうか? 本人は? 本人は何も言わないので。この通り、穏やかなもので。幼稚園の先生の話だと、やっぱり周りのお友達からは、喋らない子ということで、いじめられるというか、ばかにされたりというか・・・。今の段階では一般論しか言えませんが、もちろん一概には言えませんが、私は周囲との接触はあった方がいいとは思います。ただ、好転しないようなら状況は変えなければいけません。しかし時間のかかるものですよ。松井さんも、もう今から話せないとなったら、どうですか? 書くこともできない。どうですか? 不安を煽る気はありませんが、すぐに治ったりすると思わない方がよろしいです。松井さんは、あさひくんにとって大切な人です。あさひくんにとっては、他の人と、お母様は全然違うんです。ありがとうございます。
 松井は、あさひと診察室を出て待合に戻ってから、忘れ物をしたフリをしてあさひを待合の椅子に座らせ、診察室に戻った。
 半ズボンの医師は目薬をさしているところで、勝手に入ってきてもらっては困ります、とガーゼで目元を拭いながら言った。
 すみません。言っていないことが、ありまして。あの子、寝言は話すんです。だから、もしかしてわざと話していないだけなのかと思って。
 松井さん、わざと話していないのと、話せないのとを別の症状だと思ってらっしゃいますか? それは全く同じことですよ。少なくとも、松井さんや私共にとっては同じことです。あと、さっきは言いませんでしたがね、松井さん、あさひくんの前であんまり不安そうにしちゃいけませんよ。何も強がって、わざとらしく明るくふるまえって言うんじゃないんですけどね、そんなの子供はお見通しですから、そうじゃなくて、あなた・・・と医師が言いかけたところで松井は血相を変え、医師の胸倉を掴むと「私は何も嘘なんかついていないでしょう!嘘なんかついていないでしょう!」と、大きな声を出したものだから奥から女の看護士が出てきて、医師と看護婦を引き離した。松井は丸椅子に座らされ、下を向いている。医師は首を振って落ち着こうと努め、で、あさひくんはどんな寝言を言うんですか? と聞いたが、松井はそのまま立ち上がると診察室を出て行った。
 看護士が区に報告しますか、と言うと、医師は「お母さんの嘘つき」とか言われてるのかな、と小声で言った。何ですか? いや、何もない。区には報告しておいてくれ。
 会計の顔も見ずに支払いをした松井は、病院から出ると、あさひと手をつなぎ、いい子にしてたからジュースを買いに行こうね、と言った。
 ここはね、ママも子供の頃、おばあちゃんにジュースを買ってもらったんだよ。
 どうする?
 フルーツジュースがいい?
 ぼくは、フルーツジュースじゃなくて、それフルーツ牛乳だろ、と思ったけれど、何も言わなかった。
 ママはぼくが何も言わないのに、甘くて美味しいよ、いいねー、と言って自動販売機でパックのフルーツジュースを買ってくれた。
 松井は自分もコーヒー牛乳を買った。フルーツジュースはあさひに持たせて、そのまま駅まで歩いた。
 駅に着くまで我慢だよー。駅のベンチで電車を見ながら飲もうねー、と言った。
 小さな駅のベンチにはどこか程度の低い学校の臭い剣道部が8人も座っていて、3人がけの椅子に男が8人も座っていて、ぼくのママは唖然としてたけど、ぼくは絶対にママとベンチに座ってフルーツ牛乳を飲みたかったので、ママの手を離れてベンチの前まで走って行くと、8人の中で一番偉そうで一番頭の悪そうで一番臭そうな男に10秒以内に除菌して全員視界から消えないと、おまえたちの一番大切な人を音もなく消してやるぞと言ったら、たまんないっすよ、と言いながら連中はベンチを殺菌除菌してから線路に下りて、走って下り方面へ消えて行った。10秒を過ぎたので、連中のパソコンのエロ動画を全部音もなく削除してやった。
 線路に下りたりしたら危ないわねえ、と言いながらやって来たママは鼻をくんくんさせ、松脂と汗の匂いが混じってるわね、と言った。ぼくのママは綺麗だけれど、フランスの豚のように鼻が効くのだ。僕は連中がダースで買って分け合った使うアテのないコンドームの袋の全てに精子が300匹ずつ逃げ出せる穴を開けてやった。ぼくだってママが僕のうんこの匂いを嗅がないでいいように、トイレの後にはマッチを擦るようにしてるし、おしっこの匂いがなるべく出ないようにビタミンの採りすぎには気をつけているのに、高校生は無神経すぎる。
 ぼくたちはフルーツ牛乳とコーヒー牛乳を飲んだ。ぼくはコーヒー牛乳というものを飲んだことがなかったので、それが欲しかったけれど、そんなことを言うと子供っぽいと思われるので、じっともの欲しそうに見つめるということをしてみたら、これは大人の飲み物だからあさひにはまだ早いわよ、大人になったら一緒に飲もうね、と言われたが、大人になって母親と一緒にコーヒー牛乳を駅のベンチで飲んでたら恥ずかしい気がしたけれど、じゃあ、何だったら恥ずかしくないのか考えてみたけれど、ワンカップ大関でも恥ずかしい気もして、飲み方の問題なのかもしれないと思ったぼくは、工事現場のおじさん達のやるようにワンカップをぶつけ合おうと思って紙パックを持ち上げると、ママはかんぱーいと嬉しそうに言って、悲しそうな顔を見せた。ママはぼくが知っている女の人の中で一番綺麗だ。幼稚園の玉代先生より、おばあちゃんより、ピカイエローより、ママは綺麗だ。
 図鑑でインコの求愛行動を読んだぼくは知っている。
 ぼくは口に含んだフルーツ牛乳をできるだけ喉の奥の方まで入れた後、ホームに吐いた。
 ママは眉を寄せて目を瞑っていた。
 ぼくは歩く図鑑じゃないから、すぐにそれが何の求愛行動の真似なのかは分からない。図鑑の最後のページに監修した先生の顔写真と連絡先が書いてあったような気がしたけれど、どうしても市外局番が思い出せなかった。思い出せたら電話して聞くんだけどな。ぼく、うまく話せないからちゃんと聞けるかどうかわからないけれど、きっとあんな分厚い図鑑を書く先生だから、さっきの病院のカツラの先生なんかとは違って、きっと無言電話から音声の波長を導き出せなくても光の波長を再現して、ママの眉間の皺を再現して、心配いらないよ、これはまぎれもなくアラサー女特有の魔法を使う時のポーズだよ、アラサー男には毒だけれど、その他の世代にとっては何の害もないから大丈夫だよと教えてくれる。おっさん、アラサーってなあに? ウソつきのことだよ。ウソに年齢は関係ないでしょう? ぼくもウソをつくよ。ぼくもアラサー? そうじゃないよ。アラフォーのひとがアラサーだって嘘をつくんだよ。
難しくてわかんないや。
 それからぼくたちは一両編成の電車に乗って、都会を抜けて、家に戻った。ぼくは電車の椅子が一番好きだ。
 家に帰ると、宇宙の人が来ていた。
 宇宙の人はママのことを不思議な言葉で眠らせてしまう。ぼくもその言葉が言いたいとお願いしたのだけれど、他のことなら何でも言うことを聞いてくれる宇宙の人もそれはだめだよ、あさひくんはまだ子供だから、この言葉を言ったら自分が寝ちゃうよ、と言って、ふてくされるあさひの頭を優しく撫でた。
 コーヒー牛乳が飲めるようになったら教えてくれる?
 そうだね。
 宇宙の人は全部で3人だけど、ぼくには3人の見分けがつかない。うちに来るのはもう5回目なんだけど、いつも同じ人が来てるのか、毎回違う人が来てるのか、ローテーションしてるのかよくわからない。だいたい、ぼくにしたって、この話は前にしたような気もするけど全然自信もないし、この人は初めて聞いたような顔をしてるし、ということはこの宇宙の人は僕の知っている宇宙の人と同じかもしれないし、僕の知っている宇宙の人に似た人かもしれないし、僕の知らない宇宙の人と同じじゃない人かもしれないし、僕の知らない宇宙の人と似ていない人かもしれない。
 5回も来たら243通りかなあ?
 まだぼくみたいな子供でもだんご虫並べて検証する余地はあるけれど、あと5回も来たら、もうきっと無理になっちゃう。
 頭がおかしくなっちゃう。
 違うかな。延べで最大15人いる可能性があるんだよね? 重複を許可し、順序を考慮しないんだよね? ということは、早く学校に行って勉強がしたいよお!
 じゃあ行こうか、と宇宙の人は言う。ちょっと待ってよ。光の糸になる前におしっこをしておかなくちゃ。あれをやるといっつもおしっこが出そうになるんだ。
 出たことはないけど、おしっこが出そうになるんだ。
 僕はトイレに行って、プラスチックの椅子の上に立つと絶対に便器の外に飛び散らないようにちょろちょろとおしっこをして、派手に流して、宇宙の人のところに戻った。宇宙の人はぼくが手を洗ったかどうか気にしない。さすがは宇宙の人だ。宇宙の人の手を握ると温かくなって、ぼくたちは光の糸になる。光の糸になったぼくは、やっぱりおしっこがしたくなるけど、出ない。なんだかすごくきもちがわるいような気もするし、きもちがいいような気もする。リビングの床にはうつ伏せに倒れてるママがいる。毛布くらいかけてあげれば良かったな。ママはいっつもぼくに毛布をかけてくれるのにな。ぼくはそんなあたりまえのこともできないんだな。子供だもんな。嫌だな、子供って、嫌だな。
 倒れてるママはやっぱり綺麗だ。腰からお尻のあたりなんか最高だぜ。写真撮ってもいい? だめ。今は光が暴れてるから。カメラが壊れる。


 宇宙の人は飛びながらシンクロトロンってわかるかい? と言った。ぼくはしらないと言った。
 人間も偉大な発明をする。加速器というものをワレワレハ持っていなかった。アツリョクナベというものもワレワレハ持っていなかった。シンカーという変化球も持っていなかった。オプションというものも持っていなかった。ワレワレの文明は人類の歴史を何万周もさせて何億回も捻った程の経験をしているけれど、十全ではない。いくら謙虚でいようとしても、やはり尊大になってしまっていたようだ。
 そんなのどうだっていいよ。そっちでやってよ。シンクロトロンってなあに?
 加速器というものについて、体験してもらうのが一番いいだろう。
 ワレワレハこれから六出河に向かう。
 六出河だったら幼稚園の遠足で行ったことあるよ。すぐそこだよ。ぼくが案内するよ。方向感覚だけは人より優れているんだ。一回行ったところだったら目をつむってても行けるし、初めての場所でも記憶を辿るように行ける。ぼくのパパもそうだったらしいよ。ママが言ってた。あの人はそれだけの人だった、って。
 これから行くのは六出河の河川敷公園じゃない。六出河のちょうど真ん中だ。
 水の上ってこと?
 そうだ。
 ビーバーみたい!
 そこに生きたまま行くには加速器というものを利用しなければいけない。でも今この国にある加速器じゃ、あさひくんくらい大きな物体をあそこに届けることは出来ない。だからワレワレが勝手に応用した。一度太陽系を出る。銀河系だって出る。宇宙だって出る。宇宙を出るのはワレワレも初めてだ。
 すごいんだね。
 怖いかい?
 いいんだ。ぼく。
 怖くても、大丈夫だよ。
 淋しいのも、大丈夫だよ。
 ぼくは大丈夫だよ。
 それにぼくは、ママのためになにかしたいんだ。
 ママはぼくのために、なにかしようとしてるみたいだからね。
 ぼくにはよくわからないけど。
 あさひくんは強いんだな。
 じゃあ、ちょっと変なものが見えるかもしれないけれど、怖かったら目を瞑ればいい。
 六出河に着いたら名前を呼ぶから。名前を忘れちゃダメだぞ。
 そんなの忘れないよ。


 
 松井あさひくん。あさひくん? 聞こえたら「はい」って言ってごらん。
 あさひは声のする方を見た。声の主はプラタナスの木だった。
 あさひくん。
 はい!
 手町のおねいちゃんは、あさひのことを抱き上げ「元気な声ですねー」と言って顔をあさひのお腹に押し付けてくる。
 やめてやめてやめてとあさひは手足をばたつかせる。
 プラタナスの葉が無数にプリントされた変テコな服をきた手町のおねいちゃんは、かわいさで言ったらママといい勝負だと思う。こんな服が似合うのはおねいちゃんだけだと思う。
 おねいちゃんはいつもあさひのことを連れて歩いてくれた。あさひは歩くのが大好きなのだ。いつもあさひが歩くのを嫌がって抱っこをねだるのは、みんなの歩くのが速すぎてあさひにはついていけないからなのだ。あさひは恥ずかしくて言いたくないのだけれど歩くのが遅いのだ。
 おねいちゃんだけは、いつもあさひが歩きたいスピードで歩いてくれた。
 だからおねいちゃんと一緒に歩くのが好きで好きで、どこまでだって歩いて行けるような気がする。
 おねいちゃんは何をする人?
 うたを歌う人?
 それはろくちゃんでしょ?
 ろくちゃんは手町のおねいちゃんが一番おうたが上手なんだって言ってたよ。
 そんなことないんだよ。ろくちゃんは本当に上手なんだから。ろくちゃんの歌、聞いたことあるでしょ?
 しらない。
 うそつき。知ってるでしょ? 一緒に聴きに行ったじゃない。
 しらない。
 あらら、あさひはろくちゃんのお歌が好きじゃないの?
 ろくちゃんのうた、うるさい。
 そうだね。うるさいけど、ろくちゃん、一生懸命だから。
 おねいちゃん、おうた、歌って。
 いいよ。
 わたしの一番好きな歌でもいい?
 うん。




    あめ、ふるよ。

    もう、やんだよ。

    でんせんが、ぬれてるよ。

    わたしは、すきだよ。

    あのひのあなたが、いちばんすきだよ。

    ないたあなたが、いちばんすきだよ。

    あさひが、すきだよ。

    ないてるあなたが、いちばんすきよ。

    ごめんなさい、いえたね、すきよ。




 なんであさひって言った? なんで? なんであさひって言った?
 あさひは恥ずかしいので、なんども手町のおねいちゃんにそう言った。
 おねいちゃんは、そういううたなのよ、と言った。
 そういううたというのが、元からそういううただということなのか、そういう風に替え歌にして歌ううたということなのか、あさひには分からなかったけれど、あさひはなんだか嬉しくて、そのうた知らない、と言った。
 そうだよね。あさひは知らないよね。
 じゃあ、次はあさひがなにか歌ってよ。
 いやだ。
 おねいちゃんが歌ってよ。
 あさひが知ってるうた、歌えないもん。
 じゃあ、知らないうたでいい。
 えー、知らないうたでいいの?
 うん! 知らないうた!
 もしかしてさっきのうたのこと?
 うん!






 寝てたね。と、宇宙の人は言った。
 寝言を言ってたよ。声に出して。
 ぼく何言ってた?
 いやだ。
 ふうん。
 じゃあ行こう。
 着いたの?
 そうだよ。足元だけ気をつけて。でもすぐに終わる。
 さあ、光が戻る。
 その声と同時に、あさひの下には濛々と流れる濁流があった。足首まで水につかっている。靴も靴下ももうダメだ。ママが悲しむ。
 上流で雨が降ったらしい。まだ水は増えるだろう。早く終わらせよう。
 宇宙の人があさひの背後を指差す。
 濁流の中に家が浮いていた。
 2×4のどこにでもあるような新築の家だ。築1年も経っていないだろう。きっと築半年だ。だってここにいるのは、手町のおねいちゃんなんだから。
 そうなの? と、あさひは宇宙の人に聞く。
 宇宙の人はそれに答えずに、黙ってインタホンを押した。


 でもドアを開けて出てきたのは、手町のおねいちゃんではなく、光村のおにいちゃんだった。
 光村のおにいちゃんには何度か会ったことがあるけれど、今日はなんだかいつもと違う感じがした。怖い感じがした。
 おにいちゃんは玄関にぼくたちを入れると、全員にバスタオルをくれた。家でいつもママがくれるようなふわふわで水をよく吸うバスタオルとは全然違っていた。所々薄くなって向こうが透けて見えるような代物だった。
 すぐに済ませるよ。今日は日が悪すぎる。嫌な感じがする。
 ワレワレの観測では今日は雨など降らない筈だった。 
 あさひ、幼い君にこんなことをさせること、許して欲しい。
 大丈夫だよ。
 怖いの、大丈夫だよ。
 淋しいのも、大丈夫だよ。
 光村のおにいちゃんは泣きながらぼくのことを抱きしめて、こんなはずじゃなかったのに、と、すごく震えた声で言った。


 それからぼくはおとなにされて、川の中に沈んでいるという、手町のおねいちゃんに素っ裸で会いに行った。水は濁りきっていて視界なんて全くなかったから、すごく怖かったけれど、何が怖いのか全然分からないようでもあった。それにぼくの体はおとなだったから、ものすごい水の流れにもびくともしなかった。ぼくは濁流の中でおねいちゃんを探した。目は見えなくてもわかる筈だと光村のおにいちゃんは言った。
 おねいちゃんはすぐに見つかった。
 ぼくはやっぱりママの子だ。おねいちゃんの匂いを嗅ぎ分けることができたんだ。たとえるなら、キャバクラのドアが開いてる前を通った時に一瞬鼻先をかすめる匂いの100万倍いい香りがした。間違いようがなかった。絶対に、これはおねいちゃんの匂いだった。
 でもそこにいたおねいちゃんは、本物のおねいちゃんじゃなかった。
 おねいちゃんの形をした魚だった。ぼくは光村のおにいちゃんに教えられた通り、あの日おねいちゃんが歌ってくれたうたをおねいちゃんの形をしたグロテスクな魚に歌って聞かせた。それはとても勇気のいることだった。だって昔から寝ているナマズなんかを起こしたら大地震が起きるっていうじゃないか。でも魚は起きなかった。なんだよう、と思って、ぼくは魚を蹴っ飛ばした。魚はそのまま仰向けにゆらりとひっくり返り、口から気泡を出した。それはなにかを言ったように見えないこともなかった。いや、それはきっと気のせいだった。魚はぼくが来る前からとっくに死んでいた。
 ぼくは魚にロープを巻きつけて、きつく縛った。おねいちゃんの体と全く同じそれを触りながらぼくは、子供もいやだけど、大人もいやだなあ、と思った。体が大きくなったせいか、体の中を満たす悲しさや淋しさもそれだけ大きくなった気がした。
 水上に上げ、庭の芝生の上に引っ張り上げると、それはただの巨大な魚に過ぎなかった。
 光村のおにいちゃんは今回こそはと思ったんだけどな、と、感情のない目で言い、家の中に一人去ろうと玄関のノブに手をかけたところで思い出したように振り返ると、あさひ、ありがとう、おまえ、さいこうだよ、と言った。そして、家の中に消えた。


 あさひくん、ここでお別れだ。
 いつの間にかぼくは元の4歳児に戻っていた。ちゃんと服も着ている。靴も靴下も新品だ。
 見下ろすと、碇を上げたのか、光村のおにいちゃんの家が流れていくところだった。流れ始めたように見えた家は、すぐに重心を失い、ぐるりと回転するように沈んだ。
 光村のおにいちゃんは?
 あの人は大丈夫。人類の中では、最高によくできた人だから。
 そうなの? ママもろくちゃんもなるこさんも、ヘタレの光村って呼ぶよ。
 あさひくんはヘタレの意味を知ってるの?
 知らない。
 すぐにわかるよ。この国の言葉は難しいね。
 うん。また遊びに来てね。地球侵略なんてしないでね。
 あさひくんは、本当にワレワレのことを宇宙の人だと思っているのかい?
 だってワレワレハ宇宙人だって言ったじゃん。
 こんなのワレワレ詐欺じゃん。


 じゃあ、あさひくんのお願いを一つだけ聞いてあげよう。約束だもんな。
 ぼく、もう決めてきたんだ。
 言ってみなさい。
 ぼく、いもうとが欲しいんだ! 宇宙の人、できる?
 おやすいごようだよ。
 ぼくね、いもうとには、喋り方を教えてあげるんだ。
 本当の喋り方ってやつをね!


 あさひくんはまだ子供だから、この言葉を言ったら自分が寝ちゃうよ、と言って、ふてくされるあさひの頭を優しく撫でた。
 コーヒー牛乳が飲めるようになったら教えてくれる?
 そうだね。
 でもコーヒー牛乳が飲めるようになったら、ワレワレハもうあさひくんには会えないんだよ。
 ワレワレハあさひくんを眠らせなきゃならない。
 ごめんね、あさひくん。
 宇宙の人の腕の中で、あさひはすやすやと眠りについた。
 この子は、本当に俺のことを宇宙の人だと信じていたな。
 俺の小さい頃にそっくりだ。


 夜が明けた。軒先で鳥が鳴いている。いつもの朝だ。
 あさひは眠っている松井の鼻先に丸くてかわいいお尻を持っていき、おならをした。
 松井は、くさい、と言って薄っすら目を開けた。
 ヘタレってこういうこと?
 そんなのまだまだヘコキムシよ。と言い、ママは、大人らしい大きなおならをぼくに聞かせてくれた。
 松井は飛び起きて、あさひを見下ろした。
 あさひは笑った。
 あさひ、今、話したよね?
 おはよう、ヘタレのママ。
 ヘタレで泣き虫でパンツ丸出しのママ。ごめんね、ママ。








 楚々、耕は? 七曜と出てった。は? いつのことさ? わすれるくらい前。雪の日だったから、一年くらい前じゃない? あさひー、耕ちゃん来ないんだってー。つまんないねー。つまんないねー。ごめんねー。おばちゃんと遊ぼうねー。七曜は今日来ないってこと? 知らない。空が高い。梯子をかけてエイリアンが下りてきたとしても、全部狙い打ちで落っことせるくらい高いしクリアだ。
 このだだっぴろい草原で僕達は待ち合わせている。
 車で来るのもいれば、電車とバスを乗り継いで来るのもいるだろう。ゴンドラに乗って下りてくるやつや、ブルペンカーに乗って現れるやつだっているかもしれないし、ボーダーの服着てスプーン片手に地面から出てくる、なんてのもいるだろう。
 草原はかつて牛の放牧に使われていたらしい。今は牛の姿はない。朽ちたサイロだけが当時の名残だ。
 ママ、あれ何だっけ? あさひ、あれはな、ロケットだよ。人類は昔あれで月に3回も行ったらしいぞ。無駄話してる場合じゃない。来るぞ。
 遠くから地を揺るがし天に唾するような爆音が聞こえてくる。およそこの牧歌的な風景には似合わない。やがて地平線に青い勇姿が姿を見せる。成子のインプレッサWRXだ。あいつのインプレッサ、なんであんなにうるさいの? 壊れてるんでしょ? 修理すりゃいいじゃん。あいつ金あんだろ? なんで? 女子アマオープンで優勝したんだよね? すごい。あれ奇跡だよ。俺も会場で見てたけどさ、あいつヘッドホンして目つむって投げてたんだぜ。なんか、一皮剥けたって感じだった。でも賞金って、たった50万だぜ。そうなの? あたりまえじゃん。あいつ全額ジュークボックスのコインに換えてたけどな。ジュークボックス買えばいいのに。こっちのビールも開けていいやつ? だよ。分かっちゃいねえな、松井は、ボーリング場行ったことねえんだろ? 連れてってよ。インプレッサは農道を真っ直ぐ走ってきて、若宮達のいる場所から300メートルくらい離れたところに止まった。なんであいつはみんなと同じところに止めないんだ。わざとじゃないのよ。知ってる。
たぶん七曜は来ない。なんで? 七曜は深く傷ついてる。七曜は私に会うのが怖いから。なんだそれ。あさひ、あんまり遠く行っちゃダメよ。穴に落っこちても知らないからね。あと来てないの誰? 大深と光村。え? 大深こそ来る? あいつ退院したの? 聞いてない。無理でしょ。仕方ないよ。じゃ、あと光村だけか。今さ、玄関の外にね、七曜と耕の靴が一足ずつ放り出してあるんだ。何それ? わかんないんだけどね、なんだか悲しくて悲しくて。分からないけど謝っちゃいなさいよ。よう、成子。優勝したらしいじゃん。
 思い思いのダウンやコートを羽織った人々。かわいらしいセーターを着て頬を真っ赤にしたあさひは誰も見ていないところですっ転んでもすぐに立ち上がり、また駆け出す。冬の硬い土。焚き火用のコンロで手際よく薪の火を大きくしていく若宮。いい音させてキャッチボールしているのは秋里とMFM。秋里のボールはMFMの胸元にすっぽり収まり、MFMのボールに秋里が飛びついてキャッチする。ギターをチューニングしているろく。ミニドラムを鳴らしながら楚々の話を聞いている松井と三輪と青山。結婚を告白した青山に、3人は一斉にMFMを見るが、それに気付いたMFMはおどけて3人に牽制のふりをする。クーラーボックスの底からノンアルコールビールを見つけ出し、ぐびんぐびん飲んでいる成子、の背後にいつの間にか立っていて、成子の尻を触って驚かせた光村。
 僕達と地球の第一衛星は一年前と全く同じ時間に同じ場所にいる。
 いないのは、七曜と耕、大深、手町だ。
 けれどそれは、いてるのと同じことなんだ。
 と、青山が言った。
 すると、立ったまま寝ていると思われた光村が口を開いた。
 あさひは、朝も早かったのだろう、三輪の膝に身を預けて眠っている。
 俺はこの一年、色んな本を調べてみた。
 死んだ人間は生き返らない。
 つくづく思うんだけど、たくさん読めば読むほど、すべての本を書いた人間は一人なんじゃないか、って気分になってくる。同時に、すべての本に書かれているのは一人の人間のことなんじゃないか、って気分にもなってくる。要するに、あれ? 俺が書いたんだっけ? という気持ちになってきた。
 素敵な日々だよ。
 俺は何も話せない。
 俺はいつも話している。
 俺達の言葉で話している。
 僕達には、光村の言っていることが分かりました。
 手町のホームページで僕達が手町になって、自分になって、また三輪になって、松井になって、青山になって、若宮になって、MFMになって、成子になって、七曜になって、光村になって、大深になって、ろくになって、秋里になって、そうして話した内容は時に軽薄で、時に真剣、時に混乱し、時に暴走した。そこには偽者の誤解や思わせぶりはなかった。誤解は本物の誤解であり、思わせぶりは本物の思わせぶりであった。訂正を必要としない。僕達はシンセサイザーで合成された僕達の声で話している。声帯を共有し、胸腔を共用している。
 七曜が耕を抱いてやって来た。天性の勘でそれを察知し、事前に目を覚ましていたあさひは、耕と固く抱き合い手を繋いで野原へ駆け出して行った。
 僕達は、してはいけないことを、している?


 彼らはこの一年間、私がこの世に存在しないことに一切触れずに生きてきました。
 この調子で。
 私はそのことを知っています。
 手町塔子という女が生きていることにして、何事もなかったかのように。
 いえ、何事もなかったことにするために手を尽くしてきたのです。
 でも、もういいと私は思います。
 私はもう十分に知りました。
 松井が誰にも言わずに強い薬を飲み続けていることも。
 目を閉じて自慰行為に耽る光村のくるおしい姿も。
 私の誕生日に3安打4打点を上げた秋里がロッカーで泣いていたことも。
 川底まで裸で潜ってきてくれたあさひには指くらいなら入れさせてあげてもいいかなと思ったし。
 私が死んだホテルの部屋を何度も訪れて、何もせずに朝を迎える若宮と三輪のことも知っている。
 楚々は家に男を連れ込んだけど、直前でやっぱり追い返して、その時に玄関の七曜と耕の靴を投げたことだって知っている。
 MFMが私のサイトに一番書き込みをしてくれていることも、彼には大きな借金があることも。
 ろくが街を離れようとしていることも。
 青山が妊娠した若い嫁と心から幸福そうに過ごし、同時に苦しんでいることも。
 大深の病気が、彼が告げているほど軽いものではないことも。
 七曜が車の中で耕を抱きしめて、楚々のところに帰りたいと言ったことも。
 運命と愛が可逆だということ。
 はじまりのないものには、おわりもないということを。
 彼らの、僕らの声が、本当に一つになろうとしていることを。
 ありがとうって、ほんとうは言えないということ。


 ろくのハイエースの後部座席はシートが全て外されていて、お化けみたいなスピーカーが2基載せられている。
 そこからはあらゆる種類の「揺らぎ」が次々と流れ出してくる。
 子供用のヘッドホンで耳を塞ぎ走り回るあさひの頭の上、
 しゃがみ込んでこっちを見つめている半透明の手町に気付かれないように、
 僕達が手町を盗み見ていることがバレないように、
 いつものように、
 飲んだり、
 踊ったり、
 見たり、
 黙ったり、
 歌ったり、
 思ったり、
 思い出したり、
 ストレッチをしたり、
 心を読んだり、
 首を振ったり、
 どちらかというとどちらでもなかったり、
 どちらでもあったり、
 あたらしい色を覚えたり、
 運ばれたり、
 読まれたり、
 しなかったり、
 車の陰でおしっこをしたり、
 数えたり、
 ひとつずつシフトさせていったり、
 もとにもどしたり、
 照れたり、
 やきつけたり、
 くもったり、
 晴れたり、
 吹いたり、
 凪いだり、
 見上げたり、
 手を振ったり、
 して過ごした。






 

 

 

(End)

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