はじめての友達と詩集の作り方

 

 

 






   名前 1






 青井麻子。十九才。
 大検は合格しました。今は予備校に通って、次の春に大学に入学したいと思っています。


「これは、あなたが二才のときに書いたお話」
 おかあさんがそう言って見せてくれたのが、この本です。
 はじめて見せてもらった時から、こんなにボロボロでした。


 今になって思えば、わたしは「二才のとき」という言葉を、誤って捉えてきたのかもしれません。
 わたしは「わたしが二才のとき」に、「わたしが」これを書いたんだと思ってきました。
 でも。


「げっ。かわいい」
 わたしと三希子で、予備校でお世話になった星野先生の家に遊びに行った。
「何才でしたっけ?」
「ちょうど二才」
「え、ちっちぇ」
「かわいいのは寝てるからかもよ」


 こんな小さなものに、本なんか書けるわけないじゃん。
 口からクッションに牛乳垂れ流してる生き物、わたし初めて見たよ。
 手も、足も、とてもしっかりしていて、歩けて、ちょっと走れて、でもほとんど喋れなくて、だいたい叫んでる。でもさ。なにか言ってるんだよね。テレビも見てるし、雑誌も見てるし。わたしたちの話も聞いてる。真剣な目しちゃってさ。
 おい。君は誰ですか?


 あおいあさこ、ちゃーん。
 はーい。
 わたしがわたしのなまえをおぼえたのも、もしかしたら二才のときなのかもしれない。


 「二才のとき」にこの本を書いたのは、わたしではなくて、おかあさんだったのかもしれません。
 でも、もしかしたら、わたしかもしれません。
 ばかみたいでしょうか?
 二才じゃなくて、五才の間違いかもしれない。六才かも。四十三才かも。
 それを確かめたくても、おかあさんはもういません。
 それに、おかあさん、わたしが三希子と友達になるの知ってたの?




「三希子」
「なにさ?」
「どうしてわたしの友達やってんの?」
「かわいそうな麻子」
 三希子がテーブル越しにわたしの脈を計る。
「麻子がおかしな病気になっちゃった」
 なんだろ。脈を計られてたら、おかあさんの脈なんか思い出しちゃうじゃん。
「病気は元からだよ」
「お薬のみましょうね」
 そう言って、三希子のドリンクのストローをわたしの口に突っ込んでくる。変な味。
「なにこれ?」
「キューバリバー」
 三希子の鞄から覗く白いラベルの小瓶。
「お菓子に入れるお酒」
「ひどい味だよ」
「ね」


 もしかしたら、ほんとに二才のわたしが書いたのかもしれません。
 おかあさんからのプレゼントっていうのもいいけどさ、それってなんだか、あれだよ。甘すぎるよ。
 それに、わたしが書いたって方が、なんだか分かる気がします。
 運命っていうの? 奇跡っていうの?
 だって、わたしはもうずっと昔から三希子と一緒にいるような気がする。
 だからやっぱりこの本は、わたしが二才のときにわたしが書きました。


「ママのでんわない。ママのでんわない。ママない。ママない。ママない。ママない」
「ははは。麻子さん、子供が欲しくなりました?」
「いいえ。三希子さんは、どうですか?」
「そうですね。まずは大学に入りたいです」
「わたしもです」
「そして、彼氏が欲しいです」
「そうですね」
 わたしは三希子を後ろに乗せて、渋滞中の車列の左側を追い越して行く。
 車列の中のパトカーから「そこの自転車の二人乗り、下りなさい」と婦警さん。
 わたしはブレーキをかけて、自転車をとめる。
「バカァ。逃げろよ」
「下りようよ」
「もお。麻子なんだから」
「わたし、警察官になろうかな」
「むりでーす」






   名前 2






 絵筆が五本、黄色い筆洗に刺さっている。
 筆洗は四つに区切られていて、綺麗に緑と青と白と透明の水。
 筆洗を置いた草むらでは、薄い絵の具の甘い匂いに誘われた黒い小虫が一匹、右へ行ったり左へ行ったり来たり。
 日差しがあたたかい。
 ひんやりとした風が吹いている。
 土はしっとりと柔らかい。
 草はさらさらと音を立てている。
 彼女は小さな椅子にかけたまま、居眠りをしている。彼女じゃなくたって、どんな極悪人だってこんな日には眠ってしまうに決まってる。読むだけで眠ってしまう。
 薄い黄色のポロシャツに、くろいジーンズ。白いスニーカーと麦わら帽。
 やっぱりダサい。
 イーゼルには水彩画。そこに写しとられた絵はとても淡く、実際に目の前に広がる景色に比べてずっとはかなく、幸せそうに見えます。緑と青と白だけの世界。彼女の服装のひどさからは想像がつかないくらい繊細で美しい色づかいです。残雪の見えるくっきりとした稜線はとても複雑でいびつな形ですが、それはそのまま切り取られてキャンバスに白い線で引かれている。新緑の木々は実際に風に揺れているかのように描かれています。うっすらと低くたなびく水蒸気と、天頂の青。
 輪郭のない世界。
 風が輪郭を山の向こうへ運んで行ってしまう世界。
 色だけが残っている世界。
 その絵の前で眠り込んでいる彼女も、きっとこんな夢を見ているのでしょう。
 とか言いたいところだけれど、彼女は口をぱっくり開けて、唇の端から左の顎にはよだれを垂らして、服装に似た抜けた表情で、整った顔立ちが台無し。
 絵に描いたような初夏の高原の中で、彼女の寝起きみたいな黒い髪やすっぴんの顔や、ぽっかり開いた口や、薄汚れた白いスニーカーが、場違い。
 行儀良く両腿の上で揃えられた手の甲。その先で短く清潔に切りそろえられた味気ない桃色の爪。
 風が彼女と彼女の持ち物を撫でて吹き抜けていく。
 傍らに広げられたお弁当の残りに気付いた虫が、プラスチック容器に足をかけた。
 この絵はもう出来上がってるのかな。彼女の寝顔、こんな気が抜けてるんだからきっともう完成してるんだろう。


 この子は、こんな変な顔してどんな夢を見てるんだろう。
 あっ。
 笑った。
 ふふふ。
 きもちわる。


 青色で小さくサインが入ってる。やっぱり完成してるんだ。
 aoso.pp.


 彼女の名前は青井麻子と言います。
 このダサい彼女がどういう女の子なのか、それは本人にもよくわかっていません。
 いわゆる目立たない女の子である彼女は、自分のことを「とても地味でよくわからない」と思っています。


 お弁当の残りを漁る虫さんに言わせれば、この子、このまま目が覚めずに死んでしまえばいいのに。こういう綺麗で気持ちの良い日に、微笑みながら眠るように、誰にも言わずにここで死ねたら最高じゃん。そしてぼくらはお弁当の残りを全部いただいた上に、このマヌケな顔した綺麗な子のこともゆっくりゆっくり全部食べちゃうのに。
 そんなことかもしれません。


 そうかもね。でもね、虫さん。あなたはなんにもわかっていません。
 いくら地味な彼女だと言っても、まだやり残したことがいくらかあるのです。
 そのいくらかが終わってからでもいいんじゃないですか?
 たとえば、恋のあれやこれやとか。






   自習室より愛をこめて 2






「それってさ、どこで売ってるわけ?」
「北国からの便りシリーズ。いいだろ?」
 薄い紫色の液体。少しだけ残った、見たこともないラベルのペットボトル。
「なんかさ、嫌な感じ」
「ばか。そこの自販機で普通に売ってたよ」
「そんなもん売ってないっしょ」
 街は今年もまた暑くなってきた。
 予備校の中はエアコンが効いていて、とても涼しい。
「売ってたよ。飲む?」
「いらね。のど、乾いてない」
「麻子は?」
「いらない」
「つれない人達」
「押本さ、そんなもん飲んでたら、いつまで経っても彼女なんか出来ないよ」
「浪人生は恋愛禁止」


 公園の木陰にあるベンチで、麻子と三希子が模試の結果を見せ合いながら、パンを食べている。
 ひとっこひとり子供がいない。
 暑すぎるのだ。
 押本は、二人の目の前のすべり台を立ったまま駆け下りたり、仰向けで頭から滑ったり、正座で祈るみたいな格好で滑ったり、鉄を触っては熱い熱いと奇声を上げたり、こっちの棒は冷たいぞと言ったりしている。
 二人は全然見ていない。
「あいつはいいよな。どうせAとかB判定ばっかだろ?」
「見たくねー」
「なんで押本が浪人なんかしたんだろうね?」
 傾斜に対し垂直に横たわり滑ろうとしている真剣な押本。
 体を棒のように硬直させ、背中でうまく全体重を支え、手を離した。
 バランスは崩れ、頭から落下するも、うまく体をひねって腰から落ちるが、鈍い音をさせて結局頭も打った。
 麻子と三希子が引きつる。


 診察室から自分で歩いて出てくる押本。
「ケロっとした顔しやがって」
「ケロケロ」
「浪人生はすべり台禁止だね」
「へへ、滑った上に落ちたりなんかして」
「死ねば良かったんだ」
「ごめんなさい」


 受付で会計を待ちながら、単語帳で問題を出し合っている女の子二人。
 保険証を持ってないので、押本が会計でその値段に驚く。
「お金、貸して欲しいんだけど」
「わたし達がそんなの持ってるわけないでしょ」


「また今日もそれ飲んでんの?」
「安いんだよ」
 押本の前の席に二人で並んで座った麻子と三希子。教室には、まだあまり生徒の姿はない。
「昨日あれからどだった?」
「大丈夫」
「ママには怒られた?」
「保険証持ってもう一回病院行くんだけど、一緒に行く?」
「今日?」
「四限の古文のあと」
「なんでわたし達が行く?」
「でもわたし、病院って好き」
「それちょっと飲んでいい?」


「どうぞ、あ、すぐに降りますので」
 バスの中で押本が、おばあさんに席を譲った。
「押本えらいじゃん」
「生まれて初めていいことしたね」
「きっと彼女できるよ」
「浪人中はいらね」
 どうしてバスの座席ってこんな変な色なんだろ。


 雑居ビルの間の路地を麻子達三人は歩いている。
 押本が先頭に一人立って、その後ろを女子二人がだらだらついていく。
「さっきのばばあさ、なんか感じ悪かったよね」
「わたしも思った」
「押本、なんであんなのに譲ったりすんのよ」
「女を見る目がないのよ。おぼっちゃんなのよ」
「道、こっちだよな?」
「まさか迷子?」
 道の真ん中を歩いていたら、クラクションを鳴らされた。


 病院は休診日で、救急外来から通された。
「こちらに行くと正面ロビーがありますから、そこの呼鈴を押してください」
 薄暗い誰もいない待合い。
 待合いは全面ガラス張りになっていて、ガラスには紫外線を遮断する薄い色が付いていて眩しくない。一等席にあるソファに座ると中庭には大きな木が見えた。
「麻子さん、なんかいいですね」
「そうですね、三希子さん」
 木は揺れている。
「会計終わったよ」
「もう?」
「わたし、もう外に出るのやだ」
「今日も暑すぎるね」
「もうちょっとここにいよう」
「怒られるって」
「麻子さんはどう思いますか?」
「怒られたら出たらいいんじゃない?」
「じゃ、そういうことで」


 それはまだ予備校に入って一週間くらいの頃だ。
「青井さんは、彼氏とかいるのかな」
 と、真っ赤な顔した押本が言った。
 地下鉄の車内はとてもうるさくて、だから押本は結構大きい声で言った。
 そんなことを言われたのが初めてだったわたしは、彼の真っ赤な顔から目を逸らせて壁の広告を見ながら「いません」と言った。覚えてる。英会話教室の広告。さっき自己紹介されたばかりの、同じクラスだというそのオシモトとかいう男の子の顔は、もう思い出せなかった。
 「良かった」と男の子が言ったので、わたしまで顔が赤くなるのがわかった。


 先にわたしが地下鉄から降りた。
 ドアが閉まって、わたしはまるで彼女みたいに彼に小さく手を振る。彼は子犬をプリントしたおかしな半袖のシャツを着ていた。
 地上への階段を上りながら、わたしはなんてことを言ったんだろう、と思った。
 付き合って欲しいとでも言われたのならともかく、そうでもないのに、まるで。
 叫び出したいような気持ちだった。


「でも、浪人生の間はそういうのは」
「うん。青井さんは、偉いと思う」
 と彼は言った。


 テニス部らしい女子高生の一団と地上への階段ですれ違う。
 こんなときわたしにも友達がいれば、電話したりして笑ってもらえるのかな。
 偶然っぽく同じ車両に乗ってきた彼、きっとわたしの後をどこかからつけてたんだろう。
 あとをつけられている自分の姿を想像して、なんだか。
 階段を上りきったところで麻子は下を振り返った。


 三希子が、そのことを知っているかどうか、わたしは知らない。
 もう夏。
 ほとんど毎日のようにわたしと三希子は会っているけれど、わたしはその時のことを三希子になぜか言えないでいる。
「どうしてそんなおもろい話、隠してんだよ」
「それ、一生押本に言ってやれ」
 きっと三希子はそんなふうに言うと思う。
 それに、押本が三希子に言ってるかもしれないのに。でも恥ずかしくてわたしは言えない。


「一年くらいあっという間だよ」
 三希子がいなくて押本と二人でいる時に、時折意を決したようにそのことを彼が言うのにも、麻子は少し慣れてきました。あ、なんとなく言うかな、というのも感じられるようになりました。
「待てる」
「花の浪人生活を邪魔しないで欲しい」
 かわすことも出来るようになりました。
 初めてできた男の子の友達と、そういうことになるのなんて、ちょっと違う気がする。わたし。


「自習室より快適だわ」
 単語帳を閉じて、麻子はソファに横になった。
 大きな窓が水族館みたいで、水槽の中にいるように涼しい。
「麻子、集中力なさすぎじゃね? もう終わり?」
「三希子なんかとっくに寝てますけど」
 手に危うげに化学の参考書を持ったまま眠っている彼女。
 麻子がその手から参考書を取ってあげようとしたら、彼女は目を覚ました。
「わっ。わたし寝てた」
「寝言で『すき』って言ってたよ」
「ほんとに?」
「うん。『麻子、愛してる』って言ってた」
「あ、それ、寝言じゃないから」


 きっと誰も三希子には「恋人いるんですか?」なんて聞かない。
 聞けない。
 どう見ても、絶対に恋人がいないはずがないから。
 華奢で、顔が小さくて、モデルみたいで、明るくて、手に負えない。
「聞かれるよ」
 と、トイレの隣の個室で彼女が言う。
「なんだか、調子に乗った気持ち悪い男から聞かれたりする。やだねー」
 三希子はトイレでオシッコの音を隠したりしない。豪快にしゃーっとする。
 麻子は三希子から、それを学んだ。


「その日だったら、ちょうど模試だぞ」
「仕方ないよ。休んじゃおう」
「どうしよ」
 ロビー横にある自販機でカップのコーラを買う。
「わたしは予備校の合宿って言った」
「うん。うちも親は大丈夫なんだけど」
「俺はやめとく」
「押本のことは誘ってないよ」
 三希子が見せてくれたビラを麻子は読んでいる。押本は後ろに立って覗き込んでいる。
「なんだか三希子の柄じゃないよな。こういうの」
「わたしの何を知ってるっていうのさ。いやらしい」
「三希子も誰かに誘われたの?」
「ううん。全然。麻子はこういうの嫌い?」
「嫌いじゃないけど、行ったことないから、わかんない」
 サマーキャンプ。大学生・高校生リーダー募集か。


 ロビーを追い出された三人が、がらがらのバスに乗っている。
 一番後ろから二番目の席に並んで三希子と麻子。一番後ろに押本。
「子供の頃にね、親に勝手に申し込みされてさ。行かされたことあるんだよね」
 駅に向かう道はすごい渋滞。
「誰も知ってる子なんかいないしさ、行くのがすごく嫌で嫌で。でも言えなくて」
 ちょうど窓の下にはタクシー。
 見ていたら、なぜか急にこっちを見上げた乗客のおじさんと目が合って、目を逸らせた。
「行くじゃん。でも、みんなもお互いに知らない子ばっかりなんだよね」
 三希子はサマーキャンプのビラを正方形に切り、折りたたんで、やっこさんの足を作った。
 麻子が色よい返事をしないから、無惨に折りたたまれてしまった。
「みんな仲良くなっていくじゃん。でもわたしはダメで。今からは想像もつかない。かわいいでしょ、十才のわたし」
 やっこさんの足が、前の座席の背凭れの上をてくてく歩く。上半身を探すみたいに、きょろきょろしながら。
「初恋をしたの。そこで」


「いいよ。行こう。わたしも行くよ」
「おまえらさ、ちょっとは浪人生なんだから自重しろよな」
 すごく嬉しそうに笑った三希子の笑顔、わたし、そんなの初めて見た。
「押本。チクってもいいけど、傷つくのは自分だからな」






   自習室より愛をこめて 3






 一階が昔ながらの美容院で、二階にあるのが喫茶「宝島」。
 木で統一された内装で、カウンターが五席、四人掛けのテーブルが二つ。静かだし、清潔だし、軽食もある。でも色んなものが古びていて、全然流行っていません。
 通りを見下ろすテーブル席に掛けて、自前の青いエプロンの胸元「fine」という刺繍を麻子はいじっている。どこの天才が、このデザインに決めたんだろう。
 急行停車駅とは言え、学校や大きなショッピングセンターがあるわけでもなく住宅地。
 だから流行るわけがない。
 バイトは入れ替わりで、麻子ともう一人。伊東みずほ、という年上の女の人がいる。
 入れ替わりのシフトだから麻子は、みずほちゃんのことはあまり知りません。たまに一緒に入ることもあるけれど、退屈になるとみずほちゃんは大体店の雑誌を読んでいるので、ほとんど話すこともないのです。
 麻子は雑誌もどう読んでいいのかわからないし、スポーツ新聞も見ないので、ぼけっとしていることが多い。
 バイト中にまで勉強しようとは思いません。
 麻子は勉強はきっちりしたい方なのです。


「マスター。どうして店の名前、宝島なの?」
「だめ?」
「だめじゃないよ。気になっただけ」
 一人の客と、店長が話しているのを、麻子は見ていた。
「良い名前でしょ?」
「まあ、そうだね」
 麻子にはよくわかりません。


 ランチタイムは少し忙しい。
 だから麻子は可能な限り予備校の授業を調整して、ウィークデー二回と日曜日に午前中から入るようにしている。
 近所の奥様方とか働いてる人なんかが食べに来る。
「Bランチ、あと二つだから」
「さっきの分は通ってます?」
「うん。それ込みであと二つ」
 厨房は時恵さんという女の人が一人で切り盛りしている。時恵さんは、店長の奥さんだとばかり麻子は思っていたのだけれど、常連のおじさんが、あの二人は夫婦じゃないんだよ、と囁いてくれたことがある。そのおじさんが言うことが本当かどうかは知らない。そんなの聞けない。
 忙しいときは店長も厨房に入るので、あとはアルバイトが全部する。
 水を入れたり。
 テーブルを拭いたり。
 床を拭いたり。
 新聞を片付けたり。
 釣り銭を渡したり。
 アルバイトをしているのは親に言われたから。母と店長が知り合いで、この店で働くことになった。
 高校なんかを中退した娘を、どこか外に出してやりたかったんだと思う。
 思った程、嫌じゃなかった。
 学校とは全然違っていた。
 それに、慣れた。


 麻子ちゃん、言ってた件。八月最後の日曜。みずほちゃん大丈夫だって。
 みずほちゃんは夏休みだからさ。受験生に夏休みはないもんね。
 合格したら、ぶっ倒れるくらい遊べばいいね。ほら、海外とか行きたいって行ってたじゃん。オーストラリアだっけ? 今の内にいっぱい貯めときな。
 オーストラリア? 何のことだろう?
 だからさ、今度みずほちゃんに会ったらお礼言っときなよ。


 ひどい雨が降っていた。
「遅くなりました」
「災難だったね」
 みずほはタオルを貰って、濡れたジーンズを拭く。
「もう電車がめちゃくちゃで」
「どうする? 麻子ちゃん、今は帰れないね」
 雨に煙る駅前の道。水しぶきを上げて、車がゆっくり過ぎていく。
 エプロンを外した麻子は窓際の席でアイスコーヒーにシロップを入れる。
「今日は誰も来ないよ」
 向かいに座ったみずほが言う。
「日曜日の件」
「ああ。模試がんばってね」
 みずほから話しかけられたことなんてなかった。
「あのさ、まだ店長には言ってないんだけど、わたし九月でやめよっかなって」
 稲光を走らせるでもなく、ただただ激しい雨がすっぽりと町を閉じこめてしまう。
 これらの雨は排水溝を伝い次々と合流し、どこか見えないところで一本の太い流れに吸い込まれていく。地下深くで合流させられた巨大な水は、今どこへ向かっているのだろう。
 水が逆流しないか監視している人は、何のことを考えながら暗く粗い映像を眺めているのだろう。
 自分のこと。
 誰かのこと。
 過去のこと。
 お金のこと。
 今日の夕食のこと。
 水のこと。
 育ちの良くない野菜のこと。
「ねえ、送別会してよ」
「二人でですか?」
「あたりまえでしょ」


 みずほちゃんになった夢を見た。
 急に送別会なんて言われて困ったんだと思う。
 みずほちゃんは男の人にふられて泣いていた。
 それはそれは激しく泣いて、混乱していた。
 みずほちゃんは泣きながら、泣くのは恥ずかしいことだと考えている。
 わたしが好きな本には泣いている人など誰も出てこないというのに。
 布団の中で、麻子は自分が泣いていないことを確認した。
 みずほちゃんが好きな男の人は、病気なのか、うまく話せない人だった。


 予備校のロビーのソファで、学生達が涼しい館内入ってくるのを眺めている。
 まだ三希子の姿も、押本の姿もない。
 学生達はそれぞれに重そうな鞄を提げたり、担いだりしている。
 今っぽくて、おしゃれで、強そうな人々。
 でもこの人達もみんな、前の冬に少なからず挫折した人達なんだ。
 流れ星を見た人達なんだ。
 高い天井に蛍光灯。あれを交換するところ見たいな。
 格好いいな。


 NPOの事務所はとても新しくて、想像していたのとは違っていました。
 大学生だという男の人が受付をしてくれました。
「こちら。先日送付いただいた資料。間違いないですか?」
「大丈夫ですね」
「高校生リーダー未経験ですね。事前研修があるので大丈夫」
「学生証か生徒手帳かあります?」
「二人とも持ってきてないんですか。あー」
「松本さん。学生証忘れたんだって。どうしよ」
「あ、そう。ま、いいか」
「はい。じゃあ、今回はいいです」
「これ、資料をお渡ししますので、研修までに一通り読んできてください」
「もしも不参加ってことになれば早めに連絡くださいね。それだけはくれぐれもお願いします」
「本当に晴れたらいいね」
「女の子のリーダー少ないから。すごく助かる」
 握手なんかされて。
 麻子は終始緊張していて、ほとんど三希子が話してくれた。
 こんなに無口で大丈夫なのかと、スタッフの人は不安に思ったんじゃないでしょうか。
 なるべく元気な感じに見られないと、と思って、今日は緑色のポロシャツを着て来ました。


「同じ高校の子がいたらバレるね」
「大丈夫よ。サマーキャンプにリーダーしに来るような子は、そんなこと気にしない」
「かな?」
「さっきの人も適当だったじゃない。わ、このチーズケーキすごい」
「わたしは三希子に任せる」
「麻子は何も心配なさるな」
「いつもすみません。あ、ほんと、すごい濃厚」
「じゃあさ、これから水着買いに行かない?」
「お任せします」
「エロいの選んだげる」
「お手柔らかにお願いします。ほんとに」
「大丈夫よ」


 親には予備校で合宿と模試なのだと言った。
 うちの親がそれを疑いもしないことをわたしは知っている。
 いっそサマーキャンプというものに行くと正直に言ったとしても、三希子が一緒なのだと言えば、予備校生にも息抜きが必要だねと言って許してくれるに違いない。あるいは、娘が積極的にそういう健康的なイベントに参加するようになったことを喜ぶかもしれない。
 でもさ、おとうさんも、おかあさんも。
 あなた達の知ってる娘は、そんな簡単に変わるのかな。
 変わらないか、って言われると、それもよくわからないんだけど、さ。
 わたしが教えて欲しい。
 わたしは、あの頃のわたしが本当で、今は、何なのかよくわからない。
 もしかしたら、浮かれているだけの、とても短い夏。
 二度と戻らない、一度きりの、かりそめの、幸福。
 きっと三希子や押本は笑う。
「世間知らずにも程がある」


「わたしまで麻子みたいな頭の良い高校を騙ってさ、ちょっと喋ったらバレるかも」
「どうして」
「よーし、痩せるぞ!」


「また短くなった」
 と、一階の美容院の西谷さんにバレた。
 西谷さんは「宝島」にマイ箸を置いている常連。
 今日の日替わりAランチはアジフライになります。
 もう何回も同じことをしているので、西谷さんも呆れるばかりで笑っている。
 せっかくカットしてもらっても、数日すると前髪が気になって、ばっさり自分で切ってしまう。
 わかっているから西谷さんも短めに切ってくれるんだけど、それでももっと切ってしまう。
「麻子ちゃん、これ」
 他のお客さんにはバレないように、タルタルソースをおかわり。
「そんなに切ったら子供みたいじゃない。彼氏、なんて言ってる?」
「いません」
「せっかく美人なんだからさ。そんな個性的にしなくてもいいのに」
 個性的とかそういうつもりじゃありません。
 なんだか、綺麗にされたのがおかしな気がして。
 大体、わたしは髪は伸ばしっぱなしにする。
 爪は、まめに綺麗にするようにしている。


「おまえ、姫な」
「そう。悪い姫」
「うん」
「だから、悪いから、見せしめの刑に決定」
「うん」
「悪い姫だから、人々にちゃんと謝って歩け」
 四人の男の子が、一人の女の子を車両の先頭から末尾まで連れ回している。
 わたし以外に、乗客のいない電車。
 女の子は手提げ袋の紐を引っ張られて歩かされている。
 泣いてはいないけれど、俯いて、諦めた顔をしている。
 いつもの調子といった感じで。
 連結部を過ぎて、彼らは後方へ進んでいく。
 しばらくすると、また折り返してくる。
「これからは食パンだけしか食べませんと言え」
「だめだよ、この姫は喋れないことになってるんだから」
「じゃあ、そこの人に謝れ」
「君たちさ、何やってんの?」
「遊んでるだけですけど」


「これ、みずほちゃんから」
 携帯電話の番号とメールアドレス。そして、模試がんばって。
 麻子は厨房の隅で、せっせと携帯電話に登録しました。
「カレー粉、もう切れかけてるよ」
「あ、わたし行きます」


 緊急。
 家にサマーキャンプのしおり届いちゃってるよ。
 うまくごまかせ。健闘を祈る。
 スーパーの前にあるベンチに座って、麻子は携帯電話をいじっている。
 脇にはレモン色のかき氷。
 店長から受け取りました。
 模試がんばります。
 送別会、どんな感じがいいですか?
 蚊取り線香が特売。
 もうすぐ八月も終わりです。
 そうなんだよ。毎年、九月が暑いんだ。


 アルバイト募集(一名)。
 時給750円から。
 土曜日勤務できる方。
「言っちゃなんだけど、あんまり字上手じゃないね」
「すいません」
「いいいい。あとさ、麻子ちゃん、イラストとか書ける?」
「いや、あんまり」
「なんでもいいんだけど。女の子が好きそうなの」
 サインペンで、ミニスカートの女の子がコーヒーを運んでいる絵を描いてみた。
「上手だけどさ、これ、違う店みたいだね」
「そうですね」


 画材屋は雑然としていて、通路まで商品やダンボールに占領されている。
 窓の前の棚もびっしりで、光がほとんど差し込まない。
 裸電球が通路の上にぽつんぽつんと吊されていて、とても趣味的な暗さ。
 高校生らしき男の子が二人、通路で店員と話しているのを避け、麻子は店内をぶらぶらする。
「400番のサンドペーパーないね」
「そうですか」
「320番だったら」
「いいのかな?」
「俺に聞かれても」
「そんな変わるもんじゃないよ」
「あいつ、うるさいぜ」
「うーん・・・また来ます」
「あっそう?」
 男の子達が店を出て行く。
 サンドペーパーの束を畳んで棚に戻した店員が麻子に気付いて「何かお探しですか?」と言う。
 いえ、大丈夫です。そう言って、麻子はしばらく店の中を彷徨う。
 木漏れ日とかいうのは、どうだろう。
 店員はレジの内側で目を閉じている。
 しばらくして何も買わずに店を出た。


 なにも難しく考える必要はありません。みなさんはみなさんらしく、子供達と一緒にキャンプを楽しんでくれればいいと思います。楽しく過ごすために、叱りつけないといけない場面もあるでしょう、厳しく指導しなければいけないこともあるでしょう、一瞬一瞬の判断を迷うでしょう。それでも、キャンプは進んでいきます。どうにかなるものです。どんな形でもキャンプになるものです。あとは、何かが起きたとしても仕方がない。必ずみなさんは精一杯がんばります。日は沈み、月は昇る。そして、帰りのバスは来ます。短い時間を思いっきり過ごしてください。無理に楽しまなくても楽しいものです。子供達は本当に元気です。みなさんの不安を吹き飛ばすくらい、みなさんの方法が追いつかないくらい元気です。わたしたちはわたしたちの小手先のものではなく、隠し立てしようのないわたしたちそのものでしか振る舞えません。それくらい大変なものです。注意事項はしおりと一緒にお配りしたマニュアルの中に記載はしてあります。一応目は通しておいてください。でも必要なのはそういった安心ではなく、楽しむという覚悟です。ここに応募してくれたみなさんには、最初から言う必要もない話だとは思いますが。
「あんなこと言われてもさ」
「麻子は出来るよ」
「だって、登校拒否で中退だよ」
「今でも信じられない」
 夕立を避けた商店街のアーケードの入り口で麻子と三希子は並んで立っている。
 水しぶきを上げて横切っていく車の流れを見送る二人に、雨をたっぷり含んだ都市の涼しい風が届く。
 夕立が止む時、もうそこに彼女達の姿はない。
 青信号に素直に従って雨の中に駆けだして行く彼女達を捉えているもの、そいつの名前、忘れた。






   キャンプ場に月が昇れば 1






 いつか大きな宇宙船が着陸した跡みたいな楕円形の草原が、入道雲の下で昼寝。
 草原を囲むように濃い林が。
 小さな花は群れ合って。
 飛び出していく何人かの子供達。


 所々に生えた巨木はバオバブ?
 まさかこんなところに。
 あながちそうであったとしても、わたしは全然構わない。
 それくらい、わたしにとってここは見知らぬ土地で、バオバブの幹が目指し、枝が腕を広げる空は高くて広い。


 あっちの林の中に川が流れています。水はそこで汲みます。
 小さな川でも危ないので、水を汲みに行く時は絶対に一人で行かないこと。
 麻子さん、でいいです。
 麻子ちゃん? いいよ。
 トイレは大学生リーダーの人達がこれから作ってくれます。
 あのトラックに十二班用のテントが一式あるはずなので、じゃあ、男の子は全員で運んできてください。女の子はわたしと一緒に石や木を掃除してテントを張る場所を作りましょう。
 今日から三日間、みなさんと同じグループでキャンプをする青井麻子といいます。
 ポールは引っ張るんじゃなくて、押し込むようにしないと、ほらね。
 じゃあ、このテントが男の子で、こっちが女の子ね。わたしも女の子の方。
 サンダル忘れた? 余ってないか聞いてくるね。


 林の中の小川で、ずぶ濡れになって遊ぶ子供達。
 冷たい。
 麻子は水着の上にショートパンツを履いて、膝まで水に入る。
 遠くに、男の子達を川に投げ込んでいる三希子の姿が見える。
 その楽しそうな光景に気付いた男の子達が、麻子の足にもまとわりついてくる。
 三希子はほんとすごい。
 麻子は、やる気かー、と言って、男の子を持ち上げようとしたけれど、全然ダメで尻餅をついてびしょびしょになってしまった。
 面白がって、立ち上がろうとする麻子の足をつかまえて、顔に水をかけてくる子達。
 やめなさいよと飛んできて、男の子達を蹴散らす女の子。
 わたしが入ることのなかった、あの頃の集団の中に、今わたしはいる。
 気の弱そうな女の子と一緒に川原の岩に腰掛けて、眺める。
「みんなと遊びたい?」
 女の子は首を傾げる。
 そうだね。
 そんなの。
 わかんない。
「ねえ、みっちゃんも連れて行ってあげて」
 麻子は一人の女の子を呼んで、彼女達の手を繋がせた。
 わからなくもいい。
 もう二度と遊ばなくてもいい。
 でも、まあ、遊んでおいで。


 ぬるぬるとした川底の石。
 これはね汚くないんだよ。
 そう言う。
 これはね生き物だから、人間のよごれじゃないから、汚くないんだよ。
 気持ち悪くないんだよ。
 そう言う。


 大きな救護テントの中では、熱を出した男の子と女の子が一人ずつ並んで横になっている。
 男の子の方は、麻子の班の子だから様子を見に来た。
 まだ額は熱い。
 簡易扇風機が二基。
 薬も飲んだし、寝たらきっとよくなるよ。
 と言っていると、もう一人の女の子のところのリーダーも同じように様子を見に入ってきた。
 そのリーダーの男の子に麻子は会釈する。
 わたしも会釈は上手な方だと思うけど、その男の子の方が上手。
 縁なし眼鏡の加減かな。


「ねえ、藤井先生。もうちょっと一緒にいて欲しい」
「ずっとは無理だよ」
 麻子は自分の班の男の子の額のタオルを換えてやりながら、やりとりを聞いている。
「わたし、かわいそうだと思わない?」
 と、彼女は泣きそうな目をする。
 見入ってしまう。
「じゃあさ、シャボン玉でもする? ちょっと待ってろよ」
 子供だましな。
 と思った。
 でも、シャボン玉を受け取った彼女は椅子に掛け、最初は退屈そうに、途中からは憑かれたようにシャボン玉を吹き続けた。
 流れていく、虹色の不安定な時間。幾つもの球体の表面に映る夏は、不規則に揺れながら、でも同じ方向に流れていく。
 麻子も惚けたように眺めている。
 藤井先生と呼ばれたリーダーの男の子は、大欠伸をする。
 麻子の班の男の子は、寝息をたてていた。


 夕立は期待薄。
 空は自分でも気付かない内に色を変えている。
 入道雲は去り薄い等圧線。
「一人一個ずつだからなー」
 大きな氷を口いっぱいに頬張る、大人も子供も。


 寝静まったテントサイト。
 夜のミーティングをしているリーダー達の影が夜に伸びている。
 ミーティングを終えた人々は、それぞれのテントに消えていく。
 麻子と三希子は焚き火の回りに残って、小声でくすくす笑っている。
 テントの入り口辺りに脱ぎ散らかされた小さなサンダル達。


 山から聞こえる犬みたいな鳴き声はニホンオオカミかもしれません。
 疲れすぎて寝付けない。
 足がだるく、顔も日焼けのせいで火照っている。
 誰かが歌っている。
 誰の鼻歌か。
 誰の子守歌か。
 怖い月にバレないように、寝たふりして歌ってるし聴いている。
 目を閉じて、動かずに、バレないように。
 怖いものが過ぎていくのを待つ。
 懐かしい夜。


 子供達より先に目が覚めた。
 まだ薄暗い。
 一晩中明かりを点けていたトイレの布の壁には不気味な虫がいっぱい集まっていて、用を足す気になれなかった。
 消えた焚き火を囲むひんやりとした椅子にかける。
 テントに戻って、もう一度眠るか。
 誰かがあの虫を追い払ってくれるのを待つか。
 そう言えば、今日は模試の日だな、と思った。
 違う。それは麻子と三希子のついた嘘。


 少しずつ白んできた気がする。
 懐中電灯が一つ、トイレとは逆の林の方へ近付いていく。
 子供だったらまずいと思って、麻子は立ち上がって後を追った。
 それは子供じゃなかった。
 男の子が夢遊病みたいな足取りで、ゆっくり歩いている。
「散歩」
 と、昨日救護テントで会った藤井というリーダーは言った。


 わたしは勇気を出して言った。
 藤井さんが蹴る。
 トイレの虫達は驚いたというよりも気怠そうに飛び立ち、何処かへ消えた。
 わたしがトイレから出てみると、藤井さんは林の入り口でこちらを向いて立っていた。
 もしかして、わたしのことを待ってる?
 まだテントは静まりかえっていた。 もうすぐ子供達も目を覚まし始めるだろう。
 わたしは、藤井さんと一緒に散歩に行った。
 夏でも枯葉ってこんなにあるんだよ。
「食べます? 女子から取り上げたお菓子」
「厳しいですね」
「あっ、これ美味い」
「初めて食べたんですか?」
 川まで行って「帰りますか」と言うので、はい、と言って、帰った。
 戻ったら子供達の間で「エロい二人」ということになっていた。


 大学生のリーダーの人からしっかり注意を受けた。
 とは言え、藤井さんという高校生、というか年下の彼はNPOのスタッフらしく、どうも「エロい」ことをする、というか、できるようなヤツではない、と周知の事実のようで、リーダー達にはおかしな誤解を招かなかったみたい。
 三希子を除いて。
 怒られて消沈していたわたしにも容赦ない。
「みんなが想像したようなエロいことはないかもしれない。でも何もないはずがない」
「あれは麻子の趣味とぴったり合致する」
「何もなかったとしても、麻子の心には何かが起きている」
「麻子を泣かせたら、あの藤井とかいうやつは許さない」


 快晴が続く。
 逆光の中で、わたしたちは濃いシルエットになる。
 太陽を見過ぎて網膜を焦がせたまま、木陰で虫を捕まえ、大きなペットボトルに入れていく。
 戦闘機が二機、爆音を轟かせ接近してきて、一瞬で遠ざかった。
 見上げた誰もその船影を目にしていない。
 川が堰き止められて、たくさんのやかんが冷やされている。


 前日、熱を出していた男の子はけろりとして朝食の豚汁もおかわりした。
 昨日シャボン玉を吹いていた女の子は、熱が下がらないようでまだ救護テントにいた。
 麻子は藤井と顔を合わさない方がいいと思ったので救護テントには近付かないようにしていた。
 テントで枕を並べている内に仲良くなったのか、麻子の班の男の子は、足しげく熱の下がらない女の子を訪ねてテントに向かっていた。
 あの子。
 また、一人にしないでって言ってるのかな。


 地元のボランティアの協力で棹を作る。
 手作りの棹で子供達は次々と魚を釣り上げていく。
 釣り上げた魚が触れない子供達。
 平気で掴んで笑う村の人たち。
 それだけでいい。
 それだけを胸に刻んでいればいい。
 刻まれたそれは、今日の麻子のように、蘇る。
 暴れる魚と格闘して、石の上に押さえつけた麻子に拍手が起きた。


 その夜、麻子の班はキャンプファイヤーの出し物で劇をした。
 麻子はナレーション。
 クリームをよく塗りましたか。耳にもよく塗りましたか。
 みんな、照れながら。間違いながら。
 最後までやりました。


 最終日はバスで近くの窯元に寄って風鈴を作りました。
 もうすぐ夏も終わるというのに。
 もう、ぐっすり。


「麻子ちゃん。手紙書くよ」
 涙まで見せてくれた女の子達。
 お迎えのおとうさんやおかあさんのところに帰っていく。
 バスターミナル。
 なんだか、色々ありすぎて。
 何も、覚えてないみたい。


 キャンプ場に夏の日が沈み、虫の声、お化けの星々から一斉に地に降る光の帯。
 テールランプの赤に染まる寝顔が聞いてる、ありふれた感動を。
 誰かの忘れた歯磨き粉のチューブに跨るトノサマバッタなんてものが、思い出している、みんなが歌った昨日の歌。
 かつてその歌が、いつか届くようにと願った場所は、そこだった。
 いつまでも青を残す空に、大きな月が顔をのぞかせる。
 忘れてしまうだろう子供達の名前、でも今は、全員言える。
 こんなに、はっきりみんな言える。
 さよなら。どこかですれ違っても気付かない、夏の終わりの友達。


「すごい日焼けしたね」
「三希子も」
「ね、絶対バレるね」
 麻子はぐったりとベンチに凭れ電車を待っている。
 特急が、眩しい光を放ちながら通過した。
 あの暗い世界から帰ってくると、光の量に目も心も無防備にやられてしまう。
「わたし、結局ほとんど寝てない」
「エロいことしてるから」
「やばいね。明日の模試」
「どうでもよくなる」
 鼻の頭がつっぱっている。
 この年にして、鼻の皮がめくれたりするのはちょっと。
「どうでしたか? ひきこもりの中退女子としては」
「わたしさ」
 化粧水を貰って鼻に塗りながら麻子は言う。
「生まれ変わってもね、たぶん、ひきこもりになるし、きっと高校も中退しちゃうと思う」
 三希子は耳を塞いで「あわわわ」と言っている。
「そして、三希子と友達になるのでしょう」
「来年も行く?」
「きっと行こう」






   本格化する受験シーズン 2






「A判定って実在すんの?」
 家電量販店のマッサージチェアに座った三希子が自分の模試の結果用紙を天井の蛍光灯に透かせるように見ている。
「あ、Aって透かしが入ってる!」
「もう何回も受けてんのにさ、Aが一度も出ないなんて絶対おかしい」
「おみくじじゃねえんだから」
 三希子の左に麻子、右に押本。
「だってさ、志望校落として行ってるのにAが出ないなんて」
「ぺっちゃんこの胸に手を当ててみな。おまえらが夏に何をしてたか」
「だめだ。何も思い出せない。この機械、壊れてんじゃねえの?」
「壊れてんのはおまえらだ」
「いたってまとも」


「大体さ、まだ夏のことがどうとか言ってるのがダサいわけよ」
「ダサく受かるよ、俺」
「くそ。いつか吠え面かかしてやるからな」
「おまえはE判定で既にかいちゃってんじゃん」
「あー、AカップのくせにE判定だって今思ってた。そういう目してた。追放」
 三希子が押本のマッサージチェアのリモコンを操作して、押本がわざとらしく悶える。
「もう一回、夏にならないかな」
「いっそのこと、さっさと冬になっちゃってくれないかな」
「アラスカ行こっか」
「いいね。ペンギン大好き」
「いいい痛い。折れる折れる折れる。おまえら、もっかい落ちるぞ」
「わ、ざ、と。落ちるのはやっぱ押本だよ」


 実際、麻子は夏以降、かなりの量をこなしていた。
 押本が知る以上に。
「三希子なんかと違って、そうやってがんばってるところがたまらない」
「邪魔しないでって。切るよ」
「じゃあ、もうかけても出ないでくれ」
「じゃあ出ない」
「その代わり、そっちからかけてきてくれ」
「ほんとに切るからね。また明日。おやすみなさい」


「おやすみ」
「じゃ、また明日。おやすみ」


 はい。
 ちょっと。
 へ?
 あ。青井さん、ですか?
 あっ。
 いつまで。
 ですよね。
 ですよ。
 いけます?
 おねがいします。


「静かにしてくださーい」
「お願いでーす。ちょっと静かにお願いしまーす」
 入場してくる人々。
 退場していく人々。
 退場していく人に紛れて一緒に講堂の外に出る麻子と押本。デート?
「やっぱ学祭じゃん」
「言ったでしょ」
「言ってないよ」


 キャンパスのはずれでジャグリングを見ている二人。
 他に誰も見ていない。
「押本って、こういうの好きだったんだ」
「え?」
「行こ」


「英語、上がってきた?」
「全然」
 屋台のカウンターでうどんを食べている二人。
 大学生がサービスで入れてきた天かすを迷惑そうによけながら麻子が食べている。
「そろそろ絞ったら?」
「うーん」
 眉間に皺を寄せて固まる麻子。
 押本は呆れて首を振っている。
「うーん」


「わたしと同じとこに行こうとしてる?」
 サークル勧誘のビラを押本の鞄に突っ込みながら麻子が言う。
「麻子があと偏差値を十くらい上げてくれたら」
「そう言われて上がったらわたしが好きみたいじゃん」
「帰る?」
「帰ろ」


 電車は短いトンネルを抜け、小さい踏切を過ぎる。
 踏切では、麻子はよく知らないけれど、どうやら古くて高そうな車が停車していた。
 線路沿いにはプランターが秩序なく並んでいる。季節柄、花らしい花は見あたらない。
 麻子は本に視線を戻す。
 すると、また電車はトンネルに入り、またすぐに抜ける。
 そして小さい踏切を過ぎる。
 この本、前にも読んだことありました。


「麻子んとこにも連絡あった?」
「うん」
「どうした?」
「どうしたって・・・書くしかないじゃん」
「よね。断ったんだけどさ、困りますって。決まりですからって。知ってた?」
「知らなかった」
 三希子が微笑む。不気味。
 壁の時計がパサリ。まだ昼休みは半分以上残ってる。
 おにぎりの胡麻がノートに落ちているのを、指にくっつけて取っていく。
「電話、藤井さんだったよね」
「誰?」
「誰って。あの縁なし眼鏡の、麻子の」
「ああ。藤井先生か。そうだったっけ?」
「うん。わたしのこと、麻子だと思ってた」
「どうして」
「知らないわよ。ちょっと抜けてるんじゃない?」
「で? ちゃんと訂正した?」
「あたりまえでしょ」
「三希子ならやりかねない」
 三希子のクラッカーを一つつまむ。
「先日はすみませんでしたって言ってたよ」
「わたし、何も言われなかった」
「じゃ、そっちは藤井さんじゃないのかな?」
「あのさ、ほんとにわたしに成りすましてない?」
「しつこいよね」


 サマーキャンプのレポートなんて、何を書けばいいのか、麻子にはわからなかった。
 書いてみた。
 小学生が書くみたいな日記になった。
 何か。
 自分が。
 得たものや。
 気付いたことを。
 書く。
 そんな高度なこと、わたしには出来ない。
 三希子に相談しても無駄だった。
「恋をしましたって書けばいいに決まってるでしょ。それこそ藤井さんの待ってる答えでしょ」
 押本もだめ。
「この時期に何やってんの?」


「ふう」
 結局、麻子は自分一人で書きました。
 こんなの、ほとんど日記。
 明日、予備校で三希子に読んでもらうことにする。


 雨が続く。
 サマーキャンプ、ずっとずっと昔のことみたいだ。
 何通か届いた女の子達からの手紙は、壁に飾ってある。
 弱々しい雨の音だね。
 麻子はレポートに、キャンプに来れなかった子供達のことを書いた。
 それはたまたま申し込みをしなかった子供達や、
 麻子のように登校拒否だったりする子供達のことだけを指しているのではなかった。
 あの日、
 キャンプサイトには降らなかった夕立が、
 降っていた、
 どこかの町の、
 どこかの国の、
 すべての子供達といった書き方だった。
 どこか戦場にいて、草原に来ることのできない子供達。
 身も心もとても傷ついている子供達。
 小さな体に病を宿した子供達。
 彼らの人生をまるっきり変えることはできない。
 救うこともできない。
 でも、キャンプを一緒にしたいんだと、麻子は書いた。


「いいんじゃない」
 三希子は真剣に読んでくれた。
「麻子さ、教育学部とか向いてるかもしれないよ」
 登校拒否のひきこもりで中退なのに?
「知らないけど」


 レポートはNPOの事務所まで持って行くことになっている、と三希子が言う。
 資料には郵送って書いてあったよ。
「うん。期限を遙かにオーバーしてるからダメなんだって」
「三希子は、いつぐらいに書けそう?」
「もう持って行った」
 三希子はカッターナイフで鉛筆を削っている。
「へ?」
「先週、すぐに書いて」
 麻子は、どうして一緒に行かなかったの、と考えている目で三希子の横顔を見ているけれど、彼女の手の鉛筆の芯はとても綺麗に尖った。


 例年より雨も多いし、気温も低いらしい。
 ポロシャツの下に長袖のTシャツを着る。基本的に重ねるのは同じような色のものにしている。
 その上に、暑ければすぐに脱げるようなカーディガンを羽織って、お気に入りのスニーカーを履けば、青井麻子の完成。パンツもスカートもこだわらない。なんでもいい。
 地下鉄はムンとする。
 ピンク色の傘を畳んで、ドアに凭れて立つ。
 傘から滴った水は床に水たまりを作った。
 その水を引いて、麻子は傘で魚の絵を描く。一匹の大きな魚。
 魚を置いて、地下鉄を降りる。
 大雨。


「はい。いいと思います。ありがとうございました」
 受け取って、そう言ったのは藤井だった。
「でも、お友達の・・・何って言ったっけ?」
「内田三希子」
「そうそう。内田さんにも早くって言っといてください」
 三希子さ。
「で、何か用ですか?」
「いえ」
「わざわざいらっしゃるから」
「まあ。近くに、来たので・・・散歩で」
 藤井が外を見るので、麻子も目をやる。
 二人で見る窓の外は、もう嵐みたいになっている。
「じゃあちょうど良かった」
 藤井は立ち上がり、パンフレットを取って戻ってくる。
 スプリングキャンプ。
「青井さん、就職ですか?」
「いえ進学です」
「じゃあ今年受験ですね。締切が早いから発表待ってたら間に合わないですね」
「藤井さんも確か三年ですよね」
「僕は付属なので」


 夕方のニュース。
 川が増水して避難している人々。
 運転を見合わせている公共交通機関。
 灰色の町で点灯する夕暮れの明かり。
 タクシー乗り場の行列。
「あっ。お父さん!」
 行列が映ったのが一瞬だったので、お母さんがテレビの前に来た時には別の女の人のインタビューに切り替わっていた。
「お父さんみたいな人、たまにいるからね」
 とお母さんは言ってから、
「麻子が小さい頃にも今と同じことがあったわ。思い出した。その時はね、ほんとにお父さんだったのよ」
 今日だってお父さんなんだけどな、と麻子は胸の内で思った。
 それを訴えることは本当に子供みたい。
 前線の活動は急速に弱まり、未明には雨雲は消える見込みです。明日は全国的に行楽日和となるでしょう。ただし山間部や川沿いでは、地盤の緩んでいるところもありますので、引き続き注意が必要です。


「あの人達ってさ年中キャンプやってんの?」
「らしいよ」
 参考書売り場で問題集を選んでいる三人。
「どうして?」
「どうして? 設問1。じゃあ押本は、どうして彼女が欲しいのか」
「そりゃ、彼女がいないから」
「設問2。どうして彼女がいないのか」
「浪人生だから」
「不正解」
「おまえらとつるんでるから」
「ふふっ。じゃあ、設問3。どうしてわたし達とつるんでるのか」
 押本はわざとらしく片っ端から参考書を開いてページをめくる。
 麻子がそれを一冊ずつ片付けていく。
「oh my god」
 と押本は首を振る。
「いいね。それをどうこう答えるようだったら、押本とは友達じゃいられない」
「with no objection」
「なんで今日は優しい?」
「もうすぐ卒業ってことだよ」
「まだだよ」
「すぐだよ」
「おまえら、変なやつら」


 努力は報われる。
 それなりに。
 適当に。
 驚く程は報われない。
 一校にB判定が出た。
 第一志望ではないけれど、そもそもどこが第一志望かもわからない。
「やっとカップ数より小さくなった」
「おっぱいがでかくなったんじゃないの?」


 客が一人もいない居酒屋。
 その一番奥の隅で向かい合って座っている麻子とみずほ。
「大丈夫かな、ここ」
「いいんじゃないですか。わたしは好きですよ」
 和風の制服を着た女の子が一人、無表情に注文を待っている。
「どっかの店みたいね。あ、新しいバイト来た?」


「飲めるんだね」
「普通に」
「麻子ちゃんって、そういうのダメなのかと思ってた」
「お嬢様だから?」
「はっきり言うと、そうね」
 と、みずほは笑って認めた。
「だって、ひきこもりの女の子がバイトに来るから、学校のことを話したりしないようにね。親御さんから預かってるんだからとかって店長が言うでしょ?」
「まあ、その通りです」
「怒ったりすることある? あ、ごめんね」
「怒ったり。ないですね。全然」
「我慢してるんじゃなくて」
「うん。よくわからない」


「じゃあ、これまでも彼氏いなかったんだ。それは意外」
「だってひきこもりですから」
「麻子ちゃんの後は、ちゃんと小銭も補充されてるし、なんだか全部が綺麗」
「そんなことないです」
「あるよ」


「店長に変なこと言われたりしない?」
 麻子は、無いと言った。それらしいことを思い出してみようとしても、心当たりはなかった。
「まあ、親と知り合いなんだもんね。そりゃ、ないか」
「触られたり、とか?」
「ないない。そういうんじゃないんだけどさ。・・・結構マジな感じのやつ」
 アスパラとトマトの串。
「ま、いいや」


「いいのと付き合わなきゃだめね」
 店には全然客が入ってこなかった。
 有線で懐かしいヒットチャートが流れている。
 麻子はカラオケとか行ったこともないし、ヒットチャートに楽しい思い出はない。
 なのになぜ懐かしい感じがするんだろう。
「やめようって。今すぐは無理でも、淋しくてもさ、なりたいようになろうって」
 麻子にはよくわからない話。
「よくわからないけど、いい人っているんですかね」
「いるいる。死んでない人でも、いい人っている」
「いるんですか」
「いるよ。いる」


「いい人じゃないかも」
「すきな人、かも」
「それか、きらいじゃない人、かも」
「きらいとすきって、よくわかんなくなるから」
「わかんないなら、いいのか」
「やめてやめて」
「きらいを、すきだと、思おうとする」
「それはとても甘く、手っ取り早い」
「すきになれば、すきになってもらえる」
「すきにならなければ、すきになってもらえない」
「いいじゃない。それで」
「だめ。きらいなものはきらい」
「ゆるせないものは、ゆるしてはいけない」
「わたしのために」
「わたしのすきな人のために」


 駅前のアロワナの水槽の前で、だらしなく座り込んでいる、みずほ。
 ペットボトルの水を持って、脇に屈み込んでいる麻子は駅から降りてくる人々を見ている。
 ねえ、アロワナさん。
 吐き疲れて、眠っている?
 車、高そうな車が二人の前に止まって、男の人が降りてくる。
「いつもこんな感じなんですか?」
「楽しく飲むと」
「大変ですね」
「うらやましいよ」
 抱きかかえられ、後部座席に寝かされたみずほはうっすら目を開けた。
 ひどい顔。
 彼に
「ありがと」
 で、すぐに眠った。
「送っていきます」
「大丈夫です」
 男の人は一瞬考えたけれど、じゃあ気をつけて、と言って運転席に乗り込んだ。
「みずほには、昔から二人で遊びに行ったりする女友達なんて誰もいない。もし、麻子さんが嫌じゃなかったら、今度はお酒抜きで遊んでやって」


 ホームで麻子は声に出して言った。
「あ、お兄さんだ」
 似てた。


「まずいまずいまずい。あ、もしもし、三希子? 家? キャンプのやつ届いてる? それ。開けて。いいから、今」
 スプリングキャンプのパンフレットは家に郵送もされてきた。
 そこにはNPOの機関誌も同封されていた。
 冊子の中程。
 鴫野高校 三年 青井麻子
 こんなところに載るなんて聞いていない。
 しかも楽しそうに子供達と笑ってる写真付きで。


 わたし達は甘かった。
 そんな生徒は高校に在学していないと、参加した子供の保護者からバレた。
 教師の子供か、知り合いの子供でもいたのだろうか。
 ついてないと三希子は言った。
 そうじゃないとわたしは思う。
 NPOは責任を問われた。
 管理ができていないのではないか、と。
 けっこう厳しく。
 らしい。
 NPOの代表の人はそう言っていた。
 こっぴどくわたしと三希子は注意を受けた。
 かなり厳しく。


「もう、これで終わり。終わりにしよう」
 会社を休んで高校に謝りに行ったお父さんが帰ってきて、麻子の前に座る。
 テーブルの上にある問題の冊子を開く。
 麻子の載っているページが一発で開いた。
「いい顔で笑ってる」
 と、横から覗き込んでお母さんが言う。
「それに、いい文章を書いてる。麻子は文章書きになればいいんじゃないか」
 何と言っていいかわからなくて麻子は黙っている。
「麻子は嘘をついた。嘘をつくと、その物事を本当に楽しめなくなる。楽しんでいるつもりでも、それは正直にそれをしているのと、比べものにならない。言ってる意味わかるか?」
 じっとしている。


「自分の人生が汚れていくのなんて嘘をつくことでしかない。そして、麻子のこの文章はさ、全然汚れてない。自分のしていることは間違っていないと本当に信じているんだ。言い訳がないもの。忘れてるだけかもしれないけどさ。嘘をついて参加したとしても、麻子はそれ以上のいい経験をした。もう、お父さんは、それでいい」
「そんなこと、言ってないよね?」
「何が? 学校とかでか? 言えるはずないだろ」


「でもさ、ここに映ってる子供達の思い出が、なんらかの形で傷つくような嘘は、ダメだったね」
「この子達のお父さんやお母さんが、彼らにしょうもないことを言ってないことを、祈るわね」
「この文章を読んだらわかると思うんだけどな」
 麻子は、たまらない気持ちになってお父さんの前で泣いた。
 小学生の時、買ってもらったアニメのCDを友達に貸したら、傷だらけになって返ってきたことがあった。音飛びばかりして、もう聴けなかった。それがお母さんにバレた時、わたしは自分で投げて遊んで傷つけてしまったと言った。その時、わたしは怒られなかった。わたしが自分で傷つけたわけではないことを、お母さんは知っていたのだと思う。もしかしたら、その傷をつけた子のところへ行ってちゃんとその子に謝ってもらうことが、正しいのかもしれない。でも、お父さんとお母さんはそれを選ばなかった。わたしに、本当に麻子がやったのね、と一度聞いただけだった。
 それを思い出すと、涙が止まらなくなった。
 きっと、お父さんもお母さんも、子供に甘いのではないかと、色んな人に言われてきたに違いない。学校に行きたくないと言えば、何度か話はしたものの、行かせようとはしなかった。退学も、麻子が自分で決めたのではなく、決めてくれたのは、お父さんとお母さんだ。
 お母さんは何度か言ったことがあった。
「そう遠くない未来、わたし達はいなくなるんだからね」
 わたしは「ありがとう」も「ごめんなさい」も、言っていない。
「なあ、麻子。もう一度、同じようなことが起きたらどうする?」
「何?」
「もう一度、三希子ちゃんにこっそり行こうって誘われたら」
「・・・わかんない」
「これはだめだ。完全にお父さんに似てる」
 この人達が、いい人達で良かった。
 いい人? 何言ってんの? すきな人ね。きらいな人? ううん。すきな人。
「バレて良かったね。麻子」
 この人達、何を言ってるんだろう。


 お化け屋敷の二人乗りのトロッコに乗って、麻子と三希子の顔も悪趣味な照明に照らされて怖い。
「マジで? 麻子んとこ、やっぱ甘すぎ」
「ですね」
「うちはやばかったよ。バンバンやられちゃった」
「パパに?」
「ううん。ママに。ありゃやばかったね。包丁持ってたら刺されてるね。わたし、アレになってるわ」
 子供だましの蝋人形が血、というより赤いペンキを垂れ流して前後に揺れている。
 墓石の上をくるくる飛び回る火の玉、じゃなくて切れかけの電球。
「で、当分は外出禁止」
「来てんじゃん」
「まあね」


「ひぃっ」
 カーブを曲がったところに、蝋人形でも張りぼてでもなく、作業着を着た従業員のおじさんが金バサミを持って立っていて、二人は硬直した。 


「キャーとか言いなよ」
「キャーとか言いなよ」


 ゴーカートに乗った。
 メリーゴーランドに乗った。
 ジェットコースターには三回乗った。
 観覧車に乗った。
 ずっと撮影係をさせられた押本を挟んで、最後に花時計の前で記念撮影してもらった。
 もう冬が来ている。
 冬の花時計は淋しい。


 麻子はひたすら自宅にこもって勉強した。
 はんてんを着て、部屋で机に向かい続けた。
 静かすぎる明け方には、今年初めての雪が降っていた。
 三希子と押本にメールを入れたら、すぐに返事があった。
 これまでそんなに勉強したことはなかった。
 アルバイトは十一月でやめた。
 髪を切るついでに「宝島」に顔を出すと、新しいアルバイトの子は、麻子やみずほとは違って明るく元気で合わないと店長が言っていた。
 年内最後に受けた模試の結果は、今までで一番良かった。
 志望校をようやく決めた。






   本格化する受験シーズン 3






 最終日程となる押本の受験に、麻子と三希子も付いて行くことにした。
 それは三人の卒業旅行を兼ねていた。
 二泊三日の現実逃避。
 チェックインするなり、夜景最高、解放感、とカーテンを全開にして三希子が叫んだ。
「俺はまだなんだけど」
「もうどうでもいいんだよ。麻子の気持ち考えろ、ばか」
「押本が、もしわたしのことを想ってくれてるなら、全部辞退して見せて」
「麻子がもし俺のことを想ってるなら、一つでも合格してくれりゃ良かったんだ」
 麻子がベッドに突っ伏して泣く。
 三希子が押本に枕を投げつけた。
 押本はまくらをキャッチして、壁に投げつけた。


 わたしが最後の私大にも落ちたことがわかった時、一番泣いたのは本人ではなく三希子だった。
 わたしはとてもショックだったけれど、ショックで地に足がつかないっていうのはこれのことか、とか、去年はこんなことなかったのにな、とか考えていたけれど、悲しいとか悔しいとかいう気持ちとは違っていて、涙が込み上げてきたりすることはなかった。
 両親は、どうするか落ち着いてから考えなさい、と言った。
 わたしは自分では落ち着いていると思っていた。
 三希子も押本も順当に合格通知を受けていった。


「はあああ、ひい、ひい、ひい、ふううん、はあ、はあ、ん、ん、麻子が、あああ、えええ、えええええん」
 麻子のは三希子の泣き真似。
 三希子と押本は麻子に枕を投げつけた。
 白くてぱりっとした枕は、ずっしり重くて柔らかい。


 旅先の夜景を見たときに思い出す人のことを。
 とかいうの、何だっけ?
 誰のことも思い出さないのだとしたら、わたしは?
 で、思い出す人のことを、なんだっけ。
 赤い点滅。オレンジ色の点滅。白い点滅。
 無秩序なのに、こんなに綺麗。
 窓ガラスの上から、それらの点滅を一つずつ指で消していきます。


「麻子、寝た?」
「はやく寝なさいよ」
「俺、耳栓持ってくりゃ良かった」
 三希子がぐーぐーいびきをかいている。
「大丈夫。三希子は、いつも最初だけだから。その内おさまるよ」
「おやすみ」
「おやすみ」
「あのさ、やっぱ遠距離なんか俺には無理だと思う」
「うるさい。寝ろ」
「俺、明日ダメな気がする」
「そういうやつ絶対受かるよ。知ってるくせに」
「昔さ、戦地に向かう男の無事を祈って、女が」
「絶対にいや」
「じゃあさ、パンツ」
「ほんとにいや。わたしのことなんだと思ってんのさ。おやすみ」
「ほんとに好きだと思ってんだよ」


「おやすみ」


 こうして私は二浪目に突入しました。
 もう一度だけ頑張らせて欲しいと、わたしは両親に言いました。
 教員資格が取りたいと言ったわたしのことを、両親がどう思ったのかわかりません。
 中学も登校拒否気味で、高校は一年の夏休み明けからまるっきり登校拒否で、退学して。
 そんな娘が教師になろうとすること、それは馬鹿げているというよりも、とても心配で不安なこと。
 お父さんもお母さんも、同じ表情を浮かべていました。
 それでも、させてください。
 わたしは、わたしが忘れてきた過去と未来を一緒に生きていく。
 そんなこと口が裂けても言えません。
 だから、お願いします。


「ごめんなさいは要らない。ううん。ありがとうも要らない。ただ、お父さんのことを、いつまでもお父さんと呼んであげて。わたしのことを、お母さんと呼んでいて。ずっと」
 おかしな人達。
 お母さん?
 そんなことをお願いするなんて。
 四月まで家事手伝いの私は、料理をしています。
 野菜って美しい。
 何枚か絵を描いた。
 トマトの色。茄子の色。おくらの色。
 向かいの家の建て替えが始まった。
 買い物の帰り。洗面所の窓から。庭の水やりをしながら。ずっと見ていた。


 三希子は地元の大学に進みました。
 大学に入学してすぐ煙草を吸うようになりました。
 押本は最後に受けた大学にきっちり合格し、引っ越して行きました。
 少しずつ、メールでのやり取りも減ってきたような気がします。
 「宝島」でのアルバイトには復帰させてもらいました。
 他のことをしたい気もしたけれど、今年も受験が最優先です。


「もう着替え無いのに」
 三月の海は冷たい。
 膝まで色の変わったジーンズの押本が、水しぶきを上げて三希子と麻子を追い回す。
 麻子が捕まって倒される。びっしょびしょ。
 三希子が押本にドロップキックを仕掛けるが、かわされてそのまま海面に落下する。
「もう風邪をひいてもいいんだ!」
「受験のバカヤロー」
「新しい服を買いに行こう!」
「靴も」
「とびきりおかしな服を着ようぜ」
「押本は大体おかしな服だよ」
「ポロシャツに言われたくない」
「なんだとこの野郎」
 澄んでいる。
 輝いている。
 終わらないカーブで続く海岸線。
 真冬のサーファー達は、子供みたいに騒ぐ三人組のことなんか知らない。
「さぶいさぶいさぶい」
「無理無理無理」
 背後に波の音。
 逃げるようにわたし達は防波堤を超えた。
 みんな、忘れるだろう。
 冬の日が、わたし達を祝福していたことを。






   最後に(なにかのかわりに) 2






「いたのよ」
「何が」
 電話で呼び出されて約束の喫茶店に行った。
 大学生になっても三希子はダサい喫茶店を使う。
 煙草を吸うからよ、と彼女は言う。
「あの眼鏡の、麻子の」
 わたしには一瞬何のことだかわからない。
「麻子、髪の毛伸びたね」
 三希子と麻子が会うのは一ヶ月ぶりだ。メールではずっと下らないやりとりをしているが、三希子が気を使って、なるべく会わないようにしてくれているようだ。
 と思っていたら、急に呼び出された。
 隣の席では、高校生のカップルがいちゃついている。
「ああ、キャンプの」
「そう。藤井信夫くん」


 予備校は去年よりもずっと単位を少なくした。
 二浪目だ。
 大体わかる自信があった。
 模試だけ小まめに受けた。
 まあまあ順調。
 人生は、まあまあ順調。


 麻子ちゃんは人を見る目がない。
 と、みずほ。
 あれは、お兄ちゃんなんかじゃない。
 ははは。麻子ちゃんは変わってる。
 あれ、弟。
 麻子ちゃんのこと、すごく綺麗な人だって言ってたから、姉として厳しく止めといた。
 あいつ、ド変態だからさ。
 なんかね、エロいアニメ見てた。
 最近よ。
 絶対にやめといた方がいい。
 で、近頃どう?


 浪人生ですから。


「だから今年はわたし一人で行くしかないかなと思ってたの。さすがに」
 三希子の煙草、嫌じゃない。
「そしたらいたわけ」
 今年も暑い。
 飲んでも飲んでもだめ。
 麻子は去年も着ていた黄緑のポロシャツです。
「別の団体よ。なのに、受付に行ったら、既にスタッフとして彼がいて。ばったり」
「元気にしてらっしゃいました?」
「まあ相変わらずで、よくわからない感じ」
「へえ」
「興味ある?」
「何が?」
「藤井くんに」
 今年はオリンピックイヤーで、ちょうど昨日が開会式だった。
 生まれて初めて、開会式なんか最初から最後まで見ちゃった。
 わたしは教師になりたいと思っています。
「どうしてわたしが藤井先生に?」
「うーん」


 おなかが痛い。
 急に始まったそれは、生きてきた中で最大級で。
 三希子の高級ナプキンを一つ貰って。
 ハリウッドセレブが使っていようが、痛いところは痛い。
 薬、買ってきて。
 安いのでいいから。


 壁に色紙が貼ってある。
 誰のサインだろう。
 見えないし、お腹が痛いし、どうせ大した有名人じゃないだろう。
 風鈴を売ってる。
 変な喫茶店。
 あ、そう言えば、去年のキャンプの帰り道に焼き物の風鈴作ったっけ。
 あれ届いてないなあ。


 藤井くんの方は、麻子さんに興味がおありのようです。
 あの問題のレポートでやられちゃったんだって。
 ま、そうかもしれない。
 麻子のあれって、よく考えたら男殺しだよ。
 ずるい。
 でも、あれってどういうわけか麻子って感じなんだよね。
 てことは、麻子って男殺し?
 違う。
 ひどい生理中。


「近い内にまた連絡するわ」
「ごめん」
「送って行こうか?」
 麻子は手を振って断った。
 肌を露出する人々。
 肌を露出して、日傘を差す人々。
 肌を露出して、日傘を差して、日陰を歩く人々。
 学生の街。
 麻子さんは浪人生なので、汗かいて日なたを歩きます。
 というか、お腹が痛くて。
 こんなところで笑ったら、おかしな人だと、思われて、しまう。


 冬の海、冷たかったな。
 夏なんか早く終わって、冬になればいいのに。
 そしたら、また三人で旅行で海で。
 夜は肝試しして、係員のおじさんがいて、ひぃって言って。
 まくらを投げたら、シャボン玉が出てきた。
 生ぬるい海で溺れたわたしは、高そうな車の後部座席に乗せられて。
 それで、
 ごめんなさいもありがとうも、言っちゃいけないって言われたから、
 わたしは。


 英単語をたくさん、汚いトイレで落っことしてしまった。
 拾って集めなきゃいけない。
 濡れたタイルの目地に指を入れて、英単語を拾わなけりゃいけない。
 水に手を入れて、わたしは手探りで単語を拾う。
 こんな手で、お客さんに料理を運んだり出来ない。
 こんなことで泣いたりするわけがない。
 キャンプだったら、もっと悲惨なことがいっぱいあんだぞ。
 そんなこと言われたって、わたしキャンプなんか行かない。


 気が付いたら狭い病室でした。
 点滴、ひんやり。
「なんかさ、押本が滑り台から落ちたことあったじゃん。あれ思い出した」
 三希子がいる。
「もうすぐお母さん来るって。そしたら帰るね」
 白いカーテンがあって、その向こうのあれはブナの木かな。
 こんな都会にブナ林なんてあるわけないか。
「麻子さ、頑張りすぎなんじゃない? お母さんも言ってたよ」
「寝言、言ってなかった?」
「言ってたよ」
「あ、わかった」
「何?」
「三希子、愛してる」
「ぶっぶー。いいことを、って」
「何?」
「よ・い・こ・と・を」
「何それ」
「いいことっつったら、あれでしょ」
「あれか」


 そのお母さんとタクシーで帰った。
「息抜きに三希子ちゃんとキャンプにでも行けば? ちょっとくらい大丈夫でしょ」
「また怒られるよ」
「今回のはそういう制限ないんだって」
 三希子。お母さんから手を回してくるとは。
「最近の麻子、顔つきが怖いわよ」
「そんなことないよ。お母さんはやっぱり甘い。そんなんだから娘が二浪もする」
「甘いのはお父さんよ」
「二人とも甘い」
 ラジオではオリンピックの水泳中継。


 初恋のことなんて思い出せません。
 思い出せないのなら、それは初恋ではありません。
 わたしは、まだ初恋も知らない。
 処女どころの話じゃないよ、それ。
 初恋に年齢制限あるのかな。
 初恋が初雪のようなものだとしたら、季節外れのわたしみたいなものの頭上には、純白で綺麗な雪ではなく、雨かみぞれが、ひょうかあられが、降り注ぐのだろうか。
 なら、もしかしたら、初恋ではなく、遅すぎた初恋の模造品は、雨の一粒一粒に、絵筆で色を塗って、風に乗せて、あの日のシャボン玉のことを言うのかもしれない。


 似合わない黒縁眼鏡をかけた押本が目を閉じている。
「麻子は人を見る目が無さすぎる」
「言った通り」
「何が」
「押本は絶対にそう言うって」
「言うよ。どうしてこういうことになるわけ? 麻子さ。浪人中は無いって言ったじゃん」
「いと見苦し」
「だから、そういうんじゃないって」
「こいつがそういうんだって言ってたよ」
「麻子、ごめん」
「いいのか、三希子。麻子の処女がやられちゃうんだぞ」
「処女が大事なんじゃないでしょ。誰とやるかが大事なんでしょ」
「やっぱやるんじゃん」
「しないって」
「すればいいのに」
「お願い。ちょっと待って。受験の邪魔するなっていうから、俺は大人しくしてたのに」
「待ってなんて言ってない」
「知ってるよ。どうせなら、何も知らせて欲しくなかった。おまえらは最低だと思う」
 三希子は何も答えない。
「おまえが黙るんじゃねえよ。言うけどさ、俺、童貞だよ。なあ。それってよくね?」
「押本。わたしはおまえのそういうところ好きだよ。麻子は諦めて、わたしとする?」
「もういい。俺はもう無理だ。付き合いきれんよ。俺なんか馬鹿で何の興味もないかもしれないけどさ、俺は正直に言ってきたつもりだよ。そんなの知ってんじゃねえの? そういうやつに対してこういうふうにするか? 帰るわ」
「押本!」


「いいの? ねえ、三希子。よくないよね」
 突っ伏している三希子の手元で、もうジンジャエールも泡を吐いていません。
 ストローの袋は三希子の手でゆっくりと細かく刻まれてしまいました。
「わたしは三希子が泣くようなことなんかしたくない」
「大学落ちて泣かせたくせに」
「冗談じゃなくて」
「押本は、いいやつだよね。・・・いいやつって、やだよね。あいつたぶん今頃どっかでブランコとか乗ってると思う。そういうやつなんだよな、あいつ。やだなあ。わたしたちも、やだなあ」


 流星はすれ違うと、どちらも消えてしまうそうです。
 どこでそれを読んだのか、テレビで見たのか忘れました。
 とても大きな音をさせて、すれ違うのだそうです。
 音は誰にも聴こえません。
 星が消える時に上げる叫び声は、誰にも聴こえない。
 自分自身にも聴こえない。
 声を背後に置き去りにして、どこかへ落ちていくからです。


 大きな駅のバスターミナル。
 その中程で、麻子は真っ直ぐに立っている。
 その脇を多くの人々が通り過ぎていく。奇異の目で麻子を見ながら。こそこそと話しながら。
 麻子は少女のように頬を赤らめ、目をきょろきょろさせている。
「こっちを見てて」
 と、藤井が言う。
 麻子は藤井を見る。顔は見れない。藤井が首にかけている木製の画板を見る。
「こんな人込みの中に来るなんて聞いてませんでした」
 と、人の流れが途切れた隙に麻子は言った。結構大きな声を出さないと届かない。
「僕の部屋に来るつもりでしたか?」
 そうは言ってない、と麻子は思った。
「嫁入り前の女の子がダメですよ。あ、それともヌードだと聞いてましたか? あの三希子って子、冗談ばっかり言ってるから」
 藤井は手を止めることなく話す。
「退屈ですか? 何か話しますか?」
「いえ、大丈夫です」
 こんな周りの人がちらちら見てる中で話せるわけがないじゃない。
 どうしてこんな地味なモデルを描いてるんだろう。
 盲目的なカップルだろうか。よく平然としていられるな。
 何あれ。キスを見てるより恥ずかしい。
 あのモデル、全然堂々としてない。
 道行く人々のそんな声が聞こえてくるみたいで。
 何人かの人が、藤井の後ろに回って絵を眺めている。
 藤井に声をかける人もいる。
 観光客らしき外国人に写真を撮られた。
 どこかで三希子が隠れて見てるんじゃないかと思った。
 藤井は終始、周囲を気にかけることなく真剣に筆を走らせている。
 恥ずかしくて貧血になりそう。
 助けて三希子。


 押本の自転車の後ろに三希子が乗って、二人は海に来た。
「こういう夏の海もいいもんだね」
 海の家もなければ、シャワーなんかもない、狭い浜。
 幾つかのグループがバーベキューをしたり、パラソルの下に寝転んだりしている。
 ボートを出している子供もいる。
 桟橋には釣り人の姿。
 岬は深い緑。
 松林からは蝉の声がわんわんと。
 そして狭い視界いっぱいに広がる穏やかな昼下がりの海は眩しい。
「今頃麻子、やってると思う?」
 押本は黙っている。
「女の前で泣く男なんてサイテーだ」
「泣いてねえじゃん」
「泣けばいいじゃん。泣き虫なんだから」
「俺さ、デリカシーのない女なんてサイテーだと思うよ」
「わたしがサイテーなのは、わたしの方がよくわかってる。押本は知らない」


「だから、そんなことを言う押本の方がひどい。本気でわたしのことをサイテーだって言う押本の方がひどい」
「なあ、三希子さ。俺もう、やるとか、どうとか、どうでもいいよ」
「じゃあ押本は麻子ともうやりたくない?」
「おまえらは、そんなふうに大人ぶるからサイテーなんだ」
「わかってるって言ってんじゃん!」


「顔、もう少し近くで見て描いても大丈夫?」
「大丈夫です」


「体も心も傷つけられた女の子がさ、生きるだけじゃなくて、恋をする。それがどういうことか、私には」
「麻子のこと?」
「そうじゃないけど」
「三希子?」
「違うよ」
「俺、おまえらのこと全然わかんねえ」


「あ、藤井じゃん」
 と、一人の女の人が話しかけてくる。女の人は男の人を連れている。
 手元から視線を上げて彼女を見た藤井が、明らかに動揺したことは麻子にも分かった。
「何? 彼女?」
「違います。モデルを頼んだんです」
「へえ」
 と、女の人と男の人はわたしを見た。
 わたしは頭を下げた。まるで彼女みたいに。
 とても嫌な視線だった。
 明らかにそれは。
「藤井さ、まいちゃんと別れたんだって?」
「まあ」
「それってさ、まいちゃんが奨励賞獲ったのと関係ある?」
「まいに聞いてください」
 男の人がずっと麻子のことを見ている。
「そうなの? あ、そういうこと? ごめん。てっきりみんなが、藤井がまいちゃんをふったって言ってたからさ。わたし、しょうもないこと気にすんなって、藤井に言わなきゃと思ってさ。そっか。ごめん」
 藤井は何も答えなかった。
「行こ」
 と、女の人は行こうとしたが、男の人は麻子の顔から目を離さない。
 麻子は身構えた。
「あのさ、知ってるよね?」
 と、男の人が言う。
「鴫高の」
 麻子は男の顔を見た。もしかしたらクラスメイトだったのかもしれない。でも、そんなの覚えているはずがなかった。
「そうだよね? あの、中退しちゃった。ねえ」
 男の嬉しそうな顔。
 麻子は血の気が引いていくのが分かった。口元が震えている気がする。
「ちがいます」
「えー、ちがわないよ。すっげえ。俺の記憶力もまだまだいけるな! なんてったっけ。えっとね、青・・・」
「ちがいますよ」
 藤井が言った。
「ちがいます」


 麻子の涙がスニーカーにぽたぽた落ちた。
 藤井が麻子の頭に絵の具だらけの右の手を乗せている。
「ごめん」


「まさか麻子に先を越されるとは」
 風が強くなってきたので、三希子はピンク色のストールを羽織っている。
「三希子さ、処女なの?」
「なんだと思ってたの」
「いや、なんとなくわかってたけど」
「嘘つき」
「急ぐもんじゃねえだろ」
「童貞野郎に言われても説得力がないわ」
「童貞が言うからいいんじゃねえか」
「きっと簡単なことなんだよね」
「まあ、英文よりは簡単だろうな」
「ちゃんとできてるかな、麻子」
「でもさ、初デートみたいなもんだろ。ほんとにそんなにすぐやっちゃうかな?」
「やるに決まってんじゃん」
「だからさ、三希子、処女なんだよな?」
「だからなによ」
「説得力が」
「好き同士なんだからさ。当たり前じゃん。それに最初に出会ったときに、既に一回やってるかもしれないし、そういうのって」
「え? 聞いてない。俺馬鹿みたいじゃん」
「押本は馬鹿じゃないよ」
「なんだろ。苦しい」
「押本のもんでもないのに」
「ごめん。だめだ、俺」
「だからー、泣けばいいじゃん。わたし見たいな。押本が泣くところ」
 声を殺して三希子が泣き出した。


 わたし達は、とても若く、健康だ。
 小さな子供じゃないから、生理もくるし、飽きもせず海辺にいたり、声を殺して泣いたりもする。
 バレることのないひどい嘘もついてしまうくせに、間逆のことも願っている。
 でも、ほんとうに無理なのかな。
 ほんとうに、そんなことしか出来ないのかな。
 学校に行かず、結局高校も中退して、二回も全ての大学に落ちた。
 そんなことをして、わたしがなろうとしているわたしは、ほんとうに、ほんとうにそんなことしか出来ないのかな。
 嘘をつかずに生きていく。
 誰かのための嘘も、わたしのための嘘も、何かのための嘘もつかずに。
 そんなことは出来ないのかな。
 出来ない出来ない。きっと出来ない。
 でも、
 この人には、この人にだけは絶対に嘘をつかない、ということなら必ず出来るはずだ。
 難しくてもきっと出来る。
 それが出来ないと。
 それはわたしがいるという証のようなものだから。
 わたしがもしみんなに少しずつ嘘を言うのなら、わたしなんてどこにもいない。
 わたしは、それでいいの?
 よくないんだ。
 わたしにいて欲しいと言ってくれる人のことを、わたしは裏切りたくないんだ。


「藤井さん。この絵のわたしは、なんていうか、わたしなんかよりずっといいです」
「そんなことはありえません」
「だって、こんなふうにわたしは微笑んだり出来ない」
「僕の持ってる写真の麻子さんは、いつもこうです」
「それは困ります」
「わかってます。でも、はじめての絵は一枚しか描けない。そこに描くのは、この表情の麻子さんしかなかった」
 あの冊子にも載っている麻子の写真。
「じゃあ、どうしてこんな場所で描くんです。あのキャンプ場に行けばいいのに」
「麻子さんをみんなに見せびらかすためです」


「俺さ、麻子はきっと『やっぱりダメでした』とか言って帰ってくると思う」
「本当にかわいそうになってきた」
「ひどい」
「もっといい子達が押本の友達だったらよかったのにね」
「俺もそう思ってた」
「でも、結局押本にはわたし達が相応しかったんだよ」
「そう思う」
「無事に彼女が出来たらさ、わたし達みたいな嫌なのは冬の朝の霧のように、さーっと消えていなくなるから」
「なにそれ」
「脅迫」
「嫌な脅迫」
「なにかいい方法はないものかしらね」
「うーん。何も思いつかない。今日の天気みたいに、空っぽだ」






   冬(二浪目)






 昨日までの雪はやんだ。
 大学構内でも路肩に除雪された汚い雪が、小さな山になっている。
 色違いのストライプのマフラーを巻いた麻子と三希子、そして白いニット帽を被った押本。
 合格発表の掲示板の前で真剣な顔で、番号を追っている三人。


 バスターミナルで押本は駆け込むように高速バスに乗り込んだ。
 すぐにドアは閉まった。
 並んで手を振る麻子と三希子。
 バスが動き出す。
 窓際の席につくと、ニット帽を取り、それを手に持って振る押本。
 押本の頭が丸坊主であることに驚き、大笑いする二人の姿はすぐに遠ざかった。
 プラタナスの木が道路沿いにずっと続いた。


 麻子と三希子は写真館に入っていく。
 そして一人ずつ、証明写真を撮ってもらった。
 まだ雪が残っている路地裏。
 三希子好みの時代遅れな喫茶店に入る。
 ホットココアを二つください。
 机の上に広げた二通の用紙にはウインターキャンプの文字が。
「まだ間に合う?」
「大丈夫。絶対どこかにねじこんでやる」
 いつの間にか二人の鞄の中は、子供達に投げつける雪玉でいっぱいになっている。
 二人は雪煙を巻き上げ、雪原に飛び出して行った。

 

 

 

 

(End)

pagetop