よいおともだち

よいおともだち

 

 


 サービスエリアまであと5㎞というところで雨が降ってきた。
 始めは小粒だった雨はみるみるうちに本降りとなり、滝のようにフロントガラスを襲った。
「テト、大丈夫かな」
「大丈夫」
「痛くない」
「そうそう」
 視界が悪くなり、僕は逆に少しアクセルを踏み込む。カーブを曲がるたびにリヤが滑っているような気がする。本日五回目の空襲警報が、激しい雨音に打ち勝とうとするように曇天にこだましている。
 助手席に座ったフランシスが長い睫毛を伏せて不安そうな顔を見せる。フランシスは僕の乱暴な運転を心配しているのではなく、自分の身代わりとなって基地に残ったテトのことを思っている。
「大丈夫だって」
 フランシスはテトのことが好きなのだ。中学生の時、下校中にマムシに噛まれて震えながら「大丈夫、痛くない」と口走ったばかりに中年になった今でもテトと呼ばれる哀れなテト。フランシスも人妻になり、僕たちはみな年を取った。僕だってもともとあった額の皺が深くなって目の隈が取れなくなった。元に戻れるなら、今すぐにでも元に戻りたいと思う。
 でも「元」ってどこだ?
 いつだって僕たちは僕たちだったと思う。
 そうやって今も僕たちを続けているのだと思う。
 雨足が弱まる前に、また空襲警報が鳴り響く。フランシスが軽く舌打ちをする。どうせ飛行機なんか飛んでこないのに、バッカみたい。
 次のカーブで僕はまたアクセルをふかす。フランシスの身体が僕の方に大きく傾く。フランシスの栗色の髪が僕の頬に触れ、香りだけを残して、また戻る。
「見ないでね」
 そう言ってフランシスは何かをノートに書き付けた。こんな荒いハンドリングでまともな文字なんか書けるわけがない。それでもフランシスは分厚いノートを持ち歩き、いつでも何かを書き残す。フランシスのノートにはたくさんの付箋が挟まれている。その中のどれかが「元の場所」なのかも知れない。
 見ないでって言ったよね?
 大きなカーブ。アクセルを踏み込もうとした瞬間、そのイメージは確かに脳裏を過ぎっていた。それでも僕は足首に力を入れた。自棄になったのではない。無限に続く雨と、無限に迫り来る追っ手、そしていつまで経っても辿り着かないサービスエリアの、その見えない円環から抜け出そうと思ったのだ。
 車体が大きく横滑りを起こし、安全装置のアラートが激しく鳴った。それはあるいは空の警報だったかも知れない。戦闘機は永遠にやってこない。僕たちは永遠にどこにも辿り着けない。
 フランシスと僕は幼い頃、ある不吉な契約を結んでいた。

 誰を好きになっても、誰と一緒になってもいい。けど、ひとりぼっちは嫌だよ。

 この日の事故は大きなニュースにはならなかった。車体が水平に二回転しただけで怪我人も出ず、深夜の事故ということもあってインフラにも影響を与えなかったからだ。
 一つだけニュースがあるとすれば、事故の際に、フランシスの分厚いノートが消えてしまったということだ。窓は割れていなかった。けれど、なぜかいくら探しても彼女のノートは見つからなかった。

 

 

 それは難しいよ。だって、何かを好きだということは、たとえば水でもいいんだけど、わたしはこの水が好きとか嫌いとか、じゃあ目隠ししてこれとこれ飲んでみろよ、ほらダメじゃん、みたいな話になるじゃない? ならないの? ホントに? 信じられない。いわゆる姉より妹が好き、みたいな。じゃあわたしのことは? ほら、やっぱダメじゃん。水も妹もわかんないじゃん。そういうことになっちゃうでしょ? だからさ、好きとか嫌いとか訊かないで欲しいんだよね。悲しくなるから。
 田辺の白い足。
 悲しくなればいいじゃない。
 笘篠の欠伸。
 そりゃあそうだね。
 新学期が始まり、春の健康診断で校内は騒がしい。黄緑のおかしな体操着にもすっかり慣れたわたしたちは、校舎から見下ろす海にも無感動になり、無感動というのは愛のことなのです、などと話す汚い眼鏡の数学教師にも慣れた。この春に転校してきたオレスの小麦色の胸の豊かさに色めき立ったわたしたちもすぐに慣れてしまうのだ。女子の問診を覗きにくる男子もいない平和。この国の4月は寒すぎる、とオレスは言った。
 松沼って兄弟とかいるんだっけ?
 いないよ。
 ふうん。
 いそうだよね。
 お姉ちゃんとかいそう。
 そんなの血液型と一緒。下らない。
 と笘篠が言った。
 嘘をつくのは気持ちの良いものではない。特にそれが外部から要請された嘘である場合に、その嘘は誰かに強いられているわけではなく、他でもない自分がついている嘘だということを強く感じる。
 絵に描いたように姉が部屋から出てこなくなって八年。我が家では姉はいないことになっている。姉の部屋からは、途切れ途切れにキーボードを叩く音が聞こえる。それが小説を書いたり、プログラムをしたりする音ではないことをわたしは知っている。
 どうしてこの学校はみんな短パンなの? まだ四月なのに。
 オレス。わたしたちは十二月だって、一月だって短パンなのよ。
 野球をする時も?
 もちろん。
 クレイジー。
 オレスはそう言って舌を出した。

 

 

 姉のことなら、わたしはいくらでも言いたいことがある。けれどわたしは誰にも言わない。相手がどんな人であれ、姉のどんなことであれ、口にしていい思いをしたことがないからだ。
 姉と最後に喋ったのはもう半年以上前のことだ。
 階段に散らかるジンジャーエールの空ペットボトル。深夜十二時、階段を上ってすぐの姉の部屋のドアが少しだけ開く。コッ、カッ、コ、とペットボトルが乾いた音を立てて落下していく。わたしは息を潜めてその音を聞いている。それは「もう寝なさい」という神さまからの合図だ。夜更かしはお肌によくないよ、とジンジャーエールの神さまはわたしに囁く。布団の一番奥の方でわたしはそんなことを妄想する。
 ペットボトルを買ってくるのはお父さんの役目で、それを姉の部屋に補給するのはわたしの役目。お母さんが生きていたら何の役目をしてるだろうか。お姉ちゃんを叱る役目だろうか。それとも案外、一緒に引きこもっているのかも。
 その日もジンジャーエールの神さまからお告げがあり、わたしは携帯を触るのをやめて布団を頭からかぶった。すると少しして、遠くから「くま子」と声がした。
 わたしはびっくりしてベッドから飛び降りた。
 お姉ちゃんがわたしを呼んでいるのだ。
 お姉ちゃんとわたしの部屋は隣り合っていて、壁の下の方に、わたしが「壁電話」と呼んでいる、えんぴつが通るくらいの小さい穴が空いている。その穴がいつからそこにあるのかわたしは知らない。お姉ちゃんは本当に時々、気が向いた時にだけ、壁電話からわたしに話しかけてくれる。
「起きてた?」
「うん」
 会話の内容はいつも他愛のないものだ。姉は外の世界を知らないから、新しい話題が分からないし、友達もいないから新しい出来事も起きない。いつも、あんた今何キロなの、とか、爪切り貸して、とか、それくらいだ。
 姉の毎日は安全な強い膜でやさしく包まれている。わたしはそれを壊したいとは思わない。数千本のジンジャーエールで育まれた姉の柔肌は、とても外界の傷には耐えられない。
 短い会話が終わりかけた時、ふと姉は言った。
「学校楽しい?」
 壁電話の小さい穴を通じて、微かな音楽が耳に届いた。邦楽なのか洋楽なのか音が小さくて分からないが今風の歌だ。音楽なんか聴くんだ、とわたしは驚いた。
 まあまあだよ。
 わたしはそう言って壁電話を切った。少しして、またキーボードを叩く音が、遠くから聞こえてきた。

 

 

 これ食べて。
 と笘篠が田辺にラップで包まれたおにぎりを差し出す。田辺は遠慮なくラップを剥がして齧り付く。
 すごい。焼きたらこじゃん。
 田辺さ、よく人の母親が握ったおにぎりなんて食べれるよね。
 何だってそういうもんじゃない。
 減るもんじゃなし?
 そう。
 何が?
 中庭にある非常階段に座って、わたしたちはお昼ご飯を食べるのが日課だ。暖かくなって、ようやくこの場所に戻ってきた。正面には大きなハナミズキの木があって今が盛りと白い花をつけている。
 一見、笘篠の方が男っぽくって、田辺の方が華奢で少女な感じがする。わたしも最初はそう思っていた。確かに笘篠は陸上で短距離をしていて筋肉質だし、田辺の方は髪も長く小柄で一見中学生の女子みたいだ。また、笘篠は達観したようなモノ言いをするところがあってオトナっぽく、田辺は恋愛体質で常に誰かを想っているか、誰かから想われているかで悩んでいて、そんな羨ましい青春を送っている。
 でも、一年間二人と一緒にいて分かったのは、単純にそういうわけでもなさそうだということだ。
 運動女子の笘篠と、恋愛女子の田辺。
 そんなの知らない。
 陸上部にちゃっかり彼氏がいるのは笘篠の方で、ほとんど二人でいるところを見かけないけれど、どうもよろしくやってるらしいし、午前中に測定した体重にショックを受けていたり、人の握ったおにぎりが食べれないようなナイーヴさを見せるのも笘篠の方だ。
 笘篠のかわいいところ、また一つめーっけ。
 バカの松沼。おまえらと違ってわたしはアスリートなの。
 松沼のバカはどうせまた『笘篠って女の子っぽい』とか思ってんのよ。男の子を知らないから。
 だから、わたし夢の中では男子だって言ってんじゃん。二人よりも男のことは分かってんの。バカは二人の方。
 夢の中で、わたしと笘篠を弄んでんでしょ。
 二人でオレのことを弄んでんのよ。
 でもさ、朝から焼きたらこなんて、笘篠のお母さんってすごいよね。嫁にしたいわ。
 田辺は恋愛体質だけど、実際はわたしと一緒で彼氏いない歴イコール年齢。田辺に言わせると、寄ってくる男子は気持ち悪いやつか、おっさんらしい。
 C組の西崎とかカッコいいじゃん。モテるらしいよ。
 ああいうのが一番気持ち悪い。
 田辺が好きなのは、目立たない静かな男子だ。たとえば、笘篠の彼氏みたいな。でもそんな男の子が田辺の相手をするわけがない。田辺は明るいし饒舌で、夜の匂いがするからきっと彼らにとっては怖いんだと思う。
 でもこの前のバイトの彼とはいけそうだったんでしょ?
 だから『田辺さんのことが好きかどうかなんて分からないし、田辺さんだってオレのことが好きかどうかなんて分からないでしょ』とか言う奴だよ。ああいうのやめて欲しい。
 なんだかぴったりな感じしかしないけどね。
 ね。
 ないない。もうない。
 モテないね。わたしたち。
 わたし、彼氏いるし。
 笘篠もモテないよ。
 オレス、どう思う? 誰と付き合いたい?
 わたしは三人なら誰とでもいいです。
 あんたもモテないわ、オレス。
 わたしは五人、子供を産むんだって言ってた。
 誰が?
 ママが。
 プレッシャーよね。
 新入生たちだろう。楽しそうに話しながら中庭を渡っていく。学校というところはとても明るい。校舎の影が落ちている辺りの土には濃い苔が蒸し、側溝の鉄の蓋は赤黒く錆び付いている。
 なあ、松沼。
 その髪型、似合ってる。
 突然春の突風が吹き荒れて、せっかく褒められた髪がめちゃくちゃになってしまった。生ぬるい風が吹き上がっていった先の空には弱々しい警報が響いている。小鳥のさえずりよりもずっと小さい、普段みんなが忘れている微弱なノイズ。
 こういうのってほんと鬱陶しい。
 何の話?
 ん、風の話だよ。

 

 

 ガニメデ歴。
 これは木星第三衛星ガニメデに超文明が存在したとするテトの母親が生涯を通じて使った暦である。テトはガニメデ歴41653年、製鉄業で大戦時に一財産を築いたエスエス家の待望の長男としてこの世に生を受けた。
 父親は商売人であると同時に厳格な軍人でもあった。幼少の頃から父に帝王学を軍隊式で叩き込まれた少年は、中学生でマムシに噛まれるまでの間、実に1058回の鉄拳制裁を食らい、2回の気絶を経験していた。
 そのような彼は、マムシに噛まれた程度で動じる人間ではなかったのである。ましてや、あだ名が「テト」に決まった程度で不登校になることもなかった。彼はむしろキツネリスの凶暴性を見事に体現していたと言えよう。友人には底なしの優しさを見せたが、彼が一度敵と見なした相手には、たとえ上級生であろうと容赦はしなかった。
 元々肺を病んでいた彼の父は、彼がテトになってからわずか一年後にこの世を去った。残されたテトの母親は、それまでのガニメデ信仰に拍車がかかり、父親が残した財産のほぼすべてをガニメデ説の布教活動に捧げた。
 体格に恵まれ、健康に育てられたテトは、やがて父親の背中を追うように軍への入隊を志願した。ガニメデ説に心酔していた母は、ガニメデの超文明が滅んだ最大の理由とされる民族間の紛争を、数万年経った現代においても繰り返すことの愚かさを嘆いたが、テトの入隊を本気で止めようとはしなかった。その頃にはエスエス家の財産はあらかた底を尽いていたのである。
 入隊の日、軍服に身を包んだテトの姿を見て母親は泣いた。
 テトははにかみ、母の肩を叩いた。
 あの時、老いた母にどんな言葉をかければよかっただろうとテトは思う。
 軍隊に入り、上官から殴られるたびに、思い出すのは母の差し出してくれたタオルの匂い。すり込まれた薬草のつんとする刺激臭と、朝一番から干された太陽の匂いであった。
 軍の生活は想像以上に厳しかったが、父親のしごきのおかげで、辛くはなかった。同期入隊の仲間が次々に逃げ出していくなか、テトは新兵の初年度を成績優秀で終え、三年が経つ頃には伍長となり個室まで与えられた。
 その個室に移って一日目の夜のことだ。
 簡素な軍用ベッドでうつらうつらしていたテトは、不意に隣の部屋からの物音で目を覚ました。それはどうやら女性の声であった。宿舎は当然男女別棟だと思っていたテトはうろたえた。壁に耳を当ててみると、女性の声ははっきり聞こえるが、言葉の意味が分からなかった。外国人だろうか。
 女性は明らかに、隣室の自分に向かって何かを訴えていた。何かあれば宿舎の管理棟へとつながっているモニタでコールするはずだが、装置が故障したのかも知れない。
「あのう」
 テトはおそるおそる声をかけてみた。すると弾かれたように女性から返事があった。
「わ;ぺおmたw4」
 間違いない、とテトは直感した。これはガニメデ語だ!
 少ししてまた返事があった。
「聞こえてますか」
 バイリンガル!
 テトは両手に吹き出した汗をズボンの裾でぬぐい、「聞こえてます」と答えた。
 少しの間があり、彼女はテトが分かる方の言葉で丁寧に話しかけた。
「イビキ、うるさいです」
 若き日のフランシスは、少し鼻にかかった甘い声で、新しい隣人にうんざりしていた。

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