丘の上の貯蔵庫には誰一人近づく者はいなかった。 いつからあれがあるのか、俺は一度ばあちゃんに訊いたことがある。ばあちゃんは、この辺りは空襲がなかったさけ、家も畑も残ったおかげで、あんたのひいおじいさんは余所へ逃げなんでもこの土地で暮らすことができたんや、一家八人、助け合うて必死で生きて、子供も生まれて孫も増えて、その子ら… [more]
運動靴の紐を結び直していると、遅れて下駄箱にやって来たゆうかちゃんが言った。 あべちゃん、明日から何するの? すると先に靴を履き替えていた世界のカマテツが首を突き出し、つばを飛ばして言った。 決まっとるがな、電車乗ってチカンざんまいや! ゆうかちゃんは心の底からの侮蔑を込めて世界のカマテツをにらみつける。眉間に皺を… [more]
思い出しても暑い夏の話。 汗は背中から腰へと流れていた。 湖はカリブ海を彷彿とさせる色をしていて、風は、 え? はい? わたしの名前? あの、どちらさまでしょうか? 本番中なんで。後でもいいですかね? カリブ海? はぁ、言いましたけど。いや、行ったことないです。何か? カリブの人? (カリブって何だろ?) そうですか。… [more]
1 「県全域に大雪警報が発令されています。きちんと窓を閉じ、防寒に努めましょう」 もう何度目か分からない棟内放送が流れて、首を動かすことの出来る人々はそれぞれの窓の外に緩慢に降り続く白くぼってりとした雪をまた眺めた。 年代物の建屋ではあったが、二重窓である上にそれぞれの窓の足元には旧式の暖房も備えられていて、外界の寒さはみっちり遮断… [more]
男の子だとか、女の子だとか、若いとか、若くないとか、上手いとか、上手くないとか、そういうのあんまり関係ない人たちへ。 もしも上手くないものが見たくなった日には。もしも自分自身を笑うように誰かのことを笑って元気になりたい日には。
インタホンが鳴った。 てっきり壊れていると思っていたので、本来なら面倒なだけのインタホンの音も美しく聴こえた。 部屋はマンションのの五階。一基しかないエレベーターにはずっと「修理中」の張り紙。引っ越してきて五年になるが、一度も修理が終わった事が無いどころか、修理している様子も無かった。 そんな五階の部屋に階段でわざわざ訪ねてくる勤… [more]
1 いつ来よってもひっでえ街だん。なんだん格好つけよって。どこ格好つけとる言うんよヲイ。うちのどこがど格好つけとる言うんよ。そうんよ。そん覚えたてみたいな日本語んよ。黙れポンコツ。ポンコツ黙っとろ。何がひでえ街か。意味分かて言うとんか? 意味の意味分かよんか。日本人ぶりってよん。うちは、日本人なんよ。格好つけとんはお前の方よ。さっから… [more]
かちゃかちゃかちゃ 2013年12月30日。曇り。 かちゃかちゃかちゃかちゃかちゃかちゃかちゃかちゃかちゃかちゃかちゃかちゃ 2013年12月30日。曇り。夕暮れ頃から風、強く、 かちゃかちゃかちゃかちゃかちゃかちゃかちゃかちゃかちゃかちゃかちゃかちゃかちゃかちゃかちゃかちゃかちゃかちゃかちゃかちゃかちゃかちゃかちゃ 不安を森… [more]
アベ どうしてもお前が記憶を無くしているとは思えない。ぼくはお前を信じていない。 お前はもうどこかで思い出しているのではないか。あるいは、思い出していることに自信が持てないのではないか。 以前の耕助は言っていたよ。 別人になってやり直したいなんて、らしくもないことを。 ぼくはそれを聞いて笑いもした。「どうしようもないな」 泣きもした。「ど… [more]
“Pedra” Nuvens alinhadas Pés saltando do cobertor Brisa Vento leve a diferença Audição Esta pedra Esta pedra Sou eu Algum dia para o mar Um pássaro que n… [more]
『李箱のモダニズム研究 1936 年を中心に』(東京大学大学院総合文化研究科博士学位論文 崔真碩)という論文を、たまたまwebで見かけて読んだ。PDFで188頁、原稿用紙にして550枚にも渡る大作であったが、一気に読み切ることになった。 崔真碩という方のことは申し訳ないが存じ上げない。お幾つくらいの方なのか、男性なのか女性なのか、現在… [more]
ドラセナの仲間である「竜血樹」という珍しい植物を買った。幹にナイフを入れると赤い血が流れる不思議な木だ。ごつごつした、大人の腕ほどもある幹の先に、濃い緑の葉がちょうどバナナの皮をむいたように何枚も垂れ下がっている。買った個体は高さが2メートルもあり、うちのバルコニーには置けないので、いつも通りビシコに預かって… [more]
【制作日誌】 2020年、秋の好日 11:30 アベサトルが青い表紙の本のフライヤーを取りに来る。ついでに『寒山拾得』の動画を撮るらしい。意味不明。 12:00 激辛麻婆豆腐で三半規管がやられる。 13:15 制作スタート。バトルシーンが必要だというので撮り始める。 13:45 撮影終了。編集作業スタート。 14:46 ピアノ等録音。書道… [more]
一匹の尾の長い猿が草原を駆け抜けていく。遥か遠くに接近する気配を捉えている。 猿の手足には小石が食い込む。霞む青き稜線。 ネオン。サイレン。色とりどりの旗。濃い口紅。石畳。路地の向こうから聞こえる祈りの声。溢れ続けるコップの水。 駆ける尾長猿の体毛は薄い紫色をしている。隠れる場所などない。 雲は無関心… [more]
サービスエリアまであと5㎞というところで雨が降ってきた。 始めは小粒だった雨はみるみるうちに本降りとなり、滝のようにフロントガラスを襲った。 「テト、大丈夫かな」 「大丈夫」 「痛くない」 「そうそう」 視界が悪くなり、僕は逆に少しアクセルを踏み込む。カーブを曲がるたびにリヤが滑っているような気がする。本… [more]
バイパス沿い、時代遅れのレストラン。好き? 好き。 朝ですか? いいえ、真夜中。 朝でしょう? そうだね、もう明け方。 煌々と明るい大きな窓。 夜明け前の空が一番暗いって誰かが言ってたよ。 窓際の席では… [more]
名前 1 青井麻子。十九才。 大検は合格しました。今は予備校に通って、次の春に大学に入学したいと思っています。 「これは、あなたが二才のときに書いたお話」 おかあさんがそう言って見せてくれたのが、この本です。 はじめて見せてもらった時から、こんなにボロボロでした。 今になって思えば… [more]
高校に上がるくらいまで、水太(みずた)はよく絵を描いていた。 覚えているのは茶色の表紙のノートブック。2Bの鉛筆。アクリルの8色セット。モノクロームの絵ばかり描いていた時、ふと思い立って色をつけてみたことがあった。ところが完成した絵は、気付けば自分の思っていたものと全然違ってしまっていて、それきりカラーは使… [more]
倍音階全鍵録音方式に似て いまのはソのおと。 これはレのおと。 ド♯。 またド♯。 いまのはわかった? ぜんぜん。 ファ。 ソ。 ソレ。 ソレソ♯。 しずかだ。 シだ。 いまのは? シでしょ? あってる。 ほんとに? うそ。 なにかんがえてんの? ともだちの… [more]
涙の向こうに来たるべきものに手をかけて。 狂ったように強いシャワーがプラスチック製の椅子に座り込んだ彼女の頭の先から降り注ぎ、黒く長い髪はじっとり重く濡れて首に絡みついている。朝から不吉な熱い雨。霧の中に忘れ去られた石灰岩の塑像のように孤独なポーズ。美しい背中を細い川が蛇行し、尻の谷間へと流れ込んでいく。北… [more]
もうすぐ深い霧に包まれることを動物達は知っていたようで、うきうきとしたような、そわそわとしたような、足音や息遣いがその大きな沼の周りに満ちていました。 やがて名も無ければ顔もない指揮者が息を止め、その場に居合わせた様々な形をした者達のざわめきが引いて、彼らの謙虚で無垢な視線が尖った指揮棒の先に… [more]
自分の生まれ故郷のことを風子はよく知らなかった。五歳の頃に引っ越したからだ。実家はもうなかった。時間貸しの駐車場になっていた。 新築だったのにね。 彼女の父と母は、その家のことを思い出したくないようだった。家のことはよく分からない風子だが、その気持ちはよく分かると思った。 私だって、買った… [more]
コトちゃんのこと 有名なスナック「うかあれ」の中でも、あまり人気のないコトちゃんが言っていた。 コトちゃんは滅多に話さないので、その声は貴重だ。 常連客達の最低に上品な笑い声。ママ達の激しすぎる相槌。そして止めどなく湧き出てくる色褪せぬ冗談の渦の中に、コトちゃんの言葉は弱々しく浮かんだ。 あた… [more]
文ちゃんはいつも思案顔です。思案顔なのでぼくは不安になります。文ちゃんは何かをいつも考えている。何を考えているのか、とか、どういうふうに考えているのか、とか、そういうことは全然わかりません。友達の輪の中で話を聞いている時の文ちゃんの笑顔も、ぼくには思案顔に見えます。国語の時間に立って朗読している横顔も他のクラ… [more]
迷子になった飛行機が東の方角へ流れていく。私達は冷たい部屋の中からそれを見送っている。私達の冷たい床と壁の部屋の外には途切れることのない雑踏がある。飛行機、そっちに行っても何もないよ。陸も国も村も果ても。機体に大きく描かれた「我ら、汝らと我らの望んだ侭に」の引用を見ながら、そういうことなら私達も同罪かもしれな… [more]
湿度九十パーセント。 その女子高生は持っていた黒い傘を振り回したが、若い男は振り下ろされたそれを掴んで強引に奪い取り投げ捨てた。もう一人の男が女子高生の襟口を掴んで力任せに引っ張る。女子高生はいとも簡単に床に倒れた。黒い髪が薄汚いクリーム色の床に広がる。 ひとけのないセンタープ… [more]
あまり知られていないことだが、俺の実家である「ヘアサロン平口」の朝は早い。普通の会社員が眠い目を擦りながら歯磨きをしている頃、親父は既に制服に着替え、ソファーに座りながら客が来るのをじっと待ちかまえている。しかしもちろんそんな時間から客など来るはずも無く、俺は親父を尊敬するどころか少し頭が弱いんだろうと思っている。 毎朝… [more]