SANITY

 







 いつ来よってもひっでえ街だん。なんだん格好つけよって。どこ格好つけとる言うんよヲイ。うちのどこがど格好つけとる言うんよ。そうんよ。そん覚えたてみたいな日本語んよ。黙れポンコツ。ポンコツ黙っとろ。何がひでえ街か。意味分かて言うとんか? 意味の意味分かよんか。日本人ぶりってよん。うちは、日本人なんよ。格好つけとんはお前の方よ。さっから涼しい顔しとけどほんは暑くてしゃねんだろ。ん。何も考えんだろ。腋の匂い嗅がせてみれ。安物のパヒューム塗りたくっとんじゃね。女くせよ。何年前の女か。そんな暑いんな、さっさ故郷帰らば。帰ってあん美女とガキこしらえて入学式だ行きゃええじゃ。なんそれ。あんの穴の方がよ暑いんだろ。湯気立っとん。温泉卵が作れんぜ。ひでえ。誰美女て。甘いのを託すん勘弁。なんのこっちゃ。だが、日本語おかして。んなことね、普通だわ。おい、リョー、どう? やけに静かじゃね。いきなり死んじゃねえな。ちゃん水飲め。病院なん連れてけねえから。大丈夫。腹が減って死にそ。ホテル。飯はそれから。分かっとる。ボクちん、本当の飢えを知らんからそんなに弱いんぜ。だっせ。うさいシコッティ。シコッティじゃね。スコッティ。シコッティの意味、分かって嫌がってん? ほんに日本人みたいなヤツだ。日本人だっ言ってんだろう。何処ん日本人がそんな日本人になりたがる。あ? どうでもええわ。
 シコッティのヤツは僕のことをボクちゃんと呼ぶ。僕はそんことで腹を立てたりせん。シコッティみたいな得体の知れんもんに馴れ馴れしくリョーと呼ばれる方が寒気がしよる。出来ればシコッティとはただのお知り合いのまんまお別れしたい。シコッティはまあ間違いなく同性愛者だと桑井は言っとる。
「ボクちゃんなん呼ばせん方がええ。やめろとはっき言った方がええ」
 桑井がそう言うのなら間違いないのだろうが、こっちに来てからすっかり暑さにやられてしもてる僕は、そんなことはどうでもええ思とる。どうでもええ。こんガイド役の東洋人が同性愛者だろうがテクニシャンだろうが日本人だろうが知ったこっちゃない。さっさとやることやって帰らん。すぐに暑いのもどうでもようなるらん、桑井は真っ黒なサングラス越しに笑う。よくもまあ、そんだけ太って涼しい顔してられるっちゅうもんだ。僕はタンクトップとハーフパンツにビーチサンダルでもへばっとるのに、桑井は何を気取ってんか、黒んジャケットなん羽織ってやが。突き出た腹んせいで、ジャケットんボタンは一つも届く気配すらない。こいつはいつもこう、とシコッティは言う。
「あんま目立ちとうないんやけどな、こいつんせいでいつも目立ってまう。いかにも性欲。同じ女は二度目は嫌がりよる。ただでさえ好みうるさいくせに、やりにくい」
 それでも桑井は金を持っとるんで、シコッティはせっせとそん街そん街で桑井好みの若い年齢不詳の女を探しだしてくる。年齢不詳というのは、就学中の少女かもしれないという意味だ。腕はいい。話も早い。口も悪いが、そういうところも桑井の気に入っているらしい。冗談もやり合えんヤツと仕事も出来ねえ。何が仕事か。異常性欲者と同性愛者とボクちゃんの三人旅。こりゃあ気楽な旅。悪いことや難しいことなんか何も考える余地がない。どこまででも行けそうな。自分までおかしくなったような、楽だ。
 リゾートホテル、ピザ屋、プールバー、ダンスホール、ブティック、小さなシアター、ドーナツ屋、タトゥーペインティング、貸しバイク屋。舗装された道路。整然と並ぶ椰子の木。花壇。なんだかここだけ他の国。ガラス張りのカフェを覗くと奥の壁にはプロジェクターが映し出す一昔前のダンスミュージックのMV。モノトーン、次から次へと現れては次から次へと消える獣と激しいダンス。合成、CG知らん、そしてそのダンスには確かに見せるものがある。すらりとしたダンサーの静かなステップと穏やかな四肢のうねり。関わらず激しく感じられる。なぜ。激しさは精神鼓動血の巡り、とか。こういうのはなんだかんだ言って。退屈そうなウエイトレスが三人並んで画面を睨んでいる。
「ほんとひでえ街」
「随分西洋の金の入ってそうな通り」
「昔のな。西洋人が大挙して女を買いに来た。今はもう来ない。流行らない。高くても日本とか韓国に行っちまう。代わりにボクちゃんみたいなのが来るようになった。全然儲からない」
 この町で仕事をしよるのは初めてなんだけどな、とシコッティは言った。
 若い現地の女を連れた西洋人も何組か見かけた。夫婦のように堂々と街を歩いている。西洋人達は一様に恰幅が良い。若いのはいない。
「女達も桑井みたいな男の相手をするより、ああいうオヤジん相手が楽に決まっとる」
「色んな女がいる」
「少なくともお前が一度やった女は全員二度目はなかった。絶対にな」
「いや、その時はそれぞれ全然違うもんだ。それにな、一回きりっての、いいもんだ」
 大きなレストランの入り口ん脇に立って不気味な笑みを浮かべる巨大な赤ん坊のマスコット人形と記念写真を撮っている何が嬉しいのか全員同じ笑顔の若い女の集団のストロボが光ってクソ暑い太陽がまた勢いづいたような気がする。赤ん坊人形の目ん玉は触られ過ぎたせいで黒目がほとんどなくて笑いながら死んどるように見え、あんなもんと写真を撮るくらいなら、俺達と写真を撮った方がマシじゃねえか、とシコッティは言う。どこから来た連中だ。田舎者ん違いない。擦り切れたジーンズ、貧弱な尻、はちきれそうな尻。清涼感の欠片もない乾ききった髪の毛、揃いも揃って大きな鞄、履き潰されたスニーカー。あの中の誰か無理か、と桑井が言う。全員まとめてならいけるんじゃねえか。それでもいい、と桑井は真顔で答えた。
 ホテルはその大きな通りから山側に三本入ったところに決めた。たった五分歩いただけで道路も舗装されていない。コンクリートとバラックと砂埃。穴だらけの褐色の道路が午後の日差しを照り返して眩しいわ。無用に広い道路だ。子供の下手糞な絵みたいに空白だらけの道。死んだように寝ている犬と死んでいる犬と死にかけている犬。軒先の椅子に腰掛けて眠っている老人と眠りかけている老人と眠っていない老人。本当のところ見分けることは出来ん。当人達にだって。
 ホテルは五階建て、いかにも貧しげな住宅地の角地だ。看板が出ていなければ、拘置所が少しずつ削られて最後に五階建ての絞首台の塔だけが残されたように見えなくもない。この国では天国への階段の何段目が抜けてるんだろうな、と僕は言ったが案の定二人にはウケなかい。シコッティは「気に入らなければ、ボクちゃんには託児所でも紹介しよう」と言い、桑井は「リョーは勉強不足だ」と言った。ははは。
 フロント、といっても、小さな商店とクリーニング屋の受付を兼ねていたので、野菜や果物や乾物や缶詰や飲み物のボトルやカセットテープや色褪せたシャツやズボンやネクタイやドレスが所狭しと置かれていた。おそらく双子と思われるオバサンが二人話し込んでいて、僕たちが入っていくと、片方が英語で何か言ったが聞き取れなかった。シコッティが値段交渉を始めたので、桑井と僕はようやく重いザックを下ろし、それに腰を下ろした。店の中まで砂が入ってきてやがる。さすがの桑井もジャケットを脱いで、手の甲で額の汗を拭った。あのおばはん二人双子かな、と言うと、桑井は「お前の方がよっぽどやられてる。シコッティに値段交渉してもらえ」と言った。
 一泊ごとに毎朝精算をすること。出入りは裏口から自由にすること。鍵はいちいちフロントに預けなくて良い。冷蔵庫はあるが中は空なので、欲しければここで買うこと。煙草は置いてない。殺虫剤が玄関に置いてあるから自由に使うこと。コックローチが出る。食事は近くに中華料理を出す店があってそこから出前をとることができる。他のフロアの使い方によってはシャワーの出が良くない時があるので、しばらく待ってからもう一度試してみること。
「ああ、決めていいよ」
「コックローチ?」
「ああ、ゴキブリだ。好きか?」
「勘弁しろ」
「気にすんな。どこん泊まっても同じ。殺虫剤があるだけ親切。だわ」
「わざわざ言うってことは、ほら」
「大丈夫だ。ボクちゃんの知ってるコックローチとは違う。大きさは倍以上ある。言葉だって喋るぜ」
「そういう国なん。女だって、お前の知っとる女とは違うんよ」
「コックローチとだって大丈夫だぜ。探してきてやろうか? 3P? 4? 安くしとくよ」
 各々の部屋に荷物を下ろした後、荷解きもせず、そのままホテルを出た。遅すぎる昼食のためだ。まず近くにあると紹介された中華料理を出すという店に向かったが閉まっていた。もし開店していたとしても躊躇う。屋根が傾き、それを角材で支えていたがその木材も潮風にやられたのか腐っていた。入り口の引き戸の取っ手は分厚い錆に覆われていて、触るのも憚られた。入り口横の甕には水が張られ、その中にはどういうわけかでかい亀が何匹も詰め込まれていた。食材なのかペットなのか首を傾げる。亀達は各々が押し合い圧し合い体を擦り合わせている。
「コックローチも逃げ出すぜ」
「ついてない」
「ついとるよ。開いてねえんだから」
 結局西洋かぶれした通りまで戻り、端にある南アジア系の小綺麗な食堂で昼食となった。ドス黒い色の香辛料がきつい大皿料理ばかり、空腹の僕達は文句一つ言わずに平らげた。食後には香りないコーヒーを揃って飲んだ。シコッティは土の匂いのする煙草を吸った。美味そうだったので一本くれと言ったが、ボクちゃんは指でも銜えて見てな、指を銜えてりゃ菩薩に見えるぜ。
 桑井は機嫌良くホットコーヒーに角砂糖を次々と足しながら、今回はどういうことをしようと思っているかということを話す。シコッティはそれを頷きながら手帳に日本語でメモしていった。
「ひどくノーマルだ」
 桑井の要望はとてもじゃないがノーマルには聞こえなかったが、シコッティの口調から冗談なのか本気なのかを計ることは出来ない。安全なものとは言え、化学物質を使う時点で私には想像がつかない。
「一周したって感じでな、シンプルにやりたい。一方的なのにも飽きた、出来れば女の方にも積極的にやらせたい」
「それはいいさ、期待外れでも俺は責任持てねえよ。初めての街だけど、ここの連中はあのオヤジどもに慣れてしまってる筈だ。そんなに想像力が豊かだとは思えない」
「うん。それならほとんど素人みたいなの。恋人としかやったことがないっていうようなのがいい」
「そんなの、世界中探したっていねえよ」
「お前、それ本当に飲む気か?」
「な?」
「ほとんど砂糖だ」
「精液のほとんどは砂糖で出来てんだよ。リョー、舐めたことねえの?」
 天井のファンが回転数を増した。モーターの唸る音が高くなった。表から救急車両のサイレンの音が聴こえ、それはモーターの音とファンが空気を切る音とでビートを刻み店内を揺さぶっているような気がする。桑井のスプーンの回転。サングラスの中で砂糖はドロドロに溶けている。エアコンの効いたフロアで汗一つかくことなく全身をくねらせて踊るのっぽのダンサーのポスターにはCGの背後霊がよく似合う。ダンスの神の亡霊。黄色い帽子の店員のゴム底がきゅっきゅとリズムを奏でている。ダンスの神は晩年のインタビューで核心に触れてと前置きし以下のように言っている。ダンスの極限状態はソロである。しかし、そのソロは神聖なるものとのペアでなければならない。神聖なるものは卑俗なものでなければならない。そう。女でなければならない。
「シコッティは日本には行かないのか? お前くらいの腕があればどこでだってやっていけるだろう」
「そうだ。こういうのはどこでもやり方は同じだからな。光と影の境目はどこにでもある。でも駄目なんだよ。あそこは。国外追放されたんだ」
 何が光と影の境目だ。日本人が国外追放されてるなんて聞いたことがない。
「じゃあ、俺はここから仕事、お前らはどっか行く?」
「俺は部屋で一眠り」
 僕も桑井についてホテルに戻ることにした。
「ビールでも買って部屋でテレビ」
「ボクちゃん、そういうのにも結構いいのがいるけど? なかなかいいもんだ」
 僕は少し考えてから「今はいいよ。ありがとう」と答えた。
 桑井は無惨なコーヒーを一気に飲み干し「心と体を壊すくらい自由に」と言って立ち上がった。へえ。



 リョーが飛行機の中で見た夢。
 図書館か博物館か美術館か分からないが何処か文化的で権威的で人工的な静けさの建物の中に獣が迷い込んでいる。詳しくないがジャッカルとかジャガーとかそういう俊敏で凶暴そうな動物で、肉体は細く固く黒い毛は短い。その獣は決して停止することなくフロアの中央で円を描くように闊歩している。しかしその目はトロンと眠そうにも見える。獲物を求めているのでも苛立っているのでもない。いつからここに迷い込んだのかは知らないが、随分弱っているようにも思える。サメが泳ぎながら眠るように、この獣は歩きながら眠るのだろうか。目に凶暴さがないのでリョーはどうして良いのか分からなくなる。リスクを冒してでも自分がエレベータの扉を開け、獣をうまく追い込んで閉じ込めてしまう方がいいのかもしれない。エレベーターに水でも流し込んでやれば溺死させることも出来るし、水に毒物を混ぜてやればもっと簡単に殺すことも出来る。無理に銃殺することはないのかもしれない。この静かな空間に獣の悲鳴が響くことは恐怖だ。右目と右前足に銃弾が命中したとして、おそらく獣は血を吹き上げながら自分に襲い掛かるかもしれない。しかしエレベーターに閉じ込めて殺した場合、後でそのエレベーターを開けること程、恐ろしいことはないような気もする。
 乗り物の中で目が覚めるのは悪くない。時が止まったかのような一人の部屋で目を覚まし、まだ生きている時計を見ている時が一番苦しい。一番きつい現実を突きつけられているような気持ちになる。飛行機の狭いシートの上で目を覚ました僕は閉じ込められていることに安心感さえ覚える。移動していることにありがたさを感じている。今許された場所に自分はいる。夢と現実の間にいる。真っ白な雲の上のこの空間を神域とさえ感じる。このままどこにも着陸しなければいい。



 テレビのチャンネルは三つしか映らなかった。その中からインド映画を見ることにした。どれにしても言葉が分からなかったので、歌謡劇ならまだ見れるかもしれないと思ったからだ。映画はちょうど始まったばかりのようだった。見込み通りストーリーは単純で言葉が分からなくても理解することは出来たが内容はつまらなかった。水利権を争っている村に住んでいる男女が恋に落ちるという、なんとも期待しにくい代物だった。どうせどっちかが運河に落ちるんだろうと思って見てたら、二人とも落ちて、二人とも助かった。こんな禁欲的な映画を誰が見るんだろうな、と思ったが、おそらく今この時にも何万人もの人間が自分と同じようにテレビの前で見ているのだ。
 聞いたこともない銘柄の缶ビールを既に四本飲んだ。ラベルにプリントされたアルコール度数は普通のビールと変わらない筈なのだが、幾ら飲んでも酔いは訪れなかった。鳩のようなアイコンが描かれたラベル。ビール自体少し水っぽい気がする。水っぽいビールは嫌いではない。屋台で買った焼きそばのようなものを食べた。焼きそばよりも麺が短く、プラスチックのフォークで掬うようにして食べた。酸味が気になるが十分食える。もっと強い酒を買えば良かったと思ったが、またあのうだるような暑さの中を酒屋まで歩いて行くのは気が重かったし、さっき陳列された酒のボトルを見たところでは、どれがどういう酒か分からないようなものばかりだったから、結局無難にウィスキーやブランデーやラムやウォッカでも飲むことになって、そういう内臓にへばり付くようなまどろっこしい酒が飲みたいわけではなく、頭の悪そうなリキュールでも飲みたい気分なので、後でシコッティに頼んでとびきり甘くて頭の悪いのを買ってきて貰おうと思った。そう言えば精液は糖分だと桑井も言ってたな。
 テレビの横にはダースのコンドームが五箱も積み上げられていた。部屋に入ったらすぐにシコッティが持ってきたものだった。桑井からのプレゼントだ。コンドームはこの日本製のものを使え。あの国は子孫を残す気がないくらい精密なコンドームを作る。知ってたか? 付けたままでもションベンは出来るが、精液は一滴も漏らさないんだってよ。すげえぜ。メイドインジャパン。女が用意したコンドームは使わない方がいいぜ。何が起きるか分からない。健康でこその不健全だぜ。そうだろ? ありがとう。それにしても五箱、どうやっても使いきれる筈がない。桑井なりに励ましてるつもりなんだろうけどな。
 部屋のドアは赤い鉄製で、ドアの下には五ミリ程の隙間があり、そこから外の音が滑り込んでくる。コンクリートの階段を上り下りする人の足音が聴こえる。階段は建物の外壁に付けられている。階段を行く足音で男か女か分かる。男の方がせっかちに階段を上り下りしていた。女の方が優雅だ。こんなに隙間が開いてたら中の音だって外に丸聴こえだろう。何をするにせよ聴かれてまずいものなんて何もないけれど。この隙間からコックローチが入ってくるんだろうぜ。何か詰めておいてやろうか。
 冷蔵庫から五本目のビールを取り出す。この映画はいつまで続けるつもりなのか。折角二人の結婚を祝して新しいビールを開けたというのに、結婚パーティの途中で双方の兄同士が大喧嘩を始めた。本当に一体誰がこんなものを見てるんだろう。そもそもヒロイン役の女のスタイルがいびつで、そればかり気になってしまう。腰は細いが、押さえつけすぎた乳は二段になっていて、見ているこちらが苦しくなる。早く下着を取ってやりたいが、締め付けている下着を取ると大きすぎる乳房はだらしなく垂れて腐ったチーズみたいな匂いを放つのだろう。どうしてこういう体型の女の陰毛の形は簡単に想像することが出来るのだろうか、と僕は思う。もしかしたら自分の母親の体型に似ているせいかもしれないと考え、なかなかひどい映画に当たるもんだと笑みが漏れた。そう言えば、男の陰毛の生え方で性格が分かるんだと言ってた女の子がいたけれど、陰毛の生え方を見てる時点で、普通はやっちゃってるわけで、やり方で分かってるだけじゃんじゃないのか、と思い出すとおかしくなった。あの女の子はもしかしたら僕とやろうと言ってたのかもしれないな、そんな適当なことを考えている内に眠っていた。



 ドアをノックする音で目を覚ました。とっくに陽は沈んだのだ。部屋は真っ暗だった。付きっぱなしのテレビの画面が眩しい。映画は終わったようだった。通信販売の番組をやっている。
「寝てたよ」
「コックローチが怖くて居留守でも使ってんのかと思ったよ」
 ノックしていたのはシコッティだった。シコッティは昼間着ていた真っ赤なシャツを脱いで、光沢の芥子色のシャツに着替えていた。いずれにせよ真似したくないセンスだ。どうする? 今夜は俺におまかせでいいのかい? ま、その方が間違いないかもしれないけどな。シコッティは部屋に入り、一脚だけある一人がけのソファに座った。僕はベッドに腰掛けて、ビールを一口飲んだが、温くなってしまったビールは匂いがひどく、そのままバスルームへ行って便器に流した。
「桑井は?」
「女と晩飯食いに行ったよ。美味い海鮮鍋を出す店があってな。そこへ行った」
「どう? いい子見つかった? 素人っぽい子だっけ?」
「当たり前だ。最高のを連れてきた。桑井のツボは心得てる。貧乏な娘だよ。擦れてない。下手したら今夜はここまで泣き声が聞こえるかもしれないぜ」
「なんだ。積極的な子じゃなかったっけ?」
「違う。あいつが望んでるのは、積極的じゃない子供が積極的にやることなんだ。あいつは教育的なところがあるんだよ」
「だからって泣かしちゃ意味ないんじゃないの?」
「泣くのって積極的だと思わないかい? ボクちゃん。本当に受身な連中は泣いたりしないよ。泣くやつは、泣きながら変わる」
「シコッティ、お前」
「なんだ?」
「お前、日本人みたいなことを言うやつだな」
「だから日本人だって言ってんだろ」
 シコッティがリモコンを使ってチャンネルを変える。歌番組をやっている。オーディション番組か? 若い女の子が棒立ちで歌っている。
「何時?」
「二十時」
「マジか。かなり寝たな」
「だから早く決めてくれないか? 早いところ今日の仕事を決めちゃってだな、俺もお楽しみといきたい。もちろんプロだからお客様が納得するまでは付き合うわけだから」
「じゃあ今日はそっちの方はいいから、なにか甘ったるい酒を買ってきてくれないかな?」
「何?」
「女はいいから酒」
 そう言って僕は首を振った。村のしきたりだけであの人と結ばれないなんて、ましてや決められた結婚なんて、ありえないわ。私は私の好きなようにする。
「何言ってんだ? お前、何も分かってないな」
 負けじとシコッティも目を細め首を振った。有り得ないことなんてない。コックローチとだってやれる世の中なんだ。
「みんながみんな桑井じゃないってことだよ」
「そうじゃない。桑井が特別なのは俺だって分かってる。何度も言うが俺はプロだ。俺は何もあいつの真似をしろなんて言ってない。あんなのはいくら金を持ってたって俺も御免だ。そうじゃないんだよ、ボクちゃん。元気を出すには、女しかないんだよ。それは絶対にそうなんだ。やるとかやらないとか、そりゃやった方がいいんだけど、やらなくたってまあ、いい。やれる女がいてりゃ、元気が出るんだよ。なんの問題もない。ちょっとした病ぐらいそれで治るんだよ。問題はやれる女がなかなかいないことなんだ。でも、本当はやれる女はいるんだよ。ボクちゃんは、そこのところが分かってない」
 僕は頭を掻いた。
「ボクちゃん、女に裏切られたそうじゃないか」
 桑井が喋ったんだな。あいつはそういう良いところがある。まあ、シコッティに何を喋って貰っても構わない。僕だってシコッティのようないいかげんな存在になら何を話したって構わない気がする。
「大したことじゃない。どこにでもあるような話だよ」
「分かるよ。ボクちゃんの気持ち。どこにでもあるような話って、きついもんだ。かつて俺も一度だけひどい目にあった。今でもその記憶は薄れこそすれ痛みは一瞬で蘇るよ。気持ち悪さ、やり場のない無力感、不信感、何も楽しいことなどなくなった、どいつもこいつも何も分かっちゃいなかった。頭の中で想像することだけがリアルで、目の前にあるものは全て自分の想像のようだった」
「良かったらシコッティに何があったのか聞かせてくれないか?」
「嫌だね。なぜなら俺もボクちゃんの話を詳しく聞いてあげる気はないからだ。俺の今の仕事は、ボクちゃんの頭の中にあるリアルってやつを否定することでも証明することでもなくて、ほんの少しでもアソコを笑わせることだからな。元気の出ることしか、俺はしないんだ。それが俺の仕事なんだ、分かるか? 一人で酒なんか飲んだって元気なんか出てこないんだよ。俺はその道のプロだよ。任せてみろって」
 シコッティは笑顔を作ったが、僕はそれに答えることが出来なかった。
「仕方ねえな。俺はな、プロだからな。絶対にボクちゃんをやらせてみせるからな」
「心強いよ。本当に」
「誰の言葉だったっけか? 確か日本人だよな。その気のないやつは救えないって。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれだっけ? 違うか?」
「難しいよ」
「それにそんなに誰かに話したければ女に話すんだな。これは大事なことだぞ。どこかに書いといてやろうか?」
「大丈夫」
「会話をするんだよ。会話。下らないことでもいいから、女と会話をする。どこでででもいい。どんな言葉でもいい。どんな内容でもいい。それだけで全然違うってもんだ。会話はな、セックスと同じくらい、やばいんだよ。金玉と子宮に自然と血が集まってな。男と女で会話をして、まともなやつらなら自然とセックスになるんだよ。だからこうやって男となんてだらだら喋ってたってダメなんだよ。セックスにもならないし、元気なんて出ない」
「分かった。初めて聞いたけどその通りだ。覚えとくよ」
 シコッティは脇机に開かれた白紙のノートを見つけ「なんだ、ノートがあるじゃねえか。書いといてやろう」と言い、僕が制止するよりも早く「会話はセックス」と下手糞な日本語で書いて、誇らしげに見せた。これ以上ないくらい下らない標語だ。けれど、ここに来て見る下手糞な日本語には不思議と力がある気がしてしまう。歌番組では甲高い声のコーラス達が首に筋を立てて叫び声を上げている。言葉は分からないけれど、どうせ会話はセックスだとかそういうことを歌ってるんじゃないんだろうか。
「明日は絶対にいい女とやらしてやるから、寝言で言うくらい暗誦してろ。しょうもない夢なんか見るんじゃねえぞ。一番いい女の夢を見てしっかり準備しとけ。誰かじゃない。自分自身が一番いいと思う女のことを隅々まで考えろ。自然とやりたくなる。セックスなめんじゃねえぞ」
 そう言ってシコッティは部屋から出て行った。あいつ本当にゲイなんだろうか。それこそどうでもいいことだと思った。



 色とりどりの折り紙で折られた鳥が吊られた店先で店主らしき男から何かを激しく言われたが、何を言っているのかはもちろん一つも分からなかったし、それが警告なのか商売文句なのかも区別が出来ず、僕は曖昧に首を振って足早に通り過ぎた。男はそれ以上追っては来なかった。おそらくただの呼び込みだったのだと思う。一体何を売る店だったのだろう。
 夜になって海沿いの通りには所狭しと屋台が並んでいた。昼間の暑さはすっかりどこかに去って、湿った海風が気持ちよく吹いている。防波堤に立って海を見てみたが、漁船一つない真っ黒な海だった。波の音も聴こえない。それとは引き換え街は色に溢れ昼間よりも活気に満ちているような気がした。スイーツを売る店でよく分からない果物の入ったタルトを買って食べた。甘く粘り強い南国の味が喉の奥にこべりついた。紫色のタンクトップを着た南米っぽい女がウインクしてきたが僕は手を振って断った。女はそれだけでは諦めず近づいてくると、その骨っぽい肩を僕の二の腕に押し当てしばらく横を歩いていたが、僕が全く相手にしないといつの間にかどこかに消えていた。
 眼鏡を売る屋台の前で黒いセルフレームの眼鏡をかけてみる。細面の無愛想な店員が、睨んでいるつもりなどないのだろうが鋭い目つきでこちらを見ている。屋台の柱に掛けられた小さな鏡を覗き込む。目は良い方だ。これまで眼鏡なんてかけたことはない。鏡の中の自分の顔は、別にやつれてもいないし、落ち込んでるようにも見えない。早速少し陽に焼けたような気もしたが、その色が屋台の白熱灯のせいかは分からない。いつも通りの自分の顔だ。何が起きようが、場所が変わろうが、顔なんてすぐに変わるものではないな。顔に出てやがる。まだ何も変わっちゃいない。胃の中に重いものがあるような気はしていても、残念ながら何も変わっちゃいない。変わったのは状況だけで、僕は何も変わらず、置いてけぼりなだけだ。
 財布を出して買う意思を示す。男が電卓で数字を示したので、額面通り払ってやった。受け取りやがれ、御祝儀だよ。
 眼鏡ケースは要るか、と聞いてきたので断った。新しい眼鏡をかけたまま、もう一度鏡を見る。黒ネクタイみたいなもんだ。喪中だよ。そんなことを言うと桑井もシコッティも苦い顔をしやがるんだろうな。眼鏡ってのは、かけるためにするんじゃないんだぜ、ボクちゃん、外す時のためにかけるんだよ。女に優しく口で銜えて外してもらうんだよ。レンズをペロペロ舐めてもらいな。おい、リョー、それはドレスが透けて見えるってアレだろ? 騙されやがったな。俺も何度も騙されてるよ。でも不思議なもんで全然透けなくても興奮してくるんだよな。それは、いい買い物だぜ。
 元気が出ない、か。別に僕は元気なんか出したいわけじゃないんだけどな。
 無愛想な店員は、よく似合ってるぜ、と親指を立てた。そして、わざとらしく「いいことを思いついた」という感じで手を打ち、屋台の下から紺色の帽子を取り出し、こちらに差し出した。小さなつば付き帽だ。被ってみろよ、とジェスチャーで示してくる。僕は言われるがままにその帽子を被った。店員は初めて笑顔を見せ、よく似合うと英語で言った。まるであの俳優みたいだと僕の知らない俳優の名を繰り返した。そして、おそらくその俳優の決めポーズか何かなのだろう。右手で眼鏡を押さえながら肩越しに振り向く動きをしろと言ってくる。困って帽子を脱ぎ、返そうとすると、プレゼントだと言って、また電卓で金額を示してくる。プレゼントじゃねえじゃねえか、と僕は思ったが、金額が大したものではなかったのと、彼がラッキーアイテムだと言うので結局それも被って行くことにした。彼はずっと僕の知らない俳優の名前を嬉しそうに連呼していた。僕は去り際に決めポーズを返してやろうかと思ったが、やっぱりやめた。なんだかどいつもこいつも元気を出せと言っているような、そんな気がしてきやがる。
 どこかに入って晩飯を食おうと防波堤と平行に歩いて行って、両替商の角を曲がり、歩道側の壁が全て鏡張りになっているコーヒーショップの前で僕は立ち止まった。そこに映った自分の全身があまりに小さい気がしたからだ。もちろんそれは気のせいだった。しかし、背後を走る乗用車やバスのヘッドライト、けばけばしい屋台のネオン、行き交う無国籍な人々、その中で歩みを止めた僕は鏡の中の無声の世界でどんどん縮んでいっているように思えた。掛け慣れない眼鏡や少しサイズの大きな帽子が僕のバランスを崩しているのかもしれないし、本来の姿を露わにしているのかもしれない。逃げ出してきた人間というのは、こうも情けなく映るものか。黒い眼鏡よりも紺色の帽子の方がなぜか喪に合っているような気がする。どこかの国の司教なんかは、こういう色の衣装を身に着けているような気もするし、どこかの国の死者はこういう色の花に包まれて埋められるような気もするし、光の加減によってはカラスの羽の光沢はこういう紺色に見えなくもない。夜間飛行。鏡の中の僕は大きく手を広げ、風を捕まえて宙に浮いたフリをした。ビーチサンダルが地面に残り、裸足の爪先は地球から離れた。重い空気の層の上に僕の体は乗っている。帽子が飛びそうになるのを僕は右手で押さえる。バランスを保とうとする左手と右足は夜の中を掻き、醜くも均整のとれたポーズで僕は静止し、そこから体を捻るようにして重力に対して上下を逆さまにした。手を離しても帽子は落ちない。逆さまに泳ぐ魚を水族館の巨大な水槽を前で見ながら、彼女は言いにくそうにそのことを認めた。僕は白々しい気持ちでそれを聞いていた。僕にとっては死にたくなるようなその告白を僕は鵜呑みになどしなかった。その死にたくなるような話の裏には絶対に知ることの出来ないもっと死にたくなるような話が数限りなく今も隠されているのだということを考えると、目の前の水槽を割り、何万トンもの海水と化け物みたいな魚達の群れに飲まれて全て無かったものにしてしまいたいような気持ちにもなるが、水槽のガラスの厚さなど比べ物にならないくらい強固で無機質な嘘によって真実というやつは守られていて、僕はその白々しいグロテスクな遊泳を黙って見る他ないのだった。水槽に殴りかかる空想上の僕のことを水槽の向こう側の彼女はこう呼んだ。
「正しい人」
 昼間のあの日差しの強さを思うと、確かにこの帽子を買って正解だったかもしれないな、と僕は思った。
 「あの眼鏡屋、うまいことやりやがる」と僕が声に出して独り言を言ったときだった。一瞬少年と見間違えるような顔の女が僕の横に立って、鏡ごしに僕を真っ直ぐに見つめてきた。おかしな女、と僕は反射的に感じている。ワインレッドのだぼだぼのノースリーブを黒いキャミソールの上に重ねて着て、黒いミニスカートを履いている。僕はすぐにお断りだと思ったが、咄嗟に英語が出てこず「ノー」と言った。女は探るような目で視線を外そうとしない。まるで僕の方が女に品定めされているように。鏡ごしに見詰め合っているのもおかしいので、僕は直接女の横顔を見た。女もこちらに顔を向ける。綺麗な女、と言えないこともなかった。化粧をしていない。頬のそばかすが目立った。桑井なんかに言わせると、最初っから化粧をしていない女には気をつけろ、そいつは子供を産む気だぞ、ということになるらしい。あいつの話はどこまで本気で言っているのだろう。本人は大いに本気で言ってるんだろうな、どうせ。シコッティは悪いことは言わないから俺に任せておけ、俺はプロだぞ、化粧をしていない女が良ければそういうのの中で最高のを探してきてやるから、きちんと希望を言え。いやあ、化粧をしていない女が好きなわけじゃないんだ。僕はそばかすのある女が好きなんだ、昔から。
 女はおそるおそる言った。探るように僕を覗き込んでいる。唇の動くのを僕はスローモーションで見ている。
「日本語、話せますか?」
 僕は女の声に胸の高鳴りを覚えた。しかし胸に灯りかけたそれは一瞬にしてあの水族館の沈黙によってかき消される。僕の心はあの場所に地縛霊のようにしがみつくことで、どうにか自分で自分を慰めているからだ。そのことについて何度も同じ空想を巡らせ苦しむ以外に、僕は考えるべきことを見つけられないでいる。エレベーターの扉が開きかけたように見えたのは目の錯覚だった。フロア表示は天文学的に高層階を指している。収縮から拡張に移ろうとした心臓を無理矢理止められたように時が歪んだ。ここでこんなにも簡単に僕の心臓が血を吐き出すようなら、彼女の裏切りは正当化され許され何事もなかったかのように平和的に理想的に悪夢的に幕を下ろしてしまう。僕は断固としてそのようなシナリオを受け入れることは出来ない。そういった連中の御都合主義的な想像には必ず抵抗する。僕はあの時の水族館から出るわけにはいかない。次の瞬間、女が僕の体に強くしがみつき、鼻先を女の髪の毛が掠めた。昼間に汗をかいたままでシャワーも浴びていなかったので、咄嗟にそれが気になって体を離そうとしたが、女の腕はそんなことに構いもせず僕の体を羽交い絞めにしていた。「日本語、大丈夫です」と僕は言った。
 日本人に憧れるガイドの男には負けるけれど。そこそこ話せる方だと思う。
 僕は彼女の肩を掴んでゆっくり体を引き離す。
 彼女は言う。「どうしたの? 元気出しなさいよ」
 どいつもこいつも僕に元気を出せと言ってやがるのか。ベタな野郎ども。
 僕はベタであることを嬉しく思います。なかなかそうあれるもんじゃないんです。思い返せば僕のいい思い出は全てベタでした。







   







 俺が仕込んだかって? ボクちゃんは下らない本の読みすぎなんだよ。信心と疑心を同義だと思ってやがる。失敗しやがるやつはみんなそうだ。俺を疑う前にその女を疑えってもんだよ。ボクちゃん、鏡見たことあるか? どこの女が自分からやってきてお前にタダでやらせてくれるんだよ。やってねえよ。なあ、いいか、よく聞け。その女、名前、何て言ったっけ? タナカ・イー。イーちゃんさ、俺に任せとけ。なんでだよ。そういうタイプ初めてなんだよ。知らねえよ。冗談だよ。俺は嬉しい。リョーがこんなに早く回復するとは思ってなかったからな。正直見くびってたな。いや、でもまあ、元の木阿弥か? 結局日本人の女にいっちゃうわけだから。何しにこんなとこまで来たんだよ。まったく。日本人なのかな? タナカだろ? 俺の日本人の友達にもタナカってのがいるよ。日本のコックローチは日本のコックローチ同士で交尾するんだな。だからしてねえ。見た感じは日本人じゃないんだよな。日本語しか話せねえんだろ? じゃあどこなんだよ。分からないけど。ミックスかな? かもしれないな。日本人はいきなり抱きついたりしないだろ。そうなのか? そうだよ。ところでお前さ、その眼鏡なんだ? 昨日買ったんだよ。どうして? 悪いか? 変装でもするつもりか? いい心がけだよ。色んなことがどうでもよくなってくるさ。治療でそういうのがあるらしいな。眼鏡とか服装とか髪型とか変えちまうっていうバカバカしいのが。それ単純だけど考えたやつ偉いな。イーちゃん、まだ寝てんの? ああ。その女の持ち物、ちゃんと調べといた方がいいぜ。こっち関係のもん隠してたりしたらマフィアがさ。日本人カップルは当局も甘いらしいしな。いきなり抱きつく? やってたんじゃねえの? ねえな。酔ってもなかった。分かんねえなあ。そういうわけで今日もいいから。マジか。俺の仕事なし。桑井、昨日のどうだった? 良かったよ。教えれば何でもやる子だね、ありゃ。でも今日はもういいや。昼はまず泳ぎに行きたいから三、四人。明るい子がいいな。分かった。夜はまた考えとく。了解。ボクちゃんは、本当にいいんだな? そんな居候女に遠慮することねえんじゃねの? 目の前でやっちまえばいいんだ。本当にシコッティが仕込んだわけじゃないんだな? しつこい。俺がいくらやり手だって言ってもな、日本人の女を急に用意するなんて簡単なことじゃねえよ。それにいきなり抱きついてくるなんて、バカでもない限り普通の男なら警戒する。まさかそのまま部屋に連れてきたりしない。ちょっと考えりゃ分かるだろ? リョー、勘違いするんじゃねえぞ。イーちゃんとやる時にも、ちゃんと付けるもんは付けろよ。ところで昨日コックローチ出たか? いや。俺のところも出てない。そうか。不気味だな。
 僕達はシコッティの部屋に集まり行儀良く朝の挨拶を交わした後、昨日の報告をしていた。イーという女を部屋に連れ込んだことについて、シコッティは訝しがり、桑井は爆笑した。イーは英語も全く話せないので途方に暮れていたのだと言った。一緒に何か食べるところに連れて行って欲しいと言うので大きな看板を出した多国籍料理のレストランに連れて行った。僕はローストビーフとビールだけを注文したが、ローストビーフは筋が多くて固く、ソースは塩辛かった。英語が話せなくても食事くらい出来るし、ホテルくらい泊まれるだろうと僕は言ったが、イーはそんなことが出来る筈がないといった風に否定した。ええとこのお嬢さんかと思ったが、運ばれてきたフィッシュフライをナイフも使わずに食べていたので、きっとそうじゃないな。昨夜は何処にも泊まることが出来ず、一晩中街中を彷徨い歩いて、陽が昇ってからバス停のベンチで座って眠ったのだそうだ。なんとでもやりようはあると思うけどな、と言っても、不思議そうな顔をするだけ。頭が弱いのかと思ったが、こちらが聞くことにはそれなりに答えるし、助けを求めた自分の状況を恥じるようなところもある。そのくせ、あのまま僕に会わなかったらどうするつもりだったんだと訊くと、分からないと答えるのだった。
「一人で来たってわけじゃないんだろ?」
 僕は向かいの席の彼女にそう訊ねたが、それに対してはイーは口をつぐんだ。答えたくないというよりも、答えてはいけないとでもいうような拒み方だった。別に何でもいいけどね。
 その後しばらく黙々と食事をして、食後のミルクティーを飲みながら、無理なお願いだけれど一緒に泊めてもらえないか、と彼女は切り出した。ホテルくらい一緒に探してやる、と僕は言ったが、もうこの街に一人で放り出されるのはまっぴらなのだと言って聞かなかった。僕の泊まっているホテルは決して綺麗な方ではないし、風呂にもトイレにもドアはないし、どうも大きなコックローチだって出るらしい、と僕は言ったが、彼女は構わないと言った。部屋は違うが、変態性欲者と同性愛者の連れがいることも告げたが、それでも彼女は一向に気にしない様子だった。僕は思い切って、失礼だけれど僕は君をお金で買ったりするつもりもないし、もしそういうことが目的なんだったら友人を紹介しても構わない、お金はたっぷり持ってるから、と言ってみた。怒らせても構わないと思っていたのだが、イーは笑って「そんなことは気にしなくていい」と言った。おかしな答えだ。
 結局僕が彼女を拒否する理由を見つけることが出来ない形で、部屋に連れ帰った。ベッドは一つしかなかった。彼女は当たり前の顔をして、ベッドの隅に着の身着のままで潜り込み、僕に背中を向けた。そして背中越しに「本当にありがとう。お礼ならなんでもする」と言った。僕が、考えとくよ、というと、ありがとうと言って、しばらくすると寝息をたて始めた。僕はボリュームを消してテレビを付け、水っぽいビールを飲んで、犬の鳴き声を遠くに聴き、さらにその向こうに波の音が聴こえるような気がして窓を開けてみたが、ねっとりとした空気は流れ込んでくるものの、はっきりと波の音と思われるものは聴こえなかった。ホテルの下を一台のタクシーが走り抜けて行った。海まではかなり距離があり、聴こえる筈がないな、と思って窓を閉めるのだが、またしばらくすると波の幻聴が聴こえる気がして僕は眠ることにした。遠慮気味にベッドに潜り込んではみるもの、彼女の体に触れないわけにはいかなかった。彼女は余程疲れきっているのか、少し体が触れたぐらいではぴくりとも体を動かさなかった。おやすみ、なんてベタなんだろうな、元気出せよと僕は心の中でまた言ってみた。



 目が覚めると朝だった。イーは全く変わらない姿勢のままでそこにいた。夢ではなかった。薄汚れた黄色のカーテンを開ける。快晴。海が見えた。海の青は深く、空の青は淡い。いわゆるありきたりな南国の海だった。沖に筋状の雲が見える。イーは身動き一つしない。
 シコッティの部屋から戻ると、ベッドにイーの姿はなかった。バスルームかと思ってそっと覗いてみても誰もいない。イーのボストンバックは床にそのまま置いてあったので、散歩にでも行ったのだろうか、と思った。次の瞬間、もしかしてやられたかと気付き、慌ててテーブルに置いた財布を確認したが、紙幣もカードも抜かれているようなことはなく、念のためパスポートも確認したが無くなってはいなかった。
 あんなに怯えていたくせに一人でどこをほつき歩きに行ったんだと思ってドアを開けると、下の階に続く階段の踊り場からちょっとした隙間をジャンプして渡ったところにある物干し台に、イーの姿が見えた。そこに置かれたガーデンチェアに腰掛けて、イーは街の方を見ていた。ショートカットの黒髪が朝日を浴びて輝いて見える。昨夜見せた疲れ果て沈みきった印象とは違って、健康的な若い女がそこにはいた。いや、若い女というよりも少女か少年のようにさえ見えるのだった。
「おはよう。よく寝てたね」
 僕も物干し台に移って声をかけると彼女は明るい目で「おはよう」と言った。
「いいところね、このホテル」
「気に入ったならフロントに言えばいい。たぶん空き部屋だらけだよ」
 イーは立ち上がり、大きく背伸びをしてからヨガのような体操を始めた。僕は椅子に座って、それを黙って見ていた。柔らかい体。キレのある動き。静止するところは完璧な静止を見せ、手足の動きは美しく対称を描き、リズムは一つも乱れない。
「私、こういうのがいいわ。やっぱり」
「見違える。昨日の幽霊みたいなのが嘘みたいだわ。多重人格」
「知らない。気をつけて見といて」
 本当に多重人格じゃねえの? そんな軽口、昨日は一つも出なかった。
「朝ご飯はどうするの?」
「何も考えてない」
 桑井は昨夜の女と朝食までは食べに行くと言っていたし、シコッティは既に桑井の注文に答えるべくホテルを出ていた。
「部屋にキッチンあったね。泊めてくれたお礼、何か作る。買い物に行こう」
「いいよ、面倒くさい」
「いいの」
「いや、僕はどこかに食べに行くよ。夫婦じゃないんだ。キッチンは勝手に使っていい。シャワーも使っていいよ」
 そう言って僕は立ち上がった。
「ごめんなさい。本当にどこにも行くところがないのよ。お願い」
「別に部屋にいてくれたって構わない。どうせ訊ねてくるヤツがいるとしても、日本語の話せる男が二人だけだ。安心していい」
「一人にしないで。あつかましいのは分かってる。なんでもするから、一緒にいて欲しいの」
「トイレも一緒に入ってくれって?」
「出来ればそうして欲しいけど」
「冗談?」
「当たり前でしょう」
「じゃあ、朝飯、行こうか。シャワーどうする?」
「一緒に入るかって意味?」
「違うよ」
「シャワーはいいわ。もうそんなのどうでもよくなった」
 海岸線まで歩いて出て、コーヒーショップで朝食を取った。店内は少し寒いくらいエアコンが効いているが、窓の外では既に太陽が全開でアスファルトを焦がし始めている。イーのワインレッドの服と黒のミニスカートは、朝のリゾート地には不似合いに思えた。ラフな格好で闊歩する人々の中で彼女の服装は少しフォーマルに過ぎるように見える。それは彼女の姿勢が良いことが関係しているかもしれない。傍から見ればどこかのパーティ会場から抜け出してきたお嬢さんという感じがしないでもなかった。とてもボストンバック一つ抱えて迷子になった挙句、見知らぬ男の部屋に転がり込んでいる女には見えないだろう。二日もシャワーを浴びず、歯も磨かず、下着も替えず、サンドイッチに齧り付く女。これまで割りと育ちの良い女と付き合うことが多かった僕にはイーは新鮮に映った。もしかすると女達は隠していただけでみんな実はイーみたいなものなのかもしれない。僕がそう言うと、イーは「そんなことないわよ」と言った。
「彼女達はみんなちゃんとしてるわよ。お化粧も毎日ちゃんとするしね、トイレに行ったら手も洗う、カロリー計算だって出来る。起きたらすぐにベッドメイキングするのよ。信じられる? たぶんリョーが思ってるよりもちゃんとしてる。そういうのって下らないって思ってたんだけど、最近は偉いなぁって思えるようになってきたわ。もしかしたらそういう女の子達って英語だって話せるし、もし話せなかったとしても、なんとか出来るのよね、きっと。男の子達もたぶんそういうことも分かってて、そういう子を選ぶのよ。なんだかんだ言ってね、甘えた女なんていらないのよ。私みたいにソックスの踵が擦り切れた女になんか、新しいソックスすらプレゼントしてくれない」
「そうかな?」
「そうよ。胸に手を当てて思い出してみなさい」
「イーみたいに見知らぬ男に抱きつけるっていうのは、英語が話せるよりも大したもんだと僕は思うけどね」
「私だって見知らぬ人に抱きついたりせずにやっていきたい。普通は『どうしたの? 大丈夫? 僕の部屋に泊まるかい?』って男の人の方から声をかけてもらえるものよ」
「それ、気をつけた方がいいと思う」
「そんなことよりその帽子素敵ね。もしその帽子を被ってなかったら私はリョーに声をかけることもなかった。なんだか遠くから気になって近付いて行ったのよ。大道芸か何かやってるのかなって思った。でもそれって普通の帽子よね。ちょっと見せて」
 僕は帽子を脱いで彼女に渡した。彼女は色んな角度から帽子をチェックし「種も仕掛けもないわ」と言った。それから帽子の匂いを嗅ぎ、「ちょっと汗臭い」と言ってから自分で被った。サイズの合わない帽子を目深に被って、思案顔をしている。なんだかロクでもないことを考えてそうだな、と僕は手放しな気持ちでストローをくわえ、氷が溶けて薄くなったコーヒーを飲んだ。
「あのさ、怖い人達に追われてたりしない?」
「何それ? 下らない本の読みすぎよ、それ」
 彼女は興味なさそうに言いながら、がばがばの帽子のつばを右手で摘み、勢いよく回した。帽子が止まると両手で掴んで脱いで、椅子から腰を上げ僕の頭に乗せた。本当にラッキーアイテムなんだろうか。
「よく似合ってるわよ。そのアップルパイ、半分貰ってもいい?」



 桑井とは大学時代に知り合った。すぐに桑井は教育関連の書籍の実業家として成功して、多分に漏れず何人かの取り巻きがいた。成功しているもの特有の余裕がありそれは人を惹きつけたし、金もあった。大学は違ったけれど、僕も桑井の取り巻きの一人だった。リョーは他の連中とは違うだろ、と桑井は言う。お前とは事業が軌道に乗る前からの知り合いだったし、何よりお前は俺から一回も給料を受け取ったことがないだろ? おごって貰ったことは数え切れないくらいあるよ。気のせいだよ。
 桑井は当時から軽口が過ぎて、時にそれがトラブルの種になることもあったが、ほとんどの場合桑井の軽口はやつが思慮深い人間であることを示すものとして認められていた。俺の軽口は軽さから来てるんだよ。そんじょそこらの計算高い連中の軽口と一緒にされたくないね。と桑井は言う。お前も俺のこと見くびってんじゃねえだろうな。疑いの余地はないよ、と僕は答える。
 女達も桑井のことを放ってはおかなかった。今ほどではないにしろ当時から肥満気味だったが、女達はそんなことを気にする筈もなかった。痩せていようがオシャレだろうが、つまらない男達のつまらない真剣な話を聞いたりするよりは、桑井の冗談に笑っている方が自分が素敵なものに感じられたからだと思う。それは男の僕にしたって分からないでもない。つまらない男達は、結局は金の力には勝てないと負け惜しみを言ったが、実際は経済力に負けたわけでないということを皆知っていた。圧倒的であるだけに陰口も多かったし、敵対したがる奴等もいた。女を寝取られただのいう話には事欠かなかった。桑井は来るものは拒まずなので、保険も何もなくやりまくっていた。桑井はさ、僕の恋人でも来たらやっちゃう? と、聞いたことがある。酔っ払っていた。おそらく桑井はそんなことを聞かれたことなど覚えていないだろうが、今思い出しても恥ずかしくなる。スナックか何かだったな。学生のくせによくそんなところで遊んでたもんだ。桑井は結構長い時間考えた。こいつがそんな風に考えたりするのは珍しいことだったので、酒の回っていた僕はそのこと自体がなんだか嬉しかったことを覚えている。しかしまあ桑井の出した答えは予想通り、まあ、やっちまうだろうな、だった。でもさ、俺なんかのところに来て服脱いじまうような女は最初からやめとけよ。言われなくても気をつけるよ。俺がやるかやらないかなんて、どうでもいいことなんだ。一番大事なのはその女がバカだってことなんだよ。でも実際にそうなった時にお前にそう言われたら、殴っちまうかもしれないよ。リョーはバカだな。殴ってどうするんだ。殺すんだよ、そうなったら。俺の顔面をスパナでぶっとばしたり、脳天に千枚通し刺したりだな、ガソリン撒いて火つけたりだな、どんな手を使ってでも殺すしかないんだ。簡単に言うなよ。どういうわけかそれが出来なくて世の中の男達は苦しんでるんだよ。知らねえよ。俺はリョーが俺の女とやっちまったら殺すよ。他の男だったら、女の方だけは殺して、男は放っておくかもしれない。でもお前だったら絶対に許すことはないな。終わりにしないと無理だな。裸で抱き合ってるところに踏み込んでいって、二人とも包丁でずたずたになるまで切りつけてやるからな。桑井さん、何物騒なこと言ってんの? 仲良くしなきゃダメよ。仲良くしなきゃ。バカ言うんじゃないよ。これ以上ないってくらいの仲睦まじい話だよ。仲良く三人でやればいいのよ。いつもみたいに。そうでしょ? そりゃそうだ。あ、でもゴム一つしか持ってねえや。付け替えながら使えばいいじゃない。それは嫌だな。おんなじことだろ。本当にそれって不自然よね。何? テレビで見たんだけどトドの群れとかってオスが一頭に対してメスがいっぱいるんでしょ? なんて言うんだっけ? ハーレムだろ? そう。それに対してさ、人間は男が何人かで一人の女をって、すごくいびつな気がしちゃう。それって、まるで複数の男で女を嬲ってるようなイメージだけど、そうじゃないのよね。強い雄がハーレムを築くように、強い女に弱い男が群がってるのね。ママは面白いなぁ。きっとその通りだよ。だから桑井さん達も、弱い雄同士で争うようなことはやめて、女の子をいっぱい脱がせられるようになればいいのよ。そうしたらコンドームなんて一つで十分なのよ。いえ、コンドームだって要らない。スパナもノコギリも釘抜きも要らない。釘抜きは新しいな。コンドームは要るでしょ。私、中学のPTAの会長もやってるのよ。それって最高。桑井は言われるまでもなくその頃から女の子を何人か集めてやってたし、たしかそのスナックの女の子達だってママが知らないだけで集団で桑井と乱痴気騒ぎをしていた筈だ。いちいち覚えてられないくらい桑井は金と性欲に任せてそこら中でお楽しみを繰り広げていた。
 大学を卒業する頃には桑井の事業は僕の想像を遥かに超える速度で大きくなり、一度事務所に行ったことがあるが、引き抜いてきたという年配の男達まで桑井の下で楽しそうに働いていて、あの頃とはもう全く違う立場に桑井がいることを思い知らされた。しかし僕と会って飲みに行くときの当の桑井は、以前と何も変わらない下品な冗談と単語を連発し、それは洗練されてもいなければ色褪せてもいなかった。相手にする女達の年齢層は少しずつ高くなってはいたが衰えることを知らず、本当に出来る男はそっちも凄いということを地で行っていると、あらためて感心するしかなかった。真面目な話、それはな、悪循環というか、好循環というか、泥沼だよ。ある一定以上の余剰金は使う以外にないんだ、実際。で、やるってさ、究極のことでもあるわけだろ? それを自由にやりまくれるようになっちまうと、じゃあ次に何が欲しいって問いになる。色んなやつがいるよ。究極からはダウンサイジングして健全なのもいる。お馬さんを買っちゃったり、ちょっとしたレーシングチームを作ったり、犯罪まがいのことに手を出したりな。でも、大抵のやつはそうじゃない。周囲が健全であれといくら言ったところで無理なんだ。そのままやり続けるだけ、金をかき集め続けるだけになっちまう。俺もそうだ。これは深刻に言うんじゃないけどな、怖いよ。やってる最中は、もうやめようって思うんだ。昔はこれをやったらもう一発やろうって思ったもんだが、もうそんなことは思わない。もうこれで最後にしようって思う。そうすればもう色んなことから降りれるんだ、ってな。でも無駄だ。女はすぐにパンツを脱いであそこはいい感じに濡れて糸引いてやがるし、時は金なりって感じでな、時計の針が回るだけで金は入ってくる。雨水が排水溝を辿って下水道に流れ込むみたいにな、流れ込んでくる。俺さ、馬の交尾ショーを見に行ったことがあるんだけどさ、あの時の雌馬みたいだと自分のことを思う時があるよ。奇妙な器具で上半身を固定されててよ、たぶん注射か何か打たれてるんだろうな、あそこはだらだらに濡れて開いてるんだ。で、そこにいきり立った雄馬が来るんだけど、たぶんそいつも薬入れられてるんだろうな、瞳孔は死んだように開いてやがって、でっけえ鳴き声でさ、正直俺だって耳を塞ぎたくなるような、悲しい鳴き声だったぜ。アナウンスするじじいが「やりてえやりてえいれさせいれさせ」とか唱えるように言ってやがる。でさ、その馬はだらしなく勃起してるんだけど、何なんだろうな、馬の習性なんだろうな、すぐには入れたりしなくて、雌馬の後ろ足の膝の辺りをずっと舐めてるんだな。雌馬が善がってんのか嫌がってんのか分からないけど、足を振り上げたりするんだけどお構いなしで舐めまくって、その内にだらしなかったペニスが長くなってくる。雌馬は待ってるんだな。何を待ってんのかは知らないけどさ、ショーが終わることか、入れられることか、この仕事から解放されることか知らないけどさ、上半身が動かないもんだから、同じ景色を見ながらただ待ってるんだよ。あとは一瞬だ。雄馬が不器用に雌馬の上に後ろから覆いかぶさろうとして、何度か失敗して、でかい尻の筋肉が浮き上がって、アナウンスが「でるでるでるでる」って叫んで、入ったと思ったら雄馬は抜きながら白いもんを肉の棒の先から垂れるんだよ。雌馬のあそこからも白いもんがどろどろ流れ出てくるんだ。係員が出てきて、白いもんを洗い流すように柄杓で水をかけて、おしまい。アナウンスが次のショーは何時からですとか言っててよ。誰がもう一回見るかよって思ったんだけどな、俺、その後も何回かそのショーをわざわざ見に行ってるんだ。
 グラスに施された精緻な模様はどこが始まりでどこが終わりか分からない。注がれた黒ビールのカクテルはそのグラスの模様を美しく浮かび上がらせている。無数のカーブが互いに交わることなく、蔓のように表面を這い回る。一つの模様はあるシンボルの部分であり、ある完結は一つの混乱の部分になっている。細やかな泡がぷつぷつと弾け、ささやかな飛沫を夜に打ち上げている。
 でさ、俺最初はさ、自分のことを雄馬だと思って見てたわけ。薬で立たされるって辛いだろうなって。でもある時にふと気付いたんだよ。雌馬の方が俺に似てるってな。雌馬の快楽と苦痛は俺に似ていると思ったんだ。それは単純に受動的な感覚のことを言ってるわけじゃなくて、何かを待ち続けている感じが俺に似ていた。プレイ的なことで言うなら絶対的に俺はやられるよりはやる方だからな、何かを入れられるのも好きじゃないし、そこは全然違うんだけど、やってる最中ややり終わった後の、何かを待ち続けては諦めている感じが似ていた。その満たされた感じ、分かんねえかなぁ。どうした? らしくないな。うん。なんかな。前まで飲んでた睡眠薬の認可が取り消されてさ、ちょっと前から睡眠薬を変えたんだよ。それは効くには効くんだが、どうにも脳のどっか一部分だけは眠ってない気がするんだよな。夢遊病じゃないけどさ、俺が眠ってる間に、その部分だけが勝手に何か考えたり思い出したりしてる気がするんだよ。あんまり知らないんだけどさ、母方の祖母が巫女みたいなことをしててさ、そのばあちゃんもよく言ってたんだけどな、起きてる時に眠ってる筈の方の脳が勝手に動き出す時があって、そういう時には視界の端の方で信号が混線することがあるんだって。例えば煙草の箱が勝手に動いているように見えたりさ、閉まってる筈のドアから人が入ってきたり。あるだろ? そういうこと。目の錯覚ってやつ。正確には脳の錯覚なんだけど、あれは本来眠ってないといけない方の、睡眠用の脳が目を覚ましてるんだと。巫女的な作用っていうのは、睡眠用の脳に覚醒用の脳で話しかけることで開くんだって言ってた。錯覚を無理矢理起こすんだな。上手く話しかけてやれば、倒れてた椅子が起き上がるとか、部屋の中にフクロウがいたような気がしたとかいうようなもんじゃなくて、もっとずるずると引きずりだせるんだって言ってたよ。で、薬を変えてからなんだけど、なんか夢の中で錯覚が起きてる気がするんだよな。なんだかよお、覚醒の方の脳っていうのが眠ってないんじゃねえかって気がするんだよな。意識の真横を轟々と電車が走ってるような気がするんだけど、そんなの走ってるわけねえじゃんか。かなり長い列車だぜ。貨物列車も長いけどよ、そんなもんじゃねえんだよな。たぶんあれは電車なんかじゃないんだよ。なんなんだろうな。危ないもんじゃなけりゃいいんだけどさ、危ない気がするんだよ。何かコンクリートの壁みたいな気もするんだけどな。分からねえんだよ。惑星かなあ。疲れてるんだよ。と僕は言った。まあそうなんだろうな。桑井はグラスに残ったスコッチを一気に飲み干した。世界中で今何人の男が同時にグラスを置いただろうか。カウンターにグラスを置く音は思いのほか大きく響いた。あの雌馬はどうなったら自由になるんだろうな。自由になったら何をするんだろうな。さあな。次の休みにでもまた会いに行ってみようかな。そうだ。リョーも一緒に来いよ。ドライブしようぜ。そんなの久しぶりだな。ああ。俺、ちょっと元気が出てきたよ。そいつは良かった。リョーには昔から助けて貰ってばっかりだ。どうしたんだ。桑井、なんだか滅茶苦茶だぞ。僕が桑井を助けた? そんなことこれまでたったの一度だってないじゃないか。俺の夢の中までお前は知ってるっていうのか? さあ、とびっきりのスポーツカーを借りて行こう。渋滞のない真夜中にすっ飛ばして行って、朝っぱらからショーを見よう。ああ、そうしよう。しかし、結局僕と桑井はドライブに行かなかった。桑井の方に厄介事が起きて、やりきれなくなった桑井は会社を人手に渡して、その面倒な手続きやなんだかんだで僕と連絡を取る暇もなかった。
 全てが落ち着いた頃に会った桑井は妻と赤ん坊を連れていた。高級マンションにもお邪魔した。リビングの隣の部屋にはクラシックなメリーゴーランドが天井から吊るされ、ベッドの赤ん坊の上で回っていた。しかしその妻とも程なくして離婚した。妻の方の男性問題が原因だった。子供は妻の方が引き取った。桑井にはとても子供を育てるだけの能力はないと判断された。その頃にはかなり強い睡眠薬がないと眠れない状態だったからだ。桑井は言った。眠れないんじゃないんだよな。覚醒してる方の脳がずっと起きたままなんだよな。僕にはよく分からなかった。桑井は昼でも夜でも真っ黒なサングラスをするようになり、少し安定を取り戻したと本人は言っていたし、僕の目にもそう映った。性欲が戻り、金を払って女を呼ぶことが日常化した。その内、外国人の女を専門に呼ぶようになり、中でもアジア系の女ばかりになってゆき、やがて現地に行って楽しむようになった。日本人の女はダメだ。どいつもこいつも話が下らない。全員話してみたら結局同じやつばかりだ。しょうもない。ボーリングの球と一緒だ。三つの穴に指突っ込まれてゴロゴロ転がるんだ。きらきら光って綺麗だけどな、球は球だ。睡眠薬の副作用で桑井はみるみる太った。子供には会ってるのか? ああ、会ってる。可愛いよ。でも、あれ、俺の子供じゃないんだよ。
「桑井の子供の写真、見せられたことあるよ。あいつ嬉しそうにしやがってよ。これから俺も混ぜて4Pしようかって時に、なぜか俺に見せてきたんだ。俺さ、こんな商売してるけど甘いなって思ったね。やってる最中に、その写真のこと思い出してよ、ダメだな。あいつ、俺のこと同性愛者じゃねえかって言ってるだろ? な? あれ、その時に俺が全然ダメだったから、それで事あるごとに言いやがるんだ。そっちのプロじゃねえからさ。俺はノーマルだよ。実はこれでも結構でかい子供だっているんだ。だからなぜあいつが子供の写真を4Pの前に引っ張り出してきたのかも分からないでもないんだけど、それにしても実際にそんなことするやつはいねえよ」
 僕は一度桑井をドライブに誘い出した。いかれたスポーツカーなどではなく、まともすぎる僕の軽自動車で出かけた。桑井の巨体を助手席に乗せると、ギアチェンジがしにくく、僕達は貧乏人の車とぶよぶよの体に嫌味を言い合いながら一般道を抜け、真昼間の高速道路をのろのろと走って、また一般道で道に迷ったりしながら、交尾ショーを見に出かけた。しかしそのショーを見ることは出来なかった。その施設自体が閉館していたからだ。がらんとした駐車場のアスファルトは至る所でひび割れていた。建物はちょっとした総合病院くらいのサイズがあって遠くから見ると立派に見えたが、近付いて見ると張りぼてだった。
 消えかけた駐車場の白線を無視して、車を建物の真ん前に停め、車から降りた。その壁は落書きで埋め尽くされ、窓は一つ残らず割られていた。かつて華やかだった時代の名残などどこにもなかった。建てられた時からうらぶれていたかのようだ。旗を掲揚するためのポールが駐車場の端に三本立っている。まさか国旗を揚げるわけでもあるまいし。かつて何がそこにはためいていたのだろう。
 入場券を売る窓口にはベニア板が打ち付けられている。窓口の上の看板にぼんやりと残った入場料は結構高かった。入り口は南京錠で固く閉ざされている。割られた窓には鉄条網が張られている。
 何をそんなに固く拒む必要があるのか分からなかったが、しんとしたその建物の内部には何かが棲んでいるような不気味さはあった。外から入るものを拒むというよりも、中にあるものを固く封印しているかのような厳重さ。その厳重さ故に、鉄条網の間から覗く建物の内部は意味ありげに僕の目に映った。土産物売り場とおぼしき場所のショーケースには色を失って久しい雑誌が散乱している。おそらく成人誌であろう、下着姿のイラストの女と目が合った。
 僕達は建物の右手から裏に回った。建物の外側に設けられた螺旋階段の脇を抜けると、あっさり建物の裏側に回ることが出来た。そこは屋根こそあるが、壁はなく、固い土の所々から雑草が顔を覗かせていた。「ここだ」と桑井が言った。
 半円形の競技場のような空間。円周部分に沿ってベンチが並べられている。どれも朽ちている。
 そして空間の中心には、桑井が話した通り奇妙な器具、雌馬の上半身をその場に固定するためにしか使えないものが残されていた。錆びたそれは首を傾げているかのような形でだらしなく静止していた。
「待ってたものが来ちまったのかなあ」
 と桑井は言って、錆びたその器具に触れた。僕は気持ち悪くてそんなものに近付く気にもなれなかった。
 それから桑井はそこの更に奥にある馬房へと入って行ったが、僕はそれ以上は進まず、ショーが行われていたその空間で桑井の戻るのを待っていた。まさか馬房にかつてのスター達の死体がそのまま残されているなんてことはないと思ったが、転がる大きな死体のイメージや、かつてそこで何が行われていたのかを想像すると、その場所の空気を吸うには覚悟や勇気と呼ばれるものが必要で、僕にはそれがなかった。動物愛護の精神や正義感や倫理観から僕は、その場所を嫌悪したわけではなかった。ただ僕に勇気がなかっただけだ。
 しばらくして戻ってきた桑井はサングラスを外して手に持っていた。そしてそのまま黙って来た道を車のところへ戻り、運転席に座った。僕も何も言わずに助手席に座った。
「俺」
 と桑井は言った。しかし、いくら待ってもその先は続かなかった。僕は桑井の顔を見なかった。廃墟の植え込みの雑草の中で遊ぶスズメを見ていた。
 どれくらいの時間そのままでいただろうか。スズメ達はとっくに飽きてどこかへ行ってしまった。僕は「帰ろうか」と言った。
「そうしよう」
 そう言って桑井はサングラスをかけた。
「今日は連れてきて貰って良かったよ。来て良かった。本当にそうだ」
 自分に言い聞かせているように聞こえる。エンジンがかかる。
「リョーは、俺の親友だ」
 と桑井は言った。
「なんでそんなことを今言うんだよ。これから心中でもするみたいじゃねえか。気持ち悪いぞ。いつまでも黙ってろよ」
「今度さ、旅行に行こうぜ。俺が連れて行ってやるよ」
「買春旅行だろ? 遠慮しとくよ。知ってんだろ? そういうのやらねえんだよ」
「大丈夫だ。リョーが考えてるより、色んなやり方があるんだ。一番リョーが望む形でやれる。嫌なことは何一つない。凄腕のコーディネーターがいるんだ。任しておけば何もかも上手くいく」
「気持ちだけで十分だ。僕達は親友だ。それは他の誰かに対して証明する必要もなければ、お互いに対して証明する必要もない。分かりきってることだ。根拠も語義も代償も条件も契約も必要ない。ましてや穴を共有したり、穴を見せ合ったりする必要もない。そうだろ?」
「気が向いたら、いつでも言ってくれ」
 それから一年も経たない内に僕は水族館の告白により立ち尽くすことになり、そのことを話すと桑井はじゃあすぐにでも出発だと一方的に僕の予定を決めてしまった。可能な限りの有給休暇を強引に取得した。僕にとってはかなり無理をした方だった。別にもしそのことで社会的な立場が悪くなろうが知ったことじゃなかった。うぶで弱い僕はひどい裏切りに深く傷つけられていた。同情してくれる変態性欲者の親友の申し出に乗っかることぐらい必要だと思えた。それは回復するためではなく、より深く沈んで考えを混乱させるため。気を抜くとすぐに襲い掛かってくる、僕を回復させるための美しく強い真理とやらに心を奪われてしまわないように、僕は変態性欲者の混乱を少し分けてもらおうとしたのかもしれない。
「ところで、あの奥、何かいたか?」
「ゴキブリが一匹いただけだったよ」
 そう言えばこのホテルはあの施設に似ている気がする。
「何を考えてるの?」
 とイーが僕の日焼けしすぎた肩に乳液を塗りながら訊いてくる。
「親友のことだ」
 と答えると、イーは「ふうん。いいことね」と、笑いもせずに言った。



 二日目の夜、シコッティの案内で僕とイーは台湾料理を食べに行った。
 僕は白ワインが飲みたかったのでガイドブックで調べてイタリアンに決めていたのだが、イーが頑なに嫌がった。じゃあ別々で行こうと言ったが、まあ無駄だった。何でもするからイタリアンは勘弁して欲しいとイーは言った。ガーリックの焼いた匂いを嗅ぐだけで吐き気がするのだと。本当に何でもするからと。別に僕は君に何もしてもらいたくはないと言っても、イーは「ゆっくり考えればいいわ。セコい魔法使いみたいに願い事は三つだけとか言わないから」と見当外れなことを言うのだった。
 ガイドブックで調べるのが面倒になったので、シコッティの部屋をノックすると、ちょうど部屋にいた。事情を話すと、白ワインを揃えてる変わった台湾料理屋があるとのことだった。本当に有能だ。桑井は来客中のようだったので誘わなかった。
 台湾料理屋は繁華街の雑居ビルの四階にある小さな店だった。案内してくれたシコッティに奢るから一緒に食べようと言ったのだけれど、彼は別件で約束があるのだと言って帰って行った。イーはとても残念がり、シコッティの手を握り締めて、次は必ず一緒に御飯を食べましょうと真っ直ぐな目をして言っていて、さすがのシコッティもたじろいでいた。おそらく疑う必要のない天真爛漫な子のように見せかけて、そんな女が存在するわけがないんだから余計に怪しいとでも考えながら帰っているのだろうと思うとおかしかった。
 薦められた白ワインは決して高くないのにバランスがとても良く、あっという間にボトルを一本開けてしまった。イーも気に入ったようで機嫌良くグラスをこちらに差し出してくる。酔いも手伝って、こういう明るい女の子が恋人だったらいいのにな、と頭をよぎってしまう。シェフはとても親切で、そのワインに合う料理だと言いながら、メニューにない品まで出してくれた。鶏肉の軟骨を刻んで揚げた団子が美味くて、追加して二皿食べた。小籠包は三人前ずつ平らげた。何を話していても楽しい。互いに恥ずかしい過去を話してみようということになり、イーは子供の頃に幼馴染の男の子の家で二人っきりになった時に、ゴミ箱に跨ってオシッコをさせられたことがあるという話をした。アルミのゴミ箱だったから大きな音がして、いつその子のお母さんが「何してるの!」って部屋に入ってくるかと思って気が気じゃなかったけれど、オシッコは止まらないし、幼馴染はそんなことを気にする素振りも見せずじっと私のことを見ていたかと思うと、ゴミ箱の中に手を差し入れてきて、出ている最中の私のオシッコに触った。こういうのって、そういうことを私にさせた幼馴染の子が変態的で恥ずかしいわけじゃなくて、なんとなくそれに乗った私のドキドキした感じの方が恥ずかしい気がする。僕はバレンタインデーに貰ったチョコレートを家に持って帰るのが嫌で帰り道で捨てたことがある。それって本気で恥ずかしいやつじゃない。そうだよ。リョーってさ、見た目通りの人だね。ひどいことを言う。喜ぶところよ。そう言えば別の時だけどホワイトデーのお返しを渡そうとしたらなぜか受け取ってもらえなかったことがあるな。何それ。よく分からないんだよな。誰かがイタズラでさ、その子のフリをして僕にチョコレートを渡してたとかっていうんだったらさ、分かるし、別に引っかかったんだとしても恥ずかしくないんだけどさ、なんだろう、確かにその子からチョコレートを貰ったし、それに対して嫌々というか、非常に困った感じでだよ、そういうの免疫ないからさ、お返しのクッキーだなんて照れながら買って、こっそり渡そうとしたら、いらないって言われた感じで、しかもその行き場を失ったクッキーをさ、別の女子でさ、クラスに一人くらいノリのいい男子みたいなのがいるじゃない、そういう子が代わりに貰ってくれたりしてさ、なんだか思い出すと無性に恥ずかしくなるんだよ。だからそれって本当に恥ずかしい話じゃない。大体いい年してバレンタインデーの思い出なんて持ち出してくるところが恥ずかしい。いい感じだろ? いい感じだけど。この街にも君達みたいな感じのいいカップルが来てくれれば、もうちょっと変わるんだが、とお世辞のつもりかシェフはそういうことを言った。何て言ったの? 君達はオイスターソースとタケノコのように相性が良いってさ。誰がタケノコよ。失礼だわ。ボトルをもう二本空けて、僕達はすっかりいい気分になり、チップもはずみ、腕を組んでその店を出た。それからがらがらの映画館に入り、古い映画を一本観た。『巣の中のラファエロ』だった。僕は以前観たことがあったけれど、イーは初めてだと言った。僕は話の筋が分かっているので途中で寝てしまうかもしれないと思って観ていたが、結局最後まできっちり見た。イーにおいては、横顔を覗いてみても完全に映画に引き込まれていることが分かった。ジョジーの親友のトランFが誤って命を落とすシーンで彼女は眉間に深い皺を寄せてスクリーンを睨んでいた。べろべろに酔っ払って観るような映画じゃないけれど、べろべろに酔っ払っていても十分に見せる映画だった。ハッピーエンドとは呼びにくいラストシーンだが、エンドロールが流れる間、生きる勇気と呼ばれるようなものが胸にこみ上げてくるのは、おそらく『巣の中のラファエロ』が、一人の人間が生まれてから死ぬまでを描いているというその一点に尽きると思う。そのような映画は少なくはないけれど、なぜかこの二時間あまりのフィルムに収められた全てのシーンは、ジョジーが死ぬ際に思い出せた人生の全てのような気がした。
 ホテルに戻ると、僕達は倒れこむようにベッドに横になりしばらくそのまま抱き合って、飲みすぎただの、まだ飲み足りないだの、気持ちが良すぎておかしくなりそうだとか言って、クスクス笑っていた。「汗臭い」と僕が言うと、彼女は「それ、自分の匂いよ」と言って笑った。
 そしてイーは「さっきの映画を観てる間、学生の時に使ってた英語の辞書のことを思い出してたの」と言った。辞書を買って貰った日、家に帰ってすぐにお名前シールっていうの? 名前を書くためのシールを裏表紙に貼って名前を書いたの。ハローキティのシール。中学生らしいでしょ。初めて手に入れた大人っぽい辞書だったから、すごく嬉しかったのよ。大事にしようと思ったのね。そのくせキティちゃんのシールを貼っちゃうところが笑っちゃうわ。で、ちょうどその夜に父親と母親が大喧嘩をしてさ、そんなのは全く初めてのことでね、それまでささいな口論一つしてるところも見たこともなかったのに、二人が見たこともない表情で激しく言い合うのを見せられた。たぶん父親に女がいたとかそういうので、母親も気づいてたのかもしれないけど、その日は何かがあって、子供に聞こえるくらいの大声で口汚く罵っちゃってさ。よく分からないんだけど、何か母親の方にもかつて後ろめたいところはあったみたいね、父親も言い返してて、あんまり覚えてない、ずっと妹に聞かせちゃいけないって思ってた気がする。その夜、ああ、お父さんとお母さんは離婚をするんだと思ったのね。で、何を気にしたかって苗字が変わるんだ、そうしたら、せっかく新しい辞書に貼った名前も剥がさないといけないんだって、そのことばかり考えてた。結局何がどうなったのかは知らないけど離婚はしなかった。今となっては何事もなかったかのようになってる。知らない。別に拗ねて言ってるわけじゃなくて、そんなの私の知ったこっちゃないのね、絶対に。私は、英語の辞書に貼られた名前を見る度にさ、そのことを考えた。知らないことはいっぱいあるのよ。小首を傾げたキティちゃんは、そう言ってたのよ。知らないことはいっぱいあるし、知ることのできないこともいっぱいある。リョー、私が何を言いたいか分かる? 僕は何と答えていいのか分からなかった。私は英語の映画なんか二時間見ても言ってることなんて全然分からないってことなのよ。今、私が言わなきゃ、あなたそのことをまるっきり忘れてたでしょう。いいんだけど、私が言いたいのは、あの映画を観てて私も英語の勉強をしたいなって思ったってことなのよ。あの台湾料理屋のおじさんも、せっせと英語を勉強して、ワインのことも勉強して、ああやってあんなに美味しい料理を私達に出してくれてる。私は間違ってたかもしれない。あのキティちゃんは私に英語で何かを言おうとしてたのかもしれない。それは別に英語じゃなくてもいいんだけど、私が何かを知ろうとしなかっただけかもしれない。知らないことはいっぱいある。でも知ることの出来ることもいっぱいある。少なくとも英語の辞書に分厚さ程度は。そうでしょ?
 そう言えば、『巣の中のラファエロ』の監督は、中国系の移民として初めてアカデミー賞を受賞したんじゃなかったか、と僕は考えていた。何の確証もなかったし調べようもなかったし、おそらく僕は寝て起きてしまえばそんなことを考えたことも忘れてしまうだろう。監督はアカデミー賞の授賞式で犯罪者の社会復帰についての発言をして、かつて僕はその内容に凄く感心したんじゃなかったのか。その内容はまるっきり忘れてしまった。そのことについても、もう一度調べてみることはないだろう。昨日までの僕であれば。
 今イーが話したことは、酔いの回った僕の胸のどこか、アルコールの届いていない僅かな部分に響くものがあった。知ることのできないことがある。当たり前のことだ。知ることのできることもいっぱいある。当たり前のことだ。水族館の巨大な水槽を殴っているくらいなら、知ることのできないことを同じように想像し続けているくらいなら、英語の辞書程度の分厚さのことを知った方がずっと、いい。
「さっきの映画の監督のさ、アカデミー賞の挨拶がすごくいいんだよ、探せば見つかると思う。今度一緒に観よう」
「それってプロポーズ?」
「英語の前に日本語の勉強からやり直した方がいいよ」
 そう言って僕がイーの首筋に唇を押し付けると、彼女の両腕が僕の頭部を包むように回され、次の瞬間、寝返りをうつような格好でその腕は首投げのように僕のことを強く引き離した。なんでもしてくれるって約束じゃなかったっけ、と僕が冗談めかして言うと、イーは、そういうつもりはないって先に言ったのはリョーの方じゃない、と笑って言った。それとも死ぬ程やりたい? やりたい。じゃあ、私からシコッティにお願いしてあげようか? 私に似た人を探して来てあげてって。分かった。もういい。その代わりそっちからやりたいって言ってきてももう絶対になしだ。そう言われて我慢できるようならリョーは大したもんだわ。イー、全然分かってない。この状態で放置される男の惨めさが全然分かってない。一緒に寝てあげるから拗ねない。一緒に寝てやってるのはどっちだろう? 出て行けって言ってる? 言ってない。じゃあ私、シコッティの部屋に行こっかな。正直言って後悔してるよ。嘘は駄目。必ず人を傷つけることになる。こっちはもう傷ついてる。感謝してるわ。私が知ってる人の中でリョーが一番いい人よ。会えて良かった。嘘じゃない。寝返って彼女に背中を向けた僕に、彼女はそう言った。それとこれとは話が別だ、と僕は言った。そう、あれとこれとは話が別なの。日本語、勉強しやがれ。知らねえ、と思って、僕は眠ることにした。



 イーのことを考えると、僕はいつも労働のことを連想する。オフィスで黙々とデスクワークをする姿でもいいし、ガソリンスタンドでの接客でもいい、コーヒーショップでおかわりのコーヒーを注いだり、プールサイドで監視員をしたり、厨房で皿を洗ってたり、そういう種類の労働のことをイメージして、しんとした気持ちになる。今僕の知らないどこかでイーが何らかの労働に従事しているような想像。イーには労働がよく似合うと思う。元気だし、嘘をつかないし、無駄口をたたかないし、誰にだって分け隔てがない。仕事がなくて退屈な時には、下らない雑誌でも開いて、のんびりと時間を潰すことが出来るだろうし、客が来ればすぐに愛想よく注文を聞くことが出来る。休憩時間には全く違うことを考えたり、同僚の下らない冗談を上手にかわしたり、面白い話には大笑いすることが出来る。
 都会の雑踏の中にいる時、長いエスカレーターに乗っている時や、ホームに入って速度を落とした列車の中にいる時、ハンバーガーショップで商品が用意されるのを待っている時、そういう時にイーがこの世界のどこかで本当に働いているのだと思うことがある。そういう時、僕は決まって微笑ましい気持ちになると同時に目の奥が熱くなって、唇を固く閉ざすことになる。バカみたいだけれど、何度も同じことを考えて、何度も同じ気持ちになって、何度も同じ顔をしている。
 どうしてイーから労働が連想されるのか思い当たる節はない。元気に働く姿はあくまでイメージに過ぎなくて、僕は実際にそんなイーの姿を目にしたことはなかったし、イーからその手の話を聞いたこともなかった。けれど、そのイメージはおよそ間違いないと思えた。そんな風に見えて実は働くことに向いていないとか悩んでいるかもしれないのだから、そういう想像は楽観的に過ぎる、なんて心配は全く要らなかった。今日もどこかで大きなゴミ袋を抱えてビル裏の収集場所に力強く放り込んでいるに違いなかった。髪の毛を清潔に切り揃えて、てきぱきとレジ打ちをしているに違いなかった。
 僕は街でそんな風に働いている女の子達を見ていて、それをイーと重ね合わせた。時にはイーじゃないかと見間違うような女の子もいた。女の子達はそれぞれ真剣に、退屈そうに、楽しそうに、しんどそうに、忙しそうに、面倒くさそうに、働いていた。それはとても幸せそうに僕には見えるのだった。いや、幸せかどうかは知らない。僕はただそういう女の子達の姿を見るのが好きだった。それはイーのことを見ているような気がするからだった。
 夢の中で、働いているイーに会うこともあった。僕は、例えばベッドメイキングをしている制服姿の彼女の横へ行って声をかける。
「急げ急げ。すぐに客が到着するぞ」
「急かされたっていい仕事は出来ないわ。あっち行ってて」
 交換したシーツをイーは投げつけてくる。シーツは窓から吹きこんだ強い風に大きく広がって、イーと僕の上に覆いかぶさった。シーツの中で僕はイーの足首を掴み、「急げ急げ」と言う。「邪魔しないで」とイーは僕の頭を平手で叩いた。イーは鼻歌を歌いながら洗面台の鏡を磨き、石鹸を新しいものに交換し、カーテンを丁寧に束ね、エアコンの温度を調整した。僕は入り口のところに立って飽きることなくそれを見ていた。見られていることを嫌がるでもなく、照れるでもなく、彼女は淡々と仕事をこなしていく。ふいに背後でドアが開き、彼女の同僚のおばさんが「そろそろ終わったか?」と声をかけにくる。僕は息を潜めてドアの裏側に隠れている。「もう終わる。大丈夫」と彼女は答える。最後にもう一度、業務用の大きな掃除機で彼女は絨毯を掃除する。扱いにくそうなおんぼろの掃除機も彼女の手にかかれば、近未来の玩具のように見えた。よく似合うと言うと、ふざけたイーは掃除機のノズルを僕の方に向けて格好をつけて構え、邪魔するゴキブリ、吸い込んでやるぞ、と言った。
 目を覚ました僕はベッドの中で、同じセリフを口に出して呟いてみる。世界のどこかで働いているイーのことを思い浮かべて、幾つかの言語で邪魔しないで、と呟いてみる。色んな辞書を集めてきて、労働の欄に蛍光ペンで線を引く。彼女と結び付けられると労働はとても素敵なものに思える。クリーニング屋の店内に山積みにされたワイシャツの皺をアイロンで伸ばしていく彼女はヘッドホンをして音楽を聞きながら、私はあなたのシャツにアイロンをかけるために生まれてきたんじゃないのよ、と古い流行歌を口ずさんでいる。出来るものなら、あなたのシャツを皺くちゃにしてドロドロにしてやりたいわ。そしてびりびりに引き裂いて、あなたを自由にしてあげる。交通整理をしているイーは、赤く点滅する棒を振り回して、空中に絵を描いている。







   







 朝っぱらからなんだよ。イーが来てないか? イーちゃん? 来てないよ。なんだ逃げられたのか? だから日本人の女なんかやめとけって言ったんだよ。入るぞ。なんだよ。おい。いねえって。何を疑ってんだ。悪い。飲み物でも買いに行ってるんじゃないのか? 鞄もない。何か盗られた? そんなんじゃない。おいおい、ボクちゃん。金も盗られてない。金も払ってないんだろ? じゃあ儲けもんじゃねえか。いっぱいさせて貰ったんだろ? 感謝しろよ。ほら、東の空に向かって清々しく手を振るんだよ。船が見えなくなっちまうぞ。桑井のとこも見てくる。おい、やめろって。桑井んとこには俺が昨日女を連れて行ったよ。まだぐっすりおやすみだって。振り払って行こうとするのを制して、シコッティはじゃあ俺が行ってきてやるから、ボクちゃんはここに居ろ、と言った。
 目を覚ますとベッドにイーの姿はなく、ボストンバックも消えていた。バスルームの床は濡れていて、シャワーを使ったということは分かった。昨日飲みすぎたワインがまだ体の中に残っている。冷蔵庫からペットボトルの水を出して一気に飲んだ。昨夜イーに拒まれたことを思い返す。体を求めたことでイーが怒ったりしたわけではないように見えた。でもそうじゃなかったのかもしれない。彼女の中で何かが変わって、そして彼女は出て行ってしまった。自業自得だった。僕だけが酔いの中で深い眠りに身を委ねて夢も見ず考えることを放棄している間に、彼女は何かを考え、何も言わずに消えた。つい何十時間か前に路上でいきなり抱きついてきた彼女は、寝返った時には幻のように姿を消している。それは当然のことのようにも思える。何の理由もきっかけもなく出会ったわけだから、何の言葉も合図もなく別れ、何事もなかったかのようにお互いが元に戻る。
 イーに会ってから一度もシャワーを浴びていなかった僕はシャワーを浴びることにした。シャワーの蛇口はきちんと絞められてなくて、水滴が滴り落ちている。バスルームにはどことなくイーの気配が残っていた。ぬるい水を頭から被り、泡立たないシャンプーで髪の毛を念入りに洗った。何も考えなくても僕はだらしなく勃起していた。僕はいよいよ孤独なんだと思った。シコッティの言う通りだ。とにかくやるしかないんだよ、とシコッティは言っていた。もっとしつこく頼みこんでイーとやれば良かったと思ったわけでもない。最初っからイーとやっていれば良かったと思ったわけでもない。いや、そういう考えも含めてだ、僕はイーと裸で抱き合えるように、何よりも優先してそのことを考えるべきだったのだろう。とにかくやるしかないと言うシコッティは正しい。毎日違う女とやりまくっている桑井は何よりもそのことを優先している。そのことで自分が受ける報いのようなものを含めても、桑井はその他の興味のない問題と致命的な問いを避けるためにやりまくっている。待ち続けることにもう決めているのだ。僕は結局一人でシャワーを浴びている。イーは英語も話せないくせに街を彷徨っている。どこに向かえばいいのかも分からず。誰に抱きつけばいいのかも分からず。それは僕と全く同じだった。僕達は愚かだ。同じであることを確認し合ったのに離れている僕達は二人とも全く同じように愚かだった。僕は愚かであることを受け入れるために、こんな国まで来たようなものだと思っていた。桑井やシコッティが何と言おうと、ナルシスティックであろうとも、愚かさを見つめ続けることと自己憐憫だけが今の自分がすべきことだった。涙を流さずに泣く。射精せずに勃起する。それ以外には何も思いつけなかった。そしてイーに出会った。食事をして映画を観て支え合うようにして夜道を歩いた。話をして笑って同じ愚かさを確認し合った。そして、短い時間だったけれどそこから僕は何かを感じとった。僕が知ったこと。元気を出さなければいけないという単純なこと。イーがいれば元気でいられるということ。それは何よりも優先されなければならない。イーともう一度出会わなければいけない。このままだと水族館に立ち尽くすのと同じことになる。いや、もう既に同じではない。何かが変わっている。言い訳はもういい。イーはまだ近くにいて、僕はそれを感じている。孤独感は大抵が勘違いなんだ。
「昨日海に行った女達から聞いたんだけどな」
 シコッティに起こされた桑井は、Tシャツにトランクス姿でやって来て言った。朝になったらリョーに教えてやろうと思ってたんだ。なんでもな、日本から来た連中がこの街で映画の撮影をしてたらしいんだが、ちょっと前からそこの女優が行方不明になってるらしい。その女達から聞いた話だから確かなところは分からないけどな、基本的には事件に巻き込まれたんじゃないかってニュースらしいんだけど、どうも共演者と熱愛が報じられていたっていうから、こっちで男女問題がこじれて失踪しちゃったんじゃないかっていう噂もあるらしい。新聞やテレビでも報道されたらしくて、顔も流れたらしいぜ。どこかでその記事が手に入らないかとその女達に言ったんだが、その後めちゃくちゃになってさ、あっちの方が、すっかり忘れてた。その話聞いてさ、俺真っ先にイーちゃんのことを思い出したよ。ああ、その女優の名前も訊いたんだけどな、日本の女優の名前なんて覚えてないわよってわけ。イーって名前じゃなかったかって聞いたんだけど、そんなんじゃなかった気がするって。ま、本名なのか芸名なのかもよく分からんねえし、それは当てにならないわな。それ見ろ。厄介な話だ。失踪中の女優なんか泊めてたってことになってみ、あっという間にボクちゃんは有名人か、場合によっちゃ犯罪者扱いかもしれないぜ。大体、あの女を連れまわしてるだろ? てことは誰かが目にして、そこのホテルに連れられていくのを見ましたとかってことになりゃ一発だよ。俺も昨日はお前らをあの店に連れて行くために一緒になって歩いてるんだ。勘弁してくれよ。俺の仕事はテレビに紹介されるような御立派なもんじゃないんだ。細く長くやっていくもんなんだよ。どういうお知り合いですか、これこれこういうものですってわけにはいかないんだぜ。ったく。まあ待てよ、シコッティ。まだイーちゃんがその女優だって決まったわけじゃないんだ。どう? シコッティから見てさ、イーちゃんって女優って感じだったか? そんなの分かんねえよ。こっちは映画に出るような女優さんなんてお知り合いになるような仕事じゃねえんだ。どこにでもいる日本人のお嬢さんに見えたよ。俺はイーちゃんを実際に見たわけじゃないからなんとも言えないんだけど、もしかしたらそうかなぁと思ってる。そうって? その女優にビンゴなのかなあって。勘だけどさ、リョーってそういうところあると思うんだ。ついてないところ。まったくついてねえ。ボクちゃん、ちゃんとゴムつけただろうな。やってねえって。知らねえけどさ。ま、いずれにせよ、イーちゃんの方から出て行ってくれたわけだろ? 跡形もなく。じゃ、とりあえずこっちとしては何事もなかったかのようにだな…。探すよ。僕は言った。僕はイー探すよ。やめときな、ボクちゃん。いくらこの街が小さいったって、逃げた女なんてそう簡単に見つかるもんじゃない。それはよく分かってるだろ。それにもしこの街を出てたら、この国の中から探すなんて不可能だ。もしボクちゃんに見つけられるくらいだったら、その映画会社か事務所の方が先に見つけるよ。別にその女優を探すわけじゃない。そりゃそうだけど。イーは英語も話せず、どっかをほつき歩いてんだ。何かあってからじゃ遅いんだ。馬鹿だな、リョーは。心配し過ぎだ。やられることはあっても死ぬような街じゃないよ。でもそれは一理あるけどな。何かあったら、真っ先に疑われるのはボクちゃんだからな。そういうことを言ってるんじゃないんだよ。じゃあどういうことなんだよ。僕は答えない。朝からよくそんなこと顔になれるな。オナニー見せられる方がまだマシだぜ。お前さ、女優と付き合おうっていうの? そんな無茶なヤツだったっけ? イーはたぶんその女優なんかじゃない。いいよ。何とでも思ってくれたらいい。眩しすぎるぜ。おい桑井、お前さ、もっと普通のヤツ連れて来いよ。ボクちゃんみたいなヤツ、俺苦手なんだよ。泣き出したりするんじゃねえだろうな。泣いたりしないよ。信じられねえな。ボクちゃんみたいなヤツはな、泣いちまうんだよ、泣きながらでも何かを掴むんだよ、だろ、桑井? シコッティ、お前は本物のプロだよ。何がだよ。俺、協力するなんて一言も言ってねえぜ。苦手だって言ってるんだ。寒気がするって言ってんだよ。シコッティ。頼む。マジか。ボクちゃん、なんにも聞いてなかったのか。俺からも頼むよ。その女優の方を探してるフリをしてだな、イーちゃん探してやってくれよ。それで、もしイーちゃんじゃなくて女優の方が見つかったら、とりあえず俺の方に回してくれよ。桑井も何も考えてねえだろ。頼むよ、シコッティ。もし見つけられたら俺が一回お前と寝てやってもいからさ。おい、桑井、何度言ったら分かる。俺はゲイじゃねえんだよ。たとえゲイだとしてもお前だけは無理だよ。シコッティ、お前もリョーを見習って素直になったらどうだ。日本人はどうしてこんなに馬鹿ばっかりなんだ。なんだ? お前はそういう日本人に憧れてるんじゃないのか。お願いだ、シコッティ。イーの行方を追って欲しい。ボクちゃん、お前は最高についてるよ。シコッティ。お前はもう立派な日本人だよ。
 部屋から消えているものが一つだけあった。勝手な想像かもしれないが、それは彼女が「私を見つけて」と言っているように僕には思えた。
 どこを探しても紺色の帽子だけが見つからなかったのだ。ラッキーアイテム。



 現代の若者達を幸福とか不幸とかいう言葉で形容することは出来ません。それは幸福とか不幸とかいう言葉が有機的だからという理由でも、形容する側と形容される側の間に大きな時代のクラックが存在するからでもありません。有機的であるということを言うのであれば、そもそも若者達を論じる前に自分自身の幸福や不幸でさえ考えることは不可能になりますが、実際にはそのような感覚はその場に得体の知れないものとして存在するのであり、私達自身が有機物の塊であることを謙虚に考えた上で、有機的で刹那的な状況として幸福や不幸は形容されるべきなのです。幸福感、不幸感は言葉よりも先に生まれているのです。また世代間のギャップに関しては少し目を凝らせば分かることですが、戦争後の我々と彼らとの間について言えば、目もくらむようなクラックは存在しません。ちょっとした躓き程度のものであり、幸福や不幸のイメージに大きな差は発生していません。今も昔も、退廃的な空気や、めっぽう前向きな思い、楽観的な言説、超越的な存在、変わりありません。雨上がりの早朝の空気の中を新聞配達する者はその街の王であり、我が子を金銭で売買する親達は悪夢にうなされ、ロックスターは何万人もの聴衆を前に泣きながら愛の歌を叫んでいる。個別に見ても全体で見ても何一つ変わっていない。幸福が不幸を指し、不幸が幸福を指すような状況と認識に変わりはないのです。ただ、現代の若者達を形容することの難しさというか不可能性は、彼らは絶対に騙されないということなのです。我々はおおいに騙されてきた。自ら望んで騙されてきたところも大いにある。しかし彼らは違う。幸福と不幸がその意味を逆転することがあったとしても、何もないところに名前をつけるようなことは、もうしない。決して意識的ではないでしょう。決意などではないでしょう。しかし決定的なものを私は感じる。彼らはもう決めてしまっている。絶対に騙されないということを。それが意識的でないために言語的でないために、彼らこそ騙されているのだというのが我々の時代の言い分だった。それが全くの誤りであることに私は気付いた。彼らは意識せずに決めている。なにが彼らをそうさせたのかは分からない。映画の中に男達も女達も激しく殴り合うシーンがあります。また口汚く罵り合います。それは幸福や不幸とは無関係な行為です。空しいことかもしれない。けれど彼らは決して騙されていない。彼らは私達が殴り合うのとは全く違った衝動で殴り、そして殴られている。殴らせていると言ってもいい。私は彼らを羨ましく思ったりはしませんが、哀れみもしていません。殴り殴られることの合間、彼らは彼女らは本当に楽しそうです。カメラ越しの映像を見て私自身が驚く程、彼らは楽しそうなのです。それを邪魔することなど誰にも出来ません。



 紺色の帽子を被った日本人の女など目立ちそうなものなのに、なかなかその足跡は掴めなかった。もしかしたら頭に被らずに鞄に入れたり、手に持ったりしてるんじゃないか、とシコッティは言ったが、いや彼女は必ずそれを被っている筈だと僕は思った。
 新聞の記事は桑井が手に入れてきた。しかしその扱いは小さく、そこに載せられた顔写真も映画のポスターか何かの切り抜きだろうか、正面からの顔ではなく、また画質も荒く、それがイーかどうかの判断は出来なかった。別人であるように思えた。日本の新聞が手に入れば、もしかしたらもう少し大きく扱われてるのかもしれないけどな、この街では手に入らないよ。あと、パソコンの端末を有料で使わせてる旅行者向けの店があるんだけど、まだ開いてなかった。昨日の夜は開いてたから、もしかしたら昼間はやってないのかもしれない。ありがとうと僕は言った。オープンテラスのカフェで遅い昼食を取りながら、三人はこれまでに分かった情報交換をした。僕は繁華街や海岸線を歩き回ってイーの姿を探した。きっと店に入ったりせずに、どこかを歩いていると思ったが、どこにも彼女の姿はなかった。このような形で探し物が見つかったためしなどない、そういう考えが常に頭をよぎる。角を曲がったらばったり彼女に会う。そんなことは、これまで一度もなかった。いや、歴史上、この世界中でそのような幸運はたったの一度だって起きたことがあるのだろうか。通りから通りへと歩きながら僕はそんなことばかり考えていた。
 日が暮れる頃、僕の部屋にもう一度集まった。シコッティはまだ来ていなかった。ネット上のニュースはチェック出来ていないと桑井は言った。ロケをしていたという辺りでも聞いてみたが特に情報もなく、写真もない。それは別に構わなかった。僕はその女優の行方に興味はないからだ。その女優が既に保護されたという報道があったとしても、僕はイーを探すのだと思っていた。その女優とイーが同一人物であることを証明するものなど、この世に存在しない。僕は桑井に、ありがとう、もういいよ、と言った。今日は一日潰させて悪かった。シコッティにも言うけれど、今夜からは普段通り女の子を呼んでやって欲しい、あとはこっちで時間の許す限り探してみる。あとは運と時間だけの問題だよ。リョー、お前はついてる、大丈夫だ。
 遅れていたシコッティが部屋に入ってきた。シコッティは残念ながら、と首を振った。桑井に言ったように、僕はシコッティにもお礼を言って、解散しよう、あとはこっちでやるしかないことなんだ、探し物は確率や知恵の問題じゃないんだ、と水を飲んだ。それは違うぞ、ボクちゃん。探し物はココの問題だ。桑井のようなクソみたいな客の無茶な注文にぴったりとくる女なんかどこにもいなくて、ひたすら足で探し続けたことが何度もある。当てを巡る。それじゃ見つからない。落ち着いて考える。まず、自分の当てになんか最初から何もないんだということをはっきりさせる。その上で、自分にはこのバカみたいな頭しかないんだってことも認める。じゃあそこからひらめきであっさり見つかるかっていうとそういうものではない。バカみたいな頭にはバカみたいなアイデアしかなく、バカみたいな記憶しかない。でもそこを引っ掻き回すしかないんだ。そうこうしてる内に、結構関係のないことが思いつくんだよ。なんだろうな、無意識に避けて通ってるところみたいなもんが、ふっと現れる。なんで今俺はそれを思い出したんだろうっていうようなことがな。それは必ず正解なんだ。俺のやってる仕事なんて、その繰り返しなんだ。世の中のお役にたつような仕事じゃないと思うよ。嫁が尊敬するような仕事でもない。子供に説明できるような仕事でもない。ま、そんな素晴らしい仕事が存在するのか俺には疑問だけどな、ま、それはいい。何かを探す仕事は、バカみたいな頭を引っ掻き回して、ゴミ箱に首突っ込んで、目を血走らせるしかないんだよ。スマートになんかいくもんか。ボクちゃん、悪いことは言わねえ。俺に任せときな。女を捜すのは俺の仕事だ。ボクちゃんのチンコにぴったり合う女を見つけてくることにおいて俺の右に出るやつはいない。警察なんかに捜せるもんか。
 翌朝、部屋のドアがノックされた。夜中も街を歩いて明け方に眠りについたところだったが、イーかと思って僕は飛び起き、ドアを開けたら見知らぬ現地の女が立っていた。女は英語で、シコッティにここへ行くように言われた、と言った。僕は、うんざりした気分でシコッティは結局何も分かっていない、と思った。悪いけれど間違いだから帰って欲しいと言おうとしたが、先に女が口を開いた。
「シコッティからの伝言。このバイクを使え。一週間は自由に使える。行き先はこれを見ろ。そこから先のことは自分の頭でなんとかしろ」
 女は折りたたんだA4の紙切れを僕に手渡した。それは地図のコピーだった。ある町の名前が赤で囲われ、横に「your love hole」と書かれていた。
「シコッティは?」
「私の部屋で寝てる。苦手な奴だから、私が代わりに行けって言われた」
「シコッティに伝言をお願いしてもいいかな?」
 女が手を差し出したので、僕は紙幣を一枚渡した。
「プロフェッショナルの見る夢は、気が遠くなるくらい美しい」
 気持ちの悪いものでも見る目で見てくる女に僕は「そばかすがかわいい」と言ったが、女は余計に怪訝な一瞥をくれて、良い旅をと言い残し帰って行った。



 その町までは丸一日かかった。
 借りたバイクは音ばかりうるさくて、あまり速度は出なかった。ジャンクの部品をかき集めてきて作ったような代物だった。国道は舗装されていたが至る所にゴミが落ちていて、集中して運転しないとすぐにそれらに乗り上げたり、他の車のはねたゴミがヘルメットの横を掠めたりした。どうしても力が入ってしまうために、ハンドルを握る手にはすぐに豆が出来た。グローブを買ってくれば良かったと後悔した。
 対岸が見えないくらい巨大な川の岸を走り、気が遠くなるような長い橋を渡り、鬱蒼としたジャングルの中のハイウェイを抜けて、幾つもの寺院の脇を通り、黒い排煙を吹きながら走るバスにクラクションを鳴らされた。谷底に落ちているトラックがあり、眠っている牛がいた。貧しい村を幾つか見た。どの村でも子供達が集まって遊んでいた。熟れた夕日が沈み、ガソリンを補給し、コウモリが舞い、ヘルメットに大きな蛾が何匹もぶつかってきて、コックローチに怯えながら小さなモーテルで眠った。固いベッドで目を覚ました時、自分はまだ移動し続けているような錯覚の中にいた。
 貧しいけれど美しい国だと僕は思った。砂埃と排ガスの中から見る風景は、表情に富み、生き生きとして見えた。
 そして目的の町にバイクが入った時には、もう自分がどこから来たのか忘れてしまうくらい、遠くに来てしまった気がした。
 町は地図を見て想像していたよりも大きかった。市場には鮮やかな野菜や果物が並び、広場にはエアロビクスのような体操をする一団。バスターミナルは人で溢れ、バイクに乗ったまま近付こうとして僕は何度も歩行者にぶつかりそうになってひやりとした。僧侶が一列に並んで歩いている。僧侶達は手に大きな造花を抱いている。何か大きな儀式があるのか、それとも日常の光景なのか、僕には分からない。軍人が大きな銃を肩から提げてパトロールをしている。活気溢れる雑踏に僕はたじろいだ。またこの中からイーを探さなければならない。それは途方もないことのように思えた。僕はバスターミナル横にバイクを止め、エンジンを切った。ターミナルを囲む、三階建て四階建て程度のコンクリートのビルの壁には、所狭しと看板広告が設置されていて、その内、英語のものは一割にも満たなかった。おそらく観光客やビジネスマンが訪れるような町ではないのだろう。バスの券売所に群がる人々からは僕の分からない言葉しか聞こえて来ない。突然道路の反対側で奇声を上げて走る男がいた。人々はよくあることだという感じで彼を一瞥し、それぞれ自分の目的に向けて歩いて行った。えらいところに来てしまったな、と思った。僕がそう思うんだから、イーなんてこの町に降り立った時、どういう風に感じたことだろう。バイクに跨ったまま僕はしばらく町を眺めていた。シコッティはここへ行けと言った。あいつはプロだ。あやふやな情報を客に渡したりはしないだろう。もちろん、この異郷感にやられてイーはもしかしたらトンボ返りでそのまま引き返してるかもしれない。シコッティはそんなことも計算づくだろうか。どう思う。答えは決まっているようなものだ。イーはこの町のどこかにいる。この町のどこかで黙っている。そうだ。そんな日本人の女がいれば、この町では目立つ筈だ。イーはすぐそこにいる。僕が考えないといけないのは、イーがここにいるかどうかではなく、イーがこの町のどこにいるかであり、イーに何と声をかけるかだ。
 英語が通じそうな場所ということで、最初にバスターミナルにある観光案内所のようなところに入ってみたが、休憩中なのか誰も人が出てこなかった。仕方なく切符売り場の窓口で聞いてみようと思い、とても混んでいたが僕は大人しく行列に並んだ。ようやく窓口のところまで来て、人探しをしているのだが、と言うと、英語はよく分からない、少しそこで待て、と言われて、僕は窓口の横に立たされた。
 結構待たされた。五分程して、一人の女性がやって来て「何か御用ですか?」と英語で話しかけてきた。髪の長い女性だ。三十歳過ぎといったところだろうか。落ち着いた感じがする。僕が、青い帽子を被った女の子を探しているのだが、と言うと、
「それなら分かる。連れて行きましょう」
 と彼女は答えた。
 僕は彼女に言われるがままついて行った。商店が立ち並ぶ通りを抜けたところにある青空駐車場で彼女は一台の日本車の鍵を開け、「汚い車ですが、どうぞ」と言った。
「場所だけ教えてもらえれば自分で行きます」
 と僕は言ったが、
「責任をもって最後まで案内しなければいけない。申し訳ないけれど、身元の知れない外国の方に勝手に行ってもらうわけにはいかない」
 と言い切られたので、素直に助手席に座った。車内には、泥のついた長靴やスニーカー、麦藁帽子などが転がっていた。車を駐車場から出しながら
「旅行者ですか?」と彼女は訊いた。
「はい。今日こちらに着きました」
「そう。こんなところ何もないでしょう」
 車は市街地から離れようとしていた。どうして青い帽子と言っただけで彼女にその居場所が分かるのだろう。彼女は僕のことを身元の知れないと言ったが、なぜそのような者を車に乗せて運ぼうとしているのか分からなかった。もしかして僕は騙されようとしている? いいカモにされようとしている? 分からなかった。しかし僕には何の手がかりもない。もし彼女が何らかの犯罪者の一味だったとしても、僕はそこから始めなければならない。ドジを踏む覚悟くらい出来ている。
「なぜ青い帽子を探して?」
「知り合いなんです」
 そう答えると彼女は不思議そうな表情を浮かべ「そう」と言った。韓国人? いえ、日本です。あら、いいわね。日本には一度行ってみたいわ。綺麗な川があるでしょう? 川ですか? そう。山じゃなくて? 山? 違うわ。川よ。こちらの土色の川に比べれば、透明で綺麗な川はありますが、特に有名なのは分からないですね。意外と自分の国のことって分からないものよね。私、テレビで見たのよ。カヌーに乗って、川下りをして、鳥を撃ってた。それ日本じゃないでしょう? 日本よ。日本にもカヌーをしたりする川はいっぱいありますけど、普通の人はあんまり鳥を撃ったりしないです。せいぜい見たり写真を撮ったりするくらいです。そうなの? 心優しい民族なのね。そうでしょうか。治安もいいんでしょう? そうですね。でもひどい事件ももちろんあります。例えば? 子供を殺したり、とか。鳥は殺さないけど子供は殺す。なんだか変なガイドに当たったなと思った。車は市街地を離れ田園風景の中を走っている。でも日本には行ってみたいわ。牛の丸焼きっていうのを食べてみたいもの。それ絶対に日本じゃないですよ。あ、あと歯医者が世界一優秀なんでしょ? 私、虫歯あるのよ。見る?
「農家もされてるんですか?」
 と、僕は話題を変えた。
「そうよ。この辺りの公務員はみんな農家も兼ねてる。私の家は芋。あなた、あのアメリカのオモチャの映画観た? ポテトの保安官が出てくるでしょう? 私、まさにあれ」
「保安官?」
「そうよ。警官。非番だけどね」
 なんだろう。ついてるのか、ついてないのか。もう僕には全く分からない。



 その婦人警官が僕を案内したのは、どう見ても小学校だった。校庭にはすべり台やブランコが並び、まだ新しい感じの三階建ての校舎がL字型に建っている。授業中なのか、校庭に生徒の姿はなかった。授業中の静けさ。ごくありふれた小学校。
 車に鍵をしながら彼女は、
「お知り合いの人の名前は?」
 と訊いた。
「タナカ・イー」
「職員室で訊いてみましょう」
 警官は無断で校舎にずかずかと上がりこみ、廊下を真っ直ぐに進んで、職員室のドアを開けた。そして警察手帳も示さず、近くにいた教師に声をかけた。教師も特に驚いた風はなく応対している。そこからの会話の内容は僕には分からない。対応した職員は、ちょっと待って下さいといった感じで、他の教師のところへ行き、そこで少し話し込んでから、戻って来ると首を振った。
「タナカ・イーなんて生徒はいないって言ってる」
「何?」
「そんな生徒はいないって。そもそも外国人の生徒は受け入れていないって言ってる。あなた本当に知り合い?」
「いや、ちょっと待って。僕が探してるのは小学生じゃない」
「え? 青い帽子って言ったわよね?」
 僕達は校庭の隅にあるベンチに腰掛けて、下校していく小学生達を見ていた。ベンチには日除けの屋根が付いていて、ちょうど座っている場所は日陰になっている。時折風が吹くと涼しささえ感じられた。校門の前に何台かバスがやってきて、そこに子供達は吸い込まれて行った。子供達は全員お揃いの制服と、青い帽子を被っていた。走るやつ、ふざけるやつ、一人で歩いてるやつ、笛を吹いてるやつ、手を繋いでるやつ、色んな子供がいた。
「ここに来るのはみんないいところの子ばかりよ。私達みたいな庶民の子供は絶対に通えない」
「子供いるんですか?」
「私? いない。なかなかできないのよ」
「どこの国でも同じような話ですね」
「日本は一夫多妻だから、ちょっと話が違うでしょう」
「だから、それ日本じゃないですって」
「冗談よ」
「あなた、変わった人だって言われません?」
「言われる。でもね、とても普通なのよ。悲くなるくらい普通。そして真面目。少しマヌケなだけ」
「日本人を小学校に連れてきたり」
「そう」
 校舎の上のスピーカーからチャイムではなくサイレンの音が鳴り、その後に音楽が流れた。国歌よ、とマヌケな警官が教えてくれた。敬礼して聴かなくていいんですか? と、僕が言うと、非番、と彼女は言った。
 高台にある小学校からは、周囲を取り巻く田園と遠くに淡い稜線が見渡せた。田園の中には舗装されていない黄土色の道路が走っていて、軽トラックが何台か停まっている。国歌が終わると、また、聞こえてくるのは子供達のはしゃぐ声だけになった。
「青い帽子の日本人女性」
 と彼女は呟いた。写真とかないの? ありません。似顔絵とか描けない? 無理です。ほんとに探す気あるの? まあ、日本人がこの町に来るなんて本当にないことだから、もしかしたら手当たり次第に聞いてみたら情報も出てくるかもしれないわね。でもその子、英語も話せないんでしょ? じゃあ本当にどうしてるのかしらね。この町は英語の話せる人間だって、そんなに多くはないわよ。ましてや日本語なんて、きっと一人も話せる人はいないわ。
「でもね、確かに危険かもしれないけど、大抵のことは大丈夫なものよ。赤ちゃんじゃないんだから。小学生だって、一人で何とかするのよ」
「そうですね」
「失礼かもしれないけど、君はその彼女のことを探しているというか、フラれたのに追いかけている」
「そんなとこです」
「愛しちゃってるわけね。いいわ。素敵」
「全然ダメですけど」
「あなたが本気なら、どうかしら、一緒に来てた彼女が悪漢に誘拐されたことにすれば警察も動けるわよ」
「それってまずくないですか? 大使館とかが出てくる問題になるでしょう」
「そこはなんとかうまくやって」
「いきませんって」
「面白いと思うんだけどな。私も現場に居合わせたことにしてあげてもいいわよ」
 彼女は腰のスタンガンを抜き、ベンチに立ち上がって構えた。いや、スタンガンじゃなかった。ただの無線機だった。
「やめましょう。この国って、ロマンチスト多くないですか?」
「いい国でしょ? 気に入った? 元気出しなさいよ。もっと辛い話いっぱいあるわよ」
 彼女がそう言った時、彼女の手に握られた無線機が鳴った。彼女はベンチから静かに降りて、離れた所にある銅像のところでつるりとした銅像の足を手の平で撫で回しながら、しばらく無線機を相手に喋っていた。僕はベンチに横になり、さてこれからどうしたものかな、と考えた。この婦人警官の言うように、日本人が珍しいのであればバスターミナル周辺で聞き込みをすれば何か分かるかもしれない。ただ聞き込みをすると言っても、英語を話せる人が少ないというのであれば限界がある。それにしてもいい天気だ。今頃桑井とシコッティは何をしているだろうか。もうインターネットに繋がって、その女優がイー本人かどうかがはっきりしているだろうか。その女優にしたってどこに消えてしまったのだろう。考えていると少し笑えた。いい国だな。また来たいよ、と僕は思った。
「悪いんだけどすぐに戻ることになった。いい?」
「はい。小学校には何の用もないですから」
 車の中で彼女が話したことによると、先日ある本屋で万引きした少年を補導したのだそうだ。万引きしたのって、性のテクニックの教則本みたいなやつよ。イラスト入りで、女はここをこうされるのが一番いいんだとか、そういう半分くらい嘘ばっかり書いてあるやつ。日本にもある? あります。でね、そのマセガキがね、逆恨みで本屋のオヤジを自転車のチェーンで殴ったらしいのよ。ついさっき。オヤジもあんまり感じのいいやつじゃなかったからな。嫌なことをたくさん言われたんでしょう。で、他の店員でその少年は取り押さえたらしいんだけど、とりあえずまだ現場にいるから、担当としてすぐ来て欲しいって。ねえ、楽しいデートがこんなことで割り込まれるなんて。無線の電源を切っとけば良かったわ。
「でもすぐに仕事終わらせるから、ちょっと待てる?」
「いえ、もう十分お世話になりましたから」
「なにもお世話なんかしてないわよ。何かして欲しいことある? なんでもするわよ」
 どこかで聞いたことのあるセリフだ。
「なんでもですか?」
「そうよ。気にしなくても大丈夫よ。私、赤ちゃんできにくいから」
「あなた、もしかしてシコッティの回し者ですか?」
「シコッティ? 何それ」
 彼女はカーステレオの再生ボタンを押し、なんだか知らない軽快な音楽が車内に流れた。



 僕は関係者でもないのに、彼女に手招きされるがままに店に入った。店内には制服姿の警官が二人と、凶行に及んだ少年と、何人か店員がいた。被害者の店長は病院に運ばれたらしい。少年は婦人警官の顔を見ると目を背けた。彼女が声をかけると、少年は何か激しく言い返した。言葉は全く分からなかったが、言い合っていることはなんとなく分かる気がした。どこの国でもこういうのはあまり変わらないな、と思った。少年が店内を睨みつける様子を見ていると、これを未然に防ぐなんて不可能なように思えてしまう。彼が棚に並んだ性の指南書を手にした瞬間から、ここで言い合うセリフまでが約束された一連のシナリオかのように。僕だけがまるっきり余計な分子で、異なる舞台に迷い込んでしまった登場人物だ。そう思った時に、ふと、これもイーが僕に抱きついたあの瞬間から続いている流れなのかもしれないという考えがよぎる。何の根拠もなかった。そう思うと僕もこの少年に何か言葉をかけてやりたいような気分になったりしたが、もちろん言葉も分からないし、言うべきことだって分からない。悪いけど、少年、助けてあげることは出来ないよ、と僕は思い、異国の本棚を見るでもなく見ていた。偶然だった。本棚は綺麗にびっしり埋まっているのに、一箇所だけ、本棚の隅にぽっかりと空いているところがあった。最初なぜその空白が気になるのかも分からなかった。見知らぬ土地の初めて入る本屋の一つも読めない背表紙だらけの本棚。いくら辛抱強い人間だとしても、そんなものと一時間向き合おうが、二時間向き合おうが、何が発見できるというのだろう。それでも僕は発見した。一箇所の空白を。そしてその棚の本を何冊か手に取って中身を確認した。なんだか刑事になったみたいだと思った。影響を受けやすいタイプなんだ。
 僕は事件の当事者達から少し離れたところに立っている店員に「英語を話せる人はいないか」と声をかけた。男の店員は「少しなら話せますが、何でしょうか?」と言った。
「昨日か今日、ここに青い帽子を被った日本人は来なかった?」
「青い帽子の日本人?」
「そう、女の子」
 店員は思案顔だったが、私は分からないので、ちょっと聞いてみる、と他の店員のところへ行った。そして、別の店員を連れて戻ってきた。
「日本人かどうかは分からないけれど、彼が青い帽子の東洋人の女を知ってるそうです」
 僕は大きく息を吸った。君、英語は? 少しだけ。その女の子は辞書を買って行かなかった? はい、辞書を買って行きました。英英辞書です。でも彼女には英語も通じなかったので、どうしてこんなものを買うんだろうと不思議に思いました。紙に書いて値段を伝えないといけませんでした。なんだかとても混乱している感じで、大丈夫かなと思いました。大丈夫ですか、何か困ってることありますか、と声をかけたのですが、やはりその女の人は怯えるような顔をして店を出て行ってしまいました。間違いなかった。英語を話せないし読めないくせに英英辞書なんか買いに来る東洋人。何を考えてるんだか、イーはここに来ている。それって昨日のこと? 今日のこと? 今日の午前中です。僕は少年と話し合っている婦人警官の彼女の元へ行き、取り込み中にすまないが、こっちも緊急事態でデートは出来なくなった、と言った。僕の探してる女の子はこの近くにいるらしい。あなたはマヌケなんかじゃない。最高に有能で美しくてラッキーガールな警官だ。ありがとう。婦人警官は僕のことを抱きしめ、あなたは彼女のことを愛してるのね? と言った。愛してる。彼女もきっとあなたのことを愛してるわ。だから見つかるのよ。あなた達はついてる、もう大丈夫、さよなら、と言った。少年や他の警官が、ぽかんとした顔で二人を見ていた。



 桑井は日本に帰ってから、サングラスを外し、学習塾ば開いた。僕も講師として働かんかと誘われよったが丁重によお断りした。変態塾長の下でなん働きたない。だってよ、いつ朝刊の三面トップを飾ってもおかしいない塾だ。3P面談。同僚の講師のインタビュー。いつかやる思てました。え? 漢文のテキストを丸めて入れられよったんですか? そりゃまだマシだ。昔は古今和歌集ば全部突っ込んだ言うてました。そうです。原本です。やだやだ。そんなことしね。心を入れ替えるんだ。いつまでも金がもつわけでもねえしな。よりによって学習塾なん、この時代に儲からなさそだけどな。最低限でええんだ。年に何回かあっちさ行って、シコッティん払えるだけ稼げればそれでええんよ。なんにも心入れ替わってねえじゃねえか。仕方ねえ。日本の女は本当につまんねえんだから。あと、やっぱな、俺も何はともあれ人の親ってことだよ。もう一回、というか結局教育をやるんだ。原点回帰だ。バカにすんじゃねえよ。バカになんかしてね。じゃんじゃん稼ぐから、またシコッティのとこ行こうぜ。あいつもリョーに会いたいって言ってたぜ。痔の手術してから行った方がいいぜ。今更だけどシコッティほんとにゲイなのか? ゲイに決まってんだろ。お前は鈍感すぎる。リョーが帰る日、あの野郎一人で隠れてシコってたんだよ。俺が部屋に行ったら、恥ずかしそうに隠しやがったんだよ。シコッティのシコシコだぜ、世界で一番下らねえ、おまけに処女みたいに恥ずかしがりやがって、あれはほんとに嫌なもん見たぜ。あれ絶対に淋しくて泣きながらシコってた筈だ。思い出に酔いながらってやつだよ。健気じゃねえか。お前さ、いつかシコッティに殺される気がするよ。大丈夫だよ、シコッティは。大人だから。桑井、シコッティにお世話になってんだからさ、一回くらい日本に呼んでやればいいじゃねえか。日本に来たがってないの? まあでも、シコッティ家族もいるしな。あれ? あいつ、そんなこと言ってた? 言ってたよ。結構大きい子供もいるって。それ嘘。あいつ、結婚なんてしてねえよ。は? できるはずねえよ。あいつ真面目だし。真面目? 国籍もねえし、だから免許もねえし、パスポートもねえよ。だから日本になんか来れる筈がねえんだよ。結婚だろうが、なんだろうが、うまくやりゃ出来るのかもしらねえけどな、あいつ真面目だから。だって、ほら、バイクを借りてくれたのはシコッティの名義だろ? 返すの遅れた時、すげえ嫌味言われたんだぜ。もう俺の免許でバイクが借りれなくなっちまうだろとかなんとか。免許なんかねえんだって。いっつも俺が運転させられるんだからな。あんなバイク盗品だって言ってたよ。マジかよ。真面目じゃねえじゃん。セコい犯罪はするの。おいおい、シコッティ、むちゃくちゃだな。検問とかやってたらアウトじゃねえか。そうだよ。やべえ、警官と仲良くなったりしてたよ、危ねえなあ。ま、いいじゃないの。全部あっちの話じゃないか。今となっては全部夢みたいなもんだよ。ほんと暑かったよな。





 僕があの国でイーから学んだこと。
 元気を出すこと。





 本屋を飛び出した僕は付近の通りを探し回った。
 すべての店の中を覗き、道行く人が英語を理解するかしないか関係なく、青い帽子を被った女を見なかったかと聞いて回った。
 バスターミナルにも戻り、切符売り場で英語の話せる人間を探して、青い帽子の女が今日チケットを買いに来なかったか聞いた。
 そんな女は来ていないと無愛想なチケット売りの男は答えた。
 英語の話せるタクシー運転手に、青い帽子の女が来ても絶対にどこにも乗せて行かないように仲間にも伝えて欲しいと頼んだ。
 人々は誰しも怪訝な顔でおかしな東洋人を見た。
 桑井もシコッティもおかしな人間だ。
 僕があいつらから学んだのはこういうことなんだ。
 時に桑井のようにそこら中で裸体を晒し、シコッティのように裏の世界に足を踏み入れたりしなければならないんだ。
 同じことをするんじゃない。
 僕は、僕の欲しいものを、僕の属する世界の中で最高のものを望み、そのためにしたいようにすればいい。
 あいつらのようにすればいい。
 ボクちゃん、何しにこの国に来たんだ?
 リョー、お前、本当にやりたいと思ってんのか?
 必ずいる。
 僕の前にはいない。
 僕の後ろにもいない。
 この扉の中にもいない。
 このページにもいない。
 この木の陰にもいない。
 この曲の中にもいない。
 この鏡の中にもいない。
 いないし。
 いない。
 知っている。
 いくら探しても何も見つからないパターンだ。
 同じところを巡る。
 同じ言葉を繰り返す。
 どこかで諦めるパターンだ。
 そんなことは思い知っている。
 何度も諦めている。
 それはきっと精一杯だったんだ。
 そうなんだ。
 でも今回は違う。
 愚かなんだ。
 取り返しがつかないんだ。
 もう十分分かっている。
 だから、だから今回だけは。
 絶対に青い帽子を見つける。
 帽子を見せて欲しい。
 これで今回も何も見つからないんだったら、
 こんなもん最悪につまんねえぞ。
 顎の先から垂れる汗が地面に空しい模様を描く。
 やがてそれはスコールとなり、僕はそのまま走り回り、ぐっしょり濡れた。
 レンズに水滴がついて見えないからメガネを外した。
 泥に足を取られた。
 通りにはもう誰もいなかった。
 屋根の下に逃げ込んだ人々が、びしょ濡れで立ち尽くしている東洋人を見ている。
 水槽の中にいるようだ。
 生ぬるい水槽。
 スコールが地面を打つ音が、層となって僕を取り囲んでいる。
 僕の上下が逆さまになり、僕を見ている人々も逆さまになる。
 雨のカーテンの中で、錯覚のように物質は右から左へ、左から右へと流れるように移動する。
 辞書の分厚さ程度の世界。
 その中のあるページの、ある項目の中で僕達は迷子になっているに違いない。
 たった一つの項目だけで僕達は十分に遭難し、立ち尽くす。
 あの鳥はどこから飛んできた?
 あのクジラはいつ浮き上がってきた?
 あの惑星とあの惑星ではどちらが遠い?
 予兆はすぐそこにある。
 孤独ではじゃない。
 ぬるい雨。
 この美しい国に僕は溶けてしまう。
 僕の頭上にビニール傘が差し伸べられた。
 僕はイーのことをなぜかよく知っていると、その時考えていたんだよ。
 「傘、買えたんだ」
 「アンブレラぐらい、知ってるわよ」
 南の空は明るくなりつつある。
 スコールはしばらくしたら止むだろう。





 どこまでも無限に続くような屋台の群れ。色とりどりの光が夜の中に揺れていた。人々は永遠に続く夜の時間の中で口々に愛の冗談を交わし合っている。僕はその屋台の前で立ち止まり、無造作に並んだたくさんの眼鏡の中から、黒いセルフレームのやつを手に取り試着した。屋台の柱に小さな鏡がかけてあり、僕はそれを覗き込む。お客さん、よく似合ってますよ、と女の店員は言う。女の店員はイーがいい。ラッキーアイテムだとか言って青い帽子を取り出すのだろう。無理やり僕に被らせると、悪戯っぽく笑って「似合ってない」と言うのだ。似合わない帽子だけれど、何かが変わる、それだけの話。似合うのかもしれないけどさ、何も変わらない帽子なんてやめときな、ボクちゃん。









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