予感



 インタホンが鳴った。
 てっきり壊れていると思っていたので、本来なら面倒なだけのインタホンの音も美しく聴こえた。
 部屋はマンションのの五階。一基しかないエレベーターにはずっと「修理中」の張り紙。引っ越してきて五年になるが、一度も修理が終わった事が無いどころか、修理している様子も無かった。
 そんな五階の部屋に階段でわざわざ訪ねてくる勤勉なセールスマンなど最近はいない。そもそもこんな古びたマンションの住人が、羽毛布団や金塊を買うとは思えないし、国営放送の集金だって来た事がなかった。こんなにテレビを見ているのに。前の住人が一生分払って行ったのだろうか。ドアの横には受領済のシールも見当たらない。
 その時の私は国営放送の中学社会を見ながら、列国の植民地政策について思い出している。1997年に香港が、1999年にマカオが返還されている。
 無視していたら、もう一度インタホンが鳴った。
 こういう時、私の昔の恋人はすぐに扉を開けて丁寧に応対した。その頃はマンションの一階に住んでいたので、新聞の勧誘などがよくやってきたが、その都度彼女は執拗な勧誘にしっかりと付き合って、そのくせ無料購読にさえ最後まで首を縦に振らないので、勧誘する側からすれば厄介な客だったに違いない。テレビがあれば十分なのに、と彼女は言っていた。ぼくもそう思う。
 テレビと日本製VHSのデッキをぼくたちは持っていて、色々な映画やドラマや音楽番組を録画してはすぐに見て上書きしていった。たまにニュース番組も録画した。こういうものがきっと将来おもしろくなるのよ、と彼女は言っていて、きっとそうだろうとぼくは感心していたが、それらのビデオテープを残して彼女は部屋を出て行ってしまった。
 彼女との話し合いは辛かったので、あまり覚えていない。長い話し合いだった。それは話し合いではなかった。ぼくが説明して問いかけるだけ。途中からは新聞勧誘員の気持ちが痛いほど分かった。そして諦めた。
 冗談みたいな話だけれど、彼女は新聞記者と結婚したと風の噂に聞いた。そして、その新聞記者は余計なところに首を突っ込み過ぎて、新聞にも乗らないような形で死んでしまったというような話も聞いた。その後、彼女がどうしているのかは知らない。
 ニュースを録画したビデオテープどころか、VHSのデッキもどこかに行ってしまった。捨てた覚えも無いのに見当たらない。そういうものはたくさんある。
 さっと玄関に出て行って、にこやかに応対する。そんな姿が目の前を過った。存在したのかどうかさえ怪しい、すっかり思い出すこともなくなっていた彼女のことを蘇らせたインタホンの音がもう一度鳴った。
 ぼくがここにいることを確信している。日記を閉じ、ベッドの下の改造トカレフを手に玄関に向かった。虚仮でも無いよりはマシだった。接近戦は得意では無い。筋肉の塊のような奴が現れればお手上げだ。出来れば距離を置きたい。五階に住むと逃げ場が無くて良くない。隣の三階建てビルの屋上に飛び移るような真似はできればしたくないものだ。
 青い鉄製の扉の向こうに人の気配がする。二人、あるいは一人。たぶん。扉の覗き穴に顔をつけるような不用意なことはしない。そんなことをした瞬間に蜂の巣にされた仲間がいた、という映画を見たことがある。ぼくは、新聞なら読まないよ、と言ってみた。読まなくてもいいから、新聞取ってくれないかな、と相手は言った。男の声。そしてなぜか小さく笑った。
 結構おもしろいことも書いてあるものでね、たとえば占いとか、青さん、生年月日教えてよ。
 ポストに名前さえ出していないのに、扉が青いというだけで青さんと呼んだのか、あるいは本当にぼくの名を知っているのか、判断がつかなかった。
 1960年8月17日。
 1962年4月11日ね。
 男は間違いなくぼくのことを知っていた。
 誕生日おめでとう。あら、でもあまり良くないね。余計なことばかり考えて仕事は捗らないって、で、雑巾とリンゴはよく絞りましょう、だって、ひどいな。ひどいね。リンゴは好きだよ。同じ。開けてくれる? 一人ですか? そうだよ。開けなかったらどうなるの? ずっとここにいる。いつかは青さんの方から出てくる。それでいい? いいけど、何の用? 開けてくれたら話すよ。話があって来たんだ。
 一旦玄関を離れ、キッチンの窓から外を見下ろした。隣のビルとの間には、成人男子がぴったり落ちるくらいの隙間しかなく、それを越えて屋上に飛び移ることは容易に思えた。街のところどころに黄色いケナリの花が見える。その向こうには低木に覆われた小高い丘。迂回するように高速道路が伸びる。
 ぼくは高校時代にブラスバンドに所属していた。パートはフルート。上手くはなかったが、親がフルートを買ってくれたし真面目に練習していた。バンドには上下関係が厳しく存在し、ぼくたちは上級生から誘われてはよく屋台で夕食を済ませて帰った。
 ある時、男の先輩の一人が、卒業したらヨーロッパに行くのだと行った。誰かが、留学するのかと問うと、そうではなく向こうで働きながら音楽に関わる仕事をするのだと彼は答えた。ある女の先輩が、本当になれる人はどこにいたってなるものよ、わざわざ向こうに行かないとなれないなんて、そういうことよ、と言った。受験から逃げるだけだよ。そうかもな。金持ちだから。そうなの? そうだよ。そんなことないよ。そうだよ。どこ? ブダペスト。どこ? ぼくたち後輩は黙って聞いていた。一緒に行かないか? 住むところはあるんだ。行くわけねぇじゃん。一人で行けない奴が何しに行くんだよ。ここにいてももっとこのままだぜ。どうかな。どうだろ。在邇求遠。そうかな。おい、青。お前、行かないか? 突然、なぜか話がぼくに向けられた。後輩巻き込むのやめろよ。そうよ。青のフルートでどうやって食ってくんだよ。そう言って先輩たちが笑った。同級生たちも。ぼくは何だかフルートを買ってくれた両親のことを馬鹿にされたような気がしてしまった。青みたいのが良いんだよ。それでもやってる奴がやれる奴なんだよ。お前も似たようなもんだよ。そうだよ。いいですよ。行きましょう、行きますよ。と、ぼくは言った。もう陽は暮れていた。先輩は結局行かなかった。そしてぼくも行かなかった。
 国内の大学に進学してすぐ、ブラスの見学に行ったが、フルートを取り出すこともなく途中で帰ってしまった。あの夜にああいうことがなければぼくはフルートを吹き続けていたように思う。咲き狂うケナリを眺めていると、そういう時期だな、と思った。フルートとトカレフは全く似ていないが、同じくらいの重さだと思った。
 机に戻ってそんなことを書いていると、うっかりうとうととしてしまった。ぼくは玄関に向かい、もし君がボストンバッグを持ってきたんだったらさ、預からないよ、と冗談を言ってみたが返事はなかった。
 どのみち月曜日の朝になれば、四月になれば彼女たちがするように扉を開けてきちんと働きに出なければならない。月曜の朝にはかわいい生徒たちが教室でぼくのことを待っているのだ。
 フルートを探すと、思ったよりもあっさりとそれは見つかった。男に聴かせてやろうと思って吹いてみる。男の好みが分からないのでなんとなく『印度の虎狩り』にした。吹き始めてから、セロ弾きのゴーシュみたいに次から次へと客が来たら、八発しか撃てないトカレフで足りるのだろうか、中島敦の本に親に嘘をついて虎狩りに行くという話がある。ぼくたちは、嘘をつかれることに慣れなければいけないのだろうか、ということばかりを日記に書いてきたような気がするが、書かないようにしてきただけのような気もする。
 豆を柔らかくなるまで茹でて食べた。茹でる前の固い豆を窓から放り投げると、夜の中をどこからともなく鵙が飛んできて食べた。月は明るい。
 ぼくの誕生日を正確に知っている人を思い出してみる。両親や妹はは覚えているだろうか。何人かの恋人たちはどうだろうか。きっと覚えていない。ぼくも彼女たちの誕生日など覚えていない。元妻と娘はどうだろう。元妻の誕生日は覚えている。娘の誕生日も。同じように彼女たちも覚えているかもしれない。いや、覚えている筈だ。元妻の今の夫の誕生日とぼくの誕生日は同じなのだと、最後の頃に娘から聞いた。お母さんはきっと占いを信じないのよ、と彼女は言った。元妻が占いを信じていたことを知っていたぼくは、お母さんなりに何かを証明しようとしてるのかもしれない、と言ったけれど、娘はこれまでに聞いたことのない声で、リスペクトというのは証明するものじゃないわ、と子供らしくないことを言った。互いに。
 ぼくは、ドアの前にいる男が、元妻の今の夫であるあの良くできた男である可能性を考えてみた。しかし、昼間男が言ったことが本当であれば、それはありえないことだった。現夫は腰から下が無く、いつも車椅子に乗っていた。もし男が一人だと言うのであれば、エレベーターが修理中であるこの五階に辿り着くことは不可能だ。
 彼の下半身は、虎に喰われたのではなかったか。
 ぼくは元妻に、あの男と性的なことは可能なのかと考えうる限り慎重に尋ねたことがある。元妻は、あなたのそういう美徳を心から軽蔑する、とでも言いたそうな表情を浮かべ、悔しそうに泣いた。別れ話の中で、彼女が感情を露わにしたのは唯一この時だけだ。これまでの結婚生活が心底情けなく思えたのだろう。
 ぼくは扉の向こうでフルートを聞いた男が虎に化けているのではないか、という妄想を抱いた。狭い廊下に、子供くらいは丸呑みしそうな巨大な虎が身を折って蹲っている様をありありと想像した。こんなトカレフ如きでは致命傷を与えることなどとても出来ない。牛刀でもあれば別だが、そんなものがある筈もない。狼男で無いのだから月が沈めば元に戻るというものでもあるまい。
 虎は谷に落とすしかないのだ。
 不安を紛らわせるためにテレビをつけた。またインド映画。またインド版のロミオ&ジュリエット。両家の凡庸で無垢なる召使いたちはサーベルを振り上げて戦い、やがて手を握り合って踊り、そして全員地に伏せ動かなくなった。くっきりと引かれた国境の上を鳥とロボットが行き交う、そして晩秋のように舞い落ちた。落ちた先は国土では無く、ただの柔らかな地面であった。ジュリエットが先に毒を含み、悲嘆する国民に詰られたロミオは王国とメディアと国民の腐敗と堕落を嘆くダンスを踊り続け、壮年となった彼は砂漠の某国において一介のテロリストとして裏切りと裏切りの狭間で処刑されたのだった。
 窓の外の小高い丘には、赤い十字架が一つ光っていた。高速道路を流れる光のタンパク質。日記を書きかけたまま、眠りに落ちた。
 そのようにして誕生日は終わった。
 およそ教師には向いていない。人前で話すことも、文章を書くことも得意ではなかった。それでも教師になろうとしたのは、学校という空間に何かしら親しみを感じていたからだと思う。学生時代のぼくはそこで何人かの良い教師と出会った。良い教師、というのは生徒と一緒に泣いたり、親身になって進路について考えてくれたり、そういう良い教師のことを言っているのではない。自分の好きなものについて熱く詳しく話す人々だ。無関心な生徒たちに向けても、彼らは幾何や力学や詩や文法や和音や遺伝子や鑑賞について語った。ぼくは機械について教えるのが仕事だが、彼らとは決定的に違っていた。当然、ぼくは話すことも書くことも得意ではない。およそ卒業後もぼくのことを覚えている生徒など一人もいないだろう。いや、卒業後どころか毎週土曜日の朝にはすっかり忘れられているようにさえ思う。
 夜明けの気配に一羽の鶏が気付くよりも早く、ぼくは日記とフルート、トカレフをボストンバッグに入れ、それらを包むように着るものを詰め込むと隣のビルの屋上に放り投げた。大きな音がしたので、近所の住人に気付かれていないことを慎重に確認してから、自らも飛び移った。うっすらと山。ビルの外壁に備え付けられた鉄梯子を降りる。二階からビル内に入れる作りになっていて、幸い外壁側からは手で鍵を開けることが出来た。柔らかなカーペットの敷かれた廊下を抜けて階下へ。通りに出たぼくは駅へと向かった。
 満開のケナリ並木の道すがら、早朝に似つかわしくない派手なオープンカーに乗った老爺が話しかけてきた。助手席にも老爺。重そうだな、乗っていくかい、と運転席の老爺が言った。男がそんな大きな荷物を荷物を持って歩くなんてみっともない。余程のことなのさ。そうだろう? 乗っていくかと言う割には、そのピカピカの車は二人乗りで、ぼくと荷物の乗るスペースなどどこにも無かった。ありがとう、でもみっともなくいたい時もあるんだ。わかるよ。わかるな。俺たちにもそんなことは何度もあったよ。そして、後悔している。もっとみっともなくあるべきだったんじゃないのかってね。キリがないんだ。でもいい。それが奥深くて、飽きのこないところだ。羨ましいよ。では、みっともない週末を。週末を。そう言って、駅とは反対側に彼らは走って行ってしまった。あの二人はきっとテレビを見ていない。今日は午後から雨。河もきっと氾濫する。
 空港へ向かう始発の長距離バスに乗り込んだ。他に乗客はいない。真っ黒な排気ガスを吐きながら、バスは鈍く動き出す。明け方のがらんとした街を見下ろし、どうやったらトカレフを持ったまま飛行機に乗ることが出来るだろうか、とそればかり考える内に眠りに落ちたのだった。
 みっともない話である。トカレフの問題では無かった。ぼくはパスポートを持っていなかったのだ。忘れたのでは無く、そもそもパスポートなどというものを作ったことが無かった。チケットカウンターで研修中のプレートを付けた若い女性から、搭乗券の購入にはパスポートが必要ですと言われ、ぼくは目を丸くした。そして、カバンの中を探す振りをして、忘れたみたいだと笑って引き下がった。
 滑走路を一望するスカイテラスという名前のカフェスペースで高くて美味いコーヒーを飲んでいると、向かい側に若い女が座り、先生、と言った。知った顔だが、名前は思い出せなかった。受け持っているクラスの生徒だ。明るくて声の大きなタイプの女子生徒で、授業の外で話したことは無かったと思う。あまり良い予感はしなかった。
 どうしたの、先生、家出に失敗した高校生みたいな顔して。君こそ、ここでアルバイトでもしてるのか? 違うわよ。うち、アルバイト禁止でしょ? 知ってるよ。じゃあ何。知りたい? 別に。そっか。何飲んでんの? コーヒー。美味しい? と思う。彼女は荷物を席に残して、カウンターにコーヒーを買いに行った。確かにアルバイトに来るには荷物が大きすぎる。ぼくには観察眼も無い。彼女はコーヒーではなく、トマトジュースを注文していた。私、コーヒーだめなの。家出に失敗した? 知りたいんじゃん。当たり? 惜しい。そういうことか。そういうこと? 駆け落ちね。すごい先生。昨日そういう映画を見た気がする。ハッピーエンドだった? そうだね。あの荒唐無稽な筋書きを彼女に説明するのは面倒だった。ぼんやりとした朝だった。いかにも午後から雨になりそうな。ぼくたちは何らかの予感の中を生きている。特に彼女くらいの年頃の頃はそうだったかもしれない。鋭敏で、特に悪い予感には鋭敏で、大抵のことは分かっていた。良いことはわからない。悪いことはわかる。滑走路を眺めている彼女の横顔は、駆け落ちの相手がやって来ないことくらい充分に知っていたと告げていた。コーヒーを飲んだらいい。飲むと気持ち悪くなるの。昨日の映画では毒を飲んでたよ。少し考えてから、彼女はぼくの冷めたコーヒーに口をつけ、美味しくないと言った。
 ブラスバンドでフルートを吹いていた頃、ぼくは一人の綺麗な先輩と、一人の綺麗な後輩に憧れていたことがある。ある日、二人が手を繋いで歩いているところを見かけ、その内に部内は二人が付き合っている噂で持ちきりになり、本当かどうか分からないようないやらしい話も聞こえてくるようになり、その生々しさがとても嫌だった。やがて二人は同時にブラスを抜けた。ぼくは安堵し、穏やかな気持ちが戻ってきた。初恋らしい初恋だった。そう言えば、そのことはまだ日記には書いてなかった。
 スカイテラスのスピーカーからは、亡き王女のためのパヴァーヌが流れてきて、ぼくと彼女は顔を見合わせて笑った。クラブハウスサンド、フライドポテト、シーザーサラダ、ボロネーゼ、カヌレ、ババロアを、ぼくたちはぺろりと食べた。
 窓から出た者は窓から帰らなければならないって知ってる? 知らない。どういう意味だと思う? なんだろう、一生こそこそと生きろってことかな? 私は違うと思うの。窓から出たから、玄関の鍵は閉まってるでしょ? だから窓から帰らなければならないってことじゃないかな。何だそれ、くだらない。だって玄関の鍵をちゃんと持って窓から出たかもしれないじゃないか。だったら玄関から帰ればいい。そういうことじゃないのよ。たぶん窓から出たら、持って出た筈の鍵もどこかで無くしちゃうのよ。それはあれかな。言い換えれば、窓から出た者は、窓からであれば帰ることを許されている、という意味なのかな。そうかもしれない。ぼくは今朝、窓から隣のビルの屋上に飛び移ったんだけど、とてもじゃないけど窓からは帰れそうにない。棒高跳びのオリンピアンにでもなれば帰れるかもしれないけれど。じゃあ先生は棒高跳びのオリンピアン? になるか、あるいはスカイダイビングでもしてその窓を目掛けて舞い降りて行くしかないわね。うちの周りは鵙が多いからパラシュートは無理だよ。ねぇ、どうして先生は窓から出てきたの? 玄関の前に虎がいたんだ。虎? そう。下半身の無い虎。先生、私と駆け落ちしよっか? どうして? 窓から出てきた同士。単に週末にデートすることを駆け落ちとは呼ばないよ。月曜日の朝に帰らなければ立派な駆け落ちよ。サイモン&ガーファンクルもそう言ってた。古風な彼氏だったんだね。男の人はとても嫉妬深い。その通りだけどこれは嫉妬じゃない。男の人は本当の意味では鈍感すぎる。女の人は本当の意味では単純すぎる。ぼくには妻も娘もいるんだよ。離婚しても? そうだよ。私は大抵のことは知ってるのよ。先生のことちょっといいなと思ってたから調べたのよ。友達多いの。ごめんね。いいんだけど、嘘はよくないな。
 Kenji Miyazawa の銀河鉄道の夜が好きで、あれを下敷きにして何かを書こうとしたことがある。けれど下敷きにするということの意味がよく分かっていなかった。同じ登場人物たちが、どこかの分かれ道で違う方を選べばいいのか、全く同じ話を異なる文体で書けばいいのか、あれについて語る人々の話を書けばいいのか、分からなかった。後に分かることだが、それはどれだって良くて、何を選んだとしても、それは銀河鉄道の夜であり、銀河鉄道の夜ではないものになる。たとえカムパネルラが運河に落ちなかったとしてもカムパネルラはいつの間にか座席から消えているだろうし、それがジョバンニであれ、ザネリであれ、誰かが運河に落ちる音が聞こえてしまう。博士は牛の祖先の化石を発掘し続けていて、博士がたとえそれを止めたとしても、牛の祖先の化石が海岸に埋まり続けていることに違いは無い。にもかかわらず、ぼくが銀河鉄道の夜を下敷きにしてさえ何も書けなかったのは、ぼくが書く人では無かった、あるいは書く時では無かった、ということかもしれない。果たして今となって銀河鉄道の夜を下敷きにして書けるかと自問すれば、ぼくは一体誰を運河に落とすだろう、と答えよう。
 先生どうしたの? どうもしないよ。
 私が先生を初めて見たのは水泳の授業の時でした。体育の授業で二十五メートルを泳がされていると、イギリス人の若い講師と、その横にあまりに貧弱で白い先生が現れたのでした。授業の合間に避暑にでも来ていたのでしょう。二人はプールサイドに立って英語で何やら楽しそうに話していたかと思うと、やがてイギリス人の講師の方が華麗に飛び込んで力強く泳ぎ出し、生徒たちから歓声が沸きました。一方、先生はと言うと、そっと水に入り、こちらはゆったりではあるけれど、優雅なクロールを見せました。それを反対側のプールサイドに立って眺めている私の後ろにいた女子が、見るからにゲイよね、と言いました。私は、どういうところが? と尋ねました。なんとなく、と彼女が言うので、なんとなく誰かがゲイに見えるようになって、そしてそれを口にするようにだけはなりたくないわ、と私が言うと、彼女が私を嫌なものでも見るような目で見てきたので、ほら何に見える? と聞いて、そのまま私はプールに落ちました。
 ぼくは彼女をプールにに落としたりしない。なぜなら、ぼくにとって彼女というのは運河に落ちるような対象ではないのだ。
 中学生の時だ。登校すると、教室の片隅で何人かが話すのが聞こえてきた。その内の一人が通学中に猫を蹴って、その猫が池に落ちたのをそのままにしてやって来たのだと言う。猫って泳げないよな。泳げないよ。溺れ死んだんじゃねぇの? 大丈夫だろ。こいつ最低だわ。ぶっとんでんな。大丈夫だって。何がおもしれえんだよ、その話。良識のあるやつが割り込んだ。おもしれえなんて言ってねぇよ。言ってたようなもんだよ。正義感。と話しているところに担任が入ってきたのでその話はそれきりになった。で、どうなったの? 帰りに池を見に行ったらしいよ。でも猫なんて浮いて無かった、きっと自力で陸に上がったんだ、反省してる、だって。お前、絶対に呪われてるよ。溺れて死ぬわ。女に? 溺れてぇ。そいつが溺れ死んだかどうかは知らない。ぼくの友人に一人本当に溺れて死んだのがいたが、そいつは猫を蹴って池に落とすようなやつでは決して無かったと思う。私もそう思う。どうして? 先生がそう言うから。そういうのは危険だよ。それが危険なんだったら何も考えることは出来ないわ。そうだな。
 帰ろう、と声をかけたが彼女は席を立たなかった。しかし、テロ対策の避難訓練が始まると仕方なく彼女も立ち上がり、それぞれ大きな鞄を提げたぼくたちは空港職員に誘導されるままに一階メインロビーの外に連れ出され、そこで警備員とテロリスト役との捕物を見物し拍手をした。まだ建物の中では消化訓練が続いているようで、担架に乗せられた怪我人役も運び出され続けていた。しばらく眺めていたが飽きてきたぼくたちは、どちらからともなく市街向きのバスに乗り込んだ。私、空港って初めて来たの。勇敢だ。臆病なだけよ。ありがとう。空港、とても良かった。お礼を言われるようなことじゃ無い。あそこに先生がいなかったら、私はとっくに一人でバスに乗って帰ってたと思う。とてもひどい気分で。きっと忘れるけれど、その先を生きていく、そういう気分って分からない? 分からない筈がなかったが、ぼくは彼女を肯定したりしなかった。そういう肯定を嫌と言う程してきたような気がしたからだ。肯定を求める人には、沈黙で返すべきだと、アメリカの作家が言っていた。アメリカの作家にも色んなのがいる。
 空港から市街までの道は単調に続いた。沢山の車がバスを抜かして行く。やがて彼女が気持ち悪いと言い出した。コーヒーのせいだわ。そんなの何時間前だよ。ただの食べ過ぎと車酔いだよ。コーヒーよ。と言う彼女の顔色は本当に良く無かった。いいよ、次で降りよう。ごめんなさい。素直。
 見知らぬ町でぼくたちはバスを降りた。雑多な町だった。商店で水を買い、一番大きなビニール袋に入れてもらった。歩道橋の下に座り込んだ彼女にビニール袋を渡すと、奪うように受け取った彼女は顔を突っ込んで激しく嘔吐した。小さく何度か続けて吐いて、ようやく水で口を濯いだ。きっと先生が思ってるような彼氏じゃないと思う。冴えない人なの。目立たないし、きっと私じゃなければ恋人なんて出来ないような奴。最初から駆け落ちなんて出来るような人でもなかったのよ。みっともないのよ。先生と同じくらい。それはひどいな。でもね、そういうのって良いと思わない? 違うわ。言い方が違う。そうじゃないのって、嫌だと思わない? みっともなくもないなんて、私は嫌。そんなのがいいのなら誰だって良くなってしまう。私はみっともない彼から目が離せなくなってしまった。そしてそれに気付いた彼と私は目が合ってしまった。駆け落ちなんて言い出したのは彼の方。言わせたのは私の方。私の部屋でしてるのをお母さんに見つかって、どうしようもなくなってしまった。私のお母さん、そういうのダメなの。変でしょ? ありふれた話だよ。そうね。嫉妬した? しない。嘘はやめた方がいいよ先生。これがもしインド映画だったなら、ぼくたちは胃液臭い口付けを交わし、そして華々しい音楽が流れて踊り出すんだろうね。インド映画、観たことないから分からないの、ごめんなさい。お母さん、きっと今頃、彼の家に乗り込んでるわ。そういう人なの。ありふれた話。だとしたら、もうすぐ空港にも捜査の手は伸びてたね。そしてありふれたインド映画だとしたら、警官たちのサーベルとテロリストたちの偃月刀がぶつかり合う下を、ぼくたちは逃げ惑う。でもこれはインド映画じゃない。そう。じゃあこれは何なんだろう? 日記だよ。日記? そう。先生、しっかりしてよ。日記ってこういうんじゃないよ。なんていうか、日記っていうのはもっと・・・わかんないわ。
 ありふれた日記だとすれば、ぼくたちはこの後どうするのだろうか。日記には、反省があり、そして日記を書くということ自体が反省がある。反省には、肯定と後悔と留保がある。意味ありげで思わせぶりな留保が、かろうじてぼくたちを書かせ続けている。
 だから私は家には帰らない。
 地下鉄。乗ったことのない路線。途中で列車はトンネルを出て、丘陵と雑木林の中を進んだ。日曜午後の車内はがらんと空いていて、老夫婦と塾帰りらしき小学生たちと、小さな姉妹を連れた家族連れだけだった。あまりお母さんを心配させてはいけないよ、と隣の彼女は呟いた。教師のこともあまり心配させないで欲しい。生徒にもあまり心配させないで欲しい。思えば心配なんてされたのは久しぶりだ。まだ白い太陽は高く、坤輿の上を遊泳している。吊り広告が揃って揺れる。軋る。扉は一斉に開き一斉に閉じる。駅前に民藝館の看板、無料だし見てみたいと彼女が言うので中に入り、すぐに出る。タクシーの運転手は無口。何が心配? 生徒として、ぼくの何が心配? 前の奥さんに会って、何をしようとするのかが心配。別に何もしないよ。あまりみっともないことにならないでね。おやすみ。穏やかな寝息を立てる彼女の横、景色に雨は降らない。天気予報は外れた。
 すごい、と彼女は言った。高級住宅地。低い籬落がぐるりと邸宅を巡っている。美しくコンクリートを敷かれた庭の中央には四角いプールがあり、その廻りを麒麟と驢馬を掛け合わせたような動物が優雅に散歩していた。玄関の脇にはいかにも政治家が乗りそうな車が一台と、いかにも活動的な男性とそういう男性を好みそうな女性が好みそうな四輪駆動車が一台停まっている。
 見たところ人の気配は無い。
 先生、やっぱりやめとこう。こんなところから奥さんと娘さんを取り返すなんて無理だよ。取り返すなんて誰も言ってないよ、とぼくは笑った。たぶん会うことも出来ないよ。家政婦さんもいるし、警備員だっているんじゃないの? 無理だよ。私、お金持ちって一番苦手なの。余裕があっていい人たちさ。そんなことを話していると、案の定、警備員が二人出てきて、青さんですね、とぼくに向かって尋ねた。
 通された応接には威圧的な黒いソファが一組あり、ぼくたちはその中央に座った。彼女はとても居心地が悪そうで、諦め悪く帰りたがっている。家政婦が現れて、温かい日本茶を入れてくれた。そしてソファを一脚、力強く片付けた。私、日本茶もダメなのよ。飲まなくていいよ。
 妻と娘が家を出て行くことは何となく分かっていた。ずいぶん前からぼくたちは対話が出来なくなっていた。どういう経緯があったのか詳細は思い出せない。ただ、ぼくという人間のことを妻は生活の中で知りすぎていた。ある日、帰宅するともう二人の姿は無かった。一週間後、妻だけが現れて事務的な話をして出て行った。翌日、車椅子に乗った男が一緒に現れ、同情するが、これからのことを考えた方が良いと真っ直ぐに言った。一度だけ娘が一人でやって来て、中心が空っぽの雑談をして行った。何かを言おうとしていたのかもしれないし、何も言いたくなかったのかもしれない。よく出来たあの男が、最後にぼくに会いに行くように言ったのかもしれないなどと考えたが、分かる筈もなかった。そして、新しいお父さんとぼくの誕生日が同じだなどという、あまり知りたくもない情報を残したのだった。
 ぼくは家族三人で暮らした家を引き払い、かなりの量の家財を処分して五階にある今の部屋に引っ越し、改造トカレフを手に入れた。トカレフを持ってきた男は、いい奴を撃つのか、悪いやつを撃つのか、とニヤニヤして尋ねた。いいやつか、悪いやつか、撃ってから考えるよ。それがいい。じゃあ、弾が足りなくなったら言ってくれ。
 世界中で天気予報は外れ続けている。
 ノックと同時に扉が開き、まず家政婦が扉を押さえるように先に入ってから、車椅子に乗った彼が現れた。青さん、お久しぶりです、と彼は言った。ぼくが腰を上げると、隣の彼女も真似をして腰を上げた。車椅子は先程家政婦がソファを除けて空いたスペースに淀みなく停まった。急にお訪ねしてすみません。いえ、どうぞお掛けください。規格外に大きな窓には薄いレースのカーテンが、しつけの良い犬のように黙ってじっとしている。こちらは? と、彼女のほうを見る。生徒です。生徒さん。そうです、非常勤ですが高校で機械工学を教えてるんです。技師は辞められたのですか。一度体調を崩しましたので。そうでしたか。今はもう回復されて? はい、問題ありません。なら良かった。健全な精神は、健康な身体に宿りますからね、冗談ですが、と彼は一人笑った。以前よりも白髪が目立つ。太ってしまいました。肌にも張りがなくなった。それと引き換え青さんはお変わりない。青さんに最初に気づいたのはあの子なんですよ。二階の部屋から姿が見えて、すぐに分かったらしい。そちらからも見えましたか? ぼくは首を振った。もう何年ですか? 五年です。五年も経つというのに大したものです。私など五年も前のことはほとんど覚えていません。本当なんです。そしてそれはとても大切なことのようにも思います。どう? 君は五年前のこと、何か覚えてる? と、彼女に話が振られた。彼女は少しの間、考え込むように入ってきた入口の方を見つめた。それはぼくたちのような男二人にとって、とっくの昔に失われてしまった時間のように感じられた。
 覚えていることはあります、と彼女は言った。友達に誘われて虎狩りに連れて行ってもらったんです。もちろんそんなことを正直に家族に話せば許されないのは分かっていたので、親戚の家に泊まりに行くと嘘をついて行きました。そんな必ずバレるような嘘をついてでも、私は虎狩りというものに行ってみたかったのです。友達のお父さんと、その友達と私、雇った何人かの列卒と犬とで山に入りました。辺りに虎の気配を察すると、私たちは木の上に櫓を組んで、友達と私は櫓の上で待機しました。やがて虎が現れ、一人の列卒に襲いかかって組み伏してしまったのですが、間一髪で他の列卒が虎の頭を撃ち抜き、事なきを得たのです。その時に見せた友人の表情を私は忘れることができません。その本は私も読んだよ、と彼は愉快そうに言った。その後、御友人には日本でばったり出会えた? それはまだ先のことなので。賢い生徒さんをお持ちだ。うちの子の友達になってもらいたいよ、きっと気が合う、冗談ではなく。彼女は冗談が通じたことが嬉しかったのか、少し緊張が解けたようだった。友達になります! 彼は大きく笑った。
 駆け落ちに失敗したこと、家には帰りたくないこと、コーヒーも日本茶も飲めないこと。ソーダが運ばれてくる。彼氏との馴れ初めや、初デートのこと、初めて貰ったプレゼントなどについても彼女は話して、彼をとても喜ばせた。彼には何かしら人をリラックスさせるところがあることにぼくは気付いた。それはとても不思議なことだった。記憶とはどこか違う。しかしそれは五年も前だ。おかしな話ではない。夕食は庭にバーベキューコンロが運ばれてきて、家政婦たちが肉を焼いた。昨日も誕生日パーティーをしてもらったところなんだ。松明の火がプールを囲んで揺れている。請われてぼくはフルートを吹いた。亡き王女のためのパヴァーヌを吹くと、彼らは大きな拍手をしてくれた。先生上手! と彼女は言った。それでも元妻と娘は姿を見せなかった。彼は終始楽しそうにビールを飲んでいた。
 ぼくたちは順番に風呂に入らせてもらい、それぞれ寝室が用意された。寝室の窓からは庭が見下ろされ、まだプールの回りでは松明の火が燃えているのが見えた。ベッドに潜り込んだが眠れないでいると、ドアが小さくノックされた。ドアの隙間から滑り込んできた彼女は、さあ、奥さんと娘さんを攫いに行くんでしょう、と言った。大丈夫、私、そういうの映画で見たことあるのよ、先生。
 彼女は手分けして探すのだと言ったが、ぼくは危険すぎると許さなかった。ぼくの部屋で待つように言い残し、ぼくだけが長い廊下へと歩み出たのだった。いざという時にトカレフは本当に正しく機能するだろうか。こういったものは一週間前くらいにどこかの商店街の看板を撃つとか、そういう試し撃ちをするものだとドラマで見ていた筈なのに、そういう大切なことをすぐに忘れてしまう。持っているのか持っていないのか分からないくらい今日のトカレフは軽い。
 無防備にもどの部屋も施錠されていない。そして、中には人の姿どころかろくに家具さえ無かった。綺麗に清掃、整理され、いつでも新たな住人を迎えられるような、あるいは、古い住人を恭しく送り出した後のような、その手の冷ややかさで満ちている。額縁だけがあって絵画がない。鉢だけがあって植物は無かった。悪い予感がする。二階を一通り探し終え、何の収穫もない不気味さと不安を携えたぼくは一旦部屋に戻った。当たり前のようにそこに彼女の姿は無かった。こういう映画を見たことがあると思った。窓の外の庭の動くものが視界に飛び込んでくる。プールサイドに彼女のシルエットと、そこに迫る車椅子が見えた。松明の光にぼんやり浮かび上がる彼女の横顔は怯えているように見える。慌ててぼくがテラスに出ると同時に彼女は車椅子をプールへと突き落としてしまった。
 大雪の日、ぼくたちはストーブを挟んで、あまり良い雰囲気ではなかった。彼女はとても不機嫌だったのだ。戦争とは、正義と正義の戦いのことであり、悪と悪の戦いではないのね。だから私は正義が好きになれない。正義とは、単に多数派のことではない。少数派の中にも、正義に寄って立つ者は少なくない。それどころか、少数派を自認する者の多くこそ、多数派との戦いを常にイメージしている。多数派は無邪気であり、正義さえ忘れる。私は無邪気な多数派でありたい。そして、知らない内に正義の戦争に加担し言い訳をする。そんなことになるくらいなら、こっちの正義にもこっちの正義にもいい顔する方がよっぽどマシだわ。私が好きなのは姑息に生き延びるやつよ。何を言っているのか、もはやよく分からなかった。その時、ぼくたちがどの戦争の話をしていたのかさえ忘れてしまった。ただ、どの戦争の時にも、彼女のように話し、ぼくのように聞いた、そんな人々が至る所にいたということだ。およそ戦争を主導したと言われる人々の中にも。いや、彼らこそ正義というものについて、考え続けた者達なのかもしれない。だとすれば、だとすれば何だと言うのだ。知性と優しさが戦争を避ける術なのだという。私は騙されない、と彼女は言った。私が騙してやる、と彼女は言った。
 トカレフの号砲を合図に、二階のテラスからまっすぐに伸びる飛び込み板の上をぼくは駆け、その先端で大きく跳ねると、ノースプラッシュでプールへと飛び込んだ。全てが逆さまになる。水はぬるく、悲しかった。
 溺れる虎を抱えてプールサイドへと押し上げる。彼女は泣きながら虎に懸命に人工呼吸を施すのだった。プールの底で車椅子は横倒しになっていた。
 虎はとっくの昔に元妻と娘をその胃に収めてしまったのかもしれない。助からないかもしれないずぶ濡れの虎を眺め、プールの中のぼくは思った。

 翌朝ベッドで目を覚ますとすっかり陽が高く昇っていた。カーテンを開ける。プール脇にクレーン車が横付けされ、ちょうど車椅子が引き上げられるところだった。
 食堂では既に起きてシャワーも浴びたらしい、頭にバスタオルを巻いた彼女が家政婦たちと朝食の準備をしている。家政婦たちから、とっても良い奥さんになるわよと褒められまんざらでもない様子だった。茹で卵二つ。鶏ガラスープ。甘い蒸しパン。虎は一命を取り留めた。コーヒーを飲み終えたぼくは虎の寝室に向かった。虎は既に目を覚まして天井を見ていた。こんなことになると思わなかったんだ、と、ぼくは言った。銃持って乗り込んできた奴が何を言ってるんだ、と虎は鼻で笑った。俺は銃というのが苦手だ。撃たなかったよ。知ってるよ。しばらく沈黙の時が流れた。庭からクレーン車のエンジン音がする。嘘をついたんだ、と虎は言った。二階から青さんのことを見つけたのは俺なんだ。驚いた。俺を撃ちに来たんだと思ったよ。じゃあ家になんて上げなければ良かった。撃たれればいいと思ったんだ。いつまでも逃げてるとそういう気持ちになる。別に逃げてなかったろう。そんなことはない。どこかで悲劇を待っているものだからね。最高だろう。男から女を奪って撃ち殺されるなんて。その男に溺れてるのを助けられるなんて。最低だな。最高だよ。いないよ。いないんだ。あの二人ならここにはいない。あの後、すぐに出て行ったよ。正確に言うなら、一度もここには来てもいない。俺は、単なる口実みたいなもんだったんだ。俺にだって純愛ってもんがある。あの女はそのことが分かってなかった。泣いてる内に俺は虎になってた、そして金持ちになった。おかしな話しだ。よくある話だ。そうだ、よくある話だ。
 昼前にぼくたちは彼の屋敷を出た。家政婦に車椅子を押されて玄関まで出てきた彼は、あの二人を探すのか? とぼくに尋ねた。どうやって探せばいいのか分からない、とぼくは答えた。分からないくらいで諦めるのか? と彼は笑った。
 ずっと家政婦たちと別れを惜しんでいた彼女だったが、さあ行こう、とぼくが促すと虎に駆け寄り、突き落としたりしてごめんなさい、と恥ずかしそうに虎の頬にキスをした。そして、ぼくの元に駆け戻った彼女は、強引にぼくの手を引くように歩きながら、嫉妬した? と聞くのだった。
 電車はなかなかやって来なかった。窓から出た者は窓から帰らなければならない。あれってどういう意味だろう。じゃあ、もし窓から帰らなかったら、一体どうなってしまうんだろう。だから、鍵を失くすから入れないんじゃなかったっけ? 鍵、失くしてないんだけどな。じゃあ正面から帰るべきよ。君も。君もちゃんと玄関から帰るべきだ。そして、お母さんにしっかり謝った方がいい。駆け落ちしようとしたことじゃない。彼氏としてるのを見つかったことじゃない。心配をかけたことを謝った方がいい。親って心配するのが仕事なんじゃないの? じゃあ仕事に対して感謝を示すべきだ。虎にしたみたいに、キスの一つでもすればいい。嫉妬。いいからちゃんと玄関から帰ること。その方がいい。わかった、と彼女は約束した。その代わり、先生もきちんと玄関から帰ること。もう虎はいないわ。約束。
 彼女と別れ一人になると、随分疲れていることに気付いた。今は一体西暦何年で、そして、色んなことからどれくらいの時間が経ったのだろう。
 約束通り、ぼくも玄関から帰ることにした。たとえ窓から帰らなければならないとしても、そもそも隣の屋上から窓に飛び上がるなど不可能だ。マンションの前にはトラックが停まっていて、三人の作業員が引き上げようとしている。おかえりなさい。エレベーター治りましたから。1.2.3.4.5。扉が両側に開く。見慣れた退屈な五階廊下からの景色を左手に眺めながら角を折れる。そういう日記を知っている。いや、こういうのは日記とは呼ばないのだ。どうして? 中にいたじゃない。どうやって外に出たの? と、ぴったり五年分の年齢を重ねた彼女は目を丸くして言った。呆然と立ち尽くすぼくを彼女が笑う。どうせ私の声も忘れてたんでしょう。背後でエレベーターの扉が開く。知ってる足音。あ、お母さん。あら、どうして。ちょっとお父さんと虎狩りに。ねえ先生。ぼくは頭を抱える。娘の顔も忘れてたのね。ね、ちゃんと玄関から帰って良かったでしょ、先生。
 アクロス・ザ・ユニバース。





 

(End)

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