朝沼のメリーン
1
「県全域に大雪警報が発令されています。きちんと窓を閉じ、防寒に努めましょう」
もう何度目か分からない棟内放送が流れて、首を動かすことの出来る人々はそれぞれの窓の外に緩慢に降り続く白くぼってりとした雪をまた眺めた。
年代物の建屋ではあったが、二重窓である上にそれぞれの窓の足元には旧式の暖房も備えられていて、外界の寒さはみっちり遮断されている。ただでさえ二重窓に音も遮られているというのに今日は一層静かで何も聞こえない。
「学校の音楽室の壁みたいに雪が音を吸い取ってしまうのよ」と、誰かが言っていた。知らず知らずの内にそれを信じている。
ちょうど神経の伝導検査を受けているところだった。狭く暗い検査室で、男性技師がぼくの首に電極を刺し、少しずつ電位を上げていく。モニターには波形が映し出されているが意味は全く分からない。雪が音の波長を吸い取ってしまうように、ぼくの身体のどこかでも信号が消えているのだろう。壁一面に小さな孔の空いた部屋のことを思った。
顔面の痙攣を同僚から指摘された。二週間ほど前から薄々気付いてはいたし、数日前には家族にも言われていたけれど取り合わなかったが、ついに同僚にも言われてしまい、また少しずつ酷くなっていることも自覚していたので、やっぱり、と妻に相談するとすぐに近所の小さなクリニックに行くことになった。
診察した初老の医師によれば、この手の痙攣は不規則な生活やストレス性で発症するのが通例なので心配はいらないが、二週間も続いていることと、口元だけではなく後頭部も痙攣しているように思うのできちんとした検査を受けた方が良い、ということとなり、その足で総合病院に向かい診察を受けた。若い先生によれば、考えられる病気も幾つかあるので入院して精密検査を受けた方が良い、すぐにでも入院できますか? ということで、翌日には病室のベッドの上にいた。
そして入院して三日目の今日、大雪警報が出た。
大雪警報らしいから、お見舞いは来なくていいよ、と朝食前に自宅の妻に電話をかけると、元々今日は上の子の塾のテストだし、明日は下の子が友だちを呼んでクリスマスパーティーをすることになっているので行けないと思っていた、とのこと。塾のテストも中止なんじゃないかな? どうかな。電話してみた方がいいよ。そうね。
ちなみにこれはフィクションで、ぼくの顔面は痙攣したことなんて無いし、現在大雪警報も出ていない。上の子は塾に行っていないし、下の子の友だちを集めてクリスマスパーティーをしたこともない。
ぼくの入院している部屋は四人部屋で、全てのベッドが埋まっていた。ぼくの他には、若い糖尿病院の患者と、老人が二人。老人の一人は足首が曲がらなくなったという話なのでたぶんぼくと同じ神経系、もう一人の老人はずっと透析をしている様子なので、たぶん糖尿なんじゃないかと思う。そちらの老人はほとんど寝たきりでカーテンも開かないので音の弱々しさと静けさから老人だとぼくたちが勝手に推測しているに過ぎなかった。
若い糖尿病の患者は、八橋くんという。若いとは言っても三十五歳で筋肉質の固肥り、如何にも若くして糖尿病という感じがする。人懐っこく、ぼくの入院初日から声をかけてきて、病院の色々なことを教えてくれたりした。
「一人だけ、すっげえ可愛い看護師がいるけど、あれかもな、近藤さんの好みちゃうかもな。ちょっと若すぎるかもしらん。もうちょっといってる方がいいんやったら、看護師長の望月さんはいいよ。出来る女って感じで。女子ソフトの監督とかしてそう。どっちが良さそう?」
「どっちでもいいわ」と、ぼくは笑った。
「まあ、オレも誰だってええねんけどな。でも今はあかんわ、みんなアイツの噂で持ちきり」
アイツ。
というのは特別室に入院してきた、鹿島というイケメンらしい。八橋くんに言わせると、イケメンっていうか、モデルか俳優。オーラが違う、らしい。金持ちみたいだし。ええ歳の独身。
「ふぅん。その鹿島って人、何の病気なん?」
「季節外れの花粉症やって。ええよな、金持ちは。花粉症で入院。ほんまもんのセレブも鼻セレブなんか使うんかな?」
なんとなくさ、この先、ぼくはその鹿島って人と知り合うねんな? と、八橋くんに尋ねると、あのさ近藤さん、オレは実は有能な占い師やけどな、そんなん聞く? 誰かって分かるわ。それはフィクションでもノンフィクションでも一緒やで。そりゃそうだ。
なぁ八橋くん。
何?
この雪、いつ止むのか占える?
そりゃ、この話が終わるあたりちゃうの?
やっぱり?
さぁ、作者が二流三流やったらそうなんちゃう?
八橋くんは看護師から教えてもらった通りインシュリン注射を自分で射てるようになった。退院は近いらしい。
口元の痙攣がまた少し悪くなってる気がする。
2
あー、大変。だから昨日の内にツリーだけでも出してとこうって言ったのに、っていうかフツーはさ、十二月に入ったらツリー出さへん? 毎年こうやからって、お役所的。
黒縁眼鏡の陰気そうな女子看護師が背丈をゆうに越えるモミの木を抱えて大会議室に入ってくる。それに遅れて駆け込んでくる茶髪の看護師。
小川ちゃん、ごめーん。遅れましたー。手伝うー。2045室の簗瀬さん、血管細くて。
疋田、遅い!
ごめんて。
クリスマスに恋人にも会えず、後輩にも放置され? 一人でモミの木を背負ってる白衣の天使? 神もサンタクロースもおらへんの確定した。クリスマス手当つけて欲しい。
神様もサンタクロースもおらんかったら、もっと酷いクリスマスになってたと考えるんがオトナの女ってもんやで、小川ちゃん。
あんた幸せになるわ。
知ってる。
そこに駆け込んでくる若い男。長身でパーマをあててチャラく見える。彼も服装からすると看護師っぽい。
南、おまえはいつもええ男ぶって遅れるよな。
五右衛門かよ。
ゴエモン?
石川五右衛門。ルパンの。
なんですか、それ。
ルパン知らんの?
なんかすんません。
ルパンやで? ほら、赤いスーツの。
サンタクロースですか?
疋田、ルパンは青やろ。
いやいやいや、小川ちゃん何歳なん?
年齢の問題ちゃうわ。
南、ちゃんと持って。
三人は会議室の真ん中にモミの木を立てた。天井すれすれまである大きなクリスマスツリー。まぁ、十二月になったからと言って会議室の真ん中にこれを出しっぱなしにするのは、ここで行われる会議の内容的に少し不謹慎かもしれない(クリスマスツリーに不謹慎も何もありますか?)。
ダンボール三箱と脚立を持ち込み、手際良く飾り付けをしていく小川、疋田、南の三人。疋田がホワイトクリスマスを口ずさむ。そこは慌てん坊のサンタクロースとかで良くない? ハッピーニューイヤーとかで。何それ?
ところでさ、聞いた?
聞いた。
何を?
さあ?
じゃなくて。
聞いた聞いた。
感染症やろ?
それな。
あれほんまなん?
ほんまやろ。
なんかもう出たって。
嘘やろ? うちで?
いや、分からんけど。
こんなんしてる場合なんかな。
でもまあ。
まあな。
と話しているところに、副婦長の望月が入ってくる。
お、いいね。三人、センスあるね。去年のダボイの酷かったからな。
ダボイ、クリスマスツリーなんて見たことなかったって言ってましたからね。任命者責任ですよ。
オレ、あれ好きだったな。
わたしも。
ところで望月さん。感染症の話、聞いてます?
聞いてますよ。
どうなんですかね?
さあ、やばいんじゃない?
ですよね。
何十年か前にも同じようなのあったらしいって。
あ、聞いたことあるわ。学校で習った。
こんな感じで始まったって。さっき、木原先生が話してはった。研修医の頃やって。研修医でも家に帰れんかったらしい。
ほんまに?
木原先生、大袈裟なとこあるからなぁ。
マジやったら、神様もサンタクロースもおらへんやん。
特別手当とか出るんかな。
出るでしょ。
まぁ、とりあえず今日を乗り越えよう。クリスマスは年に一回。こどもたちもめっちゃ楽しみにしてたよ。
わたしもビンゴ楽しみ。
一等の琵琶湖ペアクルーズは私のもんやから。
疋田、ほんまに当てそう。
同感。
待ってろ、ハイレベル出会い系。
セレブを琵琶湖に連れて行くん?
それにしてもすごい雪。
こわいね。
たぶん今頃は琵琶湖も南極のように凍りついて、ミシガンも停泊している。
3
大会議室にこどもたちが忍び込んでくる。
大きなモミの木に歓声が上がる。
静かにしろって、見つかる。
リーダー格らしき年長の女の子が諌める。他の三人は声を潜める。
でっけーな。
ロックフェラーセンターのと同じくらいあるわ。
何それ?
ニューヨークの。
出た、ケイの自慢。
芽衣ちゃん、登っていい?
あかんに決まってるやん。
サーはこれくらい余裕やで。
あんたさ、その手でどうやって登るん?
両手ギブス。
見せたろか?
未来少年か。
どの体型で言うてんねん。
やめとき。
はーい。
この砂糖菓子、食べてええんかな?
一個くらいバレへん。
ヤーコは、この黄色いの食べていい?
何色でもええからはよ食べ。
芽衣は優しいねぇ。
リーダー格の女の子が、芽衣。その横にくっついて黄色いゼリーの二つ目に手を伸ばしている妹分ぽいのが、ヤーコ。両手にギブスをした肥満気味の少年が、サー。なぜかサングラスの男の子が、ケイ。と言うらしい。
小児病棟に入院中の割と身体が動くのが四人でつるんで、日々看護師たちを困らせている。とは言え、泣いてばかりだったヤーコや、いつまでも看護師を離そうとしないかまってちゃんのケイ、何を話しかけても無反応だったサー、といった問題児三人を芽衣が纏めてくれたくれたことに看護師たちは少し安堵し、彼女たちが自由に病棟内をうろつき多少の悪さをしても目を瞑っている。
サンタさん、来るかな?
ヤーコが芽衣に問う。
泣いてる子のとこには来やんのちゃう?
ヤーコ、泣いてないし。
ケイも泣いてたし。
いつの話やねん。
なぁ、おまえらさ、サンタさんはパパやって言うてるやん。
そんなことないもん。ヤーコの家、パパおらんし。
知ってるけど。
今日は芽衣のお父さんがサンタやねんな。
そうなん?
そういう役な。
なんで?
知らん。
サプライズらしいよ。ナースルームで言うてた。
サーさ、それ芽衣には言うたらあかんやつやん。
ヤーコ、賢い。
そっか。
大丈夫。
ちゃんとびっくりしてあげれる?
当たり前やん。
芽衣はもう六年生で、中学生に間違われることもある。そんなわたしにサプライズを仕掛けてどうするんだろう? 先週、パパが来た時に、クリスマスパーティは来れなくてごめんな、と確かに言っていた。こどもじゃないんだし、そんなの来なくていい、と、わたしは言った。
みんなのうちは来るの?
ううん。
たぶん無理。
そもそも大丈夫かな?
何が?
なんか変な病気が流行ってるって。
あ、ネットでも言ってた。
そうなん?
マリちゃんとタニグチも話してた。
あの二人の話はあやしい。
というかあやうい。
そうかも。
絶対そう。
誰の話が危ういって? と、マリちゃんが入ってくる。
出た!
蜘蛛の子を散らすようにいなくなる四人。マリちゃんは黄色いゼリーを口に放り込みながらツリーを見上げている。
4
ファインドマイチャネル。チャンネル?
インサートユアカード。
小休止中の看護師たちが声もなく談笑している。
ハンバーガーショップではどこがいいのか楽しそうに話し合っている。声もなく。
バーガーキングよ。
バカね、マクドナルドなんて、ありえないわ。
ファーストキッチンの二階から手を振ってみたい。
コーヒーが美味しいのは、それはそれで間違いないんだけどね。
あら恥ずかしい。
あはは。
わたしったら。
今夜はチキンじゃないの?
七面鳥の大間違い。
声がどこかに吸い込まれている談笑。
吸い込まれている休憩。
マスタードとスイートチリと、マヨネーズでしょ。
ノートプリーズリトル。
備品の数は合っている。
針はゴミ箱に捨ててはいけない。
酸素とサンタを間違えてはいけない。
車椅子に初心者マーク。
聴診器とAirPods.
右側通行、片足走法。
光の揺らぎ。
声なき談笑。
甘いものなら、朝から、モーニングで、何か、煮詰まった、野菜が、それは、ビネガー、カフェオレ抜きで、窓際の席で、エアコンが効きすぎやねん、ポイントカード、プリペイドカード、快晴夕方、名札、ビール、バスタオル、それで正解、それいいやん。
ヤーマイフラウ。
ヘルミークラウ。
明るくなんて生きたくないね、と彼は言った。
わたしはそれで良かった。
嫌だもの、明るいのなんて。
しんどそう。
揺らいでる。
声がどこかに吸い込まれて、消えてはいなくて揺らいでる。
足音は小さく。
足音は楽しく。
シャンシャンシャンシャン
リンリンリンリン?
いっぱい泣いてて、綺麗、幸せそうだね。
リンリンリン?
現実で電話が鳴ってる。
黒縁眼鏡の小川が受話器を取った。
淡々とした。
シャンシャンシャンシャン。
淡々とした、小川の声が、はい、と言う。
はい。
はい。
はい。
はい。
くれぐれも無理をなさらずに。
はい。
お気をつけて。
はい。
大丈夫です。
はい。
はい。
病室では、続々と食事が終わっていく。
食べ残される白飯。
蕎麦。
茄子の味噌炒め。
ゼリー半分。
落としても割れない食器、今日は誰も落としたりしない。
はい。
はい。
じゃあこちらから言っておきます。
はい。
では。
ニアサイドフォーサイト。
ずっと昔々のお話みたい。
芽衣のお父さん、来れそうにないって。
え? なんで?
雪で。
サンタクロースやのに?
警報出てるし。
警報の街の上を飛ぶんちゃうんかい。
視界ゼロ。
帽子も髭も飛んでいく。
今どこって?
京都。
無理やな。
タクシーは?
無理やろ。山科の辺り今頃どうしようもないことになってるって。
芽衣に言うたらな。
なんで?
かわいそうやん。
なんで?
なんでて。
だって。
だって元々芽衣には来やんって言うてあるんやろ?
サプライズやから。
ん?
そっか。
芽衣のお母さんは?
単身赴任で福岡やって。
大変。
何してはるん?
看護師。
あら大変。
お父さんは?
さぁ。
じゃあ芽衣には言わんでいいのね?
いいよ。
お父さん、サンタクロース似合いそうやったのにな。生まれ持って。稟賦。世が世なら本物だったかもしれない。そういった度量というか器量というか、言葉を超越したものを湛えている気がする。楽しさとか悲しさではない。静けさか、遠さとか、そういう、ある種の一抹の怖さも。
何言ってんの?
でもさ、サンタ役はどうすんのよ。
サンタ無し? わたしはいいけど。
去年みたいに田丸先生にお願いするしかないか。
田丸先生、今日は学会。
嘘でしょ。クリスマスイブに学会? 平和。
世界では何が起きてると思てるんよ。
4306号室のナースコールが鳴ってる。
たぶん畠さんのおばあちゃんだ。
髪を切りに行きたいのだろう。
色んな患者がいる。
今この瞬間、ヨセミテの壁に取り付いている若者もいれば、遭難について書いている老作家もいるし、雪崩の巣の脇を息を殺して行くこどもの想像力というものもある。ヤースヤーロード。路地からは祭の記憶が流れてくる。大量の稲荷寿司。光る団扇。
大至急、サンタ役、当たってみます。
お願い。
5
廊下の突き当たりはガラス張りになっていて景色が見えるように設計されているが、実際にそこに見えるのはなんだかよく分からない灰色と黄緑色を混ぜた色だけで、それが壁なのかどうかもよく分からない。顔がくっつくくらいガラスに近付いて見つめてみても、それがどういう材質のものかもよく分からない。どの時間に見に来ても影一つなく、見上げても見下ろしても同じ色。やがて夜になれば黒くなる。
そういうものを景色と呼ぶのかどうか知らないが、その男はまるで紅葉に色づく森や、高層ビルから見下ろす薄汚れた街、どこまでも続く弧状の渚、そういったものでも眺めるように遠い目をしていた。
そうか。雪を見ているのか。
男の自分から見てもそれは絵になっていて嫌味もなかった。何か深刻なことでも考えているのだろう。そう思わせるものがある。
ずるいような。そうはなりたくないような。
やがて男はこちらに気付いた。目が合う。バツが悪い。そのまま立ち去るのもおかしいと思っていると真っ直ぐ近付いてきた。
「どうぞ、代わりますよ」
と彼は言った。
「こちらこそ」
「こちらこそ?」
「冗談です」
「ああ」
彼が。噂の特別室に入院中の鹿島という男。すぐに分かった。佇まいが環境的に余裕のある者のそれだった。経済的な余裕だけではない。人間関係にしろ、時間的課題にしろ、良い面だけでなく良くないことも含めて適当に抱えていて、劣等感や不安定さを感じさせない。基本的に言葉は少ないが冗談も言う。
「部屋は暑すぎるでしょう」
と、鹿島が言う。
「廊下くらいがちょうどいいんですよ」
個室だったら空調も自由に出来るんじゃないかと思ったが、もちろんそんなことは口にしなかった。
「うちの部屋は一人のじいさんがすぐに窓を開けよるんで、めっちゃ寒いですよ。代わってあげたい」
「寒ければ布団に顎までくるまればいい。そういう本がありませんでした?」
知らないとぼくが答えると、古い外国の本です、と彼は言った。現実の飛行機が戦争で落ちていた頃の本です。
「そのおじいさんは寒くないのかな?」
「寒いでしょうね。寒くなりたいから開けてる。たぶん」
「まあそうか」
「北国の人ほど寒さに強いわけではなく、すぐに暖かくしますね」
「そうなんですか?」
「そうですよ」
彼は薄い茶色の上下長袖のパジャマを着ていた。ぼくが着ているような病院で貸し出ししているものとはまるで違って品が良い。高級感がある。ぼくが着ているのはもう何百回も洗濯されてそろそろ透けるんじゃないかというくらい淡い。
また、髭も綺麗に剃られている。入院中にサボって伸びるに任せている自分とはまるで違っている。それとも特別室に泊まると、髭剃りなんかもしてもらえるのかもしれない。背中は掻いてもらえるし、泣いたら拭いてもらえる。古い本も誰かが朗読してくれるのかも。
「どう思いますか? 戦争が始まると思いますか?」
彼が言っているのが、どことどこの戦争のことなのか、あるいは、具体的なことは何も指していないのか、ぼくに分かる筈もなかったけれど、ぼくは、もう始まってるんじゃないんですか? と答えた。
「冗談ですか?」
と、彼が言うので、
「冗談ではないです」
と答えた。
「そうですね。あなたのような人の場合、冗談らしきものは冗談ではないですから」
「買いかぶりですが、ご自身のことを仰っている?」
「そうかもしれません」
と、彼は恥ずかしそうに笑った。
これが鹿島という男とぼくが初めて会話を交わした時のことです。そして、ぼくは彼に好感を持ったし、彼もどうやらぼくに好感を持ったようだった。
「戦争の話はやめましょう。今夜はクリスマスイブです。それに、戦争はまだ始まっていませんから」
そう言って、彼は笑った。
「見に来ますか? 特別室」
「冗談?」
「どんな?」
6
望月さん、ダメです。
何?
サンタ役。
なんで? 南くんがやればいいでしょ。最悪私がやってもいいし。
違うんです。
ちょっとそっち持って。
これ、なんですか?
加藤さん、痛くて起き上がれないっていうから。
ああ。
応援呼びます?
いい。たぶん二人でいける。
サンタなんですけど、衣装が無いんですよ。
七産業さんとこの倉庫にあったわよ。
いや、芽衣のお父さんに持って帰ってもらったらしくて。
嘘やん。
でしょ?
これは参った。ちょっと考えるわ。
院内放送で呼びかけたらどうです? ほら、飛行機の中で、お客様の中にお医者様はいらっしゃいませんか? みたいに。入院中の患者様の中に、サンタクロースはいらっしゃいませんか? みたいな。洒落てる。
スーパーマンちゃうねんから。
スーパーマンってそんな話でしたっけ?
どうしよかな。
衣装無しでいきます?
それやったらサンタさんは来れませんでした、でよくない?
やっぱそれは良くないですよ。
衣装なし。フツーに梶田兄とかが、どうもサンタクロースでーす、今日はスタイリストも付いてないんで私服で、って登場するってことやろ? そんなん、ただの梶田兄やん。
梶田兄が実はサンタだったみたいな話か。
無理やろ。
梶田弟が一番びっくりするって演出でリアリティ出ないですかね? 兄さんがサンタクロースだったなんて!
男の子ってロマンチスト。
望月さんが歳とっただけですよ。
南くんさ、気つけた方がええで。いや、気つけんでいいけど。
そや。神経内科で入院してる智頭さん、作家ちゃうかったっけ? あの人に相談してみたら? 何か考えはるんちゃう?
作家じゃないでしょ?
放送作家だっけ?
元作家でしょ?
作家志望じゃなかった?
一回聞いてみよ。
そうして。
役に立ちますかね?
作家でもいないよりはマシよ。
7
歳の頃は七十くらい、背筋の伸びた老人が、小さな炊事場に立って熱いお茶を淹れている。
電熱線が赤から黒に戻っていく。
炬燵には白衣の男性が背中を丸めて。こちらは六十歳といったところか。
「それで中止?」
「そんなわけあるかいな。あんだけ練習したのに」
「はいこれ」
「お、色気がなくていいね」
タッパーに入った草餅が二つだ。
お茶を淹れていたのが元守衛長の牟呂。今は再雇用で肩書きは無い。白衣の方は外科医の金井。草餅を一口で頬張っている。
「俺はいいよ。元々弾けたし」
「金ちゃんはいいわ。上手いから」
「でもあいつらが可哀想やろ。君津なんか自宅にピアノ買っとったど」
「でも中止ちゃうねやろ?」
「当たり前や」
「良かったやん。な、ケーキも焼いてるみたいやし。ええ匂いしとったわ」
「ほんまか。あとで見に行こ」
クリスマスが終わったら、この国は一気に年の瀬へと流れ落ちて行く。その予感が守衛室にまで満ちている。
駐輪場の屋根が危ないと言って、若い守衛たちは雪かきに出て行っている。本格的な道具は無いが、皆手に手に何かを持って行った。
牟呂は彼らのために、ぜんざいでも作ろうと思った。網が見当たらないので病院の厨房に借りに行ったが、厨房にも餅焼きの網はなく、病人に餅なんか食べさせませんよ、危ない、と言われた。
結局、網は外壁補修用のものを使う。
「なんやえらい楽しそうやな」
「戌年」
「なんやそれ」
「庭駆け回る」
あっそう。
「ちょっとここで練習さしてくれ」
と、金井は立てかけたケースからエレキギターを取り出す。
「高そうやな」
「昔は高かったけどもうガラクタや」
金井は「恋人たちのクリスマス」のメロディーを弾き、なんでやねん、と一人で突っ込んだ。
それからしばらく金井は基本的なフレーズを練習して、牟呂はそれを熱心に見ていた。
「えらい楽しそうやな」
「こと座」
あっそう。
「じゃあ今年はサンタクロースも来やんねやったら、それ用の入管証も用意せんでええんか」
「そんなんあったん」
「ありまんがな」
慰問用の? 刑務所みたいに言いよる。ああいうところもクリスマスパーティとかするんか? 知らんがな。牟呂さん、お務めされてのかと? 見た目で言うな。やっぱやるんちゃうんかな。ほら、ドラマで見たけど。ドラマか。神父さんとかも来るやん。何のドラマ見てん。なんでもええがな。で、罪を悔い改めるわけよ。告白っちゅうやつや。ああ。クリスマスは要るやろ。かもしらん。ほら、言うてみ。なんで、金ちゃんに懺悔せなあかんねん。金ちゃんやと思うからあかんねん。神父やと思って話すんじゃないねん。主やと思うねん。主? そう。創造主。小さなこどもにとってのお父さんお母さんみたいなこと。ほんまか? 知らん。ほんまかいな。クリスマスってそういうもんやっけ? どやったっけ?
金井が弾くホワイトクリスマスの和音も雪に吸い込まれる。駐輪場の屋根の上から、なんか偉そうな銅像に雪玉を投げる若い守衛たちの罪にも雪が積もる。
8
五基も六基も並んだ乾燥機がフル回転している前で、看護師の疋田が電話を耳に当てて泣いている。彼女が手にしているのは院内電話ではなく、個人のもののように見える。今時プリクラらしきものが貼ってある。薄暗くてよく見えない。辺りに人の気配は無い。
やがて彼女は電話を切ってポケットに入れると、指で涙を拭った。
そしてインタビューにでも答えるように話し出した。
わたしには夢があるんです。
わたしは働いたお金で英語を勉強して、そして外国の病院で働きます。
医療の行き届いていない、そういうところでわたしは働く。
必ずそうします。
そうしたいとずっと思ってきたからそうする。
笑いたいヤツは笑えばいい。
笑えるヤツは笑えばええねん。
何を言ったってわたしはやります。
だから、今のわたしに何が起きても大丈夫。
わたしはアホなんやと思う。
アホやから出来んねん。
アホのフリしてる連中とはちゃうねん。
ごめんなさい、さよなら。
いつかわたしはここからいなくなる。
なんやねん。
何があっても大丈夫。
クリスマス?
ファッキンサンタクロース。
9
八橋が談話室にこどもたちを集めてトランプ占いをしている。
「あかんわ。ヤーコは50歳まで婚期なしやわ」
「ぜったいにうそや」
「俺もそうであることを祈るわ」
「なんなん。このイカサマ占い師」
「あ、でも回避できる方法あるって」
「何何?」
「ディッセンバー翼のモノマネ、やって」
「誰それ」
「レスラーやん」
「カナディアンロック!」
「サー、似てる!」
「メキシカンロック!」
「似てない!」
八橋くんはこどもたちに人気がある。
おとなたちにはあまり人気がない。
八橋くんは退院したら、こどもたちと遊ぶこともなくなるだろう。普通のおとなはその辺のこどもと遊んだりしない。学校の先生になればいいのに、と、芽衣は八橋くんに言ったことがある。嫌だね、と八橋くんは標準語で答えた。
「雪はやまないのかな?」
と、芽衣は八橋くんに聞いた。
「まだまだやまないってネットでも言うとったわ」
「そういうことじゃなくて」
「ん? そういうこと?」
「そう」
八橋くんは元々細い目をわざとらしく細め、芽衣のことをじっと見ると、
「芽衣さ、オレが言うこっちゃないけど、色々気をつけた方がよさそうだ」
「バカにしてる?」
「してないけど。忠告」
「やめて」
「やめろよなー、八橋くん」
テレビではニュース。
コウノトリの卵とキツネ。
国債利回りの低下。
おじいちゃんが二人、テレビを見ている。
八橋くんはトランプをめくっていく。
「ビンゴの一位って何かな?」
「図書券とかちゃうん」
「しょーもな」
「しょーもないもんよりええやん」
「せやけど」
「おとなもこどもも一緒なんか」
「違うらしいで」
「なんなん。詐欺やん」
「絶対に図書カードや」
「図書カードと見せかけといてカタログギフト」
「葬式か」
あざやかな八橋くんのトランプさばき。
「で、いいのね。芽衣のお願いは。雪が止むかどうかで」
「ギャルのパンティおくれ!」
「うん」
「これ当てれたら仕事増えそう。地震予知とかも出来そう。ほんまは出来やんなあかんねんけど。噴火予測とか。出来てほんまもんやねんけど」
「首をチョンと切るぞ」
占いとてるてる坊主は違う。
占わなくても分かっている。この雪はしばらくやみはしないし、夜更け過ぎに雨に変わったりもしない。まだしばらくの間、雪は容赦なく街から音を消し、人々は屋根の下に身を寄せる。
もしかすると、占いはもっと悪い未来を告げるかもしれない。そしてその未来にあっても、占いはまた何かを告げているだろう。
わたしたちの過去というものが記憶と同義ではないように、わたしたちの未来というものもまた予知と同義ではない。記憶は過去の一瞬に過ぎず、予知も未来の一瞬に過ぎない。
10
英槻署の方がいらっしゃっています。
守衛の牟呂から医局に内線があった。用件を聞くと、巡回のついでに年末に多発する空き巣等について対策を喚起して回っているらしい。
入ってもらってください、と告げ、しばらくすると雨合羽姿、帽子を被ったままの警官が一人で医局に現れた。不審者にしか見えない。
「失礼致します」
「失礼すんねやったら帰って」
そんな仲野の声を無視して警官は軽く敬礼し、懐から一枚のチラシを取り出すとカウンターに置いた。
「お忙しいところ恐縮ですが」
「見ての通り、今日は忙しいことあらへん」
仲野は顔を上げない。ああ、このオヤジは警察が嫌いなんだな、と警官は思う。
「最近県内で病院を狙った空き巣が多発してまして、そのお知らせに参りました」
「はいよ。気をつけときます。気をつけとるけどな」
「どこもそう仰います」
「そやろな。気をつけます」
「入院中の患者同士のトラブルもありますが、色んなケースが増えていますので」
「たとえば警官を装って入り込んだり?」
そう言って仲野が笑った。
あまりいい笑い方じゃないな、と警官は思った。
「それくらい警戒いただけるなら大丈夫そうです」
にこやかに応じて敬礼。
「ごめんて、兄ちゃん。ピストル持っとる人にいらんこと言うてもうたわ。撃たんといてな」
警官は笑顔。あかんがな、オレが悪者やん。
仲野は席を立ち、警官がカウンターに置いたチラシを手に取る。一人の男の顔写真。連続空き巣犯、とある。黒髪、眼鏡。身長160cmくらい。
「見覚えありますか?」
「残念やけどないなぁ。元々顔を覚えるのは得意ちゃうけど。コピーして貼っとこか」
「感謝します」
「クリスマスやのに大変やな」
「そういう仕事ですから」
「お互い様ってわけな」
「そうですね」
「でもこんだけ降ったら空き巣も動かんやろ」
「そうでもないんです」
「みんな家におるんちゃうんか」
「そうでもないみたいですね」
「変な話やな」
「それに三十分で足跡が消えますから」
「ゲソ痕てやつな」
「よくご存知で」
「あの女優が好きで」
仲野がそう言うと警官は笑った。
「不吉ですね」
「何が?」
「刑事モノだとクリスマスには残虐事件が起きるんです」
今度は仲野が笑った。
「この展開だと、俺かあんたのどっちかが殺されるよ」
「あるいは、どっちかが犯人か」
「出来れば犯人でもいいから、あの人に取り調べてもらいたいもんで」
「伝えときます」
「誰にやねん」
守衛室横の救急入口から外に出る。刺すような冷気が頬に当たる。白の世界。フードを深く被って踏み出す。本当にそうだ。こんな時くらい、みんな家でおとなしくしてりゃいいんだ。それはそれで何かが起きてしまうのだけれど。
11
鹿島の寝起きしている特別室は思っていたよりも簡素だった。趣味の良い、あるいは趣味の悪い立派な家具などが設られているでもなく、近藤のいる四人部屋と雰囲気はほとんど変わらない。シャワーとトイレが付いているのと、カーテンで仕切られていないこと、誰の鼾も呼気も聞こえないこと、あとは屎尿などの匂いも漂っていないこと。それは四人部屋と比較した時に、生きた人間の気配が無いということでもあった。
「確かに少し暑い気がする」
「もしかしたらエアコンの調整が出来るのかもしれないけど」
機械に弱くて、と鹿島は情けなそうに言った。
近藤の部屋と同じ旧式の空調が窓際にあり、「強」に設定されていたので「OFF」にした。一層部屋の中は静かになる。機械に強いとか弱いとか、そういうレベルの機械ではない。蓋を開けたら現れるシンプルなノブを回すだけ。
色んな冗談を人は必要とする。汗ばむくらいの部屋で過ごすという冗談のことも、わからないではない。たぶん。
無頓着。
無目的。
一日はあまりにも長い、と彼は言った。
おそらく3600秒を24回数えるよりも、かなり長い筈だ。
息を止めていると時の流れは遅くなり、やがてぴたりと止まり、また息を吸うと元に戻る。
そのうち、療養のためとか言って宇宙ステーションや月面の病院に入院させられるよ。そこで一層時間のことを考えさせられるんだよ、ぼくらは。
古いSF。
いや、ただの古い文学。
自然科学。
非自然。
この部屋は別に希望したわけじゃないんだ。
嫌な部屋だろう?
嫌な部屋なんだ。
みんなのいる部屋の方がいい。
呻き声が聞こえたとしても、くだらない話が聞こえたとしても、不条理な話が聞こえたとしても、誰かがぼくの寝言を聞くとしても、みんなのいる部屋の方がいい。
移してもらえばいい。
頼んだらすぐに移してもらえる。空いてるベッドがないようなら、ぼくが代わってもいい。にぎやかな占い師の隣人もいる。
王子と乞食の結末を知ってる?
そこまで四人部屋はひどくないよ。
そこから簡単に逃げちゃいけないんだよ。
示唆。
ははは。冗談ではなく。
そう。冗談ではなく。
どうして入院してるの?
ほら、口の横が痙攣してるの分かる?
ほんとだ。
これ。
大変だ。
別に生きる死ぬの話じゃないんだけど。君は?
花粉症。
今?
部屋の中は大丈夫。
マスクもしてない。
大丈夫。
こんな冬に珍しい。
正確には花粉症じゃなくて、何かのアレルギー。冬になると。そう。命に関わるくらい。
うちの部屋はダメだな。言ったように、すぐに窓を開けるじいさんがいるから。
それは、ダメだな。
常夏の国に行けばいい。
君は、王子と乞食を読んだ方がいい。
それに、ぼくは冬が好きなんだ。
特に雪が。
戌年?
かもしれない。
12
金井がチューニングを終え、遠慮がちなボリュームで何やらコードをかき鳴らしている。ギターもアンプも本人が持ち込んだ、なかなか高価そうなものだ。およそ唯一の趣味といったところだろう。ピカピカに磨き込まれている。家族にもすっかり呆れられた孤独な趣味というのが見てとれる。君津は会議室の隅で普段眠っているアップライトのピアノの音を確かめている。調律が狂ってないか確認しているフリをしているが、君津は今回ピアノを始めたばかりで調律の具合など分かる筈もなかった。それでも単音の消え入るのを目を閉じて聞いている姿からは、何かしら音というものに向き合う素養のようなものが感じられた。久坂は小型のドラムセットを組み上げている。横からシンバルやスネアを叩こうとする子どもたちを蠅みたいに追い払う。自腹でドラムセットまでレンタルしている久坂がこのバンドのリーダーだ。去年までベースを弾いていたノイエは国に帰ってしまった。ピアノを担当していた上畑は育児休暇中で、後輩の君津が穴を埋めた。
彼らが一緒に演奏をするのは、年に一度のクリスマスパーティーと、二ヶ月に一度の誕生日パーティの時だけ。なので、君津も含めてハッピーバースデートゥーユーだけはとても上手い。
金井が聴いたことのないメロディを弾いている。なんとなくアラビアの匂いがする。君津は相変わらず単音の響きを確かめている。はじめてのアップライトピアノに感動しているのかもしれない。久坂がスネアのチューニングを始めた。もうすぐリハーサルが始まる。
13
綿のような大きな雪の塊はゆっくりと舞い降りる。人々は時が流れる速度を変えたかのような錯覚をして、歩く速度と話す速度を少しだけ落とす。
雨が降るのとはまるで違う。
そりゃあ雲も重く立ち込める。
底が割れそうな雪雲。
ケーキ屋の店先。
ピザ屋のバイク。
駐輪場の屋根。
ひん曲がったガードレール。
しんしん。
不法投棄の応接セット。
ブランコ。
鳥。
車両基地。
しんしん。
ゴルフ練習場。
中古車センター。
理髪店の看板。
空き地。
自動販売機。
一輪車。
桟橋。
ビールケース。
地下鉄の入り口。
サービスエリア。
煙突。
踏切。
熊の罠。
しんしん。
海の家。
古戦場。
朝礼台。
岬。
海。
草原。
森。
砂漠。
川。
入江。
国境。
動物園。
岩。
屋台。
銅像。
壊れた傘。
港。
椅子。
センターライン。
しんしん。
しんしん。
14
「救急、来るよ」
「何?」
「事故やって」
「救急車、動いてないんちゃうかったん?」
「あれよ」
「どれ」
「あれほら、水上バイクみたいなやつ」
「スノーモービル?」
「そうそれ。あれで引っ張ってくるらしいよ」
「車を?」
「患者を」
「そんなもんうちの市にようあったな」
「市長の趣味の私物やって」
「はいはい、一旦準備はあとにして、先に受け入れ。疋田と南くんはベッドの確保とセッティング。小川、お風呂沸かしといて」
そこに運ばれてくる怪我人。担架の上で叫んでいる。
「大丈夫やって言うてるやんけ! 入院費なんか払えへんからな! はよ下ろせやボケ!」
サンタクロース? いや、サンタクロースのコスプレをした若者か。黒髪はリーゼントに纏めていて、なぜか真っ赤な口紅も引いている。顎の擦り傷に血が滲んでいるのと、サンタクロースの衣装の腰のあたりが破れている。
担架を担いだままの消防隊員が「朝沼直志。28歳。カラオケボックスアルバイト店員。本日15:05、市内の国道9号線を250ccのオートバイで北上中、ハンバーグチェーン店付近で転倒。中央分離帯に激突し停止。物損のみです。朝沼自身は左足骨折、その他全身に打撲の様子。また、運転時ヘルメットを着用しておらず、頭部に衝撃があった模様。記憶の混濁からか、発言に曖昧なところが見受けられます。いわゆる売れないビジュアル系バンドか何かではないかと思われます」と報告した。
「誰がビジュアル系やねん!」
「なんか元気そうですね」
「下ろせや!」
「どうしますか?」
「ご苦労様です。ストレッチャー持ってきて」
犬沢がストレッチャーを押してきて、消防士たちは患者をそちらに乗せ替えた。
「それでは我々はこれで失礼します」
「おい、急げ」
「大変ですね、こんな雪の日は事故も多いんでしょう」
「そんなことないですよ。こういうアホを除けば街は静かなものです」
「今日はうちの署もパーティなんですよね」
「ああ、それで」
「今年はね、隠し芸とかやるんですよ」
「ほぉ」
「モノマネとか」
「見たいなー」
「ちょっと見ます?」
「いいんですか?」
「うちの職場は男が多いんでネタ的にも偏りがあって、ちょっとわかるかなぁ」
「見たい見たい」
「じゃあやりますよ。はい。スーパードクターK」
「それうちらの側やないかーい」
「知っとるんかーい」
「ヤンキーしか読んでないんかと思ってました」
「私も実は」
「そういうことですね」
「待て待て待てー!!!」
「院内ではお静かに願います。鎮静剤打ちますよ」
「打てー!」
「ダメですよ」
「当たり前やドアホ!」
「無理しないで下さい。ここはそういうノリじゃないんです」
「いや、病院のノリなんか知らんやん。患者をほったらかしにすんなって言ってんの」
「当院では患者様の自主性を重要視してまして」
「じゃあ帰るよ」
と、ストレッチャーを降りようとした朝沼だったが、折れた左足が痛むようで、うまく起き上がることも出来ずリーゼントの下の表情が歪んだ。
「ほら。おとなしくしときなさい。じゃあ我々の方で預かりますので、良いクリスマスをお過ごしください」
「それでは。良いお年を」
「良いお年を」
「なんやねんこれ!」
15
その町は道路が直行するような区画された町ではなく、また、山や丘を切り崩して造成したような町とも違って、地面の隆起や、それに伴う川の流れに沿って道が引かれていた。
雑木林を巻くようにカーブを曲がると、また新しい雑木林が現れ、朝日だか夕日だか分からない眩しい光が低い空に見えた。
ところどころで小川を渡った。渾々とした澄んだ水が、ある時は右から左に、ある時は左から右に流れていた。大きな黒い魚影も見ることが出来た。時折、灌木が悠々と運ばれていく。どこかで古い木が倒れ、柔らかな土が持ち上げられて複雑な根が陽の下に老いた姿を現しているのだろう。
気のふれた鳥が鳴き続け、仲間たちは他の林へと移った。昼も夜も鳴き続けるその鳥が鳴き止むときを、獣たちは祈るような恐れるような気持ちで待っていた。やがてその林には鳴かない鳥たちも集まるようになった。そして液体が中和されるように、林は静かになった。
町には様々な人が住み着いた。この町で生まれ成長して出て行く者もいれば、都会から移り住む者もいた。様々な人がいて、それぞれが時には楽しげに時には悲しげに様々なことをして、また時には隠れるように何かをして、いつしか歳をとり、それでも動きこそ遅くなれども相変わらず孤独だったり楽しげだったりするようだった。
朝靄の中に浮かび上がる町は、眠れなかった者たちにそっと寄り添う。町は何も言わない。消え忘れた街灯が、まだぼんやりと灯っている。
わたしは聞くのが怖いと思っていた。
病名を聞くのが怖いのではない。
ひどく狼狽するかもしれない自分を見るのが怖かったのだ。取り繕いきれない自分のことが怖かったのだ。ありきたりな話だった。
先生からの説明をきちんと受けるよう求めてくる年若い看護師が、ベッドの上のわたしに「怖いの?」と、まるでこどもに問うように言った。
わたしは「うん」と言った。
北に見えるなだらかな山容の活火山からは細い煙が白い空に真っ直ぐ伸びている。無風。山麓に広がる大小の湖沼には春の芽吹きがあった。
スケートリンクでは色とりどりの若者が楽しそうに滑走している。
16
夜半に向けて風は一層強くなるでしょう。
この冬一番の寒波は列島をすっぽりと包み込み、年末年始に向けて上空にしっかりと居座るものと思われます。
列島各地からは年末年始に向けた様々なニュースが飛び込んできました。
年越し蕎麦の出荷がピークを迎えています。近年の健康志向もあって蕎麦の出荷量は増え続けていると言いますが、十二月は更なる増産のために稼働時間を増やして対応しているということです。また、アジアなど海外からの注文も増えているということで、嬉しい悲鳴が聞こえてきます。
スキーブームの再来で各地のスキー場も準備に大忙しです。間もなくクリスマス休暇に入ることもあり、首都圏や関西圏から訪れる多くの若者に対応するため、ホテルや旅館などは全室予約でいっぱいとのことで、かつては廃業し放置されていたホテルなども改修を完了して活気を取り戻しています。リフトの運行管理をされている中川貴士さん(74歳)は、今年は孫へのお年玉も奮発できそうだと嬉しそうに話されていました。
受験生たちにとってはラストスパートの冬といったところです。都内の予備校ではホテルを貸し切り、早くも年末年始合宿が始まっています。現役の学生の中にはホテルから学校に通う人もいるそうです。統一方式の制度変更から一年、昨年は混乱もありましたが、今年はみんな落ち着いて実力を発揮して欲しいと、予備校の先生方もお話されていました。ホテルでは体調管理に配慮したメニューで、それでも出来るだけ季節感を感じてもらえるお食事をお出しして、皆さんをサポートしたいとのことです。
鉄道や空の便も、およそ大きく荒れるであろう空模様を想定し、除雪等の体制を強化して年末年始を迎えるということです。それでも在来線ともにダイヤの乱れなどが予想されます。帰省などご予定の方は十分に余裕を持ったスケジュールをお考え下さい。
それでは最後は、北アルプスの玄関口、釜トンネル登山口で今週から始まりました登山者の手荷物検査の様子をご覧いただきながらお別れになります。良い一日を。
17
クリスマスパーティは定刻通り、久坂のドラムソロから始まった。細かくハットを刻んでいく。ベッドを離れられる患者たちが大会議室に集まっている。最前列にはこどもたち。車椅子の人、松葉杖の人、点滴中、酸素吸引中の人。入院着、パジャマ、ジャージ、ドレス。ナース服も、スカート、パンツスタイル、白、濃紺、クリーム色、様々。テーブルの上には、チキンとパスタサラダとチリコンカンとコッペパン。お茶とリンゴジュース。山積みの色とりどりのゼリー。
今年のマスターである星マネージャーが、ドラムソロをバックに挨拶とパーティの開会を宣言し、サンタクロースを呼び込む。そこに、金井や君津の演奏が重なっていき、パーティは華やかに幕を開けた。
車椅子に乗せられたサンタクロースは、誰かの赤いニット帽を被せられて自慢のリーゼントも台無し。即席の髭も付けられて、なぜかサングラス、すっかり年齢不詳、しっかりサンタクロース役が務まっている。望月副婦長が朝沼の車椅子を押しながらなかなか格好いいよ、と笑っている。すっかり朝沼は望月さんに頭が上がらない。入院患者の中で望月さんに頭が上がる人なんていない。望月さんは結局のところ優しいからだ。
偽サンタクロースは患者たちとの記念撮影に応じる。まんざらでもない朝沼。みんながパンや飲み物を運んできてくれる。マイクが回ってきて、一言を求められた朝沼は話し出した。
「みなさん。こんばんわ。クリスマスは、イエス・キリストの誕生日だと思っていませんか? もしかして命日だとか? 誕生日だと思ってる人が多いみたいだけど、実はそういうわけではないらしいですね。イエス・キリストの誕生日は不明だそうです。じゃあ12月25日は誰の誕生日かと言うと、君、知ってる?」
近くにいるサーにマイクを向ける。
「アイザック・ニュートン!」
「そうやなー、それも有名やけど、実はなー、わたしの誕生日なのでしたー!」
静まり返る会議室。フォローするようにBGMを演奏するバンド。
マイクは取り上げられ、週明けに退院することになっている松田のじいさんからの挨拶に移った。
「めちゃくちゃスベるやん」
と、望月が大笑いしている。
「ほんまに誕生日なんですけどね」
「本物のサンタクロースの誕生日なん? なんなん? って、そりゃみんな思うやん。あんたのことなんか誰も知らんし」
「そらそうか」
「ええなぁ、大スベリするサンタクロース。ほんまもんみたいや。来年もおいでえや」
「嫌ですよ」
などと二人が話していると、乱暴に会議室のドアが開き、スーツ姿の男が二人現れた。一人は坊主頭で背が低い、もう一人は小太りでニキビ面だ。
「浮かれてんじゃねーよ! なんで病院がクリスマスパーティなんかやっとんねん! ああ? ここは病気を治すところでしょう? 何を楽しんどんねん! イラつく! 一番偉いの出せよ!」
医局の仲野が前に出た。
「お前がここでいっちゃん偉いやつか」
「君たちの来るようなところではない、出ていきなさい」
「あらあら、偉そうに。ええんですか? これ見ても偉そうにできますか?」
と、スキンヘッドの方が懐から紙切れを出した。
「借用書や。この病院建てた時に借りたやろ。今日中に三百万、耳揃えて返してもらおやないか」
「いや、ちょっと待ってください。そんなん急に言われても」
「返せへん言うんかい。じゃあええわい。はよ死にたいみたいやのぉ。全員、寿命縮めたろかい!」
「まあ、ちょ待ったり」
望月に車椅子を押された朝沼が暴漢たちの前に出た。
「関係ないやつは引っ込んでろ」
「おとなしい聞いとったらなんやおまえら、三百万? クリスマスイブに取り立てに来るもんちゃうやろ。兄ちゃんら、人情ってもんが無いやないか」
「黙っとれ。世間胸算用、読んだことないんかい! このままじゃ年も越されへんねや」
「アホはお前らや。しっかり世間胸算用読み返してこい。借金取りは撃退されとるんじゃ!」
そう啖呵を切ると、朝沼は吉田のじいさんの松葉杖をさっと奪い、吉田のじいさんは疋田がさっと支える。朝沼は奪った松葉杖をスキンヘッドの頭に叩くか叩かないかで振り下ろした。派手に倒れるスキンヘッド。
「何しやがる!」
と、襲いかかる小太りの方に向けて、望月が車椅子を勢いよく押し出す。朝沼の頭突きが思っていたよりも強く、小太りの腹部にめり込んだ。
「お前ら、バカにしやがって」
起き上がったスキンヘッドは、ポケットから栓抜きを出すと、近くにいた望月の首に後ろから手を回した。
「動くな。ちょっとでも動いてみぃ。この綺麗なオバハン、お嫁に行けんくしてまうぞ」
そう言い終わるか終わらないかの内に、佐久間先生の投げた神経伝導検査用の電極がスキンヘッドの額に命中する。一瞬の強い電圧で意識が飛びかけたところに、距離を詰めた石川技師がマジックテープで両手両足を縛り上げてしまう。さすがは毎日MRIに何十人もの患者を固定するプロ、鮮やかである。
腹部を押さえながら起きあがろうとした小太りの方はというと、既に南と小川によって両手に血圧計をはめられている。
「血圧、ゼロにしたろかコラァ」
という、小川のらしからぬ怒号は、悪漢を鎮圧したことを雄弁に物語っていた。
朝沼が望月の手を借りて車椅子から立ち上がり、「いつだってかかってくるがいい。わたしたちはいつも、病気を抱えた患者と、医師と、看護師と、薬剤師と、検査技師、リハビリスタッフ、事務スタッフと、調理師と、清掃員と、全スタッフのために戦う。何が襲ってこようとも、慈しみと、奉仕の精神、感謝の心を忘れることさえなけれな、力を合わせて打ち勝つことが出来るのだ。よく食べ、よく寝て、薬を飲み忘れることなく、尿便の回数も正しく記録し、移動時は手摺を持ち、消灯前にトイレを済ませ、朝昼晩と挨拶をきちんとする、心付けなどは一切受け付けておりません、さぁ、英槻医療センター、いつまでも」
というところで、院歌が演奏され、職員と患者が声を合わせて歌った。
全員から大きな拍手が起きる。
悪漢役の二人にも惜しみない拍手が送られる。救急搬送された朝沼を追いかけてきた、伊豆と若松の舎弟二人だ。
「オバハンって誰に言うとんねん」
と、望月が伊豆の額を叩く。
「台本に書いてあったんですよ」
「台本に『綺麗な』とは書いてへんかったやないか」
「いやあまあ」
小型の配膳トラックに乗せてケーキが運ばれてくる。隅の方に集まって食べているこどもたち。こどもたちの分のケーキは少し大きい。フルーツも乗っている。
「すごいな。芽衣のお父さん、カッコよかったな!」
「なんでお父さん車椅子乗ってんの? 乗ってたっけ?」
「演出やろ?」
「そういうことか」
「どういうこと?」
芽衣は少し誇らしい。なんだか、いつものお父さんとは全然違う気がしたけれど、誇らしかった。
18
その頃、南病棟の大部屋に揺れるカーテン。
サンタクロースの影。
吹き込む雪煙。
大きな白い袋を下げている。
暖かすぎるくらいの院内に吹き込んだ雪混じりの冷たい風は、誰もいない廊下を駆け巡る。
サンタクロースにとってアンラッキーだったのは、ちょうどその部屋にはパーティにも行けず残っていた加納のばあさんがいたことだ。
ばあさんだけがサンタクロースに気がついた。
目が合い、しまったと思うが、よく見るとばあさんは無反応。意識があるのかどうかも分からない。ばあさんの記憶を消すような真似をするまでもあるまい、と思い、逃げるようにサンタクロースは廊下へと出て行った。
加納のばあさんはナースコールを押した。
19
あと3年したら
クリスマスがやってくる
クリスマスの星が近づいている
だからそれまで仲良く暮らそう
だから朝が来たよと鳴いておくれ
ぼくは鈴を鳴らすから
そのころぼくらの
胸の中
あと2年したら
クリスマスがやってくる
クリスマスの星が近づいている
だから空見て仲良く暮らそう
だから夜が来るよと鳴いておくれ
ぼくは熱を計るから
そのころぼくらの
胸の中
(金井先生のギターソロ)
あと1年したら
クリスマスがやってくる
クリスマスの星が近づいている
だからだから仲良く暮らそう
だから雪が降るよと鳴いておくれ
ぼくはネジを回すから
そのころぼくらの
胸の中
20
牟呂は守衛長ではない。元守衛長である。けれど一番の年長者なのでクリスマスパーティには行かずに守衛室に残った。
若い者達に行かせてやった方が良いに決まっている。
牟呂はもう何年間もクリスマスパーティに出てきたのだ。金ちゃんのギターだってずっと聞いてきたし、あのバカでかいクリスマスツリーがこんなに小さかった頃から知っている。
守衛という仕事は何も起きない仕事である。
我が子にも言われたことがある。
一番つらい仕事だと。基本的に何も起きないし、何も起きてはいけない、けれど気を緩めてはいけない。ただただ何も起きない世界をイメージしながら、何かが起きることをイメージしながら、無事に時間が過ぎるのを待つような仕事は一番つらいと言われた。それは、もしかするとあいつなりの敬意さえ込められた文脈だったのかもしれない。しかし牟呂は、その時からどことなく心に隙間風が吹くようになった気がした。
雪は相変わらず降り続いている。一向にその勢いは衰えず、日が暮れてからの方が風が強くなったせいか、恐ろしさを増したような気がする。
今夜は自分も含め、院内の全員が泊まることになるだろう。そういう意味ではとても恵まれた職場だ。全員が泊まり込んでも大丈夫なように設備も備蓄も出来ているし、何よりそういうことに全員が慣れている。
好きでやっているのだ。
軒につららが出来かけている。
ケーキさえ持って帰って来ないようなら、あいつらにはもうぜんざいなど作ってやらん、と牟呂は愉快な気分になっていた。
何も起きない景色を睨んでいる。雪が積もり続けているだけ。
すると、暗い駐車場の真ん中をこちらに向かって真っ直ぐに近付いてくる人影があることに気付いた。救急であればほとんどの場合事前に連絡がある。今夜は何の連絡もなかった。そもそもこの雪の中を歩いて一人でやってくる救急など長い守衛歴を顧みても思い出すことは出来なかった。そしてその人影は歩いているというよりも、まるで雪上を滑るように移動しているように見えて、牟呂は背筋に冷たいものを感じずにはいられなかった。
人影が五メートルほどの距離まで来て、ようやくその正体が分かった。人影の正体はサンタクロースであった。そして、滑るように移動していたのは、サンタクロースが犬橇に乗っていたからだ。橇を三頭の中型犬が引いていた。
何も起きないことはない。
牟呂は息子に話したいと思った。すでに家庭も持って中年と呼ばれる年齢に差し掛かった息子ではなく、あの頃の幼かった息子に、お父さんはサンタクロースに会ったことがあるんだと話したいと思った。サンタクロースをまだ信じていた頃の息子ではなく、信じなくなった頃の息子に話してやりたいと思うのだった。それは、信じられなくてもいい。信じられないようなことがあるということを、話してやりたいと思った。
「犬はどっちに繋いでおけばいいですか?」
と、そのサンタクロースが言う。
寒いとは思うが、盲導犬でも無い犬を院内に入れてあげるわけにはいかなかったので、せめて屋根のあるところと思い、除草用具などを入れてある小屋に案内した。
サンタクロースは小屋の柱に犬達を結び「ひどい雪ですね」と言った。
守衛室前の自動販売機にコインを入れ「犬って、あったかいの飲むと思います?」と問うので、「さぁ、飲むんじゃないですか? 植村直己も飲ませてた気がします」と答えると、「じゃあホットにしてみます、お盆か何かお借りできますか?」と言う。おかしなサンタクロースだと思った。
その時だった。
守衛室の警報と、腰のブザーが同時に鳴った。守衛室の電話もけたたましく鳴る。受話器を上げると、看護士詰所からの通話。南病棟二階からサンタクロース姿の不審者が侵入、声をかけたら北館方向に館内を逃走した、と若い女の看護士は言った。
サンタクロース?
受話器の向こうで早口に話す声をよそに、牟呂は自販機前でこちらを向いているサンタクロースを呆然と見ていたが、職務を思い出し、すぐに守衛室に鍵をかけると、「すみません、緊急事態です。一緒に来てください」と、サンタクロースの手を引いた。
21
大会議室ではちょうど八橋がトランプマジックを披露しているところだった。職員の持っている携帯電話が一斉に警報音を発し、八橋は「ビッグマジック」と誇らしげな顔をして、こどもたちは「やっぱ八橋さんスゲーわ」と感嘆の声を上げる。
南がすぐに確認に走る。
この警報音が不審者の侵入を告げるものであることを看護師たちは分かっている。入院患者たちに気取られないよう、先生たちの耳元でその旨を伝える。
「とりあえずこの部屋から出ないこと。一旦音楽は止めてください」
「マジックは続けてもいいですか?」
「いいですよ」
巨大なクリスマスツリーにはチカチカと電球が散りばめられ、それが夜の窓ガラスに映り込んでいる。ケーキの皿も下げられて、残すところはビンゴ大会だけだった。
「オレさ、ビンゴの必勝法習ってきてん」
「わたしも知ってる」
「何? 言うてみ」
「え、絶対に当たるなって思うこと」
「一緒や」
「やろ?」
「なんじゃそれ」
「ほんまやし。それしか方法ないし」
「でも実際それが一番難しいんよな」
「そうやねん。絶対当たるな、っていうのと、絶対に当たれっていうのって、実のところめっちゃ似てるねん」
「おまえら、賢いなぁ。その通りやで。なんでもその通り。絶対に当たるなって、どれだけ思えたか、そして、それは絶対に当たれってどれだけ思えたかと、実は一緒なんよな。しあわせになりたいとしあわせになりたくないも一緒やし、死にたくないと、死にたいも一緒」
「やっぱ八橋くん天才やわー。めっちゃよくわかる」
「モテるやろー」
「悪いけどモテるなぁ」
「ビンゴも強い?」
「めちゃくちゃ強いで」
とりあえず警察には連絡しました、はい、守衛の方でも確認中です。はい、確認中です。おそらく。大丈夫です。こちらは。まだ問題ありません。はい。はい。そのようにします。
悪夢はどうして。
隣の会議室に続くドアが急に開いて、息を切らせたサンタクロースが立っていた。それが異様なことだとその場にいる誰もが察知した。ただ、こどもたちは一瞬反応が遅れた。看護士たちは反射的に患者を守るように反対側の壁へと押しやった。悪いことにそちら側には廊下へと出る扉はなく、ただ窓があるばかりで、いくら雪が深いとは言っても、ほとんどの患者はここから飛び降りて逃げるような芸当は出来そうになかった。反応が遅れたこどもたちもすぐに異変に気付きその場を離れようとした。しかし更に反応が遅れたのが芽衣だった。芽衣は、どっちのサンタクロースがお父さんなのか、一瞬考えてしまったのだ。闖入してきたサンタクロースは、目の前にいた芽衣の腕を強く掴んで引き寄せ、その首に手を回した。そして、短いナイフを彼女の目の前に光らせた。
「いいか。ここからオレが離れる段取りをしろ。警察には連絡するな。したらこいつをぶっ殺す」
そう言うと、サンタクロースは口元の大きな白い髭を取り、帽子も投げ捨てた。芽衣はお父さんじゃないことに気付き、震えながら涙を流した。
「刺激しちゃいけない」
医局の仲野が小声で言う。指倉先生も小さく頷く。仲野は昼間に警官が持ってきた写真の男だということに気付いている。小川はもう声を出さずに泣き出してしまっている。
「とりあえず百万だけ持ってこい。それとスノーモービルか四駆の車。あと食べるもんも」
サンタクロースは言いながら震えているのが、そこにいる全員に分かった。それだけに何が起きてもおかしくはないという恐ろしさが漂った。
誰もその言葉に反応出来ずにいると、「なんとかせんかい!」とサンタクロースが怒鳴った。芽衣が耐えきれずに、弱々しい声で「パパ、助けて」と、朝沼に向かって言った。朝沼と芽衣の目が真っ直ぐに合った。
パパ?
朝沼は何のことだかわからない。分からないが、車椅子を前に進める。進めようとしても動かない。後ろから望月がロックを外した。
学食でさ、学食って分かるか? 大学とかの食堂で、みんなが使うところな。サービスエリアの食堂みたいなところ。その学食の昼休みにさ、誰かが派手にこぼした蕎麦がテーブルの上にそのままになってるとするだろ? みんなその席を避けて食事をしてるんだよ。そういう時にな、その蕎麦をちゃんと片付けるんだよ。自分のこぼした蕎麦じゃないのに。芽衣のお母さんは、そういう人なんだよ、と、お父さんはいつも話してくれた。芽衣もそういう人にならなきゃダメだ。そういうことが出来るってことは、他にも色んなことが出来るんだよ。
朝沼の昔の恋人もバイクの後ろで言っていた。学食でさ、学食って分かる? 朝沼くん、大学行ってないけど分かるよね。サービスエリアの食堂みたいなところ。その学食の昼休みにさ、誰かが派手にこぼした蕎麦がテーブルの上にそのままになってるとするの。みんなその席を避けて食事をしてる。そういう時にね、その蕎麦をちゃんと片付けるの。自分のこぼした蕎麦じゃないのに。それが、わたしの恋人になる人に求める唯一の条件。あれ? オレは結局彼女の恋人になったんだっけ? 記憶がいまいち良くない。
ロックが外された車椅子はするすると前に出て行く。人質になっている女の子が怯え切った目でこっちを見ている。さて、オレもええ年して暴走族なんかやってるんだ。あんな小さなナイフの一本くらいどうってことはない。それにここには外科医だって何だって揃ってるんだろう。大概のことは大丈夫だ。しかし人質が良くない。どうしたもんだろうか。ゆっくりと車椅子を進める。
「お前がおとんか。サンタクロースやんけ。なんとかしたれや。ほんまにやってまうぞ」
と、サンタクロースは凄んだが、朝沼は眉一つ動かさない。足も動かないし、きっとオレが殴りかかっても、たぶん転倒してダメだろう。ただ、転倒したオレにこいつが襲いかかってきてくれれば勝ち目はある。あとは若松と伊豆がどうにかしてくれる筈だ。
「あ、でもいいな。サンタクロース。逃げる時に影武者っていうか身代わりになってくれる? 狙撃とかされちゃって? 笑える」
「いいナイフだな」
「何?」
「かっこいいナイフだなっつってんの」
「ナメてんの?」
「カッコいいセリフ。何フラグだよ」
サンタクロースの目の周りが紅潮し直ぐに血の気が引いたように白くなったのが分かった。朝沼の車椅子は激しく蹴り倒された。朝沼は倒れこみながら、そこに立ててあった金井のギターに手を伸ばし、そのネックを掴むとサンタクロース目掛けて振った。防ごうとして、こいつはオレにかかってくる筈だ。今だ! 若松、伊豆。
しかしギターはうまく振られることはなかった。朝沼の手の中ですっぽ抜けたそれは、全く見当違いに飛んで柱に激しくぶつかった。そして、若松と伊豆もまた動かなかった。彼らなりに無理だと判断したのだと思う。仕方がない。うまくいく保証なんてどこにもなかったのだ。
「何フラグだって、おい」
と言って、サンタクロースは女の子を抱えたまま近づいてきて、朝沼の顔を蹴りあげた。髭とサングラスが取れて転がった。
その顔を見た芽衣の涙が止まった。
「芽衣んじゃない」
廊下側の扉が細く開く。そして、そこから三匹の獣が風のように雪崩込み、サンタクロースの両足とナイフを持っている手の甲にそれぞれ噛み付いたのだった。
あとは、看護士や患者たちがどこからか柔らかめの棒を持ってきて、連続空き巣犯の男を袋叩きにし、我々は職業倫理からおまえの治療も看病も完璧にするんだけどな、と口々に言うのだった。
「ねぇ君。よりによって金井さんのギター壊してさ、どうすんのあれ」
芽衣は本物のお父さんにしがみついて泣いている。若松と伊豆が朝沼に抱きついて泣いている。おまえらさ、暴走族なんかやめればいいのに。
22
私には夢があります。
外国に行って医療の現場で働くことです。
23
その昔、この病院の特別室に一人の患者が入院していた。彼は花粉症で、正確には花粉ではなく、冷気アレルギーで、雪が降るような日に外出しようものなら、目に涙を湛え、風邪でもないのにずっと鼻をすすっていた。大変なイケメンで、それなりに年齢は重ねていたが、若い看護師からベテランまで、女たちは皆が彼に夢中になった。
彼には夢があった。
宅配の仕事をしたい。
そんなささやかな夢だった。
「郵便配達のバイトとか、したことないの?」
と、彼の新しい友人は尋ねた。
「ぼくは地図を見るのがとても苦手なんだよ」
「今はなんでもコンピューターが指示をしてくれる。迷子になんてなれない」
「言っただろう。機械も苦手なんだよ」
「宅配だったら何でもいいのかな?」
「なんだって構わない」
「新聞でも?」
「ああ」
「ピザでも?」
「最高だね」
宅配っていいもんだよ。送りたい人がいて、待ってる人がいる。それだけ。とても単純。下らないものを押し売りするみたいな、そういうことをしなくていいんだ。これは素晴らしいですよ、なんて嘘を言わなくていいんだ。
「年齢の割におかしなことを言ってると思う?」
「別に思わない」
「本当に」
「本当に。出来る人は本質的なもんだよ」
「そうかもしれないけれど、ぼくのはたぶんそんなんじゃない。ぼくはただ単にやりたくないことを本当にしたくないだけだし、そうなりたくないんだ。やりたいことがあるんじゃなくて、やりたくないことがあるだけなんだ。現実的じゃない」
「とてもこどもっぽい」
「女の子たちは呆れて去ってしまう。それでいいんだけど」
「どうして」
「だって嘘はつきたくない」
「そういう考え方に本当にぴったりと合う人もいるかもしれない」
「だとしたらダメだよ。こんなのが二人一緒にいたら、弱すぎておかしくなってしまう」
「たぶんそういうものではないんだよ」
友人がそう言うと、彼は黙り、それから「何の話だっけ?」と恥ずかしそうに笑った。
「やりたくないことはしたくない。そして、冬アレルギー」
「宇宙ステーションから宇宙ステーションに何かを届ける仕事なんていいよね。星から星へ。冬もなければ、地図もない。真っ直ぐに行くんだ」
彼は少し考えていた。一体どんなことを想像していたのだろう。「すごくいい」と言った。
「こういう下らない話をしたいとずっと思っていた」
「わからないでもない」
「でも君も退屈する。もっと意味のあることを話そうって、みんな言うようになるんだ。で、どうするの。で、どうしたいの。で、どうして欲しいの。ごめんなさい、そして、さよならだよ」
「どうなんだろう。やりたくないことはしたくない。ぼくはね、本当にやりたくないことなんて、ほとんどないんじゃないかと思う。そりゃ幾つかはあるだろうね。あるよ。でも、本当にやりたくないことなんて、そんなには無いんじゃないかな。それと同じで、意味のあることや意味のないことというのも、同じようなことなんじゃないかと思う。だからそんなに潔癖にならなくたって、意味のあること、と言われる話をしたって別にいいんじゃないかな。だってそれは、きっと本当のところは意味のないことなんだから。どうして、なぜ、どうやって。そんなこと、幾らでも話せばいい。それらは結局、どうだっていいんだ。もし相手がそれを意味のあることだって信じていたら、君の良心は傷つくだろう。でもそんな人はきっといないし、もしいたとしても、君はそうやって傷つくしかない。君は君のやり方で、君の言葉や、君の話し方で、渡り合っていくしかない。相手に合わせたりもしないし、避けたりもしない。ただ正直にやって傷つくしかないんだと思う」
「ありがとう。その通りだなんて言ってくれなくて助かる」
「そうだったらいいんだけど」
ある雪の日とか、あるひどいことがあった日とか、あるなんでもない人とか、そういう時に彼らもぼくたちも友達になる。
彼らがその後もずっと友達だったかどうか、オレは知らない。
八橋は言った。
でも、おそらくだけど、いわゆる友達では無かったんじゃないかな。なぜならその夜、地球にはクリスマスの星が一番接近していて、施錠忘れの病室の窓から忍び込んだアレは彼の枕元に立って言ったんだ。大変なアレルギーみたいだな。ほら、ティッシュをやるからしっかり鼻をかめ。今夜はいい寒さだろう。ほら、クリスマスの星がちょうど真上に来とるんだ。マスクなんてするんじゃない。ほら、行くぞ。寒い宇宙はピカピカのお前の鼻が役に立つのさ。
残された友人の枕元には、樅木の苗木があったらしい。そうそう、あれ。あのバカでかいクリスマスツリー。え? 木の大きさと、オレの年齢が合わないって? おまえら、こどものくせになんも分かってねぇなぁ。ですよねえ?
と八橋は問いかける。
その場にいたおとなたちは全員微笑んだ。
24
そういうわけで、三匹の犬はお父さんから芽衣へのクリスマスプレゼントになりました。芽衣が退院するまでは守衛室で飼ってもいいことになったので嬉しいです。
熱い牛乳なんてあげたらあかんねんから。ちゃんと冷ましてからあげてな、と言ってあります。
犬の名前は、アサヌマ、ワカマツ、イズに決まりました。誰の言うことよりも望月副婦長の言うこと一番よく聞きます。愉快です。
お父さんは犬橇を病院の駐輪場に預けて、自分はドクターヘリに同乗して京都に帰って行きました。雪はなぜか止んで、すっかり青空が広がっていますが電車もバスも復旧までにはまだ時間がかかるそうです。雪の琵琶湖や山科、東山を収めた下手くそな航空写真はとても綺麗でした。ズルいです。
もう一泊くらいしていけば、とみんなに勧められていましたが(麻雀が出来るので)、やっぱり早々に帰っていきました。お母さんと同じくらい仕事が出来るので、とても忙しいのだそうです。たぶん嘘です。
きっと仕方なかったとは言え、お母さんに黙って犬を三頭も買ってしまったので、どうやって許してもらうか必死で考えているところだと思います。無理だと思うけど。最悪の事態にだけはならなければいいなと思うので、どうか許してあげてください。
朝沼さんの車椅子を牟呂さんがスノーモービル仕様に改造しました。若松さん伊豆さんと三人乗りタンデムを、アサヌマワカマツイズが勢いよく引っ張って、あ、そっちの方に行ったら! ああっ! みんなの入院ライフはまだまだ伸びそうです。わたしは元気です。メリークリスマス、アンド。
(終わり)