きみのチョキにパーしたい
思い出しても暑い夏の話。 汗は背中から腰へと流れていた。 湖はカリブ海を彷彿とさせる色をしていて、風は、
え? はい? わたしの名前? あの、どちらさまでしょうか? 本番中なんで。後でもいいですかね? カリブ海? はぁ、言いましたけど。いや、行ったことないです。何か? カリブの人? (カリブって何だろ?) そうですか。 で? わたしの名前? いやあ、わたしが誰だとか、どこから来たんだとか? これ、そーゆーんじゃないんですよね。 申し上げにくいんですけど・・・・・そのぉ、お引き取り願えないでしょうか? カリブに帰っていただけませんか? ・・・ちょっと、泣かないでください。子供じゃないんですから。 え? 十歳? うそだ。 ほんとに? 年上にしか見えないんだけど。 十歳か。 ふうん。 日本語、上手ね。 とても上手よ。勉強熱心なのね。 でもさ、ちょっとカリブ海って言ったくらいで出てこないでよね。 ほんとはあんまりカリブ関係ないんだ。 そう。わかった? いい子。
彼らは普段よりも男らしくアルコールを喉に流し込んでは汗を光らせ、彼女達は開放的な格好をして伸びやかで柔らかな肢体を惜しげもなく陽の光に晒していた。
「なぁ」
遥か沖から寄せる細かな波が眩しくキラキラと輝き、陽炎は空に溶けていく。 水蒸気は雲になり沖合に濛々と白いモンスターを生み出している。
「なぁって」
対岸の青い稜線が霞んで、
「何読んでんのさ?」 「あんたもうるさいなぁ」 「うるさいのはそっちだろ。いい年して、声出さずに読めないのかよ」
まどろみの中、そんな月並みな言葉がいつまでも尽きないような午後ばかりだった。
「無視した・・・」 「お願いだから黙ってて」 「海にまで来て本なんか読まなくたっていいじゃん」 「好きにさせてよ」 「じゃあさ、俺にも分かるように読んでよ。そしたら黙って聞いてるから」 「あんたでも、カリブの子供でもわかるように?」 「そう」 「できるかなあ」 「なあ、カリブの怪人って誰だっけ?」 「デストラーデでしょ?」 「そうだっけ? バレンティンじゃなかったっけ?」 「そんな古い選手知らない」 「古くねえよ」 「さっきさ、わたし、子供の頃のデストラーデに会ったよ」 「どこで」 「ここで」 「子供のときから眼鏡かけてた?」 「うーん、わかんない」
びぃちぼぉいず
「あべさん」 「だからー、ちゃうねん全然。発音がな、こう『コムデギャルソン』みたいな感じで、コムデアベサン。ほら言うてみ」 「ギャルソンですか?」 「はぁ……。なんでそう若者っぽくなってまうわけ?」 「わたし、もう二十四ですよ」 みずきは唇を尖らせる。 化粧っけのない顔。サーファーだもんな。 そんな彼女の拗ねた仕草を相手にもせず、まっすぐみずきを見つめ真剣に発音を待っているあべさん。 もお・・・。みずきは一旦呆れた表情を浮かべたが、気を取り直して、もう一度。 「あべさん」
みずきは短い髪を無理矢理ツインテールにしている。 「ペコちゃん」 あんなに顔でっかくない。 いたずらっぽく舌を出して、首を振る。 はい。かわいいかわいい。
「あべさん」 「違う。あべさん」 「あべさん」 傍から見れば、海の家で上半身だけウェットスーツを脱いだ男女が向かい合って真剣な顔で話しているのだから、「アベサン」という重要なサーフィン用語についてレッスンしているように見えるかもしれない。 でも実際は、国民的野球マンガのようなイントネーションで呼んでもらいたいあべさんが、若いみずきを捕まえて、しつこく指導しているだけ。 これ以上無駄な夏もないけれど、これ以上イノセントな夏もないね。 「あべさん」 あべさんは首を振る。 「もおええ。最初っから女子供に分かる筈もなかってん。せいぜいヤンマガでも読んで『ヤバすぎ』、『いってる』とか言うて浮かれてりゃええねん。オリジナル読む資格なし」 そう吐き捨てるとあべさんはみずきの読んでいたビッグコミックオリジナルを取り上げ、自分の読んでいたヤングアニマルを押し付けた。
毎シーズン、あべさんはこの海の家に一番乗りでやって来る。 何年連続で開幕投手? そのくせあまり波に乗りに行かない。 初日からあまり行かない。 食べて、飲んで、マンガ読んで、テレビ見て。 川もやみずき同様、シーズン中は村の民宿に泊り込んで、この海の家に毎日やって来る。 あべさん、何歳なんだろ。三十は過ぎてるよね。 海の家の主気取り。我がもの顔である。 あ、正確には「海の家」じゃなくて「湖の家」ね。 それと知ってると思うけど、ヤングアニマルはあべさんのじゃないよ。 「あべさん、この浜、もう何年目?」 「野田がルーキーの年やから」
みずきはかき氷の山をしゃくしゃくとストローで崩しながらヤングアニマルのグラビアをめくって「この水着かわいい!」だの。 あべさんの方はというと、取り上げたオリジナルを開きもせず隣の空いた椅子に放り出して、川もの読んでいるデイリーを覗き込んだ。 阪神死のロード八連敗の文字。 「あべさん、虎に移籍してもらえへんやろか」 タイガースのチーフトレーナーみたいな黒いサングラスをかけた川もがふざける。 完璧な「あべさん」の発音。さすがだ。
川元、通称「川も」はほとんどサングラスを取らない。 湖に出ている時もかけたまま。 ラーメン食べる時もかけたまま。 布団に入る時もかけたまま。 やや肥満、にサングラス、不思議と似合う。 「おまえさ、まさか、あれのときも?」 「あれ専用のがあるのよ」 川もとあべさんは、ほとんど冗談しか言わない。 いや、冗談というものが日常の潤滑油だとしたら、冗談が日常になっている二人は軋むような真剣の中で生きている。らしい。 なんのことか、全然意味がわからないけれど。
「アホ、DHのないセ・リーグみたい行くかい」 「大観衆の甲子園ナイターやで。天然芝が映えるんよ。酒も抜けるって」 「抜けたらあかんがな。ともちゃん! こっち、ビール」 「はーい」 と、やっと出てきたのが、この海の家、いや湖の家のマドンナであり、この小さな海水浴場のマドンナでもある、わたし「田所とも」です。 ともは誰に言われるでもないのに、毎日スイカ柄のエプロンで働いている。 そのセンスの欠片もないところが人気の秘密なのか、毎年毎年ともに惚れちゃう男がこの浜には数人現れる。 多種多様の男達。自信満々のナンパ野郎から、初めて女の子と話すような真面目クンまで。 ともはともでおしゃれには興味がないのに男には興味があって、それなりの男達の何人かとマンガみたいな一夏限りの恋をしてしまう。 そんなともに川もはその都度「いつまでもそんな生活を続けるもんじゃない」と年長者らしい説教をしているのだけれど、ともの方が何枚も上手で、ムキになってケンカするフリをしながら裏では「男女間の友情は崩れる時が一番甘いからねえ」などと、これまたマンガから借りてきたようなセリフを本気か洒落か自分でも分からず口走るわけで、もしかしたら普通のセンスからするとひどくダサく思えるエプロンやカチューシャも、マンガあたりからの借り物なのかもしれず、それで一部の男達を夢中にさせるのかもしれないと、あべさんなどは言っている。 おかしな話、本当は世の中の大半はマンガで出来ているのだ。 とっくの昔にフィードバックは始まっている。 「本物の野球選手に憧れて野球を始めるような時代やない。マンガの野球選手に憧れて、みんな野球を始めるものさ。あるいは、マンガの野球を」 あべさんは言う。 ほんとかしら。
「あべさんは、わたしのことが好きなの?」 と聞いてみても、 「野球とわたし、どっちが好きって聞いとる?」 という調子。 「まあ、そうかな」 と、わたし。 「シーズン中は答えるわけにはいかへんけれど、一つだけ言えるのは、オレと川もは友情関係にある、ということだけだ」 「男にしか興味がないってこと?」 「ともちゃん、頭おかしいんちゃう? 担架呼ぼか?」
ま、あべさんとは古い付き合いだけれど、全然そういう関係じゃない。 わたし思うんだけど、あべさん、もしかしたら奥さんとか内縁の妻とか子供とか、いるんじゃないかな。 わたしにこんなに興味を示さない男子なんて、あべさんくらい。 でもさ、あべさんは嘘つきだから、ほんとのところはよくわからない。 嘘つきさんの相手なんか、してられないわ。 その点、川もはとってもわかりやすい。 川もは、その点についてだけは冗談が言えないくらい、わたしのことが好きだ。 そういう男の子の方が好き。 川ものことが好きという意味ではなく。
「あんまり飲んで海入りなや」 言って、ともはラガーの小瓶をあべさんの前に置き、川ものデイリーに目を止めた。 「あら、昨日も負けた?」 「珍しいやん。見んかったん? 大負け。星野狙い撃ち」 「田村も、中西も」 「えー、見たかったなー」 ともが腰をくねらせ、川もはそれを冷めた目で見る。 「アホやこいつ。ほんまもんの阪神ファンや」 と、あべさん。 みずきはまだかき氷を、しゃくしゃくしゃく。 ともちゃん、今年のミルク少なくない?
「負けて喜ぶなんて、アホやこいつ。ほんまもんの阪神ファンや」 「あべさんは本物の阪神ファンじゃないんですか?」 「だから、あ・べ・さ・ん。みずきさ、無理やったら無理でええからさ、さん付けで呼ぶの止めへん?」 恥ずかしげもなく瓶ビールを喇叭飲みする大人の気取りを笑う者なんか、この浜にいない。 むせたりなんかしても。 「えー、いいじゃないですか。なんかかわいいですよ」 「ともちゃんまで真似しよるし」 「かわいいよ。あ・べ・さん」 「かわいあるか。こっちは筋金入りの虎ファンやで。選手に優しく結果に厳しく」 「あべさんでも、そういうちゃんとした人のハウツーみたいなの言うんですね。見損ないました」 「ちゃんとしてねえよ」 狼狽し、 「インハイに甘く、赤星の発音には厳しく。あかぼしじゃなくてあかほし!」 と言いなおすあべさん。 川もが笑って席を立つ。 「ともちゃん、こいつ泥酔してるから湖に入らんよう見張っといてな」 川もはそう言うと、海の家のひさしの外へ出て、強い日差しを浴びながらウェットスーツに窮屈そうに腕を通していく。 「まかしといて。毎年あべさんが生きて帰れるのは、わたしのおかげなんだから」
本当に酔っ払って湖は危ないのです。 毎年、必ず事故が起きます。 海の家と湖の家からのお願いです。
「あいつはほんまに痩せへんなあ。不細工な太り方よな」 と、浜を行く川もを眺めてあべさんが呟き、ともが同意した。 「サーファーにあるまじき体型よね。わたしもこの仕事長いけどさ、あんなサーファーは川もだけやわ」 「んー、でもかっこええな、川も。なんかオレ、あいつが無性に格好良く思えてきた。あいつとオレって同一人物じゃない?」 「あべさん、ほんまに酔っ払いすぎやな。ちょっと寝る?」 「いいねえ。ランナーたまったら起こして。右でも左でも上でも横でも代打、大丈夫やから」 あべさんは言うなり椅子からごろんと床、いや、砂の上に転がり落ち、そこで目を閉じた。 みずきはまだしゃくしゃくしゃく。 プラスチックのストローのスプーンの白と赤と青のやつ、噛んじゃだめよ。オトナなんだから。 やがて氷は、赤い水になって、いつしか色も消えて。
川もの青いマストがゆらりと立ち上がり波の上を滑り出すのを見ながら、みずきは「やっぱり上手いなあ」と言った。 そしてあべさんの飲みさしのビールに口をつけ「こういうの、いい、なんか」と小声で言った。 「おい、営業妨害」 言いながら、サンダルであべの背中を蹴っていたともは「なんね?」と、顔を上げてみずきを見た。 「毎年さ、生ぬるい水に入って大事なこととかも忘れて、小銭でおいしいもの食べて阪神は連敗してて、言ってる内に空が燃えるような赤になってね、つるべ落としに真っ黒な空が取って代わるでしょ? わたしって愚痴っぽいネガティブな人間なんだけど、ここでこうしてる時だけは素直ないい子になってる気がする」 「去年も同じことを言ってた気がする」 「ですか?」 「ですね。で、みんななんでか優しいから、マンガみたいに」 「マンガみたいでいいわ、わたし」 川もとあべさんの読み散らかした雑誌を集めて積み上げるみずき。 「むにゃむにゃむにゃ。どアホ、むにゃ、阪神が三千連勝してる方がええに決まってるやろ。だからおまえらは・・・むにゃむにゃむにゃ。石嶺と松永さえ打ってくれたら・・・・・・むにゃ。もうオレはほんまに寝るぞ。あとは勝手にやれ、ずーぴー」 「混んできたら起こすからな」 ともは三人の食べたやきそばの皿を持って厨房の中に引き上げた。 「ずーぴー」
ともちゃんの言う通りだと思う。 いちいちわたし達は、互いに優しい。マンガみたいに。 マンガみたいに、とぎれとぎれで、風にぱらぱらとめくれて。 そして、短いマンガみたいに、短いお話。
みずきはしばらくちびちびとビールを飲んでいたがやがて席を立つ。 黒いビキニに包まれたBカップの胸が、派手な水着に弾けるような女の子たちの中を。 ウェットスーツに包まれた小さな尻が振り振り振り振り。ゆっくりゆっくり歩いて湖に入って行った。 ともちゃんの言う通りだと思う。 波の音と蝉の声は飽きようが果てがない。 店の横のシャワーは誰かが出しっぱなしにしていったのだろう、虹を引いて降り注いでいる。 今日は夕立もなさそうだ。
今日も夕立はなさそうだ。 店の隅の薄汚れたモスグリーンの一人がけソファに沈み、ともは沖を漂う色とりどりのマストを眺めた。 水の上では時がゆるやかに流れている。 いつ見ても白昼の灯篭流し、と、ともは思った。 その時、波と蝉のひどい静寂を破って店の赤電話が鳴り響いた。 古くさい電話のベル。 川もは、まだ湖に浮かんでいる。 さっきまでそこにいたみずきもどこかに行ってしまった。 あべはぴくりともせず眠っている。 母親が電話に出るのを待ったが、トイレにでも行っているのだろうか、いつまで経っても電話に出る気配がない。 ともはソファから腰を浮かせた。
電話は出ようとすると切れた。 そして、すぐにまた鳴った。 受話器を取る。 クラスメイトの組沢かなえからだった。 「田所? 聞いて!」 組沢は普段から声が大きい方だけれど、それにしても明らかに興奮している。 「さっきね、家に電話があったん!」 「あら、ドラフト一位おめでとう」 「何言うとんの? もっとすごいことよ。聞いて驚け。電話かかってきたの! 伊豆さんから!」 伊豆から。 電話?
電話は決して、時間を超えない。 未来からの電話が鳴ること。 過去からの電話が鳴ること。 ありえない。 理由は知らないけれど、わかっている。 ありえない。 だって。 だって? だって。
「電話かかってきたの! 伊豆さんから!」 だって。 ありえない。
「オレさ、田所だけはこんな村にずっといちゃいかんと思う」 「なんで」 「田所は他のやつらとは違うんだよ」 伊豆は、ともにそう言った。そして、オレと一緒に行かないか、と。 小さな橋の下に隠れるように座っている二人。 「わたし、卒業したら就職決まっとるんやけど」 「実家の海の家やろ? 夏しか仕事ないじゃん」 「わたしこそ、この村にずっといるべきやと思うけどな」 「おまえはこんなとこで結婚したり子供産んだりすんの?」 「やめなさいよ。大人ぶるのも。バカのフリすんのも」 ともは手元の雑草を千切って、伊豆の鼻っ面に投げつける。 「田所。オレは、おまえが一緒だったら、いいやつでいられる気がするんだ」 「伊豆」 「何?」 「あんた、マンガの読み過ぎよ」
それが、ともが伊豆に最後に会った日の会話だ。 もう半年が経つ。 組沢に遠慮をした? 当時、組沢の恋人だった伊豆と、面倒なことにならないようにした? あるかもしれない。 少なくとも、その日、伊豆に体を触らせなかったのは、組沢のことがあったから。 でも、そもそも、ともは伊豆のことなんかどうでも良かった。 どうして伊豆が、わたしのことなんかを最後まで求めていたのか、ピンとこない。
河口に近い小さな川。 対岸までは五メートルくらい? 浅くてだらしない川。 軽トラックが一台、いつからそこにあるのか、中程で頓挫している。
でも時折、伊豆のことを、ともは思い出してしまう。 わたしがいれば善人でいられると言った男。 わたしがいなければ悪人になってしまうと言った男。 そして、思う。 どう考えても、ないわ。
「会いたいって言われてん。どうしよう!」 組沢の針が振り切れた顔が目に浮かぶ。 ともは受話器を握ったまま、ビールケースを足で寄せて腰掛けた。 長くなりそう。 「やっぱり甲斐があったの。あの本、効くのよ!」 組沢の言っているあの本というのは、学校の図書館にある魔術書だ。歴代在校生の貸し出しランキングダントツ一位の、ボロボロでいかにもな本だ。 そこには年頃の女の子がハマってしまいそうな魔法が幾つも載っているらしい。 両思いになる魔法、嫌いな友達の夢に出る魔法、生理痛がマシになる魔法、子供を授かる魔法、時をめちゃくちゃにする魔法、死者を蘇らせる魔法。 ともも、その本を手にしたことがある。 必要もないのに。 だから手にしたけれど、開いたことはない。 確かに見た目よりもずっと重く、黴臭く、不気味な本だった。 とは言え、紙とインクの束なんだから、ただの。
組沢がその本に手を出し、魔法に手を染めていったこと。 ともも藤ノ井も止める理由はなかった。 組沢はぎりぎりだった。 「駆け落ち」という田舎町にはドラマチック過ぎる選択をした伊豆と組沢。 受験や将来へのストレスを抱えた高校三年生の男子と、その口車に乗せられた二年生の女子。 校内で知らない者のいない、上の上のルックスの持ち主である伊豆と、ノーマークの地味な少女。 ふわふわとやわらかくカーブした細い髪を刈り上げにして、縁なしのシンプルで知的な眼鏡、穏やかな微笑みの似合う、こんな田舎町には不似合いな女子生徒憧れの的。腕に覚えのある女子が挑んでは、ことごとく感じよく断られてしまったというニュースが後を絶たない。 そんな伊豆クンに初めて訪れたスキャンダルに人々は戸惑った。 伊豆の穏やかな感じの良さと、駆け落ちというダサい行動が結びつかない。 あの地味な女ごときが、伊豆クンをたぶらかしたとも思えない。 みんなが出した結論は「男と女には何が起きるか分からないもんだ」。
そういう意味では、伊豆はやっぱり大したものだと、ともは思う。 わたしたち高校生に、ホントらしき結論を与えたのだから。 でも、組沢との駆け落ちの前の週に、伊豆がわたしにプロポーズしたことを知る者はきっといない。 それは駆け落ちの誘いではなかった。 進学して村を離れる彼を追って、一年後、卒業したら来て欲しい。 結婚しに来て欲しい。 なんて。 そんなのわたしには無理に決まってる。 伊豆はいいよ。 なんだか「違う男」なんだもの。どんなことだってありえるんでしょう。 でも、わたしは無理。
だから、わたしにフラれた腹いせに、伊豆は組沢というわたしの友達とそういうことに及んだ。 と、わたしは思っている。 わたしは怒っていない。 一ミリだって怒っていない。 そういう子供じみたやり方、勝手にしろ。 組沢を傷つけたことについても、怒りは感じないよ。 わたしは冷たいのだろうか。 わたしは、組沢に、プロポーズのことも、わたしと伊豆が密かにそういう関係にあったことも、何も言っていない。 駆け落ちをして、捨てられた友達に接する、ありふれた女友達として、組沢の話を聞き、頷く。 わたしには罰が当たる。 そんなことは知っている。
「でもさ、その電話ってほんまに伊豆さんかな?」 と、ともは言った。 「どういうこと?」 「誰かのいたずらだったりしないかなってこと」 沈黙があった。 「なんでそういうこと言うわけ?」 と、組沢が言う。 「もし誰かのイタズラだったりしたら、危ないと思ったから」 「田所はさ、やっぱり魔法のことなんて信じられんのだね」 「待って」 「田所と藤ノ井だけは、わたしのことを変な目で見なかったから、本当に感謝してて、二人には最初に話そうと思っとったんよ」 「それは知ってるし」 「いい。ごめん。おかしいことくらいわかってる。おかしい? おかしいとしか思えないことくらいは分かってるつもり。だからごめん。いいの。わたしは一度終わっちゃっとるから、どう思われたっていい」 マンガと音楽が好きだった、あの頃の組沢を変えてしまった伊豆のこと。 やっぱりわたしは怒りや憎しみなんて感じない。 それはわたしの後ろめたさのせいかもしれない。 それだけじゃない。 伊豆がもう死んでしまって、いないから、なのかもしれない。
受話器を下ろして、そのままビールケースに座り込んでいると、客席の方から、あべの「ふりにげぇ」という声が聞こえてきた。 寝言。 ともは、振り逃げで一塁に向かう伊豆の姿を思い浮かべた。 ユニフォームが全然似合わない。オシャレで。 キャッチャーの川もはキャッチャーマスクを投げ捨て、ボールを拾い上げる。 ファーストで懸命に送球を求めるあべさん。 君ら関係ねえから。 ともは微笑んだ。 いくらなんでも死んだやつと野球なんかすんな。
風の匂いが変わる。 セミの声が変わる。 波の音が変わる。 浜から一人ずつ、人が消える。 すぐに暮れる。 片付け忘れたビーチパラソルの影が長く伸びている。 「あれ、撤収してきてくれへん?」 と、ともはあべと川もに声をかけるが、生返事。 野球が始まっているからだ。 仕方なくみずきが一人で行こうとするので、ともは男二人の背中を蹴る。 「アンテナ線切られるんと、目ん玉の代わりに砂詰められるん、どっちがいい」 「オレ、耳さえあれば、ラジオでも十分」 「あっそう。嫌いになろかな」 あべと川もは重い腰を上げながら、「まだ嫌いちゃうかったんやなぁ」と言う。 ともはテーブルの足元に置かれた蚊取り線香をつけて回る。 浜に張られた幾つかのテントにも灯が入った。
「今日の晩御飯、なぁに」 川もが厨房に入ってくる。 「どあつかましい」 「おでん」 と、おかあさんが言う。 半端な余り物で、閉店後にみんなで夕食。 阪神、今日は勝った。 坪井のサヨナラ。 おとうさんとあべさんは坪井と今岡の打順について盛り上がっている。 川もの平尾案は却下された。 盛り上がってるから厚揚げを全部さらわれてしまう。
初めて来た時、「こんなの嘘だ!」とみずきが叫んだ。 天の川と呼ばれる光の帯。 もうみずきも驚いて叫んだり、涙ぐんだりしない。 でも、ずっと見てしまう。 何万年も昔のものだという、流れない川を。
「明日、掃除よろしくね」 前金でビールを奢ってもらったあべと川もとみずきは、明日は五時起きで浜の清掃だ。 喜んで。 ともは、登校日。 歩いてきた四人は田所家と三人の常宿の暗い分岐で、手を振って別れた。 とも、ほんとにかわいく手を振る。
「伊豆って言ってた」 「聞いたことない名前だよな」 川元とあべが並んで自販機横のコンクリートの段差に座り、腕を組んでいる。 自販機の白い光には大きな蛾と、小さな羽虫。 足元には聞いたこともない炭酸飲料。 みずきはアスファルトに直接座り込んでいて、あべに「丸見え」と言われる。 「水着です」 「え? なんも履いてへんやん」 あべの言葉に慌ててみずきは隠すけれど、ちゃんと水着を履いている。あったりまえだ。 「あの電話の感じは男やで。こういう時のオレの勘は間違いない」 あべの勘はとりあえず外れているけれど、結果的にはいいとこついてる。 「近い内に何かある。絶対」 「うーん」 「今のままだと、川もは川ものままやけど、何かイベントに便乗すれば、もしかしたらもしかする」 と、あべは意気揚々としている。好きなんだな、こういうの。 「きも」 と、みずき。 「こういう男子がうまく行ってるの見たことないよ。やるなら一人でやんなきゃ」 「じゃ、みずきは仲間に入れてやんない」 「ごめんなさい。入れてくださいませ」 「この女、逆スパイかもしれませんぜ」 「ともちゃんはそういうセコいことしません」 「女心は分からんからなぁ」 「ましてやともちゃんは・・・」 「新入りが発言してもいいですか?」 「おねがいします」 「女心が複雑とか言ってる内は、うまくいきませんよ」 「じゃあ、何?」 「欲情に決まってるじゃないですか」 「却下」 「右に同じ」 ピュアなお二人におっぱいでも見せてやろうかと、みずきは思うけれど、やっぱりそんなことはしない。 たぶんショックが大きいので。 わたしでも急にあそこなんか見せられたらびっくりするもんな。 という三人を、路地からじっと見ていた黒猫が退屈そうに鳴いたので、三人は一斉にそっちを見た。
おはよう。 おはよう。 焼けたね。 部活ばっかやもん。 何も塗っとらんの? 塗っててこれ。 おはよう。 おはよう。 褐色フェチて。 あれって水着の跡とかがええんちゃうん? そーちゃうやろ。 でも見て。ソックス跡。 あ、エロい。 はい、これ。 なに、これ。 おみやげやん。 なに、これ、きもいねんけど。 まあまあでしょ。 まあまあだね。 登校日。 やっぱり組沢の姿はなかった。
教室の窓からは湖と浜の一部が見える。 浜は小さく白く眩しい。 「田所、おはよう」 藤ノ井が、ともの肩に手を置く。 「おはよう、藤ノ井。髪、切りよったね」 「ばばあにさ、男の子みたいやからやめろって言われた」 「ははっ。かわいいよ」 「だろ?」
「帰って来やんのかと思ってた」 「約束やったからね」 「藤ノ井、約束守らんじゃん」 「そんなことないわ」 藤ノ井は大学に行っている恋人のところに、夏休みの間、泊まりに行っている。 両家の親公認の、というやつだ。 超優等生同士のカップルは、何かと規格外で、ようわからん。 「いつ帰ってきてた?」 「昨日。また明日には戻るつもりやってんけど」 「けど?」 チャイム。
放送朝礼。 バドミントン部と英語劇部が表彰された。 一年の副担任の先生が一人、体調不良で二学期から休暇をとることになった。 山側の通学路の一部が土砂崩れで使えなくなっているので迂回するように、とのこと。 以上。 クラスの休みは、組沢を含めて五名。 みんな、真面目だよね。 松葉杖突いて登校してきた男子もいる。 阪神ファンの担任が、素晴らしすぎる順位を嘆く。 戦争の短い記録映画を見る。 それから校内の美化作業をして、映画の感想を提出したら、下校。
「田所、ちょっといいか」 教職員用の喫煙室に入ったのは初めてだった。 「今朝、組沢のお母さんから連絡があったんだけどね、あいつ、いないんだと」 換気扇の紐を引っ張ってから、煙草に火を付ける。 換気扇はどこか壊れているんだろう、からからと引っかかりながら回っている。 「なんか知ってる?」 担任は自分の手元に視線を落としていて、ともの表情なんて見ていない。 もっとも、ともの表情には変化なんて全くない。 「あいつ、まあ、二回目だろ。つっても、まあ、前回とは違うんだろうけど」 伊豆がもういないことを言っている。 でも、組沢は伊豆から連絡があったと言っていた。 ごめんね、組沢。 わたし、あんたをどうやって助ければいいのかわかんないわ。 「すいません。知りません」 そっか、わかった。と担任は言った。 「ただ・・・」 「ん?」 「ただ、組沢は大丈夫だと思います」 「うん。田所とか、藤ノ井とかが、力になってやってほしい」 「はい」
教室に戻ると藤ノ井がまだ席に座っていた。 他には誰もいない。 「まだ書いてんの?」 「怒られた?」 「わたしが何を怒られることがあんのさ」 「品行不正」 「ぜんぜん法の範囲内だよ」 そして、藤ノ井は一呼吸置いた。 藤ノ井はわたし達三人の中で一番大人びていると思う。 それは髪を思いっきり短くしたからと言って変わらない。 「組沢のこと? わたしも掃除中に呼び出されたよ。あそこ、煙草吸いたくなるね」
藤ノ井の方が組沢との付き合いが長い。 ともは中学三年の時に親の都合で転校してきたけれど、二人はもっと古い友達らしい。 三人でいることが多いけれど、去年の駆け落ちの一件以来、藤ノ井と組沢はなんとなくぎくしゃくしてしまった。藤ノ井が、あんなしょうもない男、みたいな言い方をしたからだ。 その時、組沢は何も言い返さなかったけれど、背を向けて、閉ざしてしまった感じがあった。 藤ノ井もそれ以上言わなかったから、真意の程はわからない。ルックスと雰囲気だけでモテて薄っぺらいしょうもない男、というだけの意味だったのか、駆け落ちなんて時代遅れの子供じみたことをするような男という意味だったのか、わたしにはわからない。 わたしと二人きりの時も、藤ノ井は組沢のことを、どうこう言ったりはしなかった。 他の友達が組沢のことを噂する時にも、藤ノ井は輪に入ろうとはしなかった。 藤ノ井は大人びている。 大人がどういうものかなんて知らないけれど。
藤ノ井は科学実験室の冷凍庫から氷を出し、水と白い粉で何かを作ってくれた。 ガラス棒で混ぜる。 ガラス棒をつまむ指先がとても綺麗だ。 「まるで魔女だね」 「ただの炭酸水よ」 「信じることにする」 「愚かな姫だ」 化学部の部長は孤独な魔女のように笑って、とても色っぽい。
わたしたち三人を三姉妹に喩えるなら、満票で長女は藤ノ井だろう。 それはハリウッド映画でもインド映画でも古典文学でも純文学でもラノベでもマンガでもゲームでも、万国共通の認識に違いない。見た目も声も言うことも、いちいち長女っぽい。おおらかでポーカーフェイスで何を聞いても驚かない、みたいな顔をしているくせに、時々言いたいことを鋭い口調で言ったりする。 次女は組沢だと思う。 秀才の姉と、自由な妹に挟まれた、真面目な問題児。大真面目で地味なくせに、一番派手にやらかすのは組沢だ。駆け落ちもそうだけど、突然何を思ったのかテストを全部白紙のまま提出したり、中学校で飼ってた孔雀を全部逃がして町中に捕り物をさせたり。 藤ノ井やともに、さんざん説教くさいことを言う割に、何かと問題を起こすのは組沢ばかり。 ついてないのかな。 そして、わたしはしっかりもので自由な末っ子だ。 「ばか。田所はちゃっかりもので、不用意な妹、というか弟。ひやひやして見てられない」 組沢はそう言うだろう。 ちゃっかりものと不用意は矛盾しないかい? 「それじゃあただの背の高い順」 藤ノ井はそう言うだろう。 胸の小さい順でもいいんじゃない? お金持ちの順でも成績の良い順でも。 うーん・・・・・・。わたしの取り柄ってなんなんだろう。 「モテるとこやろ?」 「そうそう。フェロモンが出まくってるとこ。子だくさんな感じがするところ」 「バカっぽいって言っとる? 排卵しまくってそう?」 「やめな、田所。モテるなんて最高のことだよ」 「かわいくてモテるならともかく、かわいくないのにモテるのは、やだ」 「なんで?」 「手頃で」 「贅沢」
わたしたちはずっと一緒なんだと思っていた。 藤ノ井はたぶん卒業したら進学して、あの彼氏のところへ行くだろう。 組沢は今あんな感じだから、どうなるかわからない。 わたしは、なーんも変わりよらんな。
暗室も作れる分厚いカーテンの隙間から、眩しい光の帯が科学実験室の床に引かれている。 今日は風が強く、重いカーテンも揺れる。 光の帯も揺れる。 「太陽の光って、ほんまに金色なんやね」 「床が金色なんだけどね」 ともは回る椅子に座ってぐるぐる回る。 藤ノ井が何人もいるみたい。 組沢はいない。 ともは回りながら「組沢、めんどくせー」と言った。 「心当たりあんの?」 と、藤ノ井が訊く。 「ないよ。昨日の電話、いきなりガチャって切られてそれっきり」 「あのさ」 炭酸水のおかわりを作りながら、藤ノ井は。 「あのさ、わたし、心当たりあるんだ」 ともは、椅子を回すのをやめて、藤ノ井の横顔を見る。 どうして藤ノ井の無感情は楽しんでるように見えるんだろう。 綺麗な耳を出しちゃって。 「田所、その電話切られた後さ、すぐに組沢んとこ行こうと思わんかった?」 「ん。仕事中やったし。っていうのは言い訳か。手に負えない、と思っちゃった。後悔してる」 藤ノ井がどうしてそんなことを訊くのかわからない。 「藤ノ井のところにも電話あった?」 「ん? 組沢はわたしになんて電話してこんよ」
無感情が楽しんでるように見えるって、間違いだね。 たぶん。 藤ノ井は、わたしなんかよりも、ずっと優しくて、性格的に深刻で、正直で、シンプルだ。 たぶん。
「実は、わたしんとこにも電話あっんのさ。伊豆から」 氷、どんどん溶けていきます。 「わたしと伊豆は、ずーっと前に関係がありました。知ってた?」 ともは首を振った。 「田所も知らなかったか。じゃあたぶん誰も知らんわ。わたしは誰にも言ってないから」 その言い方や視線は、まるで、わたしと伊豆の関係を知っていると仄めかすものだった。 咄嗟に黙ってしまった。 「それなら、わたしも言うけれど・・・」と言えなかった。 なんというか、伊豆はもう死んでしまっているのに、ということが、引っかかったのと、それと警戒したの、と。 息苦しい。 わたしが警戒したことが、藤ノ井にバレている。 「でもね、こそこそ付き合ってたわたしたちはケンカばっかりで。わたしも、伊豆も、嫉妬深くって。だめで。結構、わたしたちめちゃくちゃで、だらだらと続いて、そんなことばっかりで。会ってもそればっかりで、忘れた頃にふとまた会ったりしてんの、そんなの」 わたしたちが伊豆に出会ったのは、この高校に入ってからだから、二年ちょっとのことで。 ともの知る限り、藤ノ井はもう二年以上も今の彼氏と付き合っていて。 それはとても幸せそうで、オープンで、羨ましいくらいで、無邪気で、陰り一つなくて。 だから、そんなはずがなかった。
それって、いつ頃の話? いつ頃まで続いてた? それが聞けない。
なんだか、悪い夢でも見てるような気がしてきた。 だって、あの藤ノ井が、そんな。 悪い夢? もしかしてこれって、組沢の魔法の中にいる? 純粋な、組沢の、魔法、というか、呪い? ううん。 そんなわけがない。 なぜなら、伊豆がわたしにプロポーズしたのは事実だし、わたしの初めての相手が伊豆だというのも事実だ。 それも、もしかして、魔法の、中の記憶? ありえない。 でも、あの伊豆がわたしなんかにプロポーズする方がありえない気もしてくる。 いや。 伊豆が死んでしまったのも揺るぎようのない事実だ。 わたしは行っていないけれどお葬式だってあった。 ややこしく考えるのはやめなさい。 目の前の情報だけで、十分だ。 わたしの記憶だけで、十分だ。 伊豆は「おまえが一緒だったら、いいやつでいられる気がする」と、確かにそう言った。
だとしたら、いいやつって何のことだろう。 嘘をつかないこと? 嘘をつき続けること? 嘘を忘れてしまうこと?
「伊豆は、いいやつだった」 と、藤ノ井が唐突に言ったので、わたしは驚いて彼女の目に見入った。 いいやつ、という言葉。 きっと、わたしと同じことを考えている。 そして、藤ノ井は伊豆のことを、いいひとだと言い切った。 たぶん、組沢も。
ともには、わからない。 あのときと同じことを思う。 いいやつや、いいひとで、いたいの? わたしは、いいひとでいようと思うことや、いいひとでいないといけないと思うことは、苦しい。
「ばかだ、田所は。それは、田所がずっといいやつだったから、そう思うんだ」 と、組沢。 ねえ、そんなふうに言わないでよ。 もう会えないみたいじゃない。
おまえと一緒だったら、いいやつでいなくてもいいんだって、そう思える。 わるいやつでいられる。 もし伊豆にそう言われていたら、わたしは少しでも考えただろうか。
「田所。あんたは素敵なお子様だわ。いいひとになりたくないなんて。その気持ちもわからないなんて」 と、藤ノ井。 ごめん。 わたしの空想が作り上げた藤ノ井は、その細い指先でわたしのあごをつまんだりなんかして。 本物の藤ノ井は黙ってガラス棒で炭酸水をくるくる。
「わたしたち、名字で呼び合うようにしやん?」 と言い出したのは、組沢だった。 その日までは、わたしたちは有希ちゃん、かなえちゃん、ともちゃんと呼び合っていた。 「いいんじゃない」 「いいよね」 「やろう。すぐやろう。な、藤ノ井」 「上手上手。田所、すごい上手」 「ふっ。田所」 「あはは。なんで『ふっ』とか言うのよ。組沢はカッコつけすぎ!」 「な」 「いいじゃん。『ふっ、ともちゃん』じゃ格好つかへんでしょう?」 「確かに」 「名字じゃないと言えんような、ハードボイルドな世界があるんよ」 「大人になったわけですな」 「そおゆこと」 「た、田所おおお!」 「なんか不倫っぽいよね」
「伊豆は電話で何て?」 「オレだけどって言うから、切ってやった」 「それってさ、ほんとに伊豆かな?」 「伊豆だよ」
「心当たりって?」 「そりゃ、お墓でしょう」 うーん。 引っかかるのは何だろう。 考えても無駄、諦めなさい。 うーん。 ううううううううーん。 「行こう。田所は色々と難しく考えすぎ。いい? 見てて」 そう言うと藤ノ井は、どこから取り出したのか、真っ赤なリンゴを一つ。 視線の高さに腕を真っ直ぐ伸ばし、リンゴを離した。 リンゴは最も床に引っ張られて落ちる。 「ニュートン力学の抱える幾つもの矛盾について、田所は考えたりしないでしょう? 時が止まったらリンゴは止まると思う? じゃあ、リンゴが止まってたら時は止まってるの? 時が逆行するとして、一見順調に流れている今から逆行へ移る瞬間、一度時が静止状態を経過するとして、その停止してしまった時はあらためて逆行状態に移ることができるかしら? 時というものが、移動と速度で規定されるのなら、逆転の瞬間、静止状態が発生するんじゃないかしら。ゼロの瞬間なく、マイナスに移れるものかしら。これは何百年も昔の人々が考えたことだけど、今も順調にあの頃と同じように時というものが、流れる、って言ってもどこを流れてるのかは知らないし、流れるっていう言葉自体がとっても限定的だけど・・・」 「ストップ」 「わかった?」 「うん。今の一瞬に二週間が過ぎたけど、わかった。今なぜなぜは、どうでもいい」 「たった二週間? わたしは今の一瞬で五年は過ぎたわよ」
「一つ訊いていい?」 「もちろん」 「電話の声って、ほんとにほんとに伊豆だった?」 「しつこいね、田所も」 「じゃあ、もう一つ。過去から電話がかかってくるものかな?」 「それは証明が難しいのよねぇ」
湖の家の午後は盛況で、川もとあべとみずきが忙しそうに手伝っている。 制服姿のともを見つけると、あべが「約束の時間はとっくに過ぎとる」と言った。 「はよ着替え」 と、おかあさんが言う。 「裸エプロンでも」 と、川も。 「裸でも」 と、あべ。 「ごめん。急用で、ちょっと出やんなあかんことに」 唖然とする川もとあべ。ごめんって。 みずきは注文を取りながら、小さく手を振っている。 「川もには特別にわたしのエプロン使わせたげる」 「オレは?」 「帰ってきたら話し相手になったげるから」 「絶対やぞ!」
ともちゃん、今日はムーアやからな、という大声を背中で聞きながら、ともは防波堤を越えた。 自転車に跨って待っている藤ノ井が、「ムーアって何?」と言った。
汗が止まらない。 誰も雑草を刈らない斜面の道を登りながら、スカートなんかで来たことを後悔している。痛いというか痒いというか。 藤ノ井はお嬢様とも思えぬスピードで登っていくので、ともはついて行くので精一杯だ。 あんな綺麗な足が細かな切り傷だらけになるのは心苦しい。 制服の中を汗が流れる。浜の方がずっと涼しい。 雑草には踏み跡があると藤ノ井が言う。
初めて来た伊豆の墓は、入り江を見下ろす高台にあった。 伊豆の墓というか、伊豆家の墓。 いくつかの集落の墓が、そこに集まって建てられている。 伊豆家はその中でも特に小さな墓だ。 傍らの墓標には、はっきりと史人の中が刻み込まれている。 「小さいね」 と、ともが言うと、 「そうだね。金持ちでは、ないからね」 と、藤ノ井が言った。 藤ノ井はそうするのが当たり前だと言うかのように、墓石の周囲の雑草を抜き始めたので、とももそれに倣った。午前も午後も草引きの日。 花立にはとっくにドライフラワーを過ぎ、化石になった花というか枯れ草がかろうじて立っている。水は枯れ果てている。枯れた花は藪に投げて捨てる。 随分誰も来てない感じのするお墓。 「組沢、来てないみたいだね」 と、ともが言う。 わたし達、何してるんだろう。 悪いことをしているわけじゃないのに、後ろめたい感じがするのは何故。 「組沢、来てるみたい」 と言って、藤ノ井が見下ろしているのは、形の揃わない石を地面に埋めて作られた家? のような下手くそなモザイク画? のような、気持ちの悪い絵。それが墓石の後ろ、三メートルくらいのところに作られている。 何が気持ち悪いって、その家のドアが開いているように見えるところ。 藤ノ井がそれをノートに写した。
墓の前に座って見下ろす湖は、ぎらぎらと光っている。 浜で遊ぶ人々の姿も小さく見える。 昼って、なんだかしんどいな、とともは思う。 夜になって、光だけになれば、流れるものもあるだろうに。 回る地面と夜空の間で擦れているものが色を放つだろうに。 今はただただうわあああああああああああああああああああああああああああああああという感じで静かで。
「岡田! なんであそこで手を回すねん! 次天才今岡やで。あのどんでん」 「あべさん、攻撃終わってんやったら手伝って下さいよ」 「あべ、働かんねやったら帰れ」 「やりまんがな」 週末ということもあり、店は大した盛況だった。 海水浴客の若い連中が機嫌良さそうに飲んでいる。 三人がかりで手伝っていてこの慌しさなのだから普段一人でウェイトレスをしているともちゃんは凄すぎるな、と川もは思った。 次々と空いていくビールの瓶が、店の裏に転がっていく。 あべがおじさんの所に歩み寄り「ゴールドラッシュ」と話しかける。 おじさんは嬉しそうに笑って「慈善事業やこんなもん」と答える。 「ほんまうちの子は何をしてんねやろ。ごめんな、三人とも」 おばさんが汗だくでギョーザを皿に盛りながら言う。 「ほんまですよ。どこをほっつき歩いとんねん。子供やあるまいし」 「あべ。偉そうに言うな。なんやそのエプロン」 「しかし今日のムーアは最高やなあ。そこでインコースにー、ほら来た! 見た? すげえなあ。今日のムーアは打てんわ。あれくらい異国で活躍出来たらすごいよな」 「柏田と新庄もな」 「おっちゃん分かってきたやん!」 「あほ言え、オレの方がどんだけ年季入っとる思てんねん」 「それは嘘やわ」 「あんたら二人とも働かんねやったら追い出すで、ほんまに」 なんだか意気投合しているおじさんとあべにおばさんが冷や水をかけるけれど、阪神ファンは応えない。 おじさんはさすがにプロだから軽口をたたいてテレビをチラチラ見ながらも料理を捌いていく。 あべの方は結局下げてきた空き瓶を持ったままテレビの前の椅子に座り込んで「走れ! 走れよー」。 「私絶対に阪神ファンとは結婚しやんとこ」 と、みずきが川もの耳元で言って笑った。それが耳に入ったのか、「みずき! おまえそれはおっちゃんとおばちゃんに失礼やで」とあべさんはテレビから目を離さずに言う。 「あべくん、よう分かってるわ。あんた、ともの婿に来やへんか? あの可哀想な娘をもろたってくれよ」 「え? いいんですか? おとうさん」 悪ノリするあべの頭を川もが叩く。 「おっちゃんをからかうな。おい、オマエ飲んでるやろ! おばちゃん、こいつ商品に手つけとんで」 あべは椅子の下から真露の中瓶を出して恥ずかしそうに笑った。 「このボケ、おまえなんか『あべさん』とは大違いじゃ」 「川も、おまえは何をいい子ぶっとんねん? おっちゃんとおばちゃんに気に入られようとしてもそうはいかんよ。おっちゃん、この肥満児はね、ともちゃんに惚れとるんですわ」 川もは年甲斐もなく顔が紅潮するのを感じた。 この酔っ払い放っといたらえらいことなると思った川もは、あべの首に後ろから腕を回し、力ずくで店の外へ連れ出そうとしたが、あべは頑なにテレビの前を離れようとはしない。 「こんな夜くらい野球を見せてくれよー。この音を聴かしてくれよー」 「二人共、じゃれ合ってやんと働いて。なんで私ばっかりがんばってるんよ」 「真面目で手を抜かんっていうのは絶対にええことやで、みずき。報われるとか報われへんとかじゃなく、みんなが見てる」 「何を偉そうなこと言うてんの。はい、二人ともこのバケツ持ってお皿を洗いに行ってくる。早くする!」 「えー」 「なんなん、二人共ともちゃんの言うことやったら何だかんだ言うて聞くくせにさ、いやらしい」 みずきはそう言い放つと二人の前に皿が詰まったバケツを置いて、さっさと客席の方に出ていってしまった。 置いてけぼりにされた男二人は「行きますか」と立ち上がり、バケツを持って裏口から外に出た。 黒い海から湿った夜風が吹いていた。 「どうもありがとうございました」 愛想良くレジを打っているみずきの所におばさんがやって来て、レジの中身を覗き込み「今日はえらい入ってんなあ。これだけあったらお給料も出せそうやわ」と言った。 「そんなんいいですよ。あべさんなんか何もしてへんし」 「みずきちゃんさ、昼間ぼけっとしてる時よりも、こうやって働いてる時の方が活き活きしてるで。こっちの方が全然いいと私は思うけどな」 「ははは、そうでしょ? 私もこういうの向いてるんは知ってるんですけどね、楽しいし」 でも、とみずきは思った。でも、私はいつもの昼間みたいなああいうのがないと辛い。涙が出てくる。川もやあべさんやともちゃんとダラダラして、ウィンドサーフィンをして、そういう疲労感がないと私は。 学校の友達とかと遊ぶ時の、あの遊びまで時間に追われているような楽しさなんかとは全然違う。 何かを大事にしているような、それが錯覚だとしても無駄にしながら時を慈しんでいるような感覚がないと、私はおかしくなってしまう。 胸の時計が狂ってしまう。 「お、アリアス打ちよった! あべくんら呼んで来たってえや」
「なあ、あそこ。向こう岸に見えてんのってさ、原発っぽくね?」 「違うでしょ。あんなとこになかったでしょ」 「だよな。あんなとこにあったら、おちおち泳いでらんねえよな」 「泳ぐのは大丈夫だろ」 「そうだっけ?」 「そうだよ」 「そっか」 「それにさ、もう夜だぜ」 「これって夜かな」 「そうだよ」 「それに原発に昼も夜もねえだろ」 「じゃなくて、なんであんなもん見えんだろ」 「去年もあった?」 「覚えてねえよ。新しくできたんじゃねえの? てゆうか、去年も来たっけ?」 「一昨年だったっけ?」 「さあ」
夕暮れの時間が揺れている。 夜になったり、昼になったり。 行ったり来たり、波のように揺れている。 波と波の間の静寂の隙間。 昼でも夜でもない空が覗く。 どろっとした、涙みたいな、怖い感じがしない、透明の空が見えたり、遠ざかったりする。 もうとっくに夜だよ。
「まだしばらくこっちにいるん?」 藤ノ井の自転車の後ろに乗って、ともは言った。 「ううん。やっぱり約束やから、一回向こうに戻る。でもすぐに帰ってくる」 「すぐっていつさ?」 「お盆までには。だって死者を追い返さんと」 「時間が巻き戻るとしても?」 「時間が巻き戻るのと、死者が蘇るのは別でしょう」 藤ノ井が楽しそうに笑うけれど、ともにはよくわからない。
「また組沢から電話があったらさ、言っといて。藤ノ井が、ぶん殴らせてあげるって言ってたって」 「ぶん殴るじゃなくって?」 「そんなこと言ったら、あいつまた隠れよる」 藤ノ井は、首にかけたタオルで汗を拭い、 「どうする? 田所もぶん殴っとく?」 と言った。 「やだね」
藤ノ井。あんた、見た目によらず汗っかきだな。 人んちの前の暗がりで、握手を求め。 街灯の明かりを背景に黒く。 差し出されたその手をかわし。 汗びっしょりのブラウスで抱きつくなんて。 見た目によらない夏。
藤ノ井の身体は熱く、思っていたよりも大きく、胸は小さく。 その余韻は自転車を見送ったともに残った。 不思議と、追いかけて行って、もう一度抱きつきたいような余韻。 まさか、さっき抱きつかれたわたしの背中に魔法が刻まれていたりしないだろうか。 靴下を脱ぎ捨て、スカートを、ブラウスを、タンクトップを、ブラを。 ともの家の脱衣所の小さな鏡では、背中の魔法は確認できない。 暗い廊下で電話が鳴った。
八回裏。三点差。 ランナー無し。ワンアウト。 諦めるには早すぎると全国の虎ファンが言う。 八回の先頭から交代したヤクルトのピッチャーは球は速いけれどタイミングは取りやすそうだと、全国の虎ファンがバッターボックスの浅井と自分に言い聞かせる。 ストレートで簡単に追い込まれても、一塁側のファールグランドで、小早川がミットを広げて待っていても、まだオシッコを我慢しながら試合から目が離せない。 もうすぐ試合は終わるよ。 ともちゃんがまだ戻らない。 心配そうに防波堤の階段を見ている川もは絶対にモテないけれど、いつか報われる日もあるさ、とみずきは思う。 あべさんはどちらかと言うと、試合の行方が心配なのを悟られないように、防波堤に目をやってるのかな。 なんなんだ、この二人。
また、受話器を上げる前に電話は切れた。 いつまでも鏡の前にいて、電話に出なかったからだ。 暗がりで鳴りやまない電話、怖くて、ともは鏡を見ることも出来ず。 電話に足が生えて、廊下を近付いて来るかのように、音が大きくなっているような気がする。 そして消える。 消えてから、ともは電話を見に行く。 また鳴るんじゃないか。 でももう鳴らなかった。
過去からの電話が鳴らないことの証明は難しいと、藤ノ井は言っていた。 藤ノ井は嘘を言うような、おもしろおかしい子じゃない。 下らない嘘なんか言わない頭のいい子だ。 藤ノ井は、伊豆と「そういう関係だった」と言った。 眼鏡を外した伊豆の顔が、藤ノ井の綺麗な顔と近付いてゆき、すぐに重なる。 藤ノ井は恍惚とした表情をしている。 それって本当にあったことだろうか。 あの藤ノ井が、恋人を裏切るようなことをしていたのだろうか。 涙が出てくる。 魔法でも何でも使いたくなってくる。
もし本当に伊豆が蘇るとしたら、わたしがあいつに言えることは何だろう。 お願いだからそのまま消えていなくなって欲しい、だろうか。 本当のことを教えて欲しい、だろうか。 それとも、わたしが安心するような嘘をついてもらうのだろうか。 それと引き換えに、わたしがずっと一緒にいてもいいから? それは都合が良すぎるかもしれない。 あるがままに? あるがままに、今を過去にしろと? そしてまた過去からの電話に怯えろと? 言葉がとてもわかりにくくなっている夏。
りんりんりん。 はい。もしもし。 それは、清廉潔白だと自分のことを思ってるから、怖いんじゃないの? がちゃ。
りんりんりん。 はい。もしもし。 それは、汚れれば、嘘を重ねれば、強くなれるんじゃないの? がちゃ。
りんりんりん。 はい。もしもし。 それは全く反対じゃないの? がちゃ。
りんりんりん。 はい。もしもし。 がちゃ。
りんりんりん。 はい。もしもし。 がちゃ。
りんりんりん。 はい。もしもし。 がちゃ。
りんりんりん。 はい。もしもし。 オレだけど。
浜のあちこちで小さな花火。 遅い夕食を浜辺で。 「仕事終わりに仲間と飲む酒。いいなあ。オレここに就職しよっかなぁ。永久就職」 「あべさん、なんも働いてへんやん」 「にしても、とも遅いな」 「いつものことですよ」 「あべさん、軽口が過ぎる」 「僕ら探してきましょか?」 「探しに?」 みずきが怪訝な顔で川元を見る。 「よっしゃ、これ飲んだら迷子の女王蜂を探しに行こ」 「スポーツニュースは見やんでええん? 久々の引き分けやろ。とものアホなんかほっといて祝杯」 「引き分け・・・」 「おとうさん、楽しみは秋にとっておきますよ」 「調子乗りすぎ」 で、あべさんと川もは注がれたビールを一気に飲み干して、「じゃ行って来ます」と立ち上がった。 「あんたら、今日はうちに泊まっていき。布団敷いといたるから。ともの耳引っ張って帰ってきて」 「んー、じゃあそうさしてもらおか」 「悪いって」 「悪いと思うんやったら、みずきは店たたむん手伝ったって」 「なんで? 私も行く」 「いいから。じゃ、あとお願いします」 そう言って、あべと川元は店を出たのだけれど、ちゃっかりみずきは二人についてきた。 「なんかあったん?」 「別に」 「別にとちゃうやん。二人はそんな野暮なことせえへんでしょ? ともちゃん誰かんとこ行ってるんちゃうん? これまで邪魔したことなんかなかったやん。どうしたん」 みずきは川元の腕を掴んだ。 その力に川元は驚いた。 「わだしだけのけもん? わたしがそういうの嫌いなん知ってるでしょ? ねえ」 「川もがな、ともちゃんのこと好きなんはみずきも分かってるんやろ?」 「知ってるけど、わざわざでしゃばっていってともちゃんの邪魔をするようなことはなかったでしょ。ともちゃん今頃いいことしてんねんで」 みずきは苛立っていて、それはあべと川元は驚いた。 「ごめん。なんかどこに行っても一緒だわ、わたし」 とみずきは言った。 「何を謝っとんねん」 「あんな、これはオレら二人だけの秘密やってんけどさ、オレも川ももハートカクテルみたいに生きたいっちゅう可愛らしい夢で結ばれてんねん。わかる? みずきは若いから知らんやろけど、バイクとサーフィンとオールディーズはいつも胸のどっかにあんのよ。それはたぶん今の時代あんまりモテるもんじゃなくて、みずきとかともちゃんの年頃からするときもいの一言で片付けられてしまうようなことやねんけど、オレらはそういう風にやっていくんよ」 しばらく顔を背けてみずきは黙っていたが、しばらくして「分かりました。わたしは帰る」と言い、 「でもな、みくびらんといて。わたしだって、波と風に魅せられた女ですよ。クサクサのダサ女なんですけど。ハートカクテル? 全巻持ってます」 男二人はげらげら笑った。 「なんで笑うんよ。乙女の秘密やのに」 「ははは、さすがみずきやな」 「行っておいで、モテへん二人組。って、今のわたし、ともちゃんみたいじゃなかった?」 「全然違うけどな」 「なんよな、アホ」 そう言ってみずきは店の方へ引き返して行った。そして二人が防波堤を越えようとした時、 「フィールドオブドリームスみたいやなぁ!」 という、みずきの大きな声が浜から聞こえた。 あべと川元は顔を見合わせ、 「あいつ、何と間違ってんねやろ」 「ええんちゃう? なんか感動してんねんて」 「なんかオレも感動した」 「オレも」 フィールドオブドリームス。
びぃちぼぉいず 後編
精神のバランスを崩す、と言われているもの。 一つには、何かを誰にも口に出来ず自分の胸にしまいこもうとして、それが中期から長期に渡り、さまざまな程度で溢れてしまう、という状態があります。その「何か」とは、自分でも「下らない」と思っていることの場合の方が多い。 同時に、全くの逆のようですが、すべてを口にしてしまった、あるいは、してしまっているという思いから、もう逃げ込める秘密というものが無くて、自分の考えることに興味が持てない、という状態があります。 どちらの場合も虚言に兆候が現れますが、程度は違います。後者の方が見分けるのは困難です。 次に、精神のバランスを崩していない、と言われるもの。 これを見分けるのは簡単です。 バットを持たずにバッターボックスに入っている人か死んでいる人。 これだけは大丈夫です。
前編のあらすじ。
阪神のチーフトレーナーみたいな黒いサングラスの男。 川元は学生時代の恋人であった紅龍が左肘にメスを入れ危篤状態に陥っているという連絡を古い仲間から受けたが、花だけ買って見舞いには行かなかった。 それは逃げるように彼女の前から去った自分を黙って見送った彼女の白いワンピースだけが知っている時の静止がそうさせるのであり、今もこの町はあの頃のまま、生ぬるい風が川元のTシャツをべっとりと重く湿らせ、時が止まっているということはすなわち、今も川元は紅龍から去り続けようとしているのだった。 たとえ北向きの病室で紅龍がこの慣れ飽きた世界から去ろうとしているとしても。 それよりも早く去る。 ソフトボール部のキャプテンであった紅龍の左腕から繰り出される田村勤(36)も驚きの牽制球に挑むつもりで川元はじりじりとリードを広げていくのだった。 花束をその胸に抱きながら。 サングラス越しの湖の揺らぎに紅龍との別れを再度浮かべてはいよいよ本当に別れる時が来たのかもれない、と思っている。 波の一つ一つに名前はない。 紅龍は川元に言った。 「いつかあなたに相応しい、少年マンガのヒロインみたいな、幼なじみみたいな女の子が現れるよ。その子はあなたに言う。『意気地なしの変態野郎』。あなたは、それでも何かを言おうとして、そのサングラスには遠ざかる彼女の後ろ姿と夏の雲が映るのよ」
親友のあべは川元がウェイトレスのともちゃんのことが好きなのだと勘違いしている。 ウェイトレス? 海の家という名の湖の家のチーママ。 確かに川元はグラフィティとして、ともちゃんに特別な感情を抱いている。けれどそれはあべの言うような「甘酸っぱい、胸の詰まる」ようなものではない。 ともちゃんにどんな魅力があろうと、その爪先が桃色に色づくのは知っていようとも、舌を絡ませた瞬間に川元はともちゃんを突き放したくなってしまうのだ。 それでもともちゃんと川元がつかず離れずの関係を続けているのは、川元がいいかげんな男で、おまけに考えることに疲れやすい男だからなのだが、あべはそれを信じたくはないらしい。 あべは自分のことをロマンチストではないと言うが、勿体ないくらいロマンチストだ。 それが原因で女の子に嫌われるくらいの自分勝手な夢想家は、古びた水族館前の階段で眠っているところを川元とともちゃんに拾われている。「ビストロSMAPに工藤静香出たことあったっけ? あ、オレ夢見てたわ」というのがあべの第一声で、あべは照れた。 オレ達に相応しいもっと良い出会いがあるやろ、とあべがことあるごとに繰り返すのも彼が恥ずかしげもないロマンチストである証で、ロマンチストほど照れ屋なものだ。 いや、ちょっと違う。 ただ照れ屋なだけでロマンチストを気取られたらわたせせいぞうが浮かばれない。 本物の照れ屋は照れているだけでなく、それを巧みに隠しきるもの。 あべは人の見ていないところでダンスを踊るバービーボーイズみたいな男なのだ。 サラ金に五十万程の借金があり、そこから逃げ回っている。 そのことを知っているのは川元だけだ。 川元が説教くさい男でないことにあべはすぐに気付いたのだった。 「たかが五十万で」と川元は言わないし、ちゃんと返すようにとも言わなかった。 でもあべは川元と過ごす内に、この湖の町を去り、借金を返すために働く日がもうすぐ来ることを実感していった。 夏が終わる時、最後の夕立が降る夕暮れ、タイガースは優勝を決め、ジャイアンツは解散を決める。 そんな夕立が憂いを帯び始めた夏の終わり。 子供達はサクソフォンの音色に耳を澄ましていた。 あべはそのことを考えていた。
あべと川元のような薄曇りのサーファーにとって、みずきとの出会いこそ甘酸っぱいものだった。 「ちょっと後ろ向いてて。着替えるから」的な、放課後の教室、なぜか誰も来ない、油蝉だけが知っている的なものを錯覚させるみずきの若さは、二人のベテランサーファーを中学生気分にしてしまうに十分なもので、みずきの健全で発育の悪い・・・貧乏くさい体つきにはどこか罪の香りが漂っているので、彼女に手を出すとは言ってもそれはパンチラを覗き見るだけのような、手でやってもらうのも憚られるような、アイドルであり同時に友達であるみずき。 そんな彼女は実は現役アイドルなのだけれど、誰もそれに気付かないのでみずきも黙っている。 現役アイドル? それは嘘だ。 結局売れなくて、楽しくなくて、みずきは事務所を辞めてしまった。 だからただの元アイドル。 一年も前の雑誌を探してみたら、水着ではしゃぐ群れの中にみずきの顔がある。 気持ち悪い女の子達ばっかりだったな、とみずきは思い出したりするけれど、そんなに悪くはなかった。 水着一枚で水着一枚の連中と一日中過ごす生活は悪くなかった。 で、みずきは自信いっぱいで湖に大きな鞄を提げてやってきたのだけれど、そこにあるのは華やかに浮ついた夏というよりも、まどろみの日本リゾートで、子供が生まれてはすくすくと育って、ラジオ体操から家に帰ると、天気予報は今日も残暑が厳しいと告げ、居間の電話がジリリと鳴り響くと、天気予報が今日も残暑が厳しいと告げ、みずきは伸ばしっぱなしにしている髪をアップにして、さあ行こう、とビーチサンダルを履いて灼熱のアスファルトにゆらりと出て行く。 民宿の玄関先で小さな男の子が小さな花のプレゼント、そのつるっつるのほっぺたにサインをしてあげる。 ありがとうおねえちゃん。 おやすいご用よ。 朝から路上に水まく老人を焼く真夏の太陽。 私もこんなに日焼けをしちゃって、もうアイドルには戻れない。 さあ、これから私は何になろう。 勢いあまって美人プロサーファーでも目指そうか。 バイトでもしようか。実家にうまいもんでも贈ろうか。冗談の上手な人になろうか。 あべさんと川もを笑わせようか。 凪に帆を立て進むことは本当に難しい。 大人は四本足で歩くことほど難しい。
雑草が濡れていて冷たい。 お尻が冷たい。 近くで見ると、橋桁には数年前の大水の時の傷がくっきりと残っていた。 流れている浅い川。 ともが手を伸ばせば届くところに、伊豆が座っている。 あの時と同じ位置関係だ。 「今日は、草引きをしてくれてありがとう。でも、あんなことしてくれなくても良かったのに」 「わたしじゃないよ。藤ノ井に言いな」 「藤ノ井は、田所と違って会ってくれないさ。科学者で現実的だから」 「そんなことないよ。わたしの方が、よっぽど」 「そうかな?」
自転車を止め、橋の上から伊豆の姿を見つけた時、できれば命綱を自転車に結びつけたいと、ともは思った。 それって十分現実的だし頭が悪い、文法が違うと思う。 伊豆は月明かりに照らされて、こっちに向かって手を上げた。 伊豆と、お化けの伊豆の違いはわからない。 でもできれば昼間が良かった。 今日は遅いから明日の朝もう一度って、わけにはいかないんだろうな、と思った。
「さっぱりわからない。気付いたら、こんなことになってた」 何を言っても白々しかった。 何を言っても。 「気持ちはわかる。逆だったらオレだって呆れると思う」 呆れる? お化けの言葉に疑問を持つ方がどうかしてるのかもしれない。 「田所はやっぱり変わってるよ」 おまえの方が変わってるよ、と、ともは思った。
「どう思う?」 「何が?」 「オレって幽霊だと思う?」 「知らない」 「思うんだけど、生き返ったのかな?」 「どうして?」 「知るかよ」 こんな声だったような気もするし、違うような気もする。 「生き返ったって仕方なくね?」
「触れるかな?」 「嫌」 「わかってるよ」 「ごめん」 「ほら。石とかは触れる。投げれるし」 伊豆の投げた石は橋桁に当たって、川に落ちた。
橋の上を車が過ぎる。 一瞬、回りがほんの少しぼんやり明るくなる。 振動がともと伊豆を揺らせる。 「自転車」 と、ともが言う。 「何?」 「あんなところに自転車があったら、おかしい」 「田所は真面目だな」
子供の頃、お化けを見たことがあった。 押入の中に、腰から上だけの女の人がいた。 それは言ってはいけないことだと思ってしばらく黙っていた。 するとおかあさんから、見たでしょう? と言われた。 会ったことのある人ならまだしも、会ったことの無い人が家の中にいるというのは、気味の悪いものだった。 その後も、何度か同じ女の人を見たけれど、いつも黙っているだけだったし、わたしも話しかけたことはない。 おかあさんが話しかけてはいけない、と言っていたからだ。 なぜ話しかけてはいけないのかは教えてくれなかった。 おかあさんは話しかけたことがあったのだろうか。 あと、おとうさんには言っちゃだめよ、と言っていた。 恐がりだから、だって。
「変なこと聞いていい?」 と、ともは言った。 「いいよ」 「伊豆って、お化け見たことある?」 「そんなのないよ」 「わたしあるよ」 「嘘じゃなくて?」 「わたしは嘘をつくかな?」 「というか、誰も嘘なんかつかない」 「やろ?」
大切に大切に生きてるのに、嘘なんかついて誰かにサーヴィスしたって仕方ない。 それって、自殺と同じだ。 嘘をつくか、自殺するか。 どうする? そうかな? ねえ、そうかな?
「どう? オレはそのお化けと一緒かな?」 「全然違う」
伊豆がともの体に触れた。 そして唇を寄せようとしたので、ともは声に出して呼びかける。 「組沢」 伊豆が止まる。 そして辺りを見回す。 「組沢。いるの?」 「いないよ」 伊豆が無垢な瞳で、ともを見つめている。 騙されちゃいけない、と思う。 「ねえ、組沢。伊豆は、わたしのことが好きなんだよ。知ってた? だからね、伊豆を生き返らせても組沢のものにはならないの」 さらに無表情に覆われた伊豆の顔を、真っ正面からともは見ている。 「じゃあさ、田所がオレのものになるのかな」 「ならない」 伊豆の目に危険な光が過ぎったのを、ともは見た。 本当に命綱を付けてくれば良かった。
懐中電灯も持たずに来たのは失敗だった。 不気味な道だとは言え、あべと川元で手を繋ぎ合うわけにはいかない。 「ともちゃーん」「おーい」「二人が来たよー」という弱々しい声は闇に吸い込まれて消える。 こんな畦道に迷い込んで、ともちゃんが見つかるわけがないんだ。 おまけに月明かりだけじゃ、いつぬかるみに嵌りこんでもおかしくない。 四方八方から轟く蛙の低いうなり声は、どれくらい近いんだ? 「史上最高のスターティングオーダーを決めへん?」 と、あべが言う。 「臆病者」 「一番、センター片岡」 「そもそもさ、なんでオレ達はあてもなく歩き回ってるわけ?」 「二番、ピッチャー小泉」 「誰やねそれ。いくらなんでも」 「川もさ、よくそんなもんかけて夜道を歩けるよな」 「進化だよ」 「あ、あそこでちゃんとした道に出るわ」 「何してんの、オレら」 「かっこつけてんの」 「かっこええかな?」
藤ノ井がベッドの上で、昼間に書き写したノートの「家の絵」を見ている。 明るく丸く黄色い。明るく丸く黄色い月の上を、人工衛星か何か黒いものが横切っていく。 「人工衛星」 と、藤ノ井は口に出して言う。 「わたしは目がいい」 枕元の水を飲む。 ごくごくと喉を鳴らせて。 「組沢」
洞窟の中か、湖の底か。 物体の放つ微かな色の光を頼りに、確かなアスファルトの道を行く。 風のない夜の、安心感と非現実感の中を何かに引き寄せられるように彷徨う。 風の無い夜の、ウィンドサーファーが二人で湖面の上を歩き出す。 それぞれの頭の中には、それぞれの音楽が流れていたけれど、それも気が付けば止まっている。 時間を刻む足音は幾つだ。 こいつ誰だっけ? もし。もし。 ちっとぉお尋ねしますけんど、どこさ向かっとられるんでしょう? そこさ行ってもよかでしょおか。 いんえ、どこでもよかですから。 「おい、オレだ。しっかりしろ。訛ってんじゃねえ」 「訛ってなんかね」 「訛っとるやんけ」
バケツ一杯。炊事場でみんなの遅い夕食の食器を洗い終えたみずきは、今日は日焼け止め塗り忘れたっけ、と思いながら、鼻の頭がつっぱっているのを気にしている。 おばさんが近付いてきて声をかける。 「一人じゃ危ないわ。一緒に帰ろ」 「でも、着替えとか、旅館に取りに帰らないと」 「ともの借りりゃええ」 「はぁ」 ともちゃんのパジャマ、どうせスイカ柄みたいなやつなんだろうな・・・。
「あそこ、なんかある」 「なんだあれ。人?」 「違う。なんだ?」 あべと川元は立ち止まって前方の影を睨む。 「おまえさ、そんなんかけてるから見えへんねんて」 「あ、わかった。ピッチングマシーン」 「やめろや。こわすぎるやろ」 「違うわ。自転車や」 「なんでそれで見えるん?」
「もしも田所が一緒にいてくれるなら・・・」 「組沢! もう帰ろ!」 「田所はさ、なんだか違うんだよ。田所が何も言わずにいると、安心する。そんなの田所だけなんだ」 「違う。それはわたしじゃない」
組沢に最初に話しかけたのはわたしだ。 クラスに知り合いが一人もいなかったわたしは、同じように一人でいた組沢に目をつけた。 組沢は自分の席で弁当箱を片付けているところだった。 「いいよ」 と、あっけなく彼女は言った。 わたしは組沢に、町へ買い物に行こうと誘ったのだ。 組沢の方がずっと大人だったのか、それともやっぱり何も考えてないだけなのか、緊張していたわたしにはお構いなしで、まさに朗らかに「いいよ。嬉しい」と、組沢は言った。 電車の中で何を話していいのか分からなくて困っているわたしの手をふいに握って、何も言わずに離した。 そして、何も言わない。 やばい。変な子だ、と、わたしは思った。 それは、少し勘弁してくれって感じだったかもしれない。 でも、その後で彼女が言った言葉に、わたしはずきゅーんとやられてしまった。 「何も話すことがないね」 それはそれは楽しそうに。
ゆっくりゆっくり走る電車のすぐ脇に背の高い藪が迫って、景色がぼやけていていた。 下校する学生達を載せた小さなディーゼル電車。 連続する短いトンネルを抜ける内に、車内は静かで。 入り江に沿ってカーブを繰り返すから、太陽の場所が次々と変わる。吊革の影がくるくる回る。 組沢の目が影になったり、光を湛えたり。 「何も話すことがないね」 わたし達は何も話さない。 組沢の目が影になったり。光を湛えたりする。
「わたしの中のイメージでは、田所はね、バッタ」 「そう。バッタ。知っとる? ヨガで、こういうの。バッタのポーズ」 「あ」 「最初の体育の時、やってた」 「見られてんだ」 「わたし、バッタって好き」
「田所、好きよ」 「やめろ組沢。飲みすぎやわ。もう家には帰せないね」 「いいよ。うちに連れて帰るから」 「藤ノ井の家、オーケーな感じ?」 「オーケーじゃないけど、ダメでもない感じ」 「たぶん吐くで。この子」 「指突っ込んでよ。田所おおお」 「うりうり」 「そごわはなでずよ」 「鼻水出てんじゃん。組沢、風邪ひいてんの?」 「ひいてません」 「うわっ、こいつ自分の鼻水舐めやがった」 「ひひひ。ごめんなさい」
運動神経、抜群なんだよな、組沢って。 負けん気が無いだけで。 公園の鉄棒で、ぐるぐる逆回り。 「タイムスリップしちゃう!」 乗せて乗せてと、鉄棒に飛び乗るわたし達。
伊豆の力は強かった。 普通の男の子の力だ。とてもお化けだとは思えない。 手首を握られただけで、ともは動けなかった。 「一度死ぬと、はっきりわかることもある。もう一度やり直すとしても、やっぱり同じことをするんだ」 「みんな同じじゃない」 「同じだよ」 立ち上がって振り払おうとしても、手首は更に強く締め付けられるばかりで一向に逃れられない。 これは夢だろうか。 夢の身体のように力が入らない。 その時、橋の上で自転車のベルがちりんちりんと鳴った。 マヌケな音とともに現れた、見間違うことのない、まぬけなシルエットの二人組が、星空をバックに立っている。 「ともちゃんは、やっぱりマヌケなところがある」 と、川も。 「男の子となんて、話をする相手じゃないんだ」 と、あべさん。 「話し合いで決着がつかないからプロ野球があるんだ」 あべさんが自信満々で言う。 伊豆は手を離さない。 「プロ野球はもう何十年も悲しくも激しい戦いを繰り広げているけれど、まだ決着がつかない。ペナントを何枚も作り直し、ルールを細かく修正し、世代交代を繰り返し、それでもまだどこも負けを認めようとはしない。打たれても打たれても、諦めるわけにはいかない。降りるわけにはいかない。それがプロ野球なんだ。話し合いで決まった試合なんて、これまで一度だって無かった」 だからなんなんだってことを、あべさんは胸を張って言っている。 そんなあべさんを川もが遮り、「ともちゃん、帰ろう」と言った。 「余所モンの出る幕じゃない」 伊豆が眼鏡を外して地面に置き、土手を上る。 握られていた手首を離された瞬間、ともの体が自由になった。 「殴られる気のあるヤツはすぐに眼鏡を外す」 と、川もが土手を下りてくる。 「川も!」 ともが叫ぶけれど、あべさんは確信しているかのように笑っている。 「ともちゃん、助っ人外国人を侮っちゃいかんよ。三冠王も最多勝もいただきやわ」
その夜、組沢は姿を見せなかった。 どこかで全てを見ていたはずの組沢。 ともは橋の上から見回す。闇の中に潜む組沢の顔を見つけようとして目を凝らす。 組沢の地味で何かを考えている顔が、どこかにあるはずだった。 あるいは、彼女の使った魔法の痕跡か呪文の名残が。 川もが一方的に殴っては伊豆が倒れ、引きずり起こして蹴り飛ばす、背後から腕を回して絞め落としては、背後から背中を殴って蘇生させる、言葉のない暴力。 こんな残虐な川もを見るのは初めてだった。 どろどろになって泣きながら殴りかかってくる非力な見知らぬ男を殴るのは、川もにとって嫌なことに違いない。 「ともちゃん。やばいんじゃないかな。あの兄ちゃん死んじゃうよ」 「できればちゃんと殺しちゃって欲しいな」 そう言うわたしの顔に見入るあべさん。 「そりゃだめだ。ともちゃん。ボールデッドが本当の死に宣告されたのは最初の一回だけだった」 「それ、どこかで聞いたことある」 「止めよう」 あべとともは川もにしがみついて、その腕から伊豆を引き離した。 伊豆はその場にうつ伏せに倒れ込んで、背を震わせ激しく泣いた。 ともはもう一度辺りを見回す。 組沢の姿はない。 伊豆を仰向けに転がし、眼鏡を拾ってかけてやる。 いい男はボロボロでもいい男だ。 なあ、伊豆。やりたいことできた?
確か伊豆は人力飛行機のコンテストに出たかったんだよな。 もしも、わたしが伊豆と一緒にいたならば、彼はペダルを漕いで違う景色を見たかな。 伊豆が乗る飛行機の下を、ウィンドサーフィンが併走するようなことはあったのかな。 無かったと思うよ。 飛行機乗りなら、飛行機で迎えに来なきゃだめだよ。 そういうもんだよ。
川もとあべさんが交代で伊豆を担いで家に戻った。 ともは自転車に乗って、ふらふらと走っている。 「あべさんがキュウリで、川もが茄子やね」 「何?」 「牛」 「もう割り箸が折れそう」 「オレ、昔っからマネージャーって大好き」 「こんなにスカートの短いマネージャーいねえよ」
みずきはスノーマンのパジャマを着て起きて待っていた。 「誰それ?」 「仏さん」 川もとあべは着替えを取りに民宿に一度戻り、伊豆の服も持ってきた。 「仏さんに服を貸すことになるとは」 「仏さんを殴ることになるとは」 「仏さんじゃないでしょ。お化けやろ」 「お化けちゃうやん」 「何なの、こいつ」
組沢がとものことをじっと見ていた。 それは疑念に満ちた目で。 ともは、そうだよ、わたしは組沢に嘘をついていた、と言った。 組沢は何も言わなかった。 藤ノ井が組沢の背後から出てきて、そんなこと組沢が知らないとでも思ってたの? と言う。 知ってるかもしれない、と思ってたよ。 かもしれない? 笑わせないで。 かもしれない? 笑わせないでよ。 組沢が口を開く。 わたしは何も知らなかった。 伊豆が裸のともを後ろから羽交い締めにする。 一回死んで分かったこともある。 藤ノ井、あんただって、人のことをどうこう言えないでしょ? あんたは、みんなそういうものだって言って、都合のいい言い訳をしてくれる味方を探してるだけなんだよ! 田所と一緒にしないで。 わたしは違うでしょう! そういうことが言えるところが、田所の嫌なところだよ。 でもさ、これは、田所の夢やもん。田所の好きにすればいい。 そうだ。田所の好きにすればいい。 好きにすればいいんだ。
何か、ひどいことを叫んで、ともは目を覚ました。 朝だ。 ちょうど顔に陽の光が当たっていて目を射す。 汗がひどい。シーツが湿っている。 隣には綺麗に畳まれたみずきの布団。 時計はもう八時。完全な寝坊だ。 昨日も一日店を手伝わなかった上に、今日も遅刻。 いくら何でもまずい。 急いで着替えようとして気付いた。 右の手首がひどく痛い。 昨日、伊豆に強く握られたところが青く痣になっている。
台所には化粧中のみずきが残っていた。 化粧と言っても日焼け止めだけ。 椅子に三角座りで小さな鏡を覗き込んでいる。 「あ、起きた。おはよう」 「ごめん。おはよう」 「もうみんな行ったよ」 「ね」 冷蔵庫には冷えた緑茶。 「怒ってた?」 「たぶんぶん殴られるよ」 「やだな」 「うそうそ。珍しく心配してた。まず謝った方がいいと思う」 「はい」 テーブルには、ともの分の朝食が残されている。 冷えた目玉焼きと、かまぼこと、キュウリの胡麻和え。 御飯をよそって、ともは椅子に座った。 醤油。 「古い家やろ?」 「はっきり言ってボロいね。水洗じゃないんだ」 「きついよね」 「わたしは大丈夫。旅人だから」 「そう? わたしは無理」
今日も全国的に晴れマークだって。 午後はにわか雨。 熱中症には十分な注意を。 次は商店街が企画したお年寄りの街コンの話題です。 「伊豆はまだ寝てる?」 「起きたらもういなかったって。あべさんが言ってた」 「だって、足は折れてるからしばらく歩けないって、川もが言ってた・・・」 「そういうのは通用しないんじゃない?」
藤ノ井の家に電話してみる。 もう家を出たって。
「なんか嫌な感じだよね」 「ごめんね」 「ともちゃんが悪いんじゃないんでしょ?」 「たぶんわたしが悪いんだわ」 「わかんない悪さなんて感じる必要ない」 「そうかな?」 「ともちゃんなら!」 「ありがと。店行くけど、一緒に出る?」 「じゃ、わたし洗い物するよ」
電線にぶつかりながら飛ぶ、目の回った蝉が低い軒の向こうへ消える。 夏は、ひどい熱と激しい雨にやられて傷だらけ。 「ともちゃん、夏って好き?」 「きらい」 「わたしも」 「じゃあなんで来んのさ」 「だってここじゃないと、笑いながら嫌えないでしょ。ここなら嫌いなやつとでも笑って寝れる」 「そうなの?」 「たぶん」
「でもさ、夏って、やっぱり」 「なに」 「祈るような気持ちにもなるよね」 「燃える火の前で」 「そう。揺れる空の下で」 「わお」
スピーカーからは一昔前のヒット曲が途切れることなく流れている。 どっかのだれかがだれかとだれかとだれかと歌ってだれかの記憶に残ったやつだ。 「そうだよ。あのお化けヤロー、オレの服を着たままいなくなりやがった!」 「ユニフォーム交換みたいなもんやな?」 「殴り合ったオマエが交換すればええやん」 「あれ着たまま白骨死体でも出てきたらさ、あべが死んだことになるよな」 「いるし。オレ、ここにいるし!」 「オマエがお化けなんちゃうん?」 「でた! お化けの価値が落ちてる」
赤電話、鳴らない。 色褪せたモスグリーンのソファで、スイカのエプロンがうつらうつら。 あんなに寝たのに、悪い夢は、長い本のように疲れる。
「あの伊豆とかいう男はまた現れる。絶対」 そうかもしれない。でもあべさんの予言はほとんど外れる。 「阪神、たぶん来年も優勝やで。まじで」 今年も優勝していないというのに。
次の日もあべさんは言う。 「今日こそあいつは現れる」 また、次の日も。 また、次の日も。 「オレならそろそろ現れる」 あべさんは言う。 「今日こそ久慈がサイクルヒット」
・・・そうは言っても、すべては絵日記にしてしまえば誰もがクレバスの濃い色で輪郭を縁取られた真っ赤な唇の天使。はじける若さで反復横跳びの優柔不断で中出し3回までならオーケーオーケー。なあ、オレの薄いから中で出してええやろ? それっておしっこじゃないの? え? おしっこだったら出してもいいわよ、私、そういうの初めて。うーん・・・・・・・・・・・・出そうで出ない。がんばって! 昔の人は大事なことを言うたもんや。戸締まり用心、火の用心。猿も言うてた。ちょっと昔の人もええことを言う。レッツ飲みにケーション。そして昨日今日の人は言う。優しい社会を。なんやねん。日本映画はレッツ飲みにケーションな映画を撮り逃し、その代わり、斉藤由貴が主演で海辺の夕暮れ列車に乗るようないい風景をたくさん撮ったけれど、その先にあったのは冒険とは名ばかりの暗い暗い夢も希望もない啓蒙的な子供向けアニメ大作。たかじんの私生活を誰か映画にすればええねん。軽妙とは名ばかりのガキどもに、たかじんの二重跳びの格好良さを見せたれ。タクシーの後部座席で摩天楼を無視して、財布の銀子で男と女を謳歌すればいい・・・・・・・・・・・・いい・・・いい・・・いい・・・・・・ 「私、男の子のマンガって何が言いたいんか分からんわ。なんでこういう店ってギャル向けの雑誌とか置いてないん? なあ、ともちゃんもこういうの読んでるわけ?」 「エロマンガだけな」 「ええなー」 「何が?」
砂と汗の物語はいつも、どこかですれ違う似たもの同士。 あの子の乗った自転車は、あの子の生乾きの水着の傍らを駆け抜け。 あの子のグラスが下げられる後ろの席で、あの子の描いたマンガが開かれ。 あの子の言葉を、あの子も言って、あの子の指差した流れ星は、あの子が見逃した流れ星。 吹き上げる花火の色を、対岸で見ているあの子。 泣いてるあの子と、笑いが止まらないあの子。 それらはみんな、今年のあの子と、去年のあの子。 去年のわたしが、あそこにいてるあの子と。 来年のわたしが、あそこにいてるあの子。 そういう物語。
入り江を見下ろす小さなホーム。 もっと小さな待合いの壁には剥げかけた海の絵。 に、蝉かと思う。 でも、それも誰かの絵。 ぼくの人生で、一生分の蝉の声を下さい。
青を行く白の速度に似た時間の中、伏せた文庫本の中、停止する人々。 が考えていること。 が願っていること。 それを話すことなんて、いつまで経ってもぼくにはできない。 だから、砂の上で、タノシイだとか、オイシイだとか、キモチイだとか、シアワセだとか、ナニカみたいだとか。 そんなものが代わりになんて、ならないことを知りながら、さ。 が考えていること。 が怖がっていること。 がしたいと思っていること。 が出来ないと思っていること。 それを描くことなんて、いつまで経ってもぼくにはできない。 だから、だから砂の上で、停まったフリをしながら、聴こえないフリをしながら、君を見ないフリをしながら。 が願っていること。 が大切に隠していること。 それを話すことなんて、夏を描くことなんて。
空の向こうでは今も戦火があって。 祈りも、呪いも、沈黙も、大人も、子供も、同時に吹き飛ぶ。 チャンネルを回せば争いなんてどこにもなくて。 大切なそれぞれの日常があって、大切な行列のできるラーメン屋のレポートがある。 それは矛盾ですか? 同じ一冊の本の中に、同じページに、それらは書かれるはずのことじゃない? さて、続きまして、ではなく。 どちらかではなく。 どちらかではなく。
きっとギターが一本あったとしても。 きっと十二色のクレパスがあったとしても。 きっとネットワークに接続していたとしても。 きっとどこまでも走る車があったとしても。 きっとお金があったとしても。 きっと時間があったとしても。
きみのチョキにパーしたい。 あーあ。 言っちゃった。 何を? わけのわからないことを。
昼のかき入れ時も一段落して、ともちゃんはエプロンを外しみずきの横に座る。 汗と、潮と、日焼け止めの混じったいい匂いがする。 「だってさ、私この夏なんもなしやで。皮肉なもんじゃない? こんなにサービスしてんのに」 「そりゃあの二人がべったりくっついてんねんもん、誰も寄りつく筈がないやん」 「年々モテんくなっていく。昔は良かったなぁ」 「モテたん?」 「ちゅうか、いい男がいっぱいいた気がする」 「気のせいやけどな」 「うん。気のせいやったけどさ。でも今よりは良いかも」 ともちゃんのおかあさんが水が入って汗をかいたグラスを持って二人の所にやって来る。 「男の子らは?」 「水に入ってる」 「みずきちゃんは行かんの?」 「これ以上焼けたらリベラやって言われた」 「リベラ?」 「阪神の選手やって」 そう言ってみずきは不格好なスイングをして見せる。 「あべくんか? あの子もほんまにおかしな子やなあ」 「リベラはピッチャーやぞ」 厨房からおとうさんが怒鳴る。 「何を盗み聞きしてんの! さっさとどっか遊びに行きいや。ええ男が家に閉じこもってるんちゃうで」 言われておとうさんは「へいへいへい」と言い残し、どこかへ行ってしまった。
「あーあ、おかあさんのしょうもない話に付き合うてられんわ。私、ちょっと出掛けるから」 「ちょっと。夕方には帰ってきてよ」 「わかってるって」 「みずきちゃんは人質やからな」 「走れメロスか。ごめんな、みずき」 「ごめんてどういう意味?」 ともちゃんは思わせぶりにニヤリと笑い、さっさと行ってしまった。 わたしにはできない表情。 わたしは腐ってもアイドルで、やっぱりアイドルで、なんだか不安。 「不安、それにしても気持ちいい。もう汗でべたべたやわ」 背伸びをしたみずきは、メロスって結局間に合ったっけ? と思った。
八月最後の土曜日、湖の沖に重苦しい雲が停滞して今年一番の波が寄せていた。 川元は自慢の真っ青な帆を立てて波を切るように進んでいた。 そこにあべが自分の板を寄せて「えらい不機嫌な乗り方やんか」と声をかけた。 「毎年思うけどさ、オレは海とか夏とか向いてないんやと思うわ」 「今さら何や。どの腹さげて言うとんねん」 川元の太々しい腹がウェットスーツに包まれて黒光りする。 「えーんえん。季節の流れに身を任せることなんか出来へん」 「めちゃめちゃ好きってことやん。汗だくで」 「アホ、チューブみたいに言うな」 「古い古い。今は『ミートザワールドビートみたいに言うな!』やろ」 「葉山フォークジャンボリーみたいに言って!」 加山雄三と石原裕次郎と嘉門雄三とジョン万次郎とキン肉万太郎のそっくりさんを乗せたクルーザーが沖合を右から左へと行き、その不規則な波が二人の板を揺らす。 それに耐えるのが鬱陶しい二人は力を抜いてマストを倒し、どぼんと水に入った。 生ぬるい。 「あーあ、もうすぐ野球も終わってまうよなあ。これから契約更改まで何に文句言うて生きればええねん」 「おまえ筋金入りやな」 「なあ、おしっこしていい?」 「もう出てるんやろ」 「さすが」
浜がぐらぐらと揺れて見える。 まだまだ暑く、人もたくさんいるというのにどこか淋しげに見えるのはやはり気持ちの問題なのだろうけれど、この浜にいる人々の大半がそういう気持ちでいたりするものだから余計に淋しく見えるのです。 さよなら、とか言いたくなってしまう。 「川もさ、どうやった、この夏は」 「ええ方やったんちゃうかな。なんとか金ももったし、天気も良かったし」 「そろそろそのサングラスともおさらばやな」 「変なこともあったけど」 「毎年のことやん」 「そやっけ?」 「そやろ?」 川元は上半身を板の上にだらしなく乗せて目をつむっている。たぶん、つむっている。 あべは立ち泳ぎをしながら、こんな日々が、こんな空の色が今に遙か背後に去って、自分の気持ちも変わってしまい、言葉を失い、身動きもとれなくなってウィンドサーフィンの道具がホコリを被る日が来ることを予感している。 そうなってしまったことに気付いた時、初めて自分から川元に連絡しようとするだろう。 初めて電話で話す自分と川元は少しよそよそしく、矢継ぎばやに冗談を言って、冗談が尽きた時、泣いて訴えるのかもしれない。 オレはあの頃に本当に戻りたい。 笑いたければ笑えばいい。 でも川元は笑わない。 そんなこと、きっと出来ないんだろうな。 空想をしてあべは全身が冷え切ってきていることに気付いた。 深い青の湖。
「川元、寝んなよ。ほんまに死ぬで」 「寝るかよ」 「オマエもそろそろ上がらん? オレ、めちゃくちゃ寒なってきてんけど。水温下がってきてないか」 「そっか? オレはもうちょい乗っていくわ。たぶん今年はほんまに今日で最後になりそうやからさ」 「ふうん。オレはあと二三日おるわ」 「また来年やな。あーあ、おもんなくなるわ」 「って、ほんまに寒い。じゃあな、先行くぞ」 言い残して、あべは先に浜に向かって漕ぎ始めた。 川元はそのまま板に耳を付けて波の音を聴いていた。
夏休みの終わりに何をすれば? それは高校時代の川元、だからもう十年以上も前の川元が付けていた日記のラストページに記された文句だ。 そうして考えて、ボールペンを握る内に日が暮れた。 なぜか焦った。 どこにも向けようのない憎しみのような黒々とした感情が高まり、どうしようもなくなった川元はツレの家に電話をかけレイトショーを観に誘った。 何を見たのかは忘れた。 覚えているのは、そのツレが感動して泣いていたことだけだ。 その後、入ったこともない大人びた喫茶店で何か長い名前のコーヒーを飲み、そのツレは将来は外国に住みたいのだと夢を語った。 川元も夢を語ったりした気がする。 でも忘れた。 その日の会話はその日の日記に克明に記録されている。 けれど日記のどこにあるのか分からない。 いつか血迷って、どこかに寄付でもしてしまったような気もする。 湖はその昔、神器であった。 湖とは空を映す鏡であり、空そのものであり、宙に浮き、飛ぶのだった。 湖が飛ばなくなって久しい昨今、そのことは当時の日記からしか知れない。 川元の夢は何だったのだろう。 川元は考えた。 今の川元の夢が何なのかも分からないまま。
「さぶい! さ、ぶ、す、ぎ、る! オレ着替えに旅館戻るわ」 と、震えながら、あべが言う。 「あ、じゃあ、私も帰る」 と、みずき。
「藤ノ井!」 ちょうど改札を出てくるところに間に合った。 大きな鞄を提げて出てくる藤ノ井。 色が白くて。 都会の人みたいだよ。と、ともは思う。 笑顔が最高にかわいいな。 「すまん。待たせた」 「待ってない。たまたま」 「ただいま」 「おかえり」
防波堤の上を吹き抜ける風が夏の終わりの気配を孕んでいること、みんなが気付いている。 藤ノ井の大きな鞄に、小さな蜘蛛が登って遊んでいる。 「お盆なんてとっくに過ぎとるよ」 「あっちでも色々あんのさ。誰かが死んだとか、誰かが生まれたとか」 「こっちはそういうのあんまり無いから」 藤ノ井はサンダルを脱いで、防波堤の下に落とす。ひゅーん。ぱたっ。 そして、「そっかー。伊豆に会ったのかー」と大きく伸びをした。 「そっちには行ってない?」 「伊豆が? 来ない来ない。来るわけないじゃん。やっぱあいつは田所なんだって」 「そうなんかな?」 「そうだよ」 「そうかな。全然説得力がない」 「あいつのダメなところやな。でもいいんじゃない? そんなダサいエプロンしてる女の子のことを好きになる。エプロンの中身が好きになる。それってほんとに羨ましいな」 「何が?」 「ん?」 「何が羨ましい?」 「エプロンが」
「都会には何でもあります」 そう言って藤ノ井が取り出したのは、ともが見たことのない本だった。 いや。違う。知ってる。 あの魔法の本の、綺麗なやつだ。 破れたり汚れたりしていない、まっさらな本があった。 ともはそれをぱらぱらとめくってみる。 色褪せていない、指を切りそうな紙。まったく別の本にしか見えない。 あるページにしおりが挟まっている。 しおりじゃない。 あの時、お墓で藤ノ井が写し取った、石のモザイクでできた「家の絵」の切れ端。 そしてそのページには、同じ絵のイラストが描かれていた。 「色々よく分からないこと書いてあんだけどね、結局、死んだ人が生き返るんやって。術者、魔法を使う人ね、その人の心臓っていうか体を使って」 藤ノ井は苦い顔をしている。 何も言わないともをちらりと見て、 「そう書いてあるんだよ。でも」 「でも?」 「そこらへんで試してみるわけにはいかへんやん」
今年は駐車場番、手塚と大江なんだ。 そうそう。あの二人デキてるよ。みんな見たって言ってる。 そうなの? なんだか目も合わせてない感じだけど。 ケンカでもしたんじゃない? はやく仲直りすればいいのにね。 ねえ。 大江は意地っぱりだから。 泣けばいいのに。 あの大江が泣くの、見てみたいな。もらい泣きしちゃいそう。
あの船ってさ、ずーっとあそこにいてない? いつから? わかんない。 何してんんだろうね。 こっちを見てんじゃない? なんで? 趣味なんじゃないの? 趣味か。じゃあ仕方ないわ。 でもさ、いい趣味かもしれない。
出かける前にユーカリの木に水をあげてちょうだい。 忘れちゃだめよ。 またこないだみたいに枯れかけちゃうよ。 今日は夕立が来るから大丈夫だよ。 だめよ。それでもたっぷりあげないと。 根元の土だけじゃなくて、頭からいっぱいかけてあげるのよ。 時間がないんだけど。 いいから、ちゃんと水をあげて行きなさいよ。 蛇口もきっちり絞めていくのよ。 わかってるって。
打ち上げられた片方のスニーカーは、まだ全然新しい。 誰かがどこかで泣いたんだろう。 思いやりというのは、お互いが感じ合えたら、一番いい。 残された片方を放り出してさんざん泣いた彼に、泣きやんだ彼に、もう一度新しいスニーカーを。 残された片方の一足は、大人になるまで大切に。
おまえさ、これ、ほんとに消えんだろうな? 大丈夫よ。それ用のやつだから。 なんでこんなことすんの? いいでしょ? どきどきしてこない? おまえの顔もかなりひどいぜ、ピエロどころじゃないよ。 そう? こわいくらいだよ。子供だったら絶対泣くな。 美人だから似合うのよ。ブスだったら、笑っちゃうだけだもん。 美人だとかそういう次元じゃなくなってるぜ。もう誰だかわかんねえ。 うそ。こんなことしてくれるの、わたしぐらいよ。それとも無理? 大丈夫だけどさ。 夏って、こういうことでしょ? さすがのわたしも夏しか、こんなことしたくない。
「あの家のモチーフにさ、オシッコをかけるんだって」 「誰が?」 「組沢が」 「どうやって?」 「そりゃ、ふつうにやろ。なんか、わたし笑っちゃった」 そう言う藤ノ井は全然笑っていない。 「懐かしくてさ。中学のときまで、わたし達一緒にトイレに行って、一緒の個室に入って、交代でやってたんよ。思い出した」 「そういうのって、藤ノ井のとこでは普通やった?」 「どうかな?」 とももサンダルを防波堤から落とした。ひゅーん。ぱたっ。 「もうやめよって言ったの、組沢やってんで。恥ずかしいからって。わたしは恥ずかかったからしてたのに。組沢はそうじゃなかったみたい」 藤ノ井は「どうしようもないのかもしれんね」と言う。 「組沢、昔から真面目やから」 「家出なんだって」 「捜索願とかは?」 「取り下げたって」 「なんで?」 「連絡がとれたからって。電話があったって」 「そんなんでいいんや。電話か。でもそれってさ、組沢は帰るつもりがあるってことかな」 「そうかな?」 「うん。近い内に」
「この魔法はさ、ずっと続くわけじゃないのよ」 「どういうこと?」 「しばらくすると死者はやっぱり死ぬんやって」 「いつ?」 「わかんない」 「で、組沢はどうなんの?」 「書いてない」
「で、わたしに試してみたいことがあんねん」
わたしたちはまた伊豆の墓に登った。 勾配を登ってきたのと草いきれで蒸し暑く、額には汗が噴き出た。 お盆に家族が来たのだろう。 大きな花が供えられていたが、それも乾ききって変色している。 「このお墓にはさ、伊豆だけじゃなくて、ご先祖さまとかも入ってるんよな。やのに、組沢が蘇らせたのは伊豆だけなんだ」 「そうなんちゃう? 組沢の呼びかけに応えるのなんて伊豆だけやろ」 「そういうもんか」 「わたしたち、何を言ってるんやろ」 わたしたちは、伊豆のご先祖様に線香を立て、手を合わせて、お願い事をする。 あなたたちの子孫の伊豆が、いいやつでいられるように、組沢を無事に返してください。
「じゃ、そういうことで。なにかあったら頼んだで、田所」 「大丈夫?」 「大丈夫。わたし、恥ずかしいのはいける方やから」 そう言って、藤ノ井は「家の絵」の上にまたがると、しゃーっとおしっこをした。 黄色っぽい。 わたしの方が恥ずかしくなる、と、ともは思った。 「さあ、どうなるんだろ」 パンツを上げながら、藤ノ井は言った。 藤ノ井、拭いたりしないの?
やっぱり命綱を結んでくれば良かったな、と、ともは思った。 組沢だけじゃなくて、藤ノ井まで伊豆に乗っ取られてしまったら。 でも、それって何なんだろう。 川もはボードの上で鼾をかいて眠っていた。 あべさんとみずきは「寒い寒い」と言いながら路地の中を早足で民宿に向かっていた。
どれくらい待っただろう。 そんなに長い時間じゃなかった。 緊張感のない太陽はじっと同じ場所にあって、線香にも煙が残っていた。 伊豆が、とも達が登ってきたのと同じ道から現れた時、前よりもずっと疲れ果てているように見えた。 年をとったのかもしれない。 「田所かと思ったら、なんだ藤ノ井もおるんかよ」 と、伊豆は言った。 「おまえ、婚約者とかいるんじゃなかったっけ? いいのか? こんなことしてて」 「あの人はあんたみたいに嫉妬深い人間じゃないから」 「はっ。おんなじようなもんだよ」 嘲笑うような笑みを浮かべた伊豆は、ともの方を見て、 「もう田所のことはいいよ。ああいうわけのわからん連中が、いつだって田所の回りにはいるんだろ。ああいう天使みたいなやつらが」 と言った。 天使? 川もや、あべさんのことを言ってる? お化けの使う言葉は、やっぱりよく分からない。 「それで組沢のことを連れて消え去ろうっていうんなら、伊豆はあの時と同じことをしようとしてる」 ともの声はちょっと震えてたかもしれない。 「そうだよ。言ったやろ? 死んでみてわかることもある。同じようなことをするだけ」 「でも、そうもいかない。その魔法はもうすぐ切れる」 と、藤ノ井が割り込む。 「知ってるよ」 「じゃあ、組沢を返して」 「それは組沢が決めることやろ」 「言うと思った」 そう言って藤ノ井は伊豆の唇を強引に奪った。 伊豆が力づくで藤ノ井を引き離す。 「伊豆さ、わたしは知ってるよ。組沢は指一本触らせてくれないだろ。そして、伊豆も無理に何もできない」 藤ノ井を睨んでいる伊豆の顔が、次第に組沢に見えてくる。 「組沢。組沢にとって一番いいのは、組沢が体を許すことのできない伊豆みたいな男じゃなくて、組沢の体にさわれるようなやつなんだよ」 「そんなのいないじゃん」 と組沢が言った。 「いるんだよ」 「いない」 「伊豆みたいな信じられないヤツじゃなくて、なんでも許せるやつがいるんだよ」 「藤ノ井はいいよ」 と、組沢が言うと、続けて伊豆の声が言う。 「こいつだって良くなんかない。嘘まみれで、隠し事だらけで、孤独で、不安だらけだ。藤ノ井は、オレと同じような人間だよ」 「黙ってろ、伊豆!」 と、藤ノ井が怒鳴った。 「だからわたしがおまえと一緒に行ってやろうって言うんじゃねえか!」 山側からせり出してきた黒い雲からぽつぽつと雨粒が落ち始めた。
あべとみずきが民宿に着く少し手前で雨が降り出した。 水着だから濡れるのは全然平気だったが、なにせ今日は寒くて、雨が体を冷やすような気がした二人は最後は走って民宿に戻った。 ボロ旅館の主人は黄色っぽい飯を出す最低のサービスの持ち主だったが親切な人で、濡れた二人を玄関で迎えて「えらい早いな、風呂沸かそか」と言ってくれたが遠慮した。 もう川元が帰るということは、恒例の花火大会をするということで、どうせその時に湖に入るから風呂はそれからにしようと二人は考えたのだ。 「さぶいさぶい。絶対風邪ひく」 部屋に入ったあべは開けっ放しになっていた部屋の窓を閉め、吹き込んだ雨に濡れた畳をタオルで拭いた。 ベランダから洗濯物を入れてきたみずきが、 「どうにか雨には当たってないわ」 と、洗濯物の山を部屋の隅にどさっと置いた。 「川も、帰るって」 「そうなん? あべさんは?」 「あと二三日」 「そっか、いよいよやなあ」 「せやで。いよいよやで。みずき、今日からこの部屋で二人きりやん。いい予感がするなあ」 「あべさんの予感は外れるから」 「大体ええ方に外れるけどな」 「わけらからんわ」 みずきはいつも通り「後ろ向いといてな」と言って着替え始める。 あべも川元も、素直に後ろを向いてみずきが着替え終えるのを待つ。ハートカクテルな二人はそういうのが大好きなのだ。 そういう時のみずきがどういう風にして着替えているのか二人は知らない。 一応バスタオルを巻いたりして着替えているのか、それとも思い切って素っ裸になっているのか。 それは最初にここに三人で泊まった日から続く習慣だけれど、慣れたり飽きたりすることはなかった。 あべも川元も可愛い程度に勃起して、でもそれはみずきに冗談でも黙っている。 普段下品なことばかり言ってセクハラ気味のあべも、この着替えの時間の話題には触れたことがない。 本当に好きすぎて茶化せないのだと思う。 いつもみずきが着替え終わってから男二人は着替えるのだけれど、その時みずきは大人しく後ろを向いて待っている。 男は互いの勃起したものをそれとなく隠して着替える。 そうやって川元と二人でみずきの着替え待ちをするのは互いに見張り合っているような所があるから良かった。 これがみずきと一対一になると緊張は比べものにならないくらい膨れあがる。 こっそり見てもいいんじゃないか。 ぼんさんが屁をこいたとか言ってふざけても良いんじゃないか。 川元も実はちらっと見てるんじゃないか。 見てしまったら二度とこういうことがなくなるんじゃないか。 でも一度だけそういうハプニングを起こすんがいいんじゃないか。 一度だけなら。 色んなことを考えるし、いつもより固く勃起してる気がする。 でもあべはじっと我慢して耐えしのぐ。臆病なだけだと、いつも少し情けない気持ちにはなるけれど、その通りなのだから。 「なあ、あべさん」 緊張していたあべは、あべさんの発音がおかしいことも指摘できないし、咄嗟に返事もできなかった。 「たぶん、言うてる内にわたしなんかは結婚とかすると思うねんな。たぶんともちゃんよりも早いと思うねん」 「何やねん」 「ちょっと聞いて。分かるやろ?」 ん? 告白? とあべは一瞬思って黙った。 全く慣れていないのだ。 「で、わたしとあべさんは親友やんか。黙って聞いてな。ともちゃんや川もも親友。一夏も毎日ずっと一緒におったらさ、親友になるよ。そうじゃない? それでも親友って何か分からんとか言う人はアホやろ? あべさんはそういうの分かるやろ?」 「それは分かるよ。2番赤星と3番金本の信頼関……」 「黙って」 冗談も冴えなくなっていた。 「で、ともちゃんと川もはアレやん。出来てるっていうか、結ばれてるやん。だからってわたしがあべさんに恋愛感情を持ち始めて、とかじゃないねん。わたしはたぶん恋人を作って、結婚もして、こうやって会いにくくなっていって、たぶんあべさんにしてもそうで、お互い忙しくなっていってってなるやん、きっと。その時に、この人は特別な人って胸の中に絶対に浮かんでしまう存在に、言うなれば支えって、わかる? だからさ……」 「いいね、みずき。それはいいと思う」 そう言って、あべは振り向いた。 「ちょっと、勘違いせんといて。誰もやろうとは言ってへんねん。私、あべさんとやる気なんかないし」 言いながらも、みずきは何も着ていない。 「私が言いたいんはな、私のを見せるから、そんであべさんのも見せてってことだけ。いや? そういうの。そうしたらもう絶対に忘れられへんと思うねん。私もあべさんもそういう人やと思うねん。違う?」 あべは湿った水着を脱ぎながら、 「みずき、えらいな。絶対そうやと思う。でもそれはなかなか言えない。そして、それを川もにもともちゃんにも言わない時、オレらは絶対に忘れられへん親友であり続けると思う。どんなことが起きても。どんなことが起きても」 雨は単調に降り続いていた。 二人は畳の上に座り込んで、お互いの裸を触らずに見せ合った。 お互いに抱き合いたくなっていたのは事実だ。 でも指一本触れず、腰を浮かせたり曲げたりしながら、陰毛の絡まった様子までそれぞれの目に焼き付ける程、見たし、見せた。 それはきっと二人の人生を大きく左右する出来事となる。 寒さなど忘れていた。風邪なんてひきそうになかった。
藤ノ井! と、ともは叫んだ。 スコールのような激しい雨音に吸い込まれ、その声は届かない。 藤ノ井が、伊豆に抱きついた。 激しい雨煙の中、気が付くと、そこには伊豆と藤ノ井と組沢が立っていた。 藤ノ井と組沢は、あらぬ方向を向いている。 伊豆だけが、とものことを真っ直ぐに見ていた。 ともはまた体が動かないことに気付く。 伊豆が近づいてきて、 「藤ノ井も一緒に行ってくれるんだって。田所、どうする?」 と、気味悪く笑う。 「オレはやっぱり田所がいいな」 もう伊豆でもないみたいな気がしてくる。 ともは、怖くてかぶりを振る。 「今日はあの天使達も来れないみたいじゃん」 海は灰色に沈んでいる。 「行こうよ」 そう言って伊豆がともの手に触れようとした瞬間だった。 「どこのだれが大事な奥さんを行かせるかって言うんだよ」 伊豆は首元を掴んで引き倒され、派手に伊豆家の墓石を横倒しにした。 起きあがった伊豆の額から血が流れている。 起きあがった顔を、まるでサッカーボールでも蹴るみたいに強いキックが見舞う。 川もかと思った。 でも、伊豆の前に立っているのは、知らない男の人だった。 川もみたいに太ってもいない。すらっと背の高い、たぶん年上の人。 彼は、川もよりも更に残忍に、伊豆のことを殴り飛ばし、地面に叩きつけていた。 伊豆には抵抗する力などどこにもなかった。 死んでいるって、こういうことなんだと、ともは思った。 やがて、辺りの土が血と雨でどろどろになり、その中で見る影もない伊豆のことを持ち上げた男の人が、「何か言うことある?」と、伊豆に尋ねた。伊豆は喉の奥から血を何度も吐き、それからとても聞き取りにくい声で「田所のいない人生なんて」と言った。 「それはえらいと思うけどさ」 と、男の人は優しげに言った。 「やり方が全然違ったんじゃない? ほとんどのやつらと同じように」 「あんた誰?」 と伊豆が言う。 「魔法使いというか、魔法使いの使い魔かな」 そう言ったときの、彼の楽しそうな表情でともは思い出した。 あっ、藤ノ井の彼氏だ。 さっきまで組沢の横に立っていたはずの藤ノ井の体がない。 魔法、使ったんだ。 「田所さん、こいつに何か言いたいことある?」 彼に促され、ともははっきり言う。 「いいやつになんか、勝手に一人でなったらいい」 「ですって。わかってんのかな、こいつ。ま、いいや。じゃ、組沢さんも戻ったし、あとはみんなで時間をかけて解決してね。オレはここまで」 言って、伊豆を「家の絵」に押し込んでいく。 「それと、オレはね、たぶん君なんかより嫉妬深いよ」 そう言って、藤ノ井の彼氏は「家の絵」を潰した。
虹なんかが似合うような、そんな絵になるような村じゃない。 でも、虹が出たら、湖の家で雨宿りしていた人達は顔を上げて、みんな最高だ。
ともはモスグリーンのソファに腰掛けている。 髪も服も濡れていない。 お父さんが、手が離せないから電話に出ろと、厨房から大声で言っている。 いつもの夕食時の風景。 赤電話の受話器を取る。 「田所、宿題がやばいから写させろ。それで色々チャラにしてやる」 わたしも全然やってねえーよ。組沢。
分かりきっていたことではあるけれど、雨は日が沈みかける頃にはからりと上がった。 夕焼けが滲む。 仲良くなった二人はすっかり服を着て呆然とした心持ちで川元が戻るのを部屋で待っていた。 雨も上がったし、そろそろ帰ってくるだろうと考えていた。 でも待てども待てども戻らない。 ナイター中継が始まり、やがて日がすっかり暮れ、試合が4回裏阪神の攻撃を終える頃、 「絶対になんかあったわ」 と、みずきが立ち上がった。 確かに今日本当に帰るつもりだったのなら、とっくに荷造りをしていないと終電にも乗れない。 でも、あのベテランサーファーが事故に遭う筈がない。 しかもここは荒れた海ではなく、穏やかな湖だ。 でも、別れた時のまま川元がボードの上で眠ってしまっていたら。 この辺りの水面が沖へと引き寄せられていくことは常識だ。川元が知らない筈がない。 あべとみずきは浜へ走った。 防波堤を越える。 もう誰もいない浜。 ともちゃんの店にだけ灯りがある。 二人は防波堤から駆け下りると、雨にぐっしょり湿った重い浜を駆け抜けて、店に飛び込んだ。 見回す。今日も結構客が入っていつも通りの賑やかな週末。その中に、川元の姿は・・・・・・ない。 あべはすぐにともちゃんを捕まえ「川もは?」と訊く。 「川も? 私とちゃうで」 「頼むわ。今だけはホンマのことを言うてくれ」 「ほんまに知らん。今日帰るって言うてたから帰ったんちゃうん?」 「ともちゃんに何も言わんと帰るわけないやん。旅館に荷物はあんねん」 「浜見てくる」 みずきもあべも考えていた。 最悪のことはいつもこういう時に起きる。 ああいうことをしている時に裏ではこういうことを起きてしまう。 だからどうしろっちゅうねん。 あべは苛立っていた。 三人は手分けして黒い波打ち際を歩く。 川元の青いマストは見当たらない。波は白々しく穏やかに寄せている。細かな泡をたてる小さな波。 浜の一番右を探すともちゃんに近づくと、ともちゃんは「お願い」と呟いていて、あべは胸が高鳴って苦しかった。 その時、遠くから「あべさーん」と呼ぶみずきの声がした。 あべが全力で駆け寄ると、みずきの手には阪神のチーフトレーナーがかけているような黒いサングラスがあった。 「ここに打ち上げられてた」 あとから追いついてきたともちゃんが「どう? 川もの?」とあべの顔を覗き込む。 「川ものや。間違いない」 と言ったあべの頭に、こつんと落ちてくる、もう一つのサングラス。 「アホか。そんなんちゃうわ」 そこには浅瀬で笑う川元がいた。 あべもともちゃんもみずきも、三人ともそれが幽霊だと思った。
「『川ものや。間違いない』アホちゃうか」 「おまえ、はよ帰れや」 「ほんまや、帰りよ」 「冷たいのぉ。オレは死にかけてんで。何か言葉はないん? ボードは流されてまうし」 「明日、どっかに上がってるわ」 「最低やで。この浜で遭難しかけた人なんか初めて見たわ」 ともちゃんの店の厨房に椅子を並べて四人は話している。 テレビはいつも阪神戦。 今夜ばかりはあべも見ていない。ともちゃんのお父さんだけが料理をしながらチラチラ見ている。 もうゲームも終盤。 「ほんま帰れ。一年かけて自分の悪さを噛みしめてこい」 「ごめんって。ほんま三人の顔が浮かんだで。ほんまに」 「嘘つけ、どうせオマエはともちゃんだけや」 「ちょっと、もういいやろ? 川も、ほんまに良かったな」 涙ぐんでいるみずきに、川元が真顔になる。 「神様っておるな。なんか泳いでも泳いでも沖に引っ張られるし、もうあかんって思うたびに、体がふっと軽くなんねん。また、あかんって思っても、ふっと軽くなんねん」 「神様?」 「湖の神様よな、それは。ええなー、川も神様に守られてて」 「あーあ、なんか全部オマエに持っていかれた感じや」 「命がけやで。ハートカクテルの域を出てもおたわ。しかし、あべは恥ずかしすぎんで。おまえら三人ともや。サングラス見て『川ものや』とかってさ、『メイんじゃない』とちゃうねんから」 「まだ言う? このボケ」 そう言って川元に掴みかかろうとするあべに、おじさんが声をかける。 「あべくん、いけるぞ。めちゃめちゃええとこや。9回2アウト、同点のランナー一塁で代打」 「誰?」 「八木」 「いけるやん!」 急に目の色を変えたあべはテレビの前に飛んでいく。 「敬遠かな?」 「どやろ」 「座った! ちょっ! おまえらも見ろ。最高の場面やぞ。いいから見とけって。ええもん見れるから」 三人がテレビの前に集まった時、小さなブラウン管の中の背番号3は内角高めの弾に手を出した。窮屈なスイングで引っ張ったボールはふらふらとマスカットスタジアムの空に舞い上がった。 あべとおじさんは声にならない声を上げる。 ゲームセット。そう誰もが思った瞬間、ボールは不自然なくらいふらふらとレフトスタンドに向かって浮遊し始めた。 マスカットスタジアムの息という息が止まっていた。白球は風に乗って、乗って、レフトのラミレスがじりじりと後退していく。そして満員の阪神ファンが占拠するレフトスタンドフェンス際に、すとんと、落ちた! フェンスの向こう側だ。サヨナラ! あべさんは恥ずかしげもなく涙ぐんでいた。 「見た? オマエら。神様? 仏様? ここにおるやんけ。ああ、神様、来年も現役でお願いします」
お酒を飲んで湖に入らないこと。 花火の後片付けをきちんとすること。 読んだ雑誌は元の場所に戻すこと。 来年も必ず来ること。 湖の家からのお願いです。
おしまい