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アベサトル

ぼくの場合、病院にいると〈家庭〉のことを普段より意識することになる。家庭というか、人の家庭のことだ。電車に乗っていても、外で働いていても、〈人〉を意識することになるが、病院ほど〈家庭〉を意識することはあまりない。ただ、スーパーマーケットで人の買い物かごの中身を見る時は家庭を意識してしまう(その家庭は必ずしも”家族”だとは限らない。一人であっても家庭だと思う)。刺身盛りをたくさん買ってる人や、わらび餅を2パック買ってる人や、缶チューハイを一本買ってる人、三色ボールペン、知育菓子、フランスパン。そういうのをふと目にした時に、そのかごに入れられたものが何であれ、なんだか〈悲しい気持ち〉になる。悲しい気持ちではないのかもしれない。怖い気持ちと呼んだ方がいいかもしれないし、目を逸らせたい気持ちとだけ言うのが適当かもしれない。その時のぼくは、何かしらの〈不幸〉を想像している。ささやかな不幸かもしれないが、家庭の不幸と呼ばれるもののことだ。これはぼくに限った話ではなく、みんな多かれ少なかれそうなのだろうか(だとして、ぼくは少なかれの方だと思う)。そこで悲しい気持ちになるのは、ぼくの中で家庭というものが不幸に繋がっている、もしくは、不幸の上にあると信じているからなのか。そうかもしれない。心当たりはない。と言い切れるだろうか。幼少期からの自分自身のことを振り返る時、必ずしも不幸を感じはしない。むしろ記憶は感謝や平和に包まれている。にもかかわらず、現在性というものを象徴するスーパーマーケットという空間において何かしらの悲しさを家庭というものに感じているというのは臆病さからというよりも、卵と鶏のどちらが先かは分からないけれど、どういうものを書こうとしているか、あるいは、どういうものを読みたいか、そのあたりに関係しているのだと思う。誤解の無いように言っておかねばならないのは、ぼくは〈家庭〉を書く人ではないし(書いたこともないし)、これといった〈悲しさ〉を書く人でもない。しかし、ぼくなりの思い出や冗談や事件や抽象などを書くとして、そのスーパーマーケットのかごの中には〈悲しさ〉と悲しさの反対側を埋めるものが入っているように、そういうものでありたいな、と思っている。卵を描くなら、砂漠の真ん中に静かに置かれた卵よりも、買い物かごの中のパックの卵の方が。

大原鐵平

人生で一番最初に買ったアルバムは? の問いにそれが爆風スランプだったにも関わらず「いや、ブルーハーツやった」と自らの記憶を改ざんしているうちにやがてどっちが本当か分からなくなり「たしかブルーハーツの2ndやったわ」と答えることに今や何の後ろめたさも感じなくなった男。
小説を読むのはそんなに好きではない。書くのもそんなに好きではない。僕が書くことと僕の嗜好は何の関係もない。
1976年大阪生まれ。

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