よいおともだち

 

 オレスクレーパー!
 笘篠がまたよく分からないことを叫んでオレスに絡んでいる。オレスは面倒くさそうに笘篠の突撃をかわし、非常階段の狭い手すりで器用に手紙を書いている。
 それ誰に?
 弟と妹たちに。
 オレスは長女で、その下に弟妹が4人いる。オレスの胸の大きさはもちろん、肉付きのいい二の腕や、ふくよかな腰、締まった足首なんかを盗み見ていると、生き物としての自然な美しさのことを思う。
 健康に働き、たくさんの子を産み、育てていく。わたしなんか想像もつかない世界の入口に彼女はいるような気がする。
 時折、非常階段を抜ける風に潮の匂いが混ざる。オレス、とわたしは言う。
 海で遊んだことある?
 ないですね、と少し変なイントネーションで返ってくる。だよね。オレスの国には海は無い。彼女はまだ海がどういうものなのかを知らないでいる。
 オレスが水着に着替えたら。海に入れてみたいな。
 そしたら、あっという間にどこかに泳いでいってしまうんだろうな。
 何あいつ、こっち見てる。
 と田辺が言った。
 その男子は渡り廊下の下の日陰に一人立って、わたしたちの方をじっと見ていた。
 また田辺のこと好きなやつじゃないの?
 知らない。
 わたしたち四人が見ていることに気付いたその男子は、中庭を真っ直ぐに抜けてこちらに向かってきた。
 なかなかいい男、とオレスは言ったが、文化の違いか、どうもわたしたちとは趣味が異なるようだ。ずんぐりとしていて、お世辞にもモテそうにない。おまけにさらさらのおかっぱ頭。けれど精悍な目つきの二昔前の男前、みたいな危なげな男だった。胸の学年章が見える距離に来ると彼が三年生だということが分かった。
 五時限目の授業は何だっただろう。英語だったかな。辞書を忘れたかもしれない。
 松沼さんっていますか?
 と、彼は言った。
 田辺が、オレスを指してこの子だけど、と言った。
 自分、渡辺と言います。
 やめなさいよ、と笘篠が言う。
 松沼はわたしですけど。
 渡辺と名乗ったその男はわたしの顔をじっと見て、というかその顔をじっと見せて、自分のこと分かりますか? と言った。
 海からの風は過去からの風だ。海の向こうにあるのは未来の新大陸などではなく彼岸であって、彼岸というのはこれから自分が行く先であるのだけれど、それ以前に他の人たちが行った場所だから、過去の歴史が茫漠と広がった地平と言うことが出来るだろう。双眼鏡で眺めてみれば、蜃気楼のように小さく小さくぼんやりとそれらが気のせい程度に見える。少なくともわたしにはそんな感じがする。わたしの過去もいくつかはそこに今もあって、そこから吹いてくる風に身を任せてみても、この三年生の男子の顔に見覚えはなかった。
 ごめんなさい。全然わかんないんですけど。
 と、わたしは言って、笘篠と田辺の顔を見ると、二人は笑った。
 わたしも分かりませーん。
 わたしもー。
 笑われて、その渡辺という人がたじろぐことを無意識に期待したが、彼は真剣な顔でしばらくわたしの顔を見つめた後、やっぱりそうか、と言って立ち去ろうとしたのだった。
 ちょっと。何なんですか。
 と、笘篠が言い、田辺がそれを真似した。
 ちょっと。何なんですか。
 ごめんなさい。人違いでした。
 人違いじゃないじゃん。松沼じゃん。
 いや、たぶん元々違ってたんだと思う。
 元々?
 へ0Eっ>でm、パsテ、ジ。mホえt、パt。
 校庭の方からチャイムの音が聞こえた。
 何? 何語?
 気持ち悪い。オレス、分かる?
 アイラブユーって言ってます、とオレスが真面目な顔で言った。
 全然違いますよ、と言い残し、渡辺を名乗る男子は振り返りもせず行ってしまった。
 やばいよ。行かなきゃ、と、わたしたちは渡辺が去った方とは逆に向かった。
 階段を駆け上がりながら、オレスに、さっきのほんとにわかったの? と訊く。
 オレスは、わかんない、と笑った。
 ねえ、オレスってどこから来たんだっけ?
 遠い海の向こう。海の無いところ。
 わたしは渡辺という三年生の顔をもう一度思い浮かべていた。
 彼はわたしを真っ直ぐに見て「やっと見つけたよ、ぼくの四つ葉のクローバー」と言っていた。

 

 

 わたしの母は事故で亡くなった。
 といっても、幼いわたしはその現場を目撃したわけではない。父からそう説明を受けただけだ。わたしはそれに対して疑問を持ったことは一度もなかった。父親がそう言うんだからそうに違いない。
 ただ、母親が死んだ時期と、お姉ちゃんが学校に行かなくなった時期が一致しているのは気になっていた。そして、その時から、機械が苦手だったお姉ちゃんがキーボードを叩き始めたのだ。
 おぼろげな記憶。わたしは「壁電話」を使ってお姉ちゃんとたくさん話をしていたように思う。「壁電話」は最初からそこにあった。
 もしもし、お姉ちゃん。
 どうしたの、くま子。
 なんでもないの。眠れないの。
 あw;pれh0t?
 うん。そうだと思う。ぱ;うぇb、。q34
 かわいいくま子。そんなの気のせいだよ。
 そうかな。
 そうだよ。
 わたしはいつからかお姉ちゃんと話をしなくなった。それはわたしが強くなったということで、お姉ちゃんが弱くなってしまったということなのかも知れない。強くなったわたしは当時愛読していたファッション雑誌の束で壁電話の穴をふさいでしまった。
 やがてわたしの中からいくつもの言葉が消えていった。
 姉だけに通じる、秘密の言葉。
 あれは夢だと思っていたのに。
 夜明けはいつも白い。姉の気配もない。

 

 

 岬のところの防空壕、行ったことあるか?
 あるよ。
 あそこ出るらしいな。
 マジで。
 C組の西崎が、サッカー部のマネージャー連れて行った時に二人で見たらしい。
 マネージャーって伊東?
 ちがう。一年のマネージャー。
 早すぎでしょ。その一年こええよ。
 あの防空壕って元々は軍の基地で、終戦の時にいっぱい自爆してるって。歴史の上田が言ってた。
 クソみてえな話だよ。
 で、軍人が出たの?
 いや、こどもだって。
 なんで?
 知るかよ。
 民間人もいたんじゃね?
 クソみてえな話だ。最高だよ。
 結局西崎はやれず終い?
 知らね。
 女子もバカだよな。あんなのに寄ってたかって。
 お前さ、今かっこわるいよ。
 かっこいいよ。
 工藤と潮崎の噂話を聞くでもなく聞きながら、ぼくはグラウンドの陸上部の練習を眺めていた。昇降口のところで柔軟を終えた短距離のメンバーが、ぞろぞろと日なたに出てくる。
 松沼。また笘篠さんか?
 今日はいない。
 アレの日なんじゃね。
 あんなに痩せててもアレって来んのか?
 痩せてたらアレって来ねえの?
 ノリコが言ってた。
 ノリコって誰?
 母ちゃん。
 おまえんち、進んでんな。
 そう言や松沼って兄弟いるんだっけ?
 いないけど。
 ふうん。
 いそうだよな。
 笘篠さんのいない陸上部の練習は退屈だった。新入部員も何人かいるようだったけれど、興味がなかった。
 松沼さ、オマエいつまで友達ごっこやってんの? さっさと決めりゃいいじゃん。
 工藤と潮崎は、笘篠さんには同じ陸上部の彼氏がいることを知らない。
 グラウンドのフェンス沿いを走る長距離メンバーの中に、笘篠さんの彼氏の姿はあった。
 さっさと笘篠さんと付き合ってさ、田辺さん紹介してくれよ。
 何? じゃあオレがオレスなの?
 オレスいいじゃん。
 セコいわ。
 清掃業者がやって来て教室のゴミを集めていく。工藤たちは中学からエスカレーターで上がってきたから当たり前の光景だったのかもしれないけれど、公立の中学だったぼくは、入学当初から馴染めなかった。ゴミくらい自分たちで集めて、掃除も自分たちでやればいいのに。
 勉学優先、スポーツ優先らしい。
 軍隊みたいだな。
 と、ぼくが言う。
 だな。運動部って軍隊みたいだ。
 吹奏楽部だって軍隊みたいだぜ。
 新聞部も。
 そういうことじゃないんだけどな、と思っていると、オレたちもそうだな、と潮崎が言って首を傾げた。
 マヌケなんだよ。
 知ってる。
 嫌になる。
 たぶんグラウンド中でみんな同じことを考えてる。
 だな。
 どうする?
 どうする?
 笘篠さん探しに行こうぜ。
 やめろよ。
 いいから。
 ぼくたちが揉めていると、グラウンドを横切って、さらさらの黒髪を前で揃えた、ずんぐりとした男がこちらにやって来るのが見えた。近くまで来たその男はぼくの顔を見るとなぜかぎょっとして、しばらくその場に立ち止まってしまった。
 誰だよあいつ。
 三年だろ。
 工藤と潮崎はぼくの顔をちらっと見た後、正面に立つその男にガンを飛ばした。工藤も潮崎も帰宅部のくせに好戦的で、ぼくはちょっと付いていけないところがある。
 あの、何か用ですか。
 僕が聞くと彼はやっと口を開いた。
 ごめん、こっちの方だったんだ。
 こっち?
 あ。自分、渡辺と言います。
 渡辺くん?
 先輩様に『くん』はダメだよ、潮崎くん。
 こっちって何?
 いや、どっちでもいいんだけど。ノート、って言ったら分かる?
 ノート?
 そうぼくが聞き返すと、渡辺くんは急に黙った。それは不自然な沈黙だった。
 用件がよく分かんねえんすけどぉ、と工藤が絡んできた。やめとけよ、と僕は言った。先月からムエタイのジムに通い始めた潮崎はもう試合前のダンスを踊っている。バカ丸出しだ。
 ごめんね、と渡辺くんが笑いながら言った。それなんすか、と工藤の顔色がふっと変わった。ナメられていると思ったのだろう。じゃなくて、と渡辺くん。
 こっちが悪い。色々思ってたよりアレだわ。ごめん、出直す。
 渡辺くんが去った後、なんだあのカッパ野郎、と潮崎がワンツーを打ちながらグラウンドの霞の向こうを睨んだ。するとしばらくしてその霞から、まるで幽霊のように笘篠さんの姿がすっと現れた。三人はその姿を黙って眺めていた。
 あ、思いついた! と工藤が叫んだ。
 あ、オレも、と潮崎が続けて言った。
 松沼、防空壕だよ。防空壕誘えよ。
 決まりだろ、これ。

 

 

 ガニメデ歴41662年。
 入隊からわずか数年で通信兵から少尉にまで上り詰め、一部の間では陸軍少佐との関係が囁かれていた美人女性兵士フランシスが突如脱走を企てた事件は、彼女を広報部のマスコット的に活用していた軍上層部にも少なからずの衝撃を与えた。
 敵前逃亡ではなく通常訓練時の脱走であるから極刑は免れたものの、フランシスの処遇については軍法会議を経て速やかに指名手配が行われることとなった。
 脱走には外部一名、内部一名の協力者が確認されたが、内部協力者については軍機密扱いとなり、世間への公表は伏せられた。
 懲罰房に送られたテトは、それから三日間、眠れぬ夜を過ごした。そして四日目の朝、突然釈放され、帰隊した。覚悟していた重いペナルティは何もなかった。幸運なことにテトの直属の上官は、テトの父親の陸軍時代の教え子だったのだ。
 自室に戻ったテトは事前のシミュレーション通りに合鍵を使って通信部へと潜り込み、秘密裏に通信を行った。通信はすべてガニメデ語で行われたので傍受されても解読の心配は皆無であった。
 もしもし、聞こえてますか。
 応答どうぞ。
 もしもし。もしもし。
 テトは来る日も来る日もマイクに向けて話しかけた。やがてその問いかけが祈りに変わりつつあった真冬の日、初めてスピーカーに反応があった。テトは感動と興奮を隠しきれずに叫んだ。
 フランシス!
 しかしスピーカーから聞こえてきたのは彼女の音声ではなく、どこか遠い星の、遠い世界の、今にも消えそうなさざ波の音だけであった。
 畜生、とテトは呟いた。自棄になってスピーカーを殴ろうとした時にふと、テトの脳裏にある記憶が蘇った。
 幼い頃、父が病床に伏せた頃に、母がテトに語った言葉である。
 あなたが本当に困った時のために、このことを覚えておくといい。あなたがたった一人で、誰も手を差し伸べてくれる人もいなくてどうしようもなくなった時のために、これをしっかりと覚えておくのです。
 母さま。それは呪文のようなものでしょうか。
 いいえ。
 テトは顔を上げ、マイクに向かって透き通った声で話しかけた。

 ワタナベ。

 

 

 ぼくが笘篠さんのことを意識するようになったのは、彼女のすらりと長い足のためでも、ボーイッシュなショートヘアーのためでもない。確かにそれらは笘篠さんそのもので、ぼくでなくともある種の男子を夢中にする。それだけだったら臆病なぼくなどが笘篠さんのことを想うなんてことは出来なかったのではないかと思う。
 それは一年の夏だ。
 放課後、放送委員として一通りの雑務を終えて施錠して階下に下りた。石造りの階段はいつもひんやりとしていて、外の暑さが嘘みたいだった。
 昇降口を出る前に一階のトイレで用を足し、出たところでばったり体操着姿の笘篠さんに出会った。
 笘篠さんの顔色は悪く、額には脂汗さえ浮かんでいるように見えた。
 松沼、と彼女は言った。
 普段、彼女はぼくのことを松沼くんと呼んでいたから、ぼくは彼女の様子よりもそのことに驚いてしまった。
 松沼。助けて。
 小さな声だった。
 トイレに行きたい。
 何? おなか痛い?
 バカなぼくは、トイレに行きたいと言っているのに、もしかして子どもでも産まれるのではないかと一瞬考えてひるんでしまった。
 おなかは痛くない。漏れる。
 と彼女は絞り出すように言った。
 女子トイレならそこじゃん、とぼくは顔で示したが、そこにはいつもある筈の女子トイレがなく、コンクリートののっぺりとした壁があるだけだった。
 お願い、見張ってて。
 彼女がそう言うので、ぼくは廊下を見回す。タイミング良く放課後の生徒たちの姿は見当たらない。
 中に誰もいない?
 大丈夫、とぼくが答え終わらない内に、もう無理、と小さく言い残して笘篠さんは傍らを抜けするりと男子トイレに入って行った。ぼくは後を追ってトイレに入りかけ、すぐに思いとどまった。入っちゃいけない。それに、見張らなければいけないのだ。
 暑い日だった。
 様々な染みだらけの古い木造校舎の廊下は影。蝉の声が無関心。天井はいつもより高い気がした。
 誰か来たら何と言って止めたらいいんだろう。そのことを考えていた。
 女子が中にいるから、と正直に説明すればいいのだろうか。もしそうしても笘篠さんもぼくを責めはしないだろう。けれど、責められないからと言って、笘篠さんに嫌な思いをさせることにならないだろうか。笘篠さんだって何も悪くはないのだ。どういうわけか分からないけれど、女子トイレが無くなってしまったのは…と思って、女子トイレの場所を見ると、そこにはいつも通りの女子トイレがあった。
 さっきは確かに…。呆然としていると一人の男子生徒が廊下の向こうからこちらに近付いてくるのが見えた。トイレに入るかどうかは分からない。けれど、笘篠さんと鉢合わせさせるわけにはいかない。ぼくはさりげなく男子トイレに入って、一つだけ閉まった個室をノックした。
 笘篠さん、今はダメだ。誰か入ってくるかもしれない。いいって言うまで出てくんなよ。
 返事はなかった。
 ぼくはしばらくそのまま個室のドアの前に立っていた。中庭に面した小窓から磨りガラス越しに柔らかい光が差し込む。薄暗い。
 ぼくは笘篠さんが用を足しているところを想像してしまう。その音が聞こえるような気がしてしまう。制服のポケットに手を入れ、押さえつけて劣情を隠そうかと思ったけれど、見た目には分からないように思われた。
 もしもこのまま永遠がこの星をここに止めたなら、ずっと夏だ。
 個室の中でトイレットペーパーが蒔き取られるささやかな音がして、ぼくは逃げるようにトイレを出た。そして廊下に誰の姿も無いことを確認してから、トイレに戻った。
 今なら大丈夫、急いで、と言うと、カタンと鍵が開いた。
 それは夏の音だった。

 

 

 四つ葉のクローバー。
 それは群生するとよく言われるけれど、確かなところはよく分かっていないらしい。
 そうなの?
 そう。遺伝だよって生物の伊原先生から習った気がするよね。でもあれはエンドウの花の交配の話。種の形の話。優性遺伝とか劣性遺伝とか、半優性遺伝とか。
 知ってる、それ。
 習ったもん。
 好きだった。
 でも今では優性遺伝とか劣性遺伝って言わないんだって。
 え?
 顕性遺伝、潜性遺伝って呼ぶようになるらしいよ。
 ケンセー? センセー?
 そう。顕れる。潜る。
 なぜ?
 学会が決めたんだって。
 ?
 いや、だから、実際は優劣がないからじゃない?
 よく分かんない。
 ん?
 優性とか劣性って言葉の意味を変えればいいのに。
 それは簡単なことじゃないんだよ。きっと。
 でも、よく群生してるのは?
 もちろん遺伝の可能性もあるんだけど、四つ葉になるのってどうも踏まれたりとか傷ついたりとかして、それで小さな頃に余分に分かれたやつが大きくなって四つ葉になるんだって言われてる。
 そうなの?
 知らないけど。
 それってなんだか、どっちが優性でどっちが劣性なんだろうね。
 どうなんだろうね。
 どうなんだろうね。

 

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