よいおともだち
トイレから出て来た笘篠さんはいつもの笘篠さんだった。血色も戻って、恥ずかしそうに笑った。ぼくも何だかバツが悪くて笑った。
大丈夫?
松沼がいなかったら危なかった。
見て。
と、ぼくは女子トイレの入口を示した。
笘篠さんは驚くでもなくそれを見て、色んなことがあるよね、と爽やかに微笑んだ。
ぼくはその意味が全然わからなくて、女子トイレの入口を見ていた。
あのね、松沼。
分かってる、今日のことは誰にも言わない、言えない。
ごめんね。
こっちも出来れば黙ってて欲しいんだけど。
それはぼくのいやらしさだった。
もちろん言わないよ。彼氏にバレたら、やっぱり嫌な気持ちにさせちゃうと思う。
そりゃそうだよ。
彼氏がいるんだ、と思いながらぼくは何気ないふりをした。
当たり前だけど、笘篠さんは屈託がなかった。
どうしてあんなになるまで我慢したのさ。
試合の時にしたくなっても棄権しなくていいように、アスリートは我慢するのも練習なのよ。
嘘だ。
嘘じゃない。
だとしたら軍隊だよ。
違う。
それにしたってあんなにならない。
そういうこともあるのよ。松沼も、もしそうなったらわたしが女子トイレの前で見張っててあげるから、言ってよね。
あんなのにならないよ。
みんなそうなるまではそう思ってんのよ。
昇降口のところから眺めるグラウンドが眩しくて、そこで走ったりボールを追いかけたりしている人影は皆滲んだ黒に見える。
陸上、楽しい?
楽しい? 楽しいかな。どうして?
大変そうだなって。どうして陸上やってんのかなって思って。
理由? そんなの無いに決まってるじゃない。
笘篠さんが笑う。
今学期は放送委員をしているけど、真っ直ぐ帰る帰宅部であることが何だか恥ずかしくなってきた。
目的もないのに続けるのって辛いっていうか、嫌にならないのかな。
あのね、松沼。こういうので辛いっていうのは、あたりまえの状態なんじゃないかな。辛いって、こういうことじゃないんじゃないかな? 違う?
やっぱり呼び捨てだ。
そうかもしれない。けど、分からない。
真夏に何キロも走って倒れたりしても、そんなのなんにも辛くない。
でもさっきは辛そうだった。
あれだって、大したことじゃないのよ。
本当の辛さを知ってるみたいな口ぶりだな。
笘篠さんは笑って、そんなの知らないよ、と言った。
ああ、この時間の駅までの道は日陰も少なく、暑いだろう。暑くて辛いだろう。ぼくはもう、今から陸上を始めることなど出来ない。本当は始めることが出来たとしても。
もう早退して帰ろっかな。
戻らなくていいの?
辛くなっちゃった。
一緒に帰るのかと思ったぼくはバカだ。
松沼さ、今から田辺とオレス、呼んできてよ。
なんで? どこにいるのかも知らないし。
放送部でしょ? 呼び出せばいいじゃん。
私用はマズいだろ。
ちっちゃい声で呼べばバレないわ。
バレるに決まってんじゃん。
じゃあわたしが呼び出すから連れてって。
それ一緒だよ。
松沼は夏ってものが分かってない。放課後だって分かってないし、高二だってこともわかってない。
卑怯だ。
正統よ。
笘篠さんは分かってんの?
だから、分かってないよ。
そればっか。
放送室に戻り、明かりを付け主電源を入れる。いやに白々しい蛍光灯と古くさい音響機器が目を覚ます。笘篠さんは物珍しそうに室内を見回し、宇宙船みたいね、と言った。どんな古い宇宙船だよ。
このマイクで呼べばいいの?
本気で自分で呼ぶ気かよ。こっちでやるから。
いいじゃん。ねえ、松沼、今は秋ですか? 冬ですか?
夏ですね。
ほら。ちゃんとするから。女の子を信じられない男なんて嫌だな。女子トイレに松沼が入ってきたって言いふらすよ。
笘篠さん、すげえな。
逆に松沼もすごいよ。
いいよ、やれよ。
夏だね。
分かったから。ちゃんと座って、そのレバーを上げてから話して、話し終わったら下ろす。出来る?
任せて。
おしっこしてきた?
してきたよ。
じゃあ、どうぞ。
その日の夜、ぼくは女子になっている夢を初めて見た。そしてそれから定期的に見るようになり、その回数は次第に増えているように感じていた。
夢の中でぼくは笘篠さんや田辺さんやオレスと仲の良い友達で、笘篠さんには陸上部の彼氏がしっかりいて、ぼくには顔がなかった。
ガニメデ歴1145年。
古代ガニメデ唯一の女帝である大シルバニア公の治世、既に限界に達していた科学技術は人々に一定の幸福と永続的な退屈を与え続けていた。民間出身で一流のエンターテイナーでもあった大シルバニア公は、閉塞した現状を打破するため、そしてさらなる文明発展と未知の資源獲得のため、大衆に宇宙進出の必要性を説いた。
かくて各国の技術者たちはこぞって開発に取り組み、1160年、ついにガニメデ文明初の星間移動手段であるフロートシップが完成。以降、ガニメデ文明における宇宙開拓史が始まったのである。
初代フロートシップは当初の目標であった木星への到達はおろか、隣の衛星エウロパにすら着陸が叶わず、わずかに大気圏外に頭を出し、おそるおそる宇宙空間を観察しただけに終わった。しかしながらその結果、ガニメデ人が机上で導き出していた予想よりもはるかに、彼らの肉体が宇宙空間の環境に影響を受けにくいことが判明したのだ。
初代フロートシップの艦長を務めた元海軍出身のオフショア=ライスフィールドは、たっぷりとたくわえた白い髭を整えながら、複数のメディアに確信を持ってこう語った。
「宇宙こそが我々の独壇場である」
これまでガニメデ人類史についてはいまだ定まらない進化上の謎が残されていた。大きな耳介を持ち、警戒心の強いガニメデ人の直接の祖先は、明らかに大型肉食動物の捕食対象であり、生物学上の弱者であった。周年繁殖動物であることを考慮しても、ガニメデの痩せた大地における熾烈な生存競争に勝ち得たとは到底考えにくい。大多数の研究者は隕石降下や氷河期などによる大規模な環境変化説を主張したが、それらは偶発的結果論であり、現状から導き出された根拠の無い仮説に過ぎず、説得力に欠けるものであった。
そのような状況下、ライスフィールド艦長の言葉は何かしらの真理性を伴って全ガニメデ人の心に響いた。それはこれまで自らのアイデンティティに民族的な自信を持ち得ていなかった彼らに示された、文字通りの新天地であった。大シルバニア公は国策として本腰を入れて宇宙開発を推進させ、5代目のフロートシップにあたる旗艦「ヒュージ・トータル」で見事エウロパ着陸、ついで翌年には第四衛星カリスト着陸を果たしたのである。
もうそれ切っといて。面倒だから。
え、いいんですか。
いいから。
怒られますよ。
シルバニア宇宙軍第18師団長オレス=ライスフィールドは原子煙草に火をつけながら、本営直結の連絡用モニタを切ることを部下に命じ、自席コンソールの上にどかりと足を投げ出した。
「念のため言っておきますけど、モニタ切断のアラート、すごいうるさいですからね。これ行方不明扱いですから」
「いいじゃねえか、行方不明で」
「一人でやってくださいよ」
「こんな負け戦に監視もクソもねえだろ。あいつら俺たちを地雷探知機みたいに考えてやがるんだ、一機不明になったからってマップ上のエネミーマークが一つ増えるだけだよ」
「一機って…旗艦ですよこれ」
オレスはまだ半分も吸っていない原子煙草を指で弾いた。火の点いたままの煙草が空中できれいにくるくると自転する。艦内に重力発生装置はない。重力の影響をほぼ受けないガニメデ人の特性は、彼らを太陽系惑星開拓時代の主人公に押し上げた。
だがそれは同時に、これまでの帝国時代の終焉でもあった。数百年におよぶ各国の激しい開発競争はやがて国と民族を分離させ、対立させた。かつては全ガニメデ人の夢であったフロートシップは今や無数の武器を搭載したバトルシップへと変貌し、各星に設営されるコロニーはすべて資源の奪い合いと兵器開発のための拠点となり、ついに民間に開放されることはなかった。
オレスは目の前で永遠に回り続ける煙草の火のサークルを眺めながら言った。
「優性遺伝ってあんだろ」
「はあ」
「俺、ああいうの信じてないんだ」
火の円環は数百周目でぶれが収まり、完璧な円を描きつつあった。オレスは鼻をひくひくさせた後、胸ポケットから慣れた手つきで携帯用にんじんを取り出し、その頭をかじった。
「ウチの軍、20師団あるだろ。ろくな編制もできないくせに20も作ってまったくいい加減なもんだよ。その20ってのはそのままスコア順だ。まるで学校だな。で、お前さ、生き残るのもスコア順だと思うか?」
入隊からまだ数年の部下は黙っていた。オレスは続けた。
「俺は18師団長だ、だから3番目に死にやすいってことになるな。ところが俺の周りの連中はみんな優秀なやつから死んでいったよ。何人死んだか分からねえ。優秀だから死ぬんだ。びびってた俺は生き残った。俺たちの祖先だって同じだ。捕食の能力が低く、臆病だからこそ生き残った」
レーダーが反応し、メインモニタに敵と思われる複数の機体が映った。昨年開発された超遠距離伝導システムと有機ビーコンのおかげで、まだ相手には気付かれていない。
「そんで次は、臆病なやつら同士で殺し合いだ。ここでもまた、さらに無能で臆病なやつが生き残るんだろうよ」
捕捉完了。撃墜しますか? オレスは片耳をあげて砲手を止めた。
「まったく俺たちは一万年もかけて、いったい何やってんだろうな」
「自殺なら一人でやってください」
「言っただろ。俺は臆病なんだ」
生き残ること。それは競争の勝利をはるかに上回る、生命としての最優先事項である。
後にノートに記されたその一文を、いつ、誰が書いたのかは一切不明である。
「おい、今からちょっと逃げるぞ。どこに行きたい?」
「本気ですか艦長」
「死ぬよりいいだろ?」
部下は冗談とも本気ともつかないオレスの子どものような笑顔に両耳を垂らした。どうせ今頃、本部では師団旗艦の位置消失アラートが鳴り響いて事件になっているだろう。処分、懲罰、まあ、オレス艦長の言い訳スキルはすごいから、今回も何となく納めてしまうかも知れない。
「じゃあ、月がいいです」
「月? ああ、地球の惑星だな。なんでまた」
「昔、授業で見たんです。ガニメデに似てるんですよあそこ」
「OK、了解だキャプテン!」
オレスのバトルシップはオレス専用の「マジック」と呼ばれる半次元転移装甲を展開、レーダーのログを抹消したのち宇宙空間から忽然と姿を消した。
長時間雨に打たれ、全身に染み込んだ悪寒は、安ホテルの生ぬるいシャワーをいくら浴びても身体の芯の方に居座り、取れなかった。
フランシスはベッドの中央にうずくまり、乾ききらない髪のままずっと震えていた。それは寒さのせいなのか、遅れてやってきた実感に襲われているせいか、どちらかは分からない。インスタントのスープも飲まず、フランシスは背を丸めて動かない。
髪、乾かしなよ。よけいに冷えるよ。
僕の言葉はまるで聞こえていないようだった。
テトのこと?
反応がない。
もちろん不安要素などいくらでもある。脱走兵がその後無事に平穏な暮らしに戻ったというストーリーを、僕は一度でも読んだことがあるだろうか。
フランシスの脱走理由は、入隊理由と同じくらい、僕にとっては曖昧模糊としていた。その理由はもしかすると、フランシスのあのノートにすべて明確に記されているのかも知れなかったが、ノートが失われた今、彼女が語らない限りもはや永久の謎となってしまった。
思えば不思議な女の子だった。
出会った頃、彼女が僕に求めてきたのは友情ではなく、契約であり、保護だった。
【ひとりぼっちは嫌だよ】
国籍の分からない瞳、絹のような栗色の髪、そして時折僕に隠れてつぶやく、未知の言語のような独り言。
彼女は僕と契約を交わした。それを子供時代の遊びと片付けるには、彼女の目はあまりに真剣だった。契約通りその後彼女は自由に恋愛をし、自由に軍を志願し、そこで幾人かの上官をたぶらかし、そのうちの一人と婚姻関係を結んだ。
軍に入ってから数年間音信不通だったフランシスから突然連絡が入り、休暇中の彼女を訪ねた時、僕はあのかつての古い契約がまだ生きていることを思い知った。彼女は僕の記憶に残っていた彼女よりもずっと小柄で、不安げで、途方もなく美しかった。
彼女は「逃げたい」と僕に告げた。
僕に断る理由などなかった。
むしろ謝らなくてはならないと思った。
長い間、彼女はずっとひとりぼっちだったのだ。
安ホテルの安いベッドは足側のスプリングがどちらも壊れていて、フランシスが僕の上で跳ねるたびに変な音を立て、僕たちは思わず吹き出してしまった。
月明かりの逆光になったフランシスの裸体。あまり複雑なことは考えたくなかった。フランシスの冷たい唇が僕の目を、鼻先を、唇を伝い、やがて胸元へ、そのさらに先へゆっくりと下りていく。彼女の残り香が鼻孔に残る。僕は彼女の栗色の髪を弄び、乱暴にかき混ぜ、また優しくとかす。
気付けば悪寒はどこかに消えている。
汗と体液にまみれたフランシスが、ふと宙を見つめ、荒い息でつぶやく。
「満月だね」
僕はフランシスの口を指でふさぎ、フランシスは僕の中指にかりりと歯を立てた。
昂ぶってる?
そう僕が聞くと、わたしたちにはそういう周期が無いの、とフランシスが答え、僕の中指から唇を離した。フランシスの唾液が名残を惜しむように細い糸を引いた。
わたしたち?
フランシスは次に僕の耳たぶを強くかじり、知らない言葉で何かを囁いた。
再びシャワーを浴びた後、僕はフランシスの隣に座り、壊れて音の出ないテレビの映像をぼんやりと眺めていた。なぜかひどく気持ちがざわついていた。
僕はフランシスを抱いたことで、何かが永遠に失われたのかも知れないという恐怖に襲われていた。ひょっとすると軍の上官たちも同じ感覚に陥ったのかも知れない。この先もフランシスと共に生きていきたければ、絶対に彼女を抱くべきではなかったのだ。フランシスの、本能に身を任せた後のとろんとした曖昧な瞳に、僕はそんな確信を抱いた。
旧式の冷蔵庫にはかろうじて数本の酒が入っていた。僕はそれを浴びるように飲み、フランシスを乱暴に抱き寄せ、眠った。
ねえ、とフランシスは僕の冷えた肩に小さな頭を乗せ、夢と現実の狭間で言った。
赤ちゃんできたらどうする?
さあね。
うれしい?
そうだね。
もしも。
ん。
もしも。
わたしたちの子供が。
いつかたくさんの子孫たちが。
愛し合わず。
争い合うようなことがあれば。
わたしは。
わたしたちは。
わたしたちの愚かな末路を。
永遠に。
語り継いでいくでしょう。
おやすみ、優しい人。
わたしはノートを探しに。
あなたは静かな夢の中に。
おやすみ、マイ・クローバー。
おやすみ。
渡辺は『泰源』で人を待っていた。
待ち合わせをしていたわけではない。もしかしたら今日ここに来るかもしれない。そんな予感から渡辺はそこにいた。
予感と呼ぶのが適切かどうか、渡辺にも分からない。あまりにその言い方は無責任に過ぎるようにも思えた。「ある可能性」と呼んだ方が良いかもしれないし、人によっては「構造」という言い方をするかもしれない。そこに探し物が現れる可能性。あるいは、そういう構造。いずれにせよ、それらは過程に過ぎないのは分かっている。その瞬間どちらに倒れたとしても、その時間が瞬間的にあるいは一定単位でどのような構造体であったとしても、行き着くところは同じなのだろう。こちらは予兆というか、確信だった。確信? 諦めのことかもしれない。同じ結果になるのは、渡辺ではないものの意図が及んでいるように思える。
『泰源』は学生向けに中華料理を出す店だ。正確には台湾料理ということになる。どちらでも一緒じゃないのか、と渡辺は思う。
おやじさんは卒業生らしい。細面の優男で、料理人らしい風貌ではない。医者の方が似合うだろう。もう一人、アルバイトの若い女性のウエイターがいて、名前は楊さんという。学生たちも彼女のことを親しげに楊さんと呼ぶ。色気には欠けるが、健康的でファンも多い。
学割定食の量は体育会系の男子が基準になっているようで、小を注文すべきだったと渡辺は後悔していた。申し訳ないが白米は残すことになりそうだ。
楊さんが水を足しにきてくれる。
部活帰りの学生たちが連れ立ってやってくる時間帯まではもう少し時間があり、店内に客は渡辺だけだった。おやじさんは厨房で昼のワイドショーを見ている。
ねえ、楊さん。一人で食べに来る学生って珍しい?
そうね。あまりいないわね。
女子で一人は?
うーん。ないかも。
だよね。
どうして?
この辺で女子一人でも入れる店をやったら儲かるかなって。
そんなの儲からないわよ。
かな。
まだ大量に白米が残る茶碗と、大皿に残った酢豚とサラダを移した小皿を除いて、他の食器を下げて、テーブルを綺麗に拭いてくれる。
野球部、今年も期待できるんでしょ?
いや、野球部のことはあんまり知らなくて。
五年連続だもんね。わたしね、決勝は応援に行くのよ。
へえ。
昔はチアにいたから、そういうの好きなの。
似合う気がする。
ありがと。
ごめんなさい。もうこれ以上食べれなくて。
いいわよ。持って帰る?
大丈夫?
大丈夫よ。ちょっと待ってね、包んであげるから。
ありがとう。
こういうことをしていると、どういう結果を自分が望んでいるのか考えてしまう時がある。それは本当は望ましいことではないらしい。それぞれに思惑があり、それらは食い違い、時間の経過とともに違う方向へと向かい出す。賢明な者たちは、また新たな場所で新たな人との時間を見出すし、またある賢明な者たちも、その時間の経過の中で細かな修正を行いながら、自らの思惑を変化させていく。そこに介入して、基本的にはクライアントの望むように事を運ぼうとするが、自分の匙加減でその流れを少し変えたりすることを夢想することもある。正義感からではない。そんな大それたものは持ち合わせていない。物心がついた時から無かった。ただ、その関係の中で誰かに思い入れてしまったり、どうしても我慢ならなかったりすることがあって、そして直接的に手を出さずに構造を変える。時によっては探偵家業をすることもあるし、恋人役をすること、画家になること、風俗店の店長をすることも、カウンセラーみたいなことをすることもある。けれどそれらの呼称はどれも正確ではない。そのように振る舞うことはあったとしても、その役割は構造を変えることだけだ。始まりがあって、終わりがある。その構造に変えることだ。何だって元々そうなのだろう。オレももしかしたら同じで、心臓が動き出して止まるまでを生きる人間と同じで、どこかで始まって、どこかである時終わる。構造をいくらいじくりたおしたところで、それは変わらないのだ、きっと。始まりの前があり、終わりの後がある。構造で時を自在にできるとしても、始まりと終わりは慈しみであり、より大きな宇宙として構造を丸呑みにしている化け物だ。
松沼の恋がどういう結末を迎えようと。女の松沼に伝えたメッセージを彼女がどう理解したとしても。男の松沼と女の松沼の、どちらがどちらを自分の夢だと考えていたとしても。それらがすべて笘篠や田辺の夢であったとしても、もっと言えば、たとえ姉があの部屋からこのまま出てこなかったとしても、オレは、彼らは大丈夫だという気がしているのだ。
それを確かめたくて、渡辺は何となくここで待ってみた。
けれど、もちろん姉は現れなかったし、姉でない誰かも現れてはくれなかった。
はい、これ。どうぞ。
楊さんが食べ残しの弁当をビニール袋に入れてテーブルの上に置いた。
ありがとう、と渡辺は言った。
春っていいわね。
ですね。
私の国の春はね、森の木に黄色い花がいっぱい咲くの。風が強くてね。黄色い山が揺れるのよ。で、みんなでピクニックに行くのね。家族とか友人とか。お弁当持って。
いいですね。オレもこどもの頃は行きました。
ねえ。あなた。この学校の生徒じゃないでしょ。
渡辺は、楊さんの顔を見上げた。
何をしようとしてるのか知らないけどさ、部外者はさっさと学校から出て行った方がいい。もうあの子たちに近付かないであげてよ。もう退場なの。
楊さんの微笑みは消えていない。
楊さん。生徒全員の顔、覚えてるんですね。
どうかな。
いい学校ですね。
ちまきと唐揚げも入れといてあげた。ピクニックでも行ってらっしゃい。
一人でピクニックはちょっと。
もしかして誘ってる? 三千年早いわ。
渡辺は笑った。
慣れてる。いつもそうやって断ってるんですね。
中華の歴史をナメちゃダメよ。
じゃあ三千年後。
三千光年先で。
じゃあ今ここだ。
楊さんは楽しそうに笑った。