よいおともだち

 

 工藤と潮崎と一緒に校舎の中を探したけれど笘篠さんの姿は無かった。潮崎が陸上部に行って聞いてきたところによれば、今日は最初から笘篠さんは来ていないらしい。もう帰ってしまったのかもしれない。
 そう話しているところに、西崎が通りかかったので、工藤が捕まえ、防空壕どうだった、と聞いた。
 オマエらもやめた方がいい。あそこ、本当にダメだ。
 何がダメなんだよ。
 出たんだろ、こどもの幽霊?
 幽霊? ちがうよ。
 は? なんだよ。違うのかよ。
 そんなんじゃねえよ。ヤバいんだって。
 だから、何なんだっつってんの。
 言うとオレがヤバいんだって。
 言いふらしてんじゃん。
 オレじゃねえよ。あの女が言いふらしたんだよ。
 マジかよ。西崎、オマエ、女見る目ねえな。
 オマエらに言われたくねえわ。
 なんだとコラ。
 やめとけ潮崎。で、何がヤベエの?
 分かんねえけどさ、何かいんだよ。
 西崎は声を落とした。
 だから幽霊だろ?
 潮崎、オマエ幽霊信じてるワケ?
 いやだから違うじゃん。オマエらが幽霊っつーから。
 ありゃ人間だよ。生きてる人間。
 住んでんの? 浮浪者?
 違う。
 戦時中の生き残りとか?
 何歳なんだよ。仙人かよ。
 生き残りじゃねえけど、でも仙人は近いかもな。
 来た来た。
 なんかレスラーみたいな奴だったよ。
 レスラー? 嫌な予感しかしねえな。
 悪いことは言わない。
 カッコつけんな、西崎。
 どうする?
 行く?
 ただのレスラーだろ? あそこ遠いしな。
 うーん…
 おまえらさ、何悩んでんだよ。マジやめとけって。ほんとB組はバカばっかだな。田辺と笘篠とあのキューバの女の子もさっき聞いてきたよ。
 マジか。
 で?
 キューバの女の子いるじゃん。
 オレス。
 そうそう。オレスがやっつけるっつって。
 あいつら…バカか。レスラーなめんなよな。
 そう言った工藤と潮崎の目つきは普段のそれとは全然違っていた。

 

 

 春の太陽はまだ海上にあった。あと二時間もすれば山稜の裏に隠れてしまうだろう。岬へ向かう道は荒れ果てていて、見上げる断崖は今にも崩れ落ちてきそうだった。先日の西崎たちのものか、それとも笘篠さんたちのものか分からないけれど、海岸沿いに続く道に茂った草むらの中には人の踏み跡があった。
 先頭を行く潮崎が立ち止まる。
 これまだ続くんだっけ?
 帰宅部は体力が無い。
 女子でも行ったんだから頑張れよ。
 わかったよ。
 腰ほどある雑草の中をがさがさ進む。学校は遠く後方、もう見えなくなってしまった。
 西崎のあの話ってさ、ホントかな?
 そうなんだよな。オレもさっきからそれ考えててさ。レスラーなんかこんなところにいるわけねえじゃん。オバケの方がまだマシだよ。
 しかもオレスがそれを倒しにいくって、おかしくね?
 おかしいんだけどさ。
 まぁ、おかしいのは分かってんだけど、でもそれがもし本当だったらどうするか、で考えるもんなんじゃないか。それがかっこいいんじゃねぇの。
 今頃もし西崎が、あいつらホントに行きやがった、バカだよなってみんなで笑ってるようなら、あいつがかっこ悪いんだよ。
 そりゃそうだ。
 まあ行こうぜ。行って何もなかったら、明日西崎をやっちまえばいいんだから。
 モテない一直線じゃん。
 いいんだよ、別に。オレ、夢ん中では結構モテっから。
 夢の中だったらオレの方がモテるよ。
 なんだよ、オマエら夢の中でモテてもしゃあないじゃん。
 しゃあないもんだよ、松沼。
 しゃあなくもないんだよ、松沼。
 オマエは何もわかってない。
 笘篠さんのことだけ考えてろ。そしてオレに田辺さんを紹介しろ。
 だから田辺さんはオレだよ。
 田辺さんに選んでもらえばいいんだよ。
 ああ、そうしようぜ。
 という下らない会話を聞きながら、二人の後をついて歩いていると、程なく雑草の中を抜けて、岩場に出た。そこは岬の突端で、岩壁をくり抜いた防空壕が幾つか口を開けていた。
 久しぶりに来たよ、ここ。
 あそこにいんのオレス達じゃね?
 今は干潮のようで岩場にはところどころ潮だまりがあり、足を滑らさないようにぼくたちは笘篠さん達の方に近付いていった。波が岩を洗っているのは随分先にあった。体操着姿の彼女たちもぼくたちに気付いたようで手を振っている。
 波の弾ける音に負けないよう大きな声で、なんか綺麗だな、と工藤が言った。
 三人ともどうしたの?
 と田辺さんが言う。
 どうしたのじゃねえだろ。西崎に聞いたらオマエらが行ったって言うから。
 あのお喋り男、ほんとにどうしようもないね。
 オマエらでどうこう出来る相手じゃないだろ?
 帰宅部に言われたくないわ。
 サボりの連中に言われたかねえよ。
 で、どう。いた?
 いない。西崎にやられた。
 やっぱそうか。
 なんなんだろうなアイツ。
 不思議なヤツ。
 でもさ、ここすごいね。
 オレスがそう言って一番大きな防空壕の黒い穴の前に立った。笘篠さんと、田辺さんと、工藤と潮崎とぼくもその横に立って、背丈の倍ほどある穴を見つめた。それはどこかに繋がっていそうに見えた。どこかから繋がってるように見えた。
 怖いね。
 怖いよ。
 誰かが、歴史、と言った。
 記憶。
 沈黙。
 海。
 ミートパイ。
 池。
 けふ。
 今日じゃん。
 オレ達が毛も生えてないくらいもっとこどもでさ、大人達に黙ってここに来てて、そしてこの穴を探検とかしてたら、なんか最高だな。
 何それ?
 わかんないけどさ。
 なんかわかるけど。
 でも、今だって十分こどもで、もしかしたらもっと大人になって、おじさんとかおばさんになってからここに来たら、高校生の時にあいつらと来たかったな、とか思うのかな?
 そんなの知らない。
 そうだな。そんなの分かんないわ。
 な。
 おっさんとかおばはんになったら来ないのかも。
 分かんないって。
 分かんないよな。
 おっさんとかおばはんになった夢って見る?
 見ない。
 見ないよな。いいんだけど。
 ぼくたちは約束なんてしたくないのだ。約束なんてされたくないのだ。
 その時だった、見つめていた穴の奥から、話し声のようなものが聞こえた。歓声のようにも聞こえた。あるいは何かをこっちに向かって言ったのかもしれないけれど、聞き取ることは出来なかった。そして穴の奥でぼんやりとオレンジ色の光が灯ったように見えた。田辺さんがオレスにしがみつく。
 誰か、ライトか何か持ってない?
 オレスが言った。
 ないな。
 すぐ慣れるでしょ。
 オマエ、マジで行くの?
 何しに来たと思ってんの?
 何しに来たんだよ。
 しっかり掴まってて、とオレスは田辺さんに言って、二人はゆっくりと穴の中に進んだ。待てって、何なんだよアイツ、と言いなが工藤と潮崎も二人の後を追って穴に入って消えた。その黒は深く一瞬にして姿は見えなくなった。彼らの後を追おうとしたその時、笘篠さんがぼくの腕を掴んだのだった。
 松沼くん、待って。
 そうだ。笘篠さんだけを残して行くわけにはいかない。
 大丈夫? 行く?
 行く。けど、待って。
 と、笘篠さんは苦しそうな表情を見せた。
 無理することないよ。工藤と潮崎が行ったからきっと大丈夫。
 違うの、と笘篠さんは言った。
 違うの、松沼。
 漏れそう。
 単調な波の音がぼくを揺さぶる。
 ぼくは笘篠さんを、来た道とは逆の茂みに連れて行き、少し分け入ったところの草を踏み固めて、ここなら大丈夫、と言った。
 ありがとう、と笘篠さんが言ったので、ぼくはそこを離れた。
 少し離れたところでぼくは波音だけを聞いている。防空壕からはまだ何も聞こえなかった。笘篠さんの方からも何も聞こえなかった。
 その時、ぼくは姉のことを考えていた。ぼくには姉はいない。存在しない姉。それなのにどういうわけか姉のことを考えていた。姉の部屋の扉が開け放たれ、家の前には救急車が止まっていた。しかし不思議とそこに不吉な雰囲気はなく、どちらかと言えば、長く続いたものが何らかの形で片付いた後のような、それでいてささやかな、一時の紛れもない平和がそこにはあった。担架で運び込まれる姉の頬には涙があった。わたしは父の傍らで、これからが大変だね、と言った。そりゃそうだ、と父は泣いてるのか笑ってるのか分からない顔をした。これまでが大変じゃなかったんだ。本当に良かったね、と、わたしは救急車に同乗する父に声をかけた。
 その時、草むらの方から、松沼、と呼ぶ笘篠さんの声が聞こえた。
 笘篠さんは草むらの中から、ティッシュ持ってない? と言っていた。
 そんなの持ってないよ。持ってるわけないじゃん。
 ハンカチは?
 ごめん。
 ハンカチくらい持ってた方がモテるよ。
 明日から持つよ。そうする。
 そうして。
 どうする? ティッシュ取ってこようか?
 いいよ。誰にも言わないでよ。
 だから言わないって。
 立ち上がり、草むらの中に顔を見せた笘篠さんに向かってぼくは言った。
 きみは、ぼくの四つ葉のクローバーだ。
 笘篠さんは体操着をきちんと整える間、何も言わなかった。そしてこっちを真っ直ぐに見て、ねえ、松沼、と言った。
 ねえ、松沼。ありがとう。きみも、わたしの四つ葉のクローバーかもしれない。でも。わたしには彼氏がいるんだよ。だから、松沼が本当にハンカチを持つようになったら、そうしたら考えるよ。
 明日から持つよ。
 うん。そうして。

 

 

 防空壕の奥の奥から、歓声と悲鳴の混ざり合った声が聞こえてくる。
「肘あり? 肘なし?」と連呼しているのは潮崎だろうか。
 オープンフィンガーグローブ着用、5分3ラウンド。明らかな総合ルール。
 ゴングの音は歓声にかき消された。
 オレス! と誰かが叫ぶ。効いてる効いてる! ロー効いてる!
 バックブロー来るぞ!
 ああ、と漏れる溜息。意味の分からない叫び声。しかしそれはいつかの未知の言語ではない。
「オレスの声、私はじめて聞いた気がする」と田辺。
「肘ありなの?」と潮崎。
 なんだよあいつら。演劇部かよ。
「オレス! 無理すんな、もう工藤に代われ!」
 え、何、ほんとにやってんの?
 ほんとに?
 防空壕の頭上では今日も微弱な警報が鳴り響いているが、その音は海辺の嬌声にかき消され、決して彼らには届かない。

 

 

 

 全員起立。
 校歌斉唱。

 

 While we walking on,
 Zodiac signs change there.

 While we sleeping on,
 Trees twist their branches.

 Even if it changes…
 Even if it accrues…

 I’ve not begun anything yet.
 We’ve not begun anything yet.

 

 While we studying on,
 The piano leaves lingering.

 While We thinking on,
 Pages blown off by wind.

 Even if it changes…
 Even if it’s lost…

 I’ve not finished anything yet.
 We’ve not finished anything yet.

 

 On a windy day, raised flags.
 On a rainbow day, opened windows.

 Let’s ask the man next to weather forecast.
 The password that someone dropped,
 It’s a your new password.
 When the day to open it comes
 Sneak up on wall.

 On a strange sea color day, just wait and wait.
 Just believe and believe.

 

 We’ve not begun anything yet.
 We’ve not finished anything yet.

 

 

 銀色に輝く大海原を、つがいの青い鳥が一定の高度を保ちながら横切っていった。
 追い風に乗り、甲高くさえずりながら機嫌良く飛ぶ彼らの鳴き声は、空の彼方から少し遅れて市街地に届く。
 彼らがかつて「アラート・バード」と呼ばれたその理由を知る者は今や一人もいない。
 彼らはやがて、とある国のとある建造物に辿り着く。無数の部屋があり、無数の割れた窓があり、草花の生い茂るだだっ広い平地が隣接している、巣作りには最適な場所だ。
 彼らは住処をそこに定め、平地から藁を集めては窓の下に運び入れた。そうしてどれくらい時間が経ったのか、雄鳥は藁を組み上げる雌鳥の美しい青の羽根が、突然音もなく強い紫色に変化したことに気付いた。
 それは大海原から一直線に届く、日没の燃えさかる炎の色であった。

 

 

 

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