ブリザード
桃戸のカブのサイドカーに座って大きなカーブを曲がる。これまでに見たこともないような大きなカーブだ。土星の輪のように大きなカーブ。車体の傾きに合わせて、わたしもシートに身体を預ける。
桃戸はゴーグルをしていて、あまり似合っていない。
杖はサイドカーの後部に立てた。そこは元々は如意棒を指して天国に行くための穴なんだ、と桃戸は笑ったが、わたしには意味が分からなかった。
ヘルメットを脱いだ桃戸が十村という名を口にして、自分はそこの本家の生き残りなのだと名乗った時、嫌な感触があった。わたしだってバカではない。「わたしも十村なの?」と、訊ねると、「どうして?」「だってそういうものでしょう?」「俺は知らない。でも、お前がそうだって言うのなら、そうなんだろう」と、何の衒いも無く言ってハグをしたのだった。
おかしなやつだ、と、ハンドルを握り真っ直ぐ前を見る桃戸の横顔を見ていた。
視線を感じたのか、桃戸がこっちを見る。わたしは目を逸らす。
「あの手紙には何が書いてあった?」
「何?」
「手紙の中身」
「知らないの?」
「俺は字が読めないから」
「女の子はね、あまりきつい下着をつけてはいけないって」
「どういう意味?」
「さあ」
「俺さ、十村の本家なんだ」
「うん。聞いた」
「でも違うんだよな」
「そうなの?」
「実は。本当の本家は別にあるんだって」
「よくわかんないんだけど」
「今日さ、そいつも来る筈なんだよ」
「ふうん」
「どんな奴なんだろ」
「そうね」
しばらく桃戸は黙りこみ、しばらくしてから「きっといいやつだよ」と言った。
「ところで、あんた名前は?」
「知らないの?」
「知らないよ」
「どうして名前も分からないのに探し当てたの?」
「そもそもだけどさ」
「何?」
「俺が君を探し当てるなんて無理だと思わない? 名前も知らないし、顔も知らない」
「どういうこと?」
「俺はたぶん君だろうな、と思った」
「どうして?」
「杖を持ってたから」
「そんなのいっぱいいる」
「十村の人間同士だから何となく分かる」
「そうなの?」
「たぶん。しかも、本物の本家筋」
「本家とかそういうの、よくわかんないんだけど」
「で、名前は?」
「万々赤」わたしにはその名しか思い出せなかったのだ。
わたしは十村万々赤です。
十村より遅れること一週間、桃戸と万々赤よりも一足早く村に踏み入る一つの人影。
森と村の境目には石で出来た阿形と吽形の半鳥人の像が苔蒸している。「まるで本物の半鳥人が正義気取りの勇者たちに石化されてしまったようだ」と、その人影の男は口に出して言ってみた。「さぞかし、無念だったろう」しかし像は何も答えなかった。
「でもな、私も亦、おまえたちの味方ではないのだよ」
男はそう言って、吽形の嘴を撫でた。
「俺の名は、筒心魚丹陽。都会からやってきた探偵さ」
ずんぐりとした背格好でニットキャップを被っている。髪が薄く、それを気にしている。年の頃はどれ程だろう。二十代と言われればそんな気もしたし、四十代と言われればそれでも通る気がした。名の通り大陸の出である。身なりはきちんとしており、山道には不似合いなダブルのスーツを着て、足元はさすがにブーツを履いていた。
日が暮れかけて辺りは冷えてきた。
丹陽は来た道に気配を感じ、がばりと振り返った。
「誰だ!」
苔蒸した細い道が続いている。誰の姿もない。用心深い丹陽はその緑を見つめた。
「探偵というのは、どのような些細な変化にも気付かなければならない。そう。それはまるで、推理小説でもない、例えばラブロマンスを読みながら、登場人物の誰も、著者でさえも気付いていない真実を暴かねばならない。筒心魚の名にかけて」
丹陽の声は高く伸びる木々に吸い込まれるように掻き消された。
睨み続けること五分。道が右へと折れて視界から途切れる辺りの苔に、微動が見えた。丹陽はその一点から目を離さなかった。確かに、この辺りの苔は自分の知っている苔よりも随分色が濃い気がする。
「何だ、あの白い泡は?」
丹陽が睨んでいる苔の上に、白い泡のようなものが載っている、いや浮かんでいるような気がした。
「そう思うと、その苔以外にも辺りには白いものを浮かべている苔が幾つかあるように見えてくる。そしてそれらは俺の目を盗み、少しずつ少しずつ動いているような気もしてくるのだ」
丹陽が恐怖を感じ始めたその時、睨んでいる道の角、木の陰から一人の少年が飛び出してきたのだった。
「先生! 丹陽先生!」
大きなボストンバッグを手にした小学生くらいの少年が息を切らせて丹陽に駆け寄る。苔達の不穏な気配は消えた。
「先生、ひどいですよ。どうしてぼくをまくような真似をするんですか」
「お前を危険な目に遭わせたくはないんだよ、と先生が言うと、少年は頬を膨らませた」
「頬を膨らませたりなんてしません。先生をお一人にするわけにはいかないんです。そんなことをしたら、ぼくが奥様に叱られてしまいます」
「お前は確か、不古と言ったな」
「はい、そうです。先生の付き人兼、探偵見習いのわたしの名前は、不古と言います」
「不古よ。今回の一件は、おそらくこれまでのどのような事件とも違う。言うなればシステムが異なるのだ」
「構いません。それであれば尚のこと、お近くにいとうございます」
「約束しなさい。不古。もしも、私の身に危険が及んでも、お前が身を擲ってはなりませんよ」
「分かっています。先生」
丹陽は諦めたように微笑み、不古の手から重いボストンバッグを奪った。
桃戸たちが村に着いた時には既に日が暮れていた。桃戸は生家の引き戸を開け、ただいま、と声をかけた。もちろん返事はない。「誰もいないの?」と万々赤が警戒した声で言うと、桃戸は欠けた前歯を見せて笑いながら言った。
「みんなとっくに死んじまったからな。でもメシはあるぜ」
ああ、この人はそれほど頭が良くないようだ、と万々赤は安堵した。性欲強そうな顔してるくせに。
「お酒はないの?」と聞いてみる。
「飲酒運転になるから飲まないんだ」
何それ、と万々赤は口に出して言って、笑った。桃戸は囲炉裏に火をおこすと「ちょっと待ってて」と言い一度外に出て、しばらくすると肩を落として戻ってきた。
「入れ違いだった」
「何が?」
「ごめん。明日の朝、ここを出よう。追いかけないと」
風の強い夜だった。あまりに風が吹き込むので、寝苦しくなるが雨戸を閉めることにした。がたがたと戸板が音を立てる。裸電球のフィラメントが布団の上で揺れている。隣の部屋で寝ている桃戸が、起きてるか、と声をかけてきた。万々赤は、ゆらゆらと動く白熱球を眺めながら、起きてる、と返事をした。
こういう夜は、悪霊が出るんだって、死んだばっちゃが言ってた。
バカじゃないの。
街から来たもんには分からねえ。
先に言っておくけどわたし、怖い話平気だから。
そんなんじゃねえよ。悪霊は、この村を焼いたんだ。悪霊は、人から生まれて、人に伝染って、悪さをするんだ。ひとつどころで悪さをし尽くすと、そいつはまた別の村へ飛んでいって、悪さをする。
悪さって何よ。
人から何かを盗んだり、隠したりするって、死んだばっちゃが言ってた。一つ一つは大したことねえんだ。でも悪霊が大きくなりすぎると、この村のようになる。
突然、がたん、と大きな音がして万々赤は全身をこわばらせた。そして桃戸の安っぽい怪談にわずかでも恐怖心を煽られていたことを恥じた。
あのさ、と万々赤は言った。これ、一体何の話?
桃戸はしばらく口をつぐみ、それから言った。
お前は何にも覚えてねえんだな。
お前って呼ばないで。
じゃあ、思い出さないといけないな。
だから何を。
十村家の本当の役目さ。
翌朝、二人が村を出ると、村近くの森で子供の悲鳴が聞こえてきた。桃戸と万々赤は顔を見合わせ、声のする方へ走った。
陽の射さない薄暗い森の奥深くまで歩みを進めると、やがて二人は声の主を見つけた。それは坊主頭の少年だった。一見したところ村人ではない。坊主頭の少年は二人を見るなり「助けてください」と駆け寄ってきた。
「先生が、先生が」
子供に手を引かれるままさらに森の奥深くに進むと、そこにはずんぐりした体格のダブルスーツの男があお向けに倒れていた。男の顔色は紫に染まり、誰が見ても危険な状態であった。
「どうしたの、これ」万々赤が訊くと、子供は泣きそうな顔になって言った。
「先生が、ぼくをかばって。苔の泡にやられて」
桃戸がスーツの男の首元に指を添え、「毒か」と呟いた。
万々赤、早速出番だ。
は?
昨日教えただろ。十村の技を使え。
ちょっと、本気で言ってるの?
俺が本気だろうと何だろうと、この男は死にかけてるぞ。
万々赤は自分の杖を両手で握りしめ、不安げな子供の顔を見た。子供の両目からは既に涙が溢れていた。
「わかった。でも、絶対見ないで。あっちに行ってて」
桃戸と子供は、万々赤が見えなくなる距離まで離れた。すると刹那、森の暗がりに一瞬だけ光が灯ったような錯覚が起きた。それは子供には見えていないようだった。桃戸は手の甲で涙をぬぐう子供の坊主頭に手を置き、「もう大丈夫だ」と優しく声をかけた。
光なんて出てないし、この人は毒でもありません。
お腹が痛いっていうから、正露丸をあげただけです。
それは本当だった。
彼は尋常ならざる好奇心により、あろうことか苔を口に含んでいたのだ。
万々赤は、あんな詠唱文句の呪文、口にしなきゃよかったと後悔していた。
よりによって、こんな誰とも知れないブサイクに聞かれるなんて。
これって立派なセクハラじゃないの?
この呪文考えたやつ絶対おっさんじゃない?
ダブルスーツの男は、わたしが呪文をとなえた途端、むくりと起き上がった。
そして汗で湿った両手でわたしの手を握って言ったのだ。
いっ今の、もう一回お願いします。
十村の紋章探しの旅は続いていた。
立ち寄った村の人々は、皆少なからず何かを無くしたように見えた。落ち着きのない者、諦めている者、泣いている者、そして、悪霊を呪う者。
村の老婆の言葉が甦る。悪霊は、人々から何かを奪う。
不思議なのは、自分だけが何も奪われていないということだった。もしかすると、自分でも気づけないくらい微細なものが失われたのかも知れないが、世に「悪霊」と噂されるほどの存在が、そんなケチなことをするとも思えなかった。
俺には失うものが何もなかったのかも知れない。
むしろ、まだ何も見つけることができていないのかも。
村の安宿の朝、オレンジヘアーをハードジェルで固めている間、十村は浴室の鏡の中の自分に向かってそんなことを考えていた。くすんだ古い鏡に霞むオレンジヘアーは何かの象徴のように見えた。
それは、未来、なのかも知れなかった。
それは、過去、かも知れなかった。
随分長い間、鏡を覗き込んでいた。湯気にのぼせそうになり、そろそろ出ようと思った瞬間、鏡の中に一人の女性が見えたような気がした。
彼女は赤いニット帽をかぶっていた。そのニット帽の正面には、何かのマークが描かれている。十村の記憶がフラッシュバックする。
坊ちゃん見ーつけた、と幼い彼女が笑った。
いやーさがしましたよ、と幼い十村が言った。
「行ったか」
「はい、先生」
丹陽先生はスーツについた土を払うと、傍らにあった小岩に腰を下ろした。
「顔は覚えたな。あれが十村本家の生き残りの桃戸と、おそらく消えた正統と呼ばれる娘だろう。何と呼ばれていた?」
「確か、万々赤とか」
「ふざけた名前だ」
「綺麗な人でしたね」
「危ない女だよ」
ぼくは知っている。先生は惚れっぽいのだ。名探偵というものは、いつも惚れっぽいものだが、先生は本当に見境がない。そして、本や映画の中の名探偵と同じなのは万年貧しいことだけで、先生は見た目の通り女の人に縁が無かった。
「あの感じだと、追ってるのは十村の分家の坊ちゃんだろう。時間の問題か」
「どうして、本家の二人ですか? が、その分家の坊ちゃんを追ってるんですか?」
「さあな。知らんよ。何か惹かれ合うものでもあるんだろう。私が興味のあるのは、さっきのあの女の力だ。でも、どうなんだろう。クライアントの依頼の通りに、あの女を連れ帰ったとしても、あの女が話にすんなりと応じるとは思えない。まだ子供だ。しかも、本家の桃戸まで一緒にいやがる。いや、大丈夫だ、そういうことを心配しているのではない。あの程度の若造にやられる程衰えてはいないよ。それよりも心配なのは、大抵こういう流れからすると、お人好し探偵の私は、大人の都合に従われそうになりながらも必死の抵抗をする彼らに同情や、あるいは自らが失ってしまったものを見出し、追い詰めるものの、ギリギリのところでクライアントを裏切り、彼らを逃がすことに手を貸してしまう、そういうことなのではないか。そうなりがちだという話をしているのではない。そうあるべきではないのか、という話をしているのだ」
「不古にはまだ難しくてよく分かりません」
奥さんは、よくこんな人と暮らしているな、と思う。不古には分からないことだらけだ。
「これからどうするんですか? あとをつけますか?」
「急がなくていい。どうせその内にまた会うことになる。もうそういう時間になったんだ。戻ることは出来ない」
先生は両の靴紐を一旦解いて、きつく縛り直した。
「熱いシャワーでも浴びたいな」
と先生は言った。
この国の歴史の影に十村家ありと言われてきた。
中世近代においては、斎藤道三の毒殺、足利直義暗殺、岩倉具視の孝明天皇毒殺に関わったと言われ、古代でも長屋王の毒殺や、薬子の服毒にも関わったと言われている。歴史の影に十村あり、とまで言われ、権力者達はこぞって十村の力を手中に収めようとしたと言われている。しかし、十村に手を出したが最後、その家は女子供まで一族郎党容赦なく毒によって歴史上から消されてしまった。仕方なく権力者達は、十村と手を組もうとするが、十村は敵対するどちらの国にも、その力を貸し、歴史を意のままに操ったそうだ。
その声は大陸の大国にも轟き、歴代皇帝の首から提げている自害のための毒は十村が調合したものだったらしい。解毒剤の無いその毒を首から提げ、他者の殺害ではなく、自らの死の道具とした代々の皇帝という者の存在の大きさをまざまざと感じる。
第一次世界大戦の引き金となったサラエボでの皇太子暗殺も爆薬の中に十村の毒が仕込まれていたと聞くが、これはさすがに信憑性に欠ける。それでも、そのような噂がまことしやかに囁かれるほど、その毒は数々の歴史を動かしてきたのだ。
戦時中の十村の暗躍の記録はどこにもない。これほど近い過去のことにもかかわらず、どこにも記録が無いことが逆に薄気味悪い。国家は大陸侵攻や太平洋艦隊によるグアム攻撃など何度も十村に強く要請をしたが、十村は一度も協力をしなかったとも言われている。一億総玉砕のための方法を相談にも来たが、その使者は廃人となって山から帰ったなど。どれも噂好きのしそうな話の域を出ない。
現代、十村の名を、丹陽のような裏家業の者でもめっきり聞かなくなった。路地の隅々、谷の奥深くまで光が届く世の中になったのか、あるいは、もっと深いところに影が潜っただけなのか、丹陽にも分からない。
「いずれにせよ、どうなっちまうんだろうな」
と、丹陽は不古を肩車した。
この仕事を請けてしまったからには、おそらくはい出来ませんでしたでは済まないんだろう。私みたいなところに仕事が来るなんて、ほとんどの同業者が断った証だ。とんでもないもんに手を出してしまったのかもしれない。
歩き方に不安が出てしまったのだろう。不古が「大丈夫ですよ」と言った。
そうだ。私は、この無邪気な子だけでも、きちんと帰してやらなければいけない。
「さて、役者が揃ってきなすった」
高い木々の間から射す細い光が湿った地面にまで届いている。
男の子には二種類しかいない
パンチラを見かけた時に
一瞬目をそらせる男の子と
ずっと目をそらしている男の子だ