ブリザード

 桃戸と万々赤は先を急がねばならなかった。
 自分たちにまさかそんな追っ手がいるなどとは思いもしなかった。青年期とは、自分達だけが主人公だと錯覚できる時代のことを指す。カブとそのサイドカーはぐるぐると駅前ロータリーを回り続けたとしても、それでも彼らにとって彼らは主人公に違いなく、青年期はロータリーよろしく白々と続く。
「ごめんね。必ず戻るから」
 と、サイドカーから降りた万々赤は言った。
「日付が変わる時間にここで待ち合わせにしよう。もしその時間を過ぎたら、俺は先に行く」
「必ず戻る」
 桃戸はゴーグルを下ろすと颯爽と走り去った。
 一時間に一本しかない列車が幸運にもすぐにやって来た。ホームのプランターでは、季節外れのコスモスが揺れている。駅で思い出す歌って、何だろう、とガラガラの車内で考えるでもなく考えながら、そう言えば私はスナックのママをしていたんだった、と思った。
 杖を撫でる。
 嫌だな、同窓会に杖を持っていくの。
 万々赤は桃戸にもらった手紙を取り出し、もう一度文面を読み返した。
 手紙には誰かのいたずらのような文字で、セクハラな文章が書かれてあった。そしてその裏には、達筆な筆でこう書かれてあったのだ。

 

 十村の忌み子よ。
 今こそそなたの呪われし力が目覚める時。
 真の王の証である蛾の紋章を探し出し、悪霊を打ち払いたまえ。
 P.S. 同窓会やるよ!

 


 見知らぬ土地、見知らぬ駅。人もまばらな駅前には、片手で数えられるほどの店しか無く、本当にここで合ってるんだろうかと不安になる。みんなはなぜ地元ではなく、この土地の店を選んだんだろう。
 寂れた店構えの居酒屋。中に入ると、急にむっとした熱気と喧噪に包まれた。あっ、万々赤が来た、と誰かが言った。おっ、万々赤じゃん。変わってねえなあ。
 皆がその名を口々にするたび、目眩がした。
 これは一体何だろう。
 何が起こっているのだろう。
 見覚えのない面々に囲まれながら、万々赤は貧血を起こさないように耐えていた。思えばあの時、店の前で万々赤と別れてからおかしくなったのだ。いや、その前の地震のようなものが始まりだったのかも知れない。
「■■■?」
 喧噪に紛れて、その声はまっすぐに万々赤に届いた。万々赤は顔を上げた。そこに立っていたのは紛れもない、万々赤の初恋の人、わたるくんだった。
「わたるくん!」
 万々赤はわたるくんに飛びつき、強く抱きしめた。そんなことをしてしまうなんて、自分でも驚いた。でも、誰かをずっと抱きしめたかったのだ。
「おいおい、びっくりするなあ」
 わたるくんは何も変わっていなかった。短く刈った襟足も、手足の長さも、白く整った歯も、愛らしいえくぼも。万々赤は中学三年生の秋、わたるくんに告白しようとしたことがある。でもその時は同じくわたるくんに思いを寄せる2組のJ子に邪魔をされ(わたるくんの親友のえぐっちゃんが本当はわたしのことを好きだというデマの流布、およびわたるくんの家のポストにわたしの名前を騙ったキモいラブレターを一週間にわたり投函するなどの悪質な妨害)、思いを伝えることができなかった。そして冬が来て、わたるくんはJ子と付き合うようになった。その時J子から届いた、わたるくんと頬を寄せて撮ったキメ顔ダブルピースのプリクラ写真は今でも実家の土壁に五寸釘で打ち付けてある。
 そこまで思い出して、万々赤はJ子の姿が無いかとっさに周囲を見回した。いない。大丈夫だ。もしJ子がこの場にいたら、わたしだって何をやるか分からない。
「■■■、ちょっと痩せた?」
 わたるくんの声がまた届く。心がとろけそうになる。わたしの名前、覚えててくれたんだ。わたしがもう一度抱きつこうとした時、別の声が届いた。
「わたるぅ~」
 その声を聞いた瞬間、わたしの幸福感があっけなく瓦解した。振り向くとそこには丸々と太ったJ子と、J子によく似た三人の子供たちが間抜けな顔をして並んで立っていた。
「そろそろ夢幻神ちゃんのオムツ替えてよ~」
 J子は側に立っているわたしをチラリと見ると、「チューハイ2つ追加。レモンとグレープフルーツで」と言った。わたしは全身の毛が逆立つのを感じた。
「このクソビッチが!」
「いかん、暴走する!」
 同級生の一人に化けていた丹陽がマスクを脱ぎ捨てて駆け寄った。夢幻神ちゃんに化けていた不古もオムツを脱ぎ捨てて師匠に続いた。
 刹那、光がすべてを包み込み。
 そして。

 

 夢の中で万々赤はベッドに寝転んでいた。もういいかげん起きなきゃ。そう思うが、部屋が寒くて布団から出られない。布団に顔をうずめていると、部屋に誰かが入ってきた音がした。またお父さんだ。父はカーテンを開け、うわあ、雪だ! と驚く。わたしたちは、騙されたふりをしようか、それとも「嘘つき!」と言って父を困らせようか、布団の中で相談する。
 わたしたち?
 わたしが不思議そうな顔をすると、坊ちゃんがわたしに言った。
「ほんとに雪が積もってるかも知れないよ」
「絶対お父さんの嘘だよ」
「そんなことないよ」
「じゃあ勝負しようよ。坊ちゃんが勝ったら、坊ちゃんの悲しいことを一つ、忘れさせてあげる」
「僕が負けたら?」
「その時は、わたしの悲しいことを一つ、もらってね」

 

 約束の時間はとうに過ぎていた。桃戸はカブのエンジンをつけたまま、サイドカーの空席に目を落としていた。不吉なカラスが濁った声でひとつ鳴いた。
 腕時計をちらりと見る。そろそろ悪霊が跋扈する時間だ。根っからの楽観主義者である桃戸にもさすがに焦りが生まれていた。彼女がいないまま一人で旅を続けるのは自殺行為だった。それにまだ本家の子にも会えてない。そして何やら、自分たちの周辺を嗅ぎ回っているキナ臭いやつらもいるようだ。
 十村の呪われた歴史に終止符を。それが自分に課せられた使命であることを桃戸は知っていた。十村の伝承によれば、村々を焼き滅ぼした悪霊は必ず一つの山に戻るのだという。曾祖母から直々に授かった口伝。十村の毒は、十の人を殺め、十の人を生かす。十の悪霊を生み、十の悪霊を鎮める。悪霊は人なりけり。人は、悪霊なりけり。
 山。
 静まりかえった夜の帳に、溶けた釉薬のような稜線が続いている。

 

 割に合わないぜ。
 丹陽はそう呟いて闇の中を泳ぐように進んでいた。
 割りに合わないぜ。
 丹陽の最も格好の良いセリフである。
 今が何時なのかも分からなかった。いくらお上からの依頼だとは言え、お上だなんて本当かどうかも分からない、実際に俺に接触してきやがったのは、文房具屋っぽいおっさんと、工務店の若倅っぽい男で、そいつらは、お上の名前を出したし、報酬もそう考えないとおかしなくらいの額だったが、本当にお上の依頼なのか、最初から丹陽は訝しく思っている。しかし、あの文房具屋と工務店のフリをしている連中が堅気でないことは、その佇まいからも分かった。
 法外な報酬。期限の無い仕事。割りに合わないぜ。
 十村に首を突っ込むなんて、若い頃の私なら絶対にしなかった。危ない橋は渡らない。見えない道は歩かない。そういう連中を見ては、馬鹿な奴らだと嘲ってきた。
 それが何だ。
 右も左も上も下も分からないフィールドで、一歩間違ったらカーブを曲がり損ねたカブが顔面目がけて吹っ飛んでくるような恐怖や、得体の知れないガキどもや生き物にくっついていくのが精一杯じゃねえか。
 この国は、人々の語り継いできた歴史を受け入れて、それを頼りに生きてきた。
 熊の形をした岩。
 剣の刺さっていた峰。
 剣の血を洗い流した小川。
 緑色の月夜の凶行。
 雨宿りと契り。
 そういった説話や物語といった、忌々しくも重苦しい、あるいは白々しくも笑い飛ばせはしない歴史という言い伝えを、こどもの頃から聞かされ、依り代、言霊、畏怖、穢れと、触れられぬ程の美。
 知ったこっちゃないぜ。
 そんなこと知ったこっちゃない。私の器じゃない。
 食パンに付いてるシールを集めて小皿を貰ってる私と、何も映さない傷だらけの鏡が、磨くだけでは決して得られぬ歪みも傷もない完全な奇跡の鏡に映っているのを眺めている私と、それは同じ私であり、それがこの国なのだ。
 その中枢から遠く離れながら、強く運命づけられた子どもたち。私なんかとは全然違う。
 森と土と谷と川、岩と砂と波と月、風と沼と炎と雲。
 あの子どもたちは夢を見ない。
 あの三人は夢と現実を行き来しているのだろう。まるでそうなのだろう。
 私は、この闇の中を賢明に歩いている。おそらく歩いている。歩いていることをイメージしているだけで、本当に私の足が左右交互に前方に出され、私の腕がそれに合わせて振られているのか、この漆黒の中では確認できない。私は闇の中を歩いている。私は闇の中を歩くということを、歴史が流れていることを思うように考えている。死との違いを考えている。
 私が足を前に進めているのは、暗渠に吸い込まれたあの女を助けるためだ。あの女は自らの強い光が産んだ濃い影に吸い込まれた。あの女を連れて行くことが私の仕事だ。クライアントからの依頼だ。だからわたしは彼女を見つけ出さなければならない。万々赤という名の、あの美しい女は、暗渠に吸い込まれる瞬間、私の目を見て「助けて」と言った。 私ははじめて女に助けを求められたのだ。
 分かっている。
 私はこの後、この暗渠の奧で、あの万々赤という女を見つけ出し、そして彼女を地上に戻すだろう。私は、彼女に謝るだろう。すべてを正直に話してしまうだろう。毒の苔など口にしていなかったこと。クライアントからの依頼を受けていたこと。私が、彼女のことを美しいと思ったこと。
 そして彼女はパンツだけなら見せてあげてもいいわよ、と言うのだ。
 私はそれを知っている。
 それは私が腕の良い探偵だからではない。
 私がごくごく平凡な、どこにでもいる歴史学者であるからだ!

 

 先生!

 

 深夜便。巨大なトラックの谷間に挟まれながら、桃戸のカブはフェリーに乗り込んだ。
 四等客室で桃戸は横になった。同じような独り身の客達が薄い毛布にくるまって身体を休めている。
 目を閉じると万々赤の顔が浮かんできた。桃戸はそれを振り払うことが出来なかった。
 必ず戻ると万々赤が言った時、こうなることは分かっていた。だからと言って、他に選択肢などあっただろうか。人生はマルチシナリオではない。だからマルチシナリオはつまらないのだ。
 隣で横たわっていた男が、読み終えた雑誌を「読むかい?」と渡してきた。桃戸は礼を言って受け取った。無理をすれば万々赤に見えなくもないグラビアアイドルが小さな水着姿を晒している。雑誌をくれた男に、「すみません、これ、何て書いてるんですか?」と訊ねる。男は不思議そうな顔をした後、「悪いな兄ちゃん。俺も字は読めねえんだわ」と言った。
 海の水はとても冷たく、船体を冷やし、薄い毛布越しに桃戸を冷やした。
 目を覚ますと窓の外は既に白んでいた。
 細く冷たい鉄の階段を上り、デッキに出ると無数の白い鳥が船の上を回っていた。離れたところにいる若い船員がパン屑を投げ上げて、鳥たちは奪い合うように器用にそのパン屑を嘴で咥えてくるりと上空へ旋回する。
 万々赤がいたらさせてやりたかった。
 桃戸は別に自分がしたかったわけではないけれど、若い船員に歩み寄り、パン屑を少し分けてもらう。そして力一杯空へ投げ上げると、鳥たちが桃戸の上に集まって怖いくらいだ。パン屑欲しさに降下してくる鳥の羽が起こす風を感じることが出来た。万々赤にこの話をしてやろう。万々赤はあまり興味もなさそうに聞くに違いない。それでいい。俺は、万々赤に、このことを知ってもらいたいだけなのだから。船の上でパン屑を投げたら、白い鳥が寄ってきて、大きな嘴で白い獲物を器用に捕らえること、その強い羽の力、その無感動な目。それを万々赤に知っておいてもらいたいだけなのだ。
 パン屑の残りが少なくなったので、小さなものをまとめて握り、これまでで一番高く投げ上げた。
 ぶぅん。
 風というよりも空間を切る低い音と共に、大きな影が桃戸と若い船員、そして白い鳥たちを覆った。鳥たちは怯えたような鳴き声で喚き、散り散りに船から離れた。
 若い船員が「ガーゴイル!」と言った。
 桃戸の投げ上げたパン屑を巨大な手で受け止め、それを嘴に放り込んだ。もう片方の手には大きな剣。巨大な羽を背中に生やしている。その目は確かに桃戸を見ていた。そしてニヤリと笑って、船の進行方向へと飛び去って行った。
 桃戸には、それは大陸で待っていると言われたような気がして、背筋が寒くなった。
 デッキの前方で船員達の騒ぐ声がする。
「しびれくらげの大群だ!」
 砲台から派手に爆撃が行われる。突然始まった激しい爆撃ショーに乗客たちが起きてくる。桃戸は「ただのくらげの大群なんじゃないのか」と思いながら眺めている。昨夜、隣で横たわっていた男が、気付けばすぐ隣に立っていた。
「あんた、どうしたいんだ」
 どういう意味ですか、と桃戸は聞いた。
「漁師をやってりゃ、こういう日は人生に何度かある。こうなるともう逃げ場はないぜ。生きるか死ぬかだ」
 桃戸は再びしびれくらげに目をやった。やはり、それらは大したことがないように思えた。それは不思議な感覚だった。両腕に力がみなぎるのを感じた。気付くと、隣の男が桃戸の光る左腕を凝視していた。男は、おお、と短く声を上げ、絶句した。
「これ、持っていてください」
 桃戸は小さく畳んだグラビアアイドルの切り抜きを男に預け、全身にちからを溜めると、高く、どんな海鳥たちよりも高く、跳躍した。

 

 えっ、ここで終わり?
 どこかで幼い子供の声がする。
 そうだ、もう遅いからな。
 聞き覚えのある老婆の声。
 やだよ、もっと話してよ。
 ぼん、明日早いんだろ。もう寝なあ。
 やだやだ、みんながどうなったか知りたいよ。ガーゴイルはやっつけたの? あくりょうはどうなったの? ばっちゃは全部知ってるんでしょ?
 ああ、知ってるとも。
 教えてよ。
 そんなら、もう少し話してやっから、終わるまで寝るんでねえぞ。
 老婆はそう答えながら、この何も知らぬ幼子にどこまで伝えるべきか決めかねていた。大陸に渡ってからの桃戸の足取り。歴史学者による歴史改竄事件。悪霊との激闘。その最中のパンチラ事件。外資系ベンチャー企業に再就職した十村の新しい髪型。いや、それよりも、やっぱりあれだな。あれと、あれ。
 わたしは、あれが一番楽しかったな。
 他のみんなも、同じだといいな。

 

 気がつくと、万々赤は丹陽に抱かれ、熱海の混浴露天風呂に浸かっていた。少しずつ意識と記憶が戻り、完全に状況を理解した瞬間、再び万々赤の呪文が暴走したが、それはこの温泉の主な成分であるナトリウム塩化物によって中和され、不発に終わった。
「死ねっ! 死ねっ!」
 万々赤は顔を紅潮させて亀のように身体を丸くした。丹陽は「恩人に死ねなんて、ひどいね」と大人の余裕を見せている。
「死ね!」
 万々赤は杖を探したが、周りにはシャンプーとリンスがあるだけで、杖は見当たらなかった。それでも両手に力を込めると、ゴポゴポ、という泡が浮き、湯の色が紫に変色しはじめた。
「待て、待ってくれ」と丹陽の顔色が変わる。
「君を助けたのは僕だ、それに、ここに飛んできたのにはわけがある。間違いないんだ、この辺りにいるはずなんだ」
 今度は万々赤の顔色が変わった。万々赤は近くに置かれていたタオルでかろうじて身体を隠すと、湯気に包まれた周囲を見回した。ふと、脱衣所に人影が見えた。そのなで肩のシルエットは万々赤の古い記憶を呼び覚ますには充分だった。
 カラカラカラ、と戸が開く音がする。
 シルエットがこちらに近付いてくる。その手に長い棒を持って。
 ひときわ強い風が吹き、二人の間に立ちこめていた湯気が晴れた。
 そこには右手のタオルを肩にかけ、左手の杖を万々赤に差し出した、オレンジ頭の全裸の男が立っていた。その男の下腹部には、忘れようもないあの紋章が、何かを何かから隠すように激しく光っていた。
「いやー、さがしましたよ」
「あっち行け変態!」

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