ブリザード
杖を手にした万々赤によって本格的に毒風呂に変えられた熱海の混浴露天風呂は数日間の休業を余儀なくされた。やがて翌週には元通り営業を再開したのだが、杖による直接攻撃を受けた丹陽はもちろん、風呂の底に隠れていた不古もそのまま一週間同じ宿で寝込むことになったのだった。
丹陽より早く食事がとれるようになった不古が、朝食の焼き魚を丁寧につついている。「ホント、今回は割りに合わなかったですね」
布団の中の丹陽は、ああ、と短く答えた。
どうせこの宿泊費も出ないんですよね。
ああ。
でも先生、良かったんですか。あれで。
もういいんだ。
強がっちゃって。
いや、私の目的は終わったんだ。
丹陽は布団の中から痩せ細った腕を出すと、不古のたくあんをつまみ、それを口の中で噛みしめた。
パンツなど、もうどうでもいいんだよ。
強がっちゃって。
大陸奥地、絶壁に建てられた古寺で門外不出の暗殺拳を身につけた桃戸が帰ってきたのは、秋も深まった頃だった。あれから熱海に逗留し続けた十村と万々赤はすべての外湯と内湯を制覇し、既に信じがたいほどの経験値を手にしていた。
十村と万々赤には確信があった。
この旅が終わりに近付いていることを。
桃戸が、近いうちに自分たちの前に姿を現すことを。
温泉宿の窓ガラス越しに白く煙った富士が見える。「熱海 富士山が見える宿」で検索した情報は正しかったのだ。
二人はしばらく富士の白い頂を眺めていた。不意に浴衣姿の万々赤が、坊ちゃん、と呼んだ。
よせよ、と十村が笑う。
万々赤は真面目な顔をして、十村の肩に額を乗せて言った。
わたしを見つけてくれて、ありがとね。
十村は、俺も、と返そうとして、言葉を飲んだ。
礼を言うのはまだ早いぜ。
まだ十村の仕事が残ってるからな。
無学な十村も万々赤も気付いていない。
床の間に飾られた軸には。
雪ん子か 悪魔神官 現れた
雪煙がきつく視界はとっくに失われていた。「これが宮沢賢治の言うホワイトアウトなのね!」と万々赤が十村の耳元で叫ぶように言った。「そうなの?」と返す声は吹雪の中へ連れ去られてしまう。
風が一段と強くなった。二人の頬を細かな刃のような風が刻んでいった。その瞬間、ようやく視界が晴れた。
見えた。あそこだ。
すり鉢状の地形の底に湖があり、その中央に小さな祠があった。湖は凍り付き、平らな湖面に雪が積もってそれは白い三日月のように見える。
言い伝えの通り、攻略本の通りだった。
既に六時間も二人は歩き続けていた。その間にセーブポイントもなければ、西武グループのポイントカードであるクラブオンカードが使えるお店も一切無く、どちらも口にはしなかったけれど、ポイントはポイントでもマジックポイントが先に無くなってしまうのではないか、という健康上の不安と、それってこのタイミングで言うこと? という文学的な不安を拭えずにいたのだった。
小さく見える祠に向かって、二人は一歩ずつゆっくりゆっくり踏みしめるように噛みしめるように下っていった。
祠まで20メートル程の距離に来たところで、先頭を行く十村は足跡を見つけた。人間のものだ。その足跡は祠から出て来て、また祠へと引き返しているように見えた。ガイドブックによれば祠には小さな教会がある筈だから、神父さんだろう。一人でこんな山の中腹で旅人を待っているなんて、アーメン。
祠の前で装備に積もった雪を払う。湿気の一切ない雪は軽く払うだけでぱらぱらと落ちた。公式ガイドブックにある通りだった。大きなザックと、杖を扉の脇に立てかけて、二人は扉を開けた。
神父さんは祭壇の前で既に凍り付き息絶えていた。
十村が残るマジックポイントを全て使ってそれを唱えたけれど神父さんは生き返らなかった。唱えながら十村はそれを知っていた。そういうものではないのだ。
「セーブできないね」
と万々赤が言う。
「セーブなんて出来なくていいんだよ」
「知ってたよ」
公式ガイドブックを神父さんの手に抱かせる。
ここから先は、もう。
キラーマシーンと悪魔神官と桃戸が現れた。
キラーマシーンの攻撃。ミス。
キラーマシーンの攻撃。ミス。
悪魔神官はザラキを唱えた。十村と万々赤には効かない。
桃戸は何か言いたそうにしている。
十村は何か言いたそうにしている。
万々赤はおしっこを我慢している。
キラーマシーンの攻撃。ミス。
キラーマシーンの攻撃。ミス。
悪魔神官はザラキを唱えた。十村と万々赤には効かない。
桃戸は何か言いたそうにしている。
十村は「こっち来いよ」と言った。
十村は「こっち来いよ」と言った。
桃戸と十村と万々赤が縦に並んでゲレンデを滑り降りてくる。
それぞれがお気に入りの杖を両手に握りしめて、美しいシュプール。
『スキー天国、サーフ天国』が聴こえてくる。
まず始めに桃戸が豪快に転倒し、次に十村がそこに突っ込み、最後に万々赤が二人に乗り上げ、尻餅をついた。キャッ、という万々赤の嬌声。二人を軽々と担ぎ上げるノーダメージの桃戸。そして最後に、第三~第五肋骨を骨折した十村のうめき声。
万々赤が杖を振りかざすと十村の痛みが消えた。
万々赤が杖を振りかざすと桃戸の涙も消えた。
色々世話になったな、と桃戸の右肩に乗った十村が言った。
それはお互い様でしょ、と桃戸の左肩に乗った万々赤が言った。
あれっ、十村と同じくらい重いな、と桃戸が言った。
万々赤の魔法が暴走する。
ホワイトアウト。
やばい、雪崩れる!
三人の紋章が光りはじめ、雪原の悪霊どもを一撃で屠ったれんけい技が、今再び炸裂した。
同じ頃、熱海から富士を眺めていた不古が、山頂の光を見てふと呟いた。
あ、雪。
幼子の寝息は、まるで静かな夜に降る綿雪のようだ。
囲炉裏の火は明け方までに消えるだろう。
おやすみ、坊や。
いつかまた、このお話の続きをしてあげるね。
了