category:小説ドッキング
だから
- アベ
- どうしてもお前が記憶を無くしているとは思えない。ぼくはお前を信じていない。
お前はもうどこかで思い出しているのではないか。あるいは、思い出していることに自信が持てないのではないか。
以前の耕助は言っていたよ。
別人になってやり直したいなんて、らしくもないことを。
ぼくはそれを聞いて笑いもした。「どうしようもないな」
泣きもした。「どうしようもないな」
残酷にもぼくは言う。突き放すように。
「どうだい。やり直している気分は?」
耕助は悲しげにこちらを見ている。それでもぼくは続ける。
「ぼくは以前の耕助の方が好きだったぜ」
いいんだぜ、耕助。謝って出て来いよ。思い出したって電話してこいよ。
- アベ
- 耕助は最後まで昔のことを教えてくれと、ぼくたちにせがんだ。
ぼくたちは誰もお前の昔の話をしようとしない。
祐二も中津川も香も優しすぎる。あるいは、優しすぎる。誰も話そうとしない。ホイチョムにも何も言っていない。ホイチョム、思い出せないか? なあ、どうしたらいいんだろう?
別人になってやりなおしたい、と耕助が言った時、誰かが「変わらなくたっていい」と言うべきだったのか?
いいよ。ぼくが話してやる。小説を書くものとして、少しだけ昔の話をしてやる。ぼくたちが好きだった耕助の話だ。
- アベ
- こんなこと言いたかないんだけどさ、あいつ記憶喪失なんかじゃないと思う。
あいつだって分かってないんじゃないか。記憶かどうかなんて。
好意的だね。
ロマンチストなだけだよ。
- アベ
- ぼくたちにはぼくたちの暮らしがあった。
仕事にだって行かなければいけなかったし、決まった曜日にゴミを出さなければいけなかった。
- 大原
- その平原には十字架が立てられていた。白く巨大な十字架だ。その光沢のある表面にはこう書かれてある。森の墓地。
幾千、幾万の森がここに葬られている。ぼくたちがこの平原に迷い込んだ時、既にここは墓地だった。ぼくたちの生まれる前の遙か昔に本に描かれた有名な森が、今や何も無いだだっ広い平原となり、墓地となっている。
我々はそこで神に祈った。
かつて森だったものたち。
これから森になるものたち。
そして森に迷い込み、記憶を無くした、この世の不確かな生き物たちのために。
- ア/大
- 平凡なライトフライの落下点に入る。
灰色の空の中で白球は二つに分かれて落ちてくる。
だからぼくは二つに分かれてそれを捕球したんだ。
一人ゲッツー。スリーアウト、チェンジ。
うん。相手チームの監督は怒ったね。
二流三流だよね。そんなことで怒るなんて。
スタンドに放り込めばいいんだ。
それぞれのぼくの手にはボールが一つずつあった。
そう。
ホイチョムは言った。
生きていくにはスピードが大事なんだと。
彼の祖父は騎手だった。
よく組んだ馬の名がスピードスター。
当時を知る老人曰く、それほど速くはなかったという。
そしてホイチョムの祖父もスピードスターも、世界で一番速い馬を生涯知ることはなかった。
- アベ
- 問題なのはね、本当に記憶を無くしているかどうかじゃなくて、記憶を無くしているとあいつが言ってることなんじゃないのかな。
オレ、お釣りもらったかどうか、すぐに分からなくなるの。
お前さ、記憶喪失の人って他に会ったことある? ないよね。記憶喪失ってほんとにあるのかな?
- アベ
- 車内は女の香水の匂いだろうか。車の芳香剤の匂いだろうか。果物のように甘ったるい匂いで満ちていた。わたしはその匂いに馴染めず窓を開けたが、むんとした熱気が吹き込んできて、運転手はエアコンが壊れているのでね、窓は閉めてくださいよ、と言うのだった。
運転手は海沿いの駐車場に車を止め、助手席の女の唇に吸い付いた。女は拒むでも無く、運転手の男のワイシャツに腕を回すでもなく目を閉じていた。ぼくは車を出て駐車場から浜へと続くコンクリートの階段をざらりと降り、防波堤に持たれていた。波を二百回数えたところで、ぼくは車へと戻った。運転手と助手席の女の姿は無かった。
車のキーは刺さったままになっていた。
でもさ、痴呆と記憶喪失って何が違うんだろう?
ハロー、ホイチョム。中国にも梅雨ってある?
日本通のホイチョムのことだから梅雨のことは知ってるよね? その梅雨に日本は突入したよ。素敵さ。たぶんわたしたちの間に横たわる東シナ海にも雨が降り続いているのだろう。有名な漢詩さ。知ってるかい?
ホイチョムに手紙を書いていると元気になってくるよ。それはたぶん、ホイチョムという人間が可能性に満ちているからだろう。きっとそうだろう。
わたしがもしも耕助の立場だったら? そうね。嘘でしたって、謝るわ。
- 大原
- 予定地、という看板が熱風に晒されている。その錆びて傾いた看板を見ながら父が言う。
「本当は、俺は、子供は男だけで良かったんだ」
なんでそんな余計なこと言うかな。
わたしは父に聞く。これは何の予定地なのかと。
父は、ここは暑くてかなわねえな、と砂だらけの瞼を擦った。
- アベ
- 今は亡き銀行の キャッシュカードの暗証番号 そんな そんな合い言葉があれば良かったのにね
- 大原
- 法律を犯した先にある寝床にみんなが集まっていた。ただ一人を除いて。
ぼくは進むべきか戻るべきか迷い、
そうして迷子になった。
記憶は新雪のように溶けていった。
- アベ
- 黒島とぼくの間に血縁関係があればいいのに、なぜかそう思ってきた。
ぼくたちが姉と弟であったり、兄と妹であったりしたならば、黒島のことを抱きしめるのだ。
古い話だ。
抱擁の代替行為としての制御された言葉。
血が繋がっているからといって、それが何だというのだろう。
そのくせぼくは、ただそうだったらいいのに、と思い続けている。
何を抑えることもなく。
したいことをしたいようにするだけなのに。
生まれ変わったら一緒になろう、という言葉があるけれど、ぼくたちは生まれ変わったら一体何になるんだろう。
兄と妹や、姉と弟に、なることは出来るのだろうか。
不安を森の奥へ、山の頂へと吹き飛ばしてしまった。
それは、さよなら。
思い出が誰か知らない人の手に渡る。
誰もが軽度の記憶喪失であり、誰もが重度の睡眠不足だった。
浅い眠りは夢を思い出にもしない。
前略。
わたしには、一度言ってみたかったセリフがあります。
そして気付くのです。
このセリフは久留間にしか言えない。という決意でした。
「お互い、この一件が片付いたらさ、休暇でも取ってどこか遠くへでも行かない?」
この一件って、何だろうね。ふふふ。
小説を書くぼくの右手に、右手だけでいい、経子の右手を重ねてくれないか。
プロポーズ?
バカだな。
そうだよ。
- 大原
- その街は恐ろしく古く、脆く、なぜいまだにそこにあるのか誰もが不思議に思うほどに朽ちかけていた。
街のあらゆるものが土に還りつつあった。街を飛ぶ鳥や、吹く風さえも、音色を失っているように沈黙していた。褐色の壁がどこまでも連なっていた。もはや出口は無いように思われた。崩れた道が左右の敷地にまで広がり、砂と共に境界を侵食していた。彼らはその街で生まれ、一生を街の中で過ごし、街の中で死んだ。
彼らの物語は一冊の書物となり、街の図書館に残された。それを読む者は誰もいなかった。
街の外の人間である私がその書物に出会えたのはまったくの偶然だった。戦火によって滅んだ街の図書館の瓦礫の中から、焼け残った膨大な量の書物が発見されたのだ。その殆どは街の人間の記録だった。彼らがどう生き、何に笑い、悲しみ、いかに死んでいったのかを、書物は淡々と記録していた。しかしその書物は歴史学者にも社会学者にも存在を無視された。記録はあまりに記録であり、特徴も進化も見られなかった。それは決して文化ではなく、歴史でもなかった。この本はまるでこの街そのもののようだ、と一人の歴史学者が呟いた。なぜこんな本が存在するのか、円卓を囲む学者たちは誰一人答えることができなかった。
私は、内容はともかく、表紙が良いと思ったのだ。
もちろん学者連中の賛同は得られなかったが、私の反対によって、その本はかろうじて焚書を免れた。
今、私の書斎にその本はある。美しい青い色をした、あの出口のない街のような本だ。
- アベ
- 忘れっぽい北風。浮気っぽい南風。鬱っぽい西風。バカっぽい東風。
先生は黒板に「幻のソウルオリンピック」と書いた。
「これはとある有名な文学作品の原題です」
そして「何か質問のある人」と言った。
ぼくたちは何が聞きたいのか分からない。それはとてもぼんやりとしている。
何を聞けばいいのか教えて欲しいと思う。
いや、そのぼんやりとした膜のようなものを取り除いて欲しいと思う。
そう。それについて、決して教えてもらってはいけないのだ知っている。
嘘をついてはいけないと知っているように。
なあ、耕助におっぱい見せてやってくれよ。そうしたらあいつ「思い出した」って、正直に言えるかもしれないじゃん。
いや、あいつ見たことないし。「思い出した」って、それが嘘じゃん。
へえ。嘘つき。
- アベ
- 渓谷に覆い被さる木々がまるで。
木漏れ日がまるで。
水簾があらゆる音をかき消している。
昔の人々はそこに神というものが本当にそこに現れると知っていたのだろうか。
今はもういなくなってしまった、その神のことを、彼らは本当に知っていたのだろうか。
- アベ
- あのエロ本ばっか置いてた古本屋。パチンコ屋の駐車場のやつ。この前の冬に火事になったんだ。黒煙が濛々と空に昇っていく。雨乞いの儀式みたいだ。顔が熱く火照って、コートも脱いだ。
岬の沖合の小舟は炎上して沈む。
古本屋を失ったぼくたちは持っているエロ本をとても大切にした。
- アベ
- 何があったんだろう。
何か言えないことがあったのだろう。
言いたくないこと?
言えないことだよ。
何それ。変なの。
- アベ
- 記憶と文字が出会ってから、一体どれくらいの時間が流れたのだろう。
文字? 関係ないね。
ははは。かっこいいじゃん。
互いの女性遍歴を晒すところからぼくたちは友だちになった。恥と罪悪感の交換。
そう言うと彼女は笑った。
わかるわよ。
恥ずかしい部分を見せ合って、そうして仲良くなっていくんでしょ? そういうものでしょう?
ぼくと彼女はその日、恥ずかしいところを見せ合った。
- アベ
- このプラグとこのプラグを差し替え、このジャンクションとこのジャンクションをつなぎ替えて、このケーブルを行き止まりにしてしまう。自動車や電車、光や話し声は、従順にそれに従った。
お願い。もうわたしのことは忘れて欲しいの。お願い。
- 大原
- 香のことを少し。
カリブの海で海賊をやっていたと、わけの分からない自己紹介で突然わたしたちの前に現れた香のことを少し。
そのあと本当にカリブの海で漁師をやっていたことが分かって、その当時撮った大量のモノクロ写真が大きい賞を受賞して、結局、ほどなくしてわたしたちから遠くなってしまった香のことを少し。
香は2年だけわたしたちの前に現れた。そしてその2年という歳月はとても退屈なものだった。何事もなかった。誰も大切なことを話さなかった。その機会がなかった。だからわたしたちはその記憶をすっかり忘れてしまっていた。今でもそう。誰が何を喋ったのかまるで思い出せないでいる。
だから耕助がああいう風になってしまったのもよく分かる。けれど。
わたしたちはお互いの顔と声だけは決して忘れないだろう。
その記憶はどんな歴史書でも覆せないだろう。
風が上空でうねりながら流れている。
ジェット機のような轟音が遠くからぼくたちに届いている。
「それ」を見つけたのは香で、
「それ」を埋めたのは耕助だった。
埋めたあと、みんなで祈った。
ぼくはみんなが何を祈っているのか、いや、それよりも、一体誰に祈っているのかを知りたかった。
ぼくは埋めた「それ」に向かって「この時が永遠に続きませんように」と祈った。
今のところその願いは叶い続けている。
- アベ
- 不思議とその頃からわたしたちの記憶が遠ざかっていたように思います。
もしかすると、耕助の記憶はその頃から戻っていたのかもしれません。
いえ、みんなが言うように、耕助の記憶は最初から失われてなんていなくて、記憶を無くしたフリをしていただけなのかもしれない。
本当のことを言うと、わたしもそう思っています。
けれど、だんだん耕助のことを考えなくなっていくにつれて、その他のこともうまく思い出せないような気がしてくるのでした。少し怖いと思いました。そして、もしかしたら耕助の記憶が戻りつつあるのかもしれない、と、根拠も何もないけれど、そう思ったのでした。
- 大原
- 「それ」ってなあに、と娘が言った。
パパは何でも知ってるから何でも答えてあげる。
それはね、
投げられなかったチョーク。
震えなかった声。
飛ばなかった紙ひこうき。
生まれなかった命。
止まなかった雨。
なんというか、そういうものだよ。
- アベ
- 細い路地。ブリキ小屋ギリギリに寄せて車を停める。
小屋の裏へ回り込むと雑草の中の急な坂を滑るように下り、一瞬遠くまで景色が見える角を曲がるとトラバースするように斜面を東向きに進む。そうすると樫か何か、丸いどんぐりを落とす大きな木が見えてきて、その陰から排水溝の名残のようなコンクリートを辿り湿った枯れ葉と蔦の中を進めば、記憶通りそこにあった。
大人になって再訪した、かつての秘密基地。あの頃、ここは誰にも見つからなかった。
当時から古ぼけていたクリーム色のソファが、あの頃のままの姿でそこにあるのを目の当たりにした時、わたしは泣き崩れてしまった。
あの映画のラストシーン、コオロギのことがよぎる。
遠くから電車の音が聞こえた。
- 大原
- 西暦2021年の3月にわたしたちは再び出会う。
かれらは、わたしたちは、あなたたちは、皆とてもくたびれた顔をしている。
これは預言だ。
歴史でも、希望でもない、わたしの預言。
もう遠い昔から決まっているのだ。わたしたちのことなんて。
恥ずかしさと後ろめたさと気持ちのいい思い出と怒りと秘密と優しさが、みんなの言葉を剥いでいく。
重い沈黙だけがそこにある。
けれどまあ、そこは初対面じゃないんだし。
さすがのわたしたちというか。
やがて一人がとても小さい声で自己紹介を始めるのだ。
ほら、回ってくるよ。
中津川の、次の次だよ。
きっとそれが最後のチャンス。
小さい声でもいいからさ。
あ、もう次だ。
- アベ
- 水晶玉に乗って浮かんでいる占い師は言った。
正直者ほど嘘をつくのじゃ。
- 大原
- だから何を言っても大丈夫。
わたしたちは共犯者だ。
了