夏のしにがみ
運動靴の紐を結び直していると、遅れて下駄箱にやって来たゆうかちゃんが言った。
あべちゃん、明日から何するの?
すると先に靴を履き替えていた世界のカマテツが首を突き出し、つばを飛ばして言った。
決まっとるがな、電車乗ってチカンざんまいや!
ゆうかちゃんは心の底からの侮蔑を込めて世界のカマテツをにらみつける。眉間に皺を寄せてもゆうかちゃんはかわいいな、とあべは思う。
担任の南先生と同じくらいかわいいな。
バツイチ子無しの、駅前のワンルームに住んでる、週末は一人コンビニで夜食と酒を買い込んで淋しい身体を持て余している我らが南先生。
「はよ捕まれやオッサン!」
そう叫んで世界のカマテツは校門へと走っていった。その後ろ姿を見送ったあと、あべはふと、まだゆうかちゃんに返事をしていなかったことに気付いた。
明日から、何しようかな。
困っちゃうよね。
うん。
宿題やる?
一緒に?
えっ、そういう意味じゃなくて。
ごめん。
あべは年甲斐もなく照れた。親子くらいの年の差は、このうだるような暑さの下で、目の前の初代校長のブロンズ像と一緒に曖昧に溶けつつある。ゆうかちゃんの透明な汗が音もなく首筋からシャツの中へ滑っていく。ゆうかちゃんが、何かの言い訳のように言葉をつなげる。
自由課題どうする?
カメラの?
そう。わたしカメラなんてまだ持ってないから。あべちゃんはカメラ持ってるの?
持ってるよ。
えーっ、すごい。なんで持ってるの?
おっさんはみんな持ってるんや。
えーっ。
南先生がいいました。みなさん、今年の夏休みは、写真を撮りましょう。どんなカメラでもいいですから、みなさんの大事なものの写真を撮って、夏休みの終わりに提出してください。カメラを持っていない人はお父さんお母さんに借りてくださいね。携帯のカメラでもなんでもいいですよ。
「先生!」
「はい、あべさん」
「D2Xの撮って出しでもいいですか?」
静まり返る教室。世界のカマテツの舌打ちだけが耳に届く。ガラスの向こうじゃきっと蝉が鳴きわめいているに違いない。防弾ガラスでも仕込んでやがるのか、まったくこの静寂はなんだ。いつから俺はこんなところにいるんだ。いつか俺のD2Xが火を噴いて、教室の窓ガラスが全部割れて、悲鳴と混乱の中で俺は教壇の上に立って言ってやるんだ、うるせえよ、蝉の声が聞こえねえぜ、ってな。
「はい、それでもいいですよ」
南先生が落ち着いた声であべに告げる。あべは「すみません」と小声で着席する。
今のところ、南先生に脈はない。