夏のしにがみ

 ファインダーを覗き込んだまま、あべは歩いていた。俺は大丈夫だと、その日何度目かの自問自答を繰り返しながら、あべは郊外の道を歩いていた。歩きスマホは駄目だけど歩きカメラはOKだって死んだばあちゃんも言ってたっけ。あべは薄汚れたガードレールに沿ってただ目の中の風景を追いかけていた。一秒ごとにあべの網膜に新しい写真が焼き付けられた。一枚の写真は次なる写真に上書きされ、その写真も一秒後にはまた別の写真に置き換わっていた。
 ただ一点だけ、ファインダーの中で変わらないものがあった。あべはそれを基準点として世界との距離を測っていた。それはファインダーの中に常に存在している不思議な形をしたシルエットだった。それはシミのようにも、空を飛ぶ鳥のようにも見えた。あべはそれに導かれるように国道を越え、橋を渡り、田んぼを横切った。まるで鳥に誘われているようだった。
 冷たい風が吹き、ふと顔を上げると、そこにはあべの知らない景色が広がっていた。隣町まで来てしまった? いや、近くにこんな森があったか? 人の気配はなく、太い国道を往来する車の姿もなかった。嫌な予感がしたあべはとっさにレンズを交換することにした。20ミリ広角から85ミリ中望遠へ。念のためだ。
 レンズを外した時、ミラーに違和感があった。ボディを覗き込んでみると、ミラーの右下に、小指の先ほどのサイズのシールが貼られていることに気付いた。なるほど、これがファインダーの中に映り込んでいたのだ。何の形だろうかとよく見てみると、それは鳥ではなく「α」という文字だった。一体誰がこんなことを?
 そんなの決まってる。
 あの優等生の、世話焼きの、そしていたずらっ子のゆうかちゃんだ。
 突然、誰かの悲鳴のような声が森の中から聞こえてきた。ほら言わんこっちゃない、とあべは呟き、85ミリのファインダーを覗き込んで構図を確認した。大丈夫。俺はきっと大丈夫だ。
 あべは泥の沼のように柔らかい森の腐葉土にその重い一歩を差し入れた。長い間誰に踏まれることのなかった土が、あべの靴を根元まで深々と飲み込んだ。

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