夏のしにがみ

 森は奥へ行くほどに気温が低くなり、どこか白い大地に繋がっているのではないかと思わされます。森の中には色んなものがありました。エロ本だけじゃありません。幼い頃に買ってもらった自転車や、従兄弟からおさがりで貰ったドライヤー。江戸は日本橋の欄干らしきものもあったし、大漢和辞典や、ホテルのモーニングのビュッフェらしきものもありました。それらに躓きながら、その背中を必死で追いかけます。ガイコツのマスクを付けて走っていると息苦しくなってきたので、手に持ちます。でも、またやっぱりかぶります。やがて辺りがひどく寒くなってきて、顔が痛いくらいになって、もうあべはずっとマスクをかぶりっぱなしになってしまいました。
 やがて森は途切れ教室になりました。
 南先生は黒板に「しにがみ」と書きます。
 死神というのは、命を強引に略取する存在、あるいは死への欲望をかき立てる存在、とされています。なんとなく怖いイメージがありますか? 怖い顔、怖い声。そうですね。歩いた跡の草や花は枯れ、その鎌を一振りすれば、動物たちは鳴き声一つ上げることなくばたばたと地に伏せてしまう。出来れば夜道、じゃなくても、昼間でも会いたくありません。
 でも少し考えてみたい。
 死神の気持ちを。
 死神だってずっと死神じゃない。
 先生がいつも先生ではないように。
 わたしたちは何にだってなれる。
 先生にだって。
 死神にだって。
 あべさんを縛り付けているのは、あべさんだったという記憶。
 いいえ、わたしの生徒なんだから、あべくん、で良いよね。
 あべくん。
 それはとても大切なことです。
 あべくんを縛り付けているのは、あべくんだったという記憶。
 もちろんそれはとても大切なことです。
 記憶喪失になったり、年をとって色んなことが分からなくなってしまったり。
 したくないって、先生は思う。
 けれど、もう一つ大切なことがあります。
 あべくんが何かをする時に、あべくんとして考えるよりも大切なことがあります。
 それはね、あべくんは必ずしも、あべくんではないと思うことです。
 そうすれば、あべくんもきっと。
 ね。
 そのマスク、あげる。

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