夏のしにがみ
森の奥から草刈り機の音が聞こえる。
鬱蒼とした草いきれの中をあべは歩いていく。
やがて妻の黒いマントを羽織った背中が見えた。
しばらくあべはそこに立って、妻が草を刈る様子を眺めていた。
何かになりたいという思いや、何かでいたくないという思い。
それらがどこからやってくるのかは分からない。そんなことはどうだっていい。
それよりも、今ここで起きていることの責任、いや、理由は俺自身にあるのだ。
俺はそう考えたいと思っている。
傲慢なことだと、人は鼻で笑うだろう。
娘にだって笑われるかもしれない。
でも、たぶん俺は笑われてもいいから、そうする。
そして、本当は誰も笑わないし、冷やかしもしない。
「先生」
と、あべは背後から声をかけた。
草刈り機の轟音のせいで妻は気付かない。
「南先生!」
出来うる限りの大きな声で呼びかけた。
草刈り機のエンジンがゆるやかに止まり、死神が振り返った。
「下草を刈って、森の木を大きく育てる。死神さんらしい立派な仕事です」
話しかけるが、妻の表情は見えない。
死神が草を刈っている場所を娘に調べてもらった時、でも本当はママじゃなかったら危なくない? と娘は心配していた。そんな心配などいらないことは、あべには分かっている。
「そのマスク、ぼくのなんですよね。覚えてますか? 俺は忘れてました。すっかり忘れてました。先生がせっかくマスクをくれたのに、みんなの前で泣いちゃうし、そういう恥ずかしい思い出って、忘れないものかと思ったら、そういうもんですね、忘れるんですね。いつからかなぁ、俺は俺であるという記憶をあまり持ってなかったみたい。心配してくれた先生をよそに脳天気なものでしょう? たぶん死神失格。死神であることに縛られるどころか忘れちゃって、平気で生きてる。それってさ、間抜けな話だけど、そういうことなんですよ。きっと、先生がいてくれて、それでずっと忘れてた。本当にまるっきり完全にきれいさっぱり」
妻は動かない。虫の声がわんわんと二人を取り囲んでいる。
「わたし、自分のことが嫌いになったわけじゃない」
マスクの下からは妻の声がした。
「ねえ、あべくん」
「はい」
「あべくんなんて呼ぶの、いつ以来かな。あべくんも自分のことが嫌いじゃないって言う。わたしもわたしのことは嫌いじゃないと思う。でもね、どうしようもなく自分が誰かに嫌われているということが、嫌になってしまうときがある。そんなことは気にしなくていいとか、気にしちゃいけないとか、思っていても、駄目なの。先生なのに、駄目なの」
「そんなの、きっと死神だって駄目だろう」
「だよね」
「嫌われてるの?」
「うん、みんなに嫌われてる。いなければいいって思われてる」
妻はマスクを取った。泣き崩れた顔。
「もう一度、こどもからやり直せたらいいのにね」
「変わらないよ。なんにも変わらない」
「写真、撮ってもいい?」
「嫌だな」
「宿題なんよね」
「仕方ない」
猿の群れが東の谷から西の谷へのそのそと移動している。もうすぐ日が暮れる。群れの内の一匹が、いつの間にかマスクをかぶっている。
「いい顔してるな、硝子」
「ありがとう」