夏のしにがみ
エアコンのタイマー設定を間違えていて、夜中に汗だくで目が覚めた。時計を見ると深夜二時半だった。あべはベッドから下りてキッチンへ行き、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して汗となって出てしまった水分を補給した。
いつか、こんな夜中に妻とキッチンで鉢合わせたことがある。電気を点けていなかったのでお互いびっくりして、それから笑った。あべはその時もミネラルウォーターを飲みにキッチンへ向かったのだった。喉を潤し、自分のベッドに潜り込んだあと、ふとあべは、妻は何をしていたんだろうと疑問に思った。あんな時間に、電気も点けずに、彼女はキッチンに立っていた。
その理由はほどなく判明する。当時中学生だった娘がこっそり教えてくれたのだ。
パパ、ママはね、別の人になりたいんだって。
あべの心臓が急激に収縮した。
別の恋人がいるん?
すると娘は驚いた顔になり、ちがうちがう、と顔の前で大きく手を振った。そうじゃなくて、別の人になりたいの。
その時は何も分からなかった。けれど妻は言ったことを必ず実行するタイプの女性だった。妻がそう言うのだ、近いうちにきっとそうなるのだろう。
それにしても違和感が拭えない。どちらかと言うと妻は別人になりたいといった文脈を好まないように思う。好まないというよりも、嫌忌していると言ってもいいかもしれない。いつか言っていた。「自分のことを嫌いだなんて口にしたりするのは、他の誰かを否定するのと同じ。そういう人のことを否定してるのと同じ。どういう目で人のことを見てるの? って思う。そうでしょう?」
それは確か、あべの友人が家に遊びに来て帰った後の会話だ。夫の友人のことをそんな感じに妻が言うのは珍しいことで、余程気になるところがあったのだと思う。少しアルコールも手伝ったのかもしれない。
妻がそのことを口にしたのはその夜だけだ。とても印象に残っていて、映画やドラマでそういった台詞がある度に、妻の様子を窺ってみるけれど、特に反応はない。
そしてあべはふとした折に自問するようになる。
俺は俺のことを嫌いではないか。
答えはいつも同じ。
俺は大丈夫。
そのことを妻に話したことは無い。この先も話すことがあるだろうか。
その妻が別の人になりたい。意外だった。
ママがそう言ってた?
うーん。言ってたていうか、書いてた。
どこに?
ネットに。えっとね、ちょっと待って、ほら、これ。
娘が見せてくれたのは、とある仮想アイドルのブログだった。俺はそういう方面にあまり詳しくない。それでもそのアイドルの名前くらいは知っている。
何、こんなの見てんの?
あまりこういうのは見ないけど。
パパがこどもの頃はこんなのなかったからな。
で、ほらママが自分で書いてる。
あべの心臓は緩慢に収縮した。
これママ?
え? 違うの?
え? そうなの?
娘の訝しい顔なんて初めて見たな。
パパが教えてくれたんでしょ?
俺が?
そう。
何を?
これママだって。
言っていない。
言ったよ。ママには内緒だけどって。
言ってないよ。
言ったし。
俺はそういう思い違いをするタイプではない。と思う。いや、そういう自信はある。酔っ払うタイプでもないし、娘をからかって遊んだりもしない。だからこそ娘は、俺の話を信じた。いや、俺の話じゃない。俺は言っていない。そして、娘もまた、そういう嘘を言うタイプではない。と思う。
狼狽するあべを不審がる娘。
俺は画面の中のアイドル、女戦士のコスプレをしたアニメ調のキャラクターを見つめる。この露出多めフェロモン多めの女戦士に妻がなりたい?
ママは別の人っていうか、そういうのになりたいってこと?
と、あべは間の抜けた質問を娘に向ける。
娘は呆れ顔。
知らないけど、でも違うんじゃない? このフェロモン多めフォロワー多めの女戦士に飽きて、もう別の人になりたいってことなんじゃないの?
あべは混乱する。
ママが言ってたってこと?
何を?
別のキャラになりたいって。
だから、別の人になりたいんだって。
あべはまだ混乱している。
ママの別の人っていうのは、この人のことじゃなくて?
だから、書いてるんだって。
と、娘が指し示したところには「わたしは硝子になりたいわ」と書かれていた。
おい、娘。これはガラスって読むんだよ。