夏のしにがみ

 日中の熱がまだ引かない砂浜に身を横たわらせた流木のすぐ下で、数え切れないほどのコメツキガニが夕食をとろうとしているまさにその時、ぼろに身をまとった一人の男がやってきて、コメツキガニのお父さんたちは自慢のハサミを振り上げて威嚇したものの、そんなことに気付かない男は足を引きずりながら、緩慢な動作で流木の前を通り過ぎようとして、やがて力尽きたのか、倒れるようにして砂浜にうずくまり、そのまま動かなくなりました。
 コメツキガニのお父さんたちは、出ていって様子を見ようとするコメツキガニの若い衆らを自慢のハサミで制止し、怯えるコメツキガニのお母さんや子供たちに、大丈夫、という意味の蟹サイン(ピース)を送ってウインクしました。
 よくお聞き子供たち。あれは決して怖いものじゃないんだよ。
 子供たちは顔を見合わせ、そしてお父さんたちに聞きました。
 お父さん、あれは何なの?
 生きてるの?
 死んじゃったの?
 かわいそうなの?
 お父さんたちは泡をぶくぶくと吹きながら、それには二つの考え方がある、という意味の蟹サイン(ピース)を子供たちに送りました。
 あれはもうすぐ死ぬだろう。けれど、だからといってかわいそうなのかどうかは、我々には分からない。この浜には時折ああいう者が流れ着く。我々にできることは、ただ黙って、その最期を見守ってやることだけなのだ。
 ぼろに身を包んだ男のすぐ側に、昼間の誰かが忘れていったサンオイルが落ちていました。サンオイルは甲羅をいい感じに、焼き蟹にならないギリギリのラインで焼き上げたい若い蟹たちにとっては宝物です。そのことに気付いた若い衆が、お父さんたちの制止も聞かず、我先にと駆け出していってしまいました。
 お母さん蟹と子供蟹は流木の隙間に隠れ、緊張しながら一部始終を見守っていました。一番足の速い若蟹がサンオイルに到達すると、二番手、三番手の若蟹も次々に食らいつき、あっという間にサンオイルは若蟹たちの甲羅で隠れてしまいました。
 そうしてほとんどお祭りのような狂乱がはじまり、あちこちでケンカが勃発し、サンオイルが飛び散る中、ある一匹の子供蟹だけは、ぼろに身を包んだ男をじっと見つめていました。その子にはどうしても男が怖く、かわいそうなものとは思えなかったのです。
 出張った若い衆の全員がテッカテカになる間に、人知れず男は死にました。突然ぼろがぺしゃんこになり、すぐに強い陸風が吹き、そのぼろを吹き飛ばすと、あとには何も残りませんでした。
 いや、よく見ると、顔の部分の骨だけがその場に残されていました。子供蟹が隣のお父さん蟹に目をやり、お父さん蟹は黙って肯きました。行ってこい、という意味です。子供蟹は急いで流木の下を飛び出し、狂ったように騒ぐ若い衆の横をすり抜け、顔の骨の下に潜り込むと、それから勇気を出して上を見上げました。
 その時子供蟹が見たものは、表情が無いにも関わらずこちらに優しく笑いかけている、誰かの失われた顔でした。



了   

pagetop