夏のしにがみ
夫婦とは合わせ鏡のようなものだと海外の有名な作家が書いていた。
果たしてそれは本当だろうか。
片輪が欠けると家族は不全に陥るのだろうか。
あべの心に疑いの目が芽生えたのはちょうどその頃だ。その芽はしぶとい雑草のように低く広がり、細かい根を無数に張ってじわじわと伸びていった。裏切りという養分を求めて地を這うその芽は、やがて妻に、娘に、そして自分の柔らかい心に襲いかかった。あべはその手の付けられない勢いと、これまで経験したことのないほどの息苦しさに胸がつぶれそうになった。
南先生、とあべは思った。
これが孤独というやつなんですか。
南先生。
ぼく、会いに行ってもいいですか。
あべの記憶が空転を始める。
波打ち際は直線となり、ケネディは南極点に立っていた。
南先生は、歯並びとテンションしか良いところがない体育教師の北先生とデキ婚して、これが豊西小の南北同盟や~とか言って派手な披露宴をして先生を辞めちゃったけど、そのあと北先生が電車でチカンして捕まってリコンしてそれから三度目の正直でシンガポールのヤリチン実業家を捕まえたっていうカマテツの噂。
夏の夜に冬の太陽が昇って、冬の夜に夏の衛星が彷徨っている。
なあ、あべちゃん。
あんたこそ、別の人になりたいんやろ?
ええ年して、自分が嫌いなんやろ?
だから記憶がちぎれるんやで。
かわいそうなあべちゃん。
痛かろうに。
いたいのいたいの、とんでけー。
まるで息を吹き返した死人のように、暗闇の中であべは突然目を見開いて跳ね起きた。またエアコンのタイマーが切れていたのだ。動悸が収まらず、震えている肌に汗が噴き出す。手探りで枕元のリモコンを探し、スイッチを押すと現在室温が32度と表示された。ベッドを下り、隣室で眠っているはずの妻と娘を起こさないようにそっとドアを開けてキッチンに向かう。
部屋の暑苦しさとは無縁の、紫色をした冷たい廊下を歩きながら、あべは娘の言った「死神」という言葉を反芻していた。娘が言うには、ガイコツのマスクをかぶって、黒いぼろ切れを身にまとって、大きな鎌の代わりに大きなマキタの電動草刈り機を持っていたそうだが、妻は一体どういうつもりでそんなマスクをかぶったのか。それは誰にとっての死神なのか。