ふるさとパーキング
自分の生まれ故郷のことを風子はよく知らなかった。五歳の頃に引っ越したからだ。実家はもうなかった。時間貸しの駐車場になっていた。
新築だったのにね。
彼女の父と母は、その家のことを思い出したくないようだった。家のことはよく分からない風子だが、その気持ちはよく分かると思った。
私だって、買ったばかりのものがすぐに壊れてしまったら悲しい。
風子の生まれ故郷のことを、被災地、と人は呼んだ。
新宿で春田と待ち合わせて、二人で映画を観に行った。春田は彼女と別れたばかりで、風子のことを狙っていたが、風子もそれに気付きながら曖昧な態度でふらふらと遊んでいたため、映画の帰り、偶然会った舞に、何やってんの、とため息をつかれた。
「デート?」
「いや違います」
なぜか敬語になる春田。
「じゃあ何、母の日のプレゼントに何を渡したらいいか分かんないからちょっと付き合って的なやつ?」
舞は、春田の元彼女だ。
違うよ舞、と風子が言い訳をする。
「父の日のプレゼントで、今日は私が誘ったんだよ」
「今何月だと思ってんの」
8月。
日陰にも入らず、動かない3人。新品のキャミソールにしらじらしい汗が流れる。
次の言い訳を考えながら風子は思う。夏とはこういうものだろうか?
最初、春田のことなんてどうでもよかった。第一顔が好みではない。色黒で、歯並びが悪くて、頭もちょっと悪いからだ。舞がどうしてこんな男を選んだのかよく分からない。
「俺はいつか有名になるよ」
春田は絵描きだった。といってもそれで食べているわけではなく、コンビニや交通整理のバイトをしながら、表参道の路上で風景画を売って、俺はいつか有名になる、を安い居酒屋で繰り返す、おそらく東京に10万人くらいいる人間のうちの一人だ。
絵描きと付き合ってる私。というダサい自意識が舞にあるなんて思えない。じゃあなんで付き合ったんだろう。春田は甘え上手だから? 舞はやさしいから?
私は舞ほどやさしくない。
だから春田とは付き合ってあげない。
ふうちゃーん、と春田の声が聞こえる。ちゃん付けすんなよ馬鹿。ふうちゃん、方言喋ってよ。いやだ。なんでよー。もう忘れたよ。うそつかないでよ、俺、方言好きなんだよ、実家に戻ったみたいで。いや親父は埼玉だし母ちゃん東京だから、方言知らないんだけど、映画観たからかなあ、ほら、あの畳の部屋で、テツオーって呼ばれてたじゃん、俺もカズヤーって、甘い声でさ、お願い、一度でいいから。ふうちゃん。
何なのこの馬鹿。
寝てやろうか、と何度か思った。
でも結局、寝なかった。
私には舞のような勇気がない。
過ちを乗り越えられる知恵もない。
リクルートスーツが暑すぎて、駆け込んだ駅前のコンビニで、トイレが壊れて外にまで水があふれていた。うわっと思ったがすでに遅く、パンプスのつま先が汚水に浸かってしまった。業者に電話をかける若い主婦のような店員と、客に謝りながら必死で床を拭く初老のおばさん店員がいた。おばさんはすみませんすみません、とどこか聞き覚えのある訛りのアクセントで床を這っていた。おばさんの白髪を見下ろしながら、これも同じ仕事なのだと思った。面接室でえらそうに足を組んでいたコロン臭いあのオッサンに聞かれた「あなたにとって仕事とは」の質問には自分は一生胸を張って答えられないだろうと風子は思う。このおばさんが代わりに面接を受ければ良かったんだ。
友達も少なく、趣味もなく、夢もない。
私にとって仕事とは。
生きる意味とは。
知らない。アイス食べたい。
おばさんは床の汚水を拭き終わると、アイスを漁る風子を汗まみれの顔で見上げ、どこか汚れませんでしたか、と今度ははっきりと故郷のイントネーションで言った。
「旅行? のんきなもんだね、最終面接まだなんでしょ?」
「今すぐじゃないよ、ちょっと思い立ってさ」
「春田と?」
「うん」
「げー」
レモンカットをしていたマスターが顔を上げ、ラストサマーだネ、と言ってにやりと笑った。
「マスターそんなんじゃないよ、舞も一緒に呼ぶんだから」
「えっ私も?」
「いや?」
「いやじゃないけど」
マスターは慣れた手つきでカットされたレモンをタッパーに詰め、キッチンペーパーと輪ゴムで蓋をして冷蔵庫に仕舞った。
「舞チャンは進路決まってたよネ?」
「トリマー。資格取っただけで、職場は決まってないけど」
「よく分からないけど、がんばってネ」
「中国にはトリマーっていないの?」
「さあネ。もう何十年も帰ってないからネ」
マスターの目尻の皺がダウンライトに照らされ、いっそう深く刻まれている。マスターは国のことをほとんど喋らない。風子や舞がいくら頼んでも、ギョーザもチャーハンも作ってくれない。
ただ一度、この店に春田を連れてきた時、なぜかそういう話になった。マスターはそわそわしている春田をカウンター越しにじっと眺めた後、少し考え、それから真面目な顔になって言った。
「キミたち、祖国はありますか?」
祖国?
「そりゃあるよ」
「ここじゃないの?」
マスターは首を振った。
「キミたちにとって、ここは何も無い場所だヨ。キミたちはこの国で生まれたんだから、この国は最初からここにあるよネ、それじゃ何も無いのと同じなんだヨ」
マスターは後から入ってきた常連客に目で会釈をして話を続けた。
「キミたちは、ボクのように外国に行ってお金を稼ぐ必要ないネ。祖国っていうのは、一度外に出た後で、いつか戻っていく場所のこと」
「外ねえ」
風子はカクテルに飾られたチェリーの房を指でつまみ、それをくるくる回した。濡れたチェリーの表面に炭酸の気泡が弾ける。
「ボクもいつか祖国に帰るつもりだヨ」
「いつ?」
「大丈夫、ずっと先ネ」
それから1時間ほど飲んで、いつものように舞のダジャレが止まらなくなったところで三人は解散した。順番におつりを渡しながらマスターは言った。
「帰るところ作っとかないと、あとで迷子になっちゃうヨ」
今思えば、マスターが人を見誤ったことは一度もなかった。
私たちはあの時、ちょっとでも訊いておけば良かったのだ。
ねえマスター、どうしてそんな顔してるの?
風子の夏は風子が考えていたよりずっと短かった。
8月、舞に内緒で春田と花火を観に行った。毎年お台場でやってる有名なやつだ。風子はちょっと気取って浴衣を着た。それが良かったのか悪かったのか、最後のフィナーレで全員がまばゆい輝きを見ている最中に、春田はそっと手をつないできて、それを何となく振りほどかずにいたら、その夜、そうなってしまった。
春田の裸。ホクロが多かった。
「俺はやっぱりお前なんだよ、いろいろ考えて、悩んだけどさあ」
「嘘」
「嘘じゃないよ、俺、絵を辞めようと思う。ちゃんと働こうと思う。だから風子、付き合ってほしい」
見たこともないような真っ直ぐな瞳。私は不覚にも少し涙ぐんだ。じゃあ春田に負けないように、私も就活がんばるよ。
思えばみんな、こんな感じで生きているのだ。生きてきたのだ。理由とか、理屈なんて本当はいらないんだ。頭でっかちになる必要はない。一生懸命、生きればいいのだ。
ところが数日後、舞から連絡があり、騙された、と涙声。
あいつに騙された。
お金盗られた。
風子、お願い、もうあいつに近づかないで。
風子は何が何だかよく分からないまま春田に電話をかけました。留守電。
数日後に、解約。
何これ。
え、もう終わり?
恋愛一つで人生が変わるなんて思っていない。けれどあの時、どうしてあんな行動を取ったのか説明しなさいと言われれば、やっぱりどうしたって春田のことが頭をよぎる。
お父さんお母さん、ごめんね。
でも、何も訊いてくれないのは辛いよ。
相手にケガはなかったから、警察も呼ばれなかったし、妙な噂が立つこともなかった。しかし風子はあの「お茶ひっくり返しテーブル蹴り上げ事件」以来、一度もリクルートスーツに袖を通していない。
汚水でつま先が汚れた真っ黒のパンプスは、テーブルを蹴り上げた時に勢いで脱げ、そのまま面接室に捨ててきた。
「裸足で帰ったの? ロックだね」
「そっちこそ」
舞は髪を脱色した。カラーリングで明るくした、というレベルではなく、ほとんど白髪に近かった。近寄るとまだブリーチ剤の酸っぱい臭いがする。
「履歴書にMAYって書けば?」
「特技はドラムス」
「ギターの方が受かるんじゃない?」
「それよりあんた、あの時、何言われたの」
「ああ。今思えば大したことじゃないよ」
「言ってよ」
「やだ」
ファミレスのメニューは夏野菜特集。幼顔の高校生バイトがちゃんと拭いてないからあちこちベトベトする。
「私たち、これからどうなるんだろうね」
「とりあえずアイス食べない?」
「失礼ですがこちらでお調べしたところ、過去に被災されたようですが、現在健康に問題はありませんか」
こんな話、白髪になった舞にわざわざ言うようなことじゃない。
「問題ありますよ」
そう呟いた後、頭に血がのぼって、あまり覚えていない。
一瞬、親の顔と、なぜか春田のホクロが思い浮かんだ。それだけ。
駅から歩いて20分。あまりいい立地じゃなかったんだ。
夏の終わりのアスファルトは、思ったよりひんやりしていて、彼女たちはTシャツとワンピースの背中に小石の小さな痛みを感じながら夜空を見上げる。大の字に伸ばした手足に蚊が寄ってくるのを警戒しながら、そして同時に右手に持ったアイスが溶けてしまわないように注意しながら、夜の底に溜まった気流を思い切り鼻で吸い込んだ。
「しかも狭い!」
「覚えてないの?」
「全然」
同行者に一名キャンセルが出た以外は、風子の予定通りの行程だった。二泊三日、民宿素泊まり、予算は交通費込み5万円。
敷地はきれいに整地され、幾何学的な白いラインが長方形を描いている。そのパーキングに車は一台も停まっていなかった。3番に風子、4番に舞が寝転がった。
「星が見えるねえ」
「東京よりもずっと見えるねえ」
地図を持ってきていたが、ここに辿り着くまでにいろいろな人の世話になった。女の子二人組が珍しいのか、皆親切に道を教えてくれた。両親と同じアクセント、同じイントネーションで語られる言葉は、風子の両足に理由のない自信を持たせた。
それとも、自分の言葉にも無意識に方言が出ていたのだろうか。
「若い人、一人も見なかったね」
「うん」
「お店もシャッターだらけで」
「うん」
街は変わった。けど、この温度や、匂いや、星空は同じだ。はるか昔に自分が見上げた空が、何も変わらないまま、今は自分を見下ろしている。私が忘れても、夜空は覚えている。それは誰かの優しい嘘のようで、けれど実は揺るがない事実で、風子は、すごい、と思った。
同じ空をぼんやりと見上げる。しばらく口をつぐんで、黙ってみる。たったそれだけのことで、もう東京がどこにあるのか分からない。
西の空では戦争が。
東の空では入園式が。
南の空ではサマーセールが。
北の空では出会いと別れが。
「夜って真っ暗だと思ってたけど、少し色がついてるんだね。青っぽい」
「そのうち流れ星が見えるんじゃない」
「何か願い事する?」
「お祈りしてるうちに溶けるよ」
「あっ、忘れてた」
彼女たちは身体を起こし、ロック板に腰をかける。そして真っ白な生足で蚊を追い払いながら、少し草むらの匂いがする冷たい夜を、食べたり、なめたり、かじったりした。
ただいま。
え、何か言った?
何も。
了