ユフの森

ユフの森

 

 

 高校に上がるくらいまで、水太(みずた)はよく絵を描いていた。
 覚えているのは茶色の表紙のノートブック。2Bの鉛筆。アクリルの8色セット。モノクロームの絵ばかり描いていた時、ふと思い立って色をつけてみたことがあった。ところが完成した絵は、気付けば自分の思っていたものと全然違ってしまっていて、それきりカラーは使わなくなった。
 色彩が鮮やかになればなるほど、何かが死んでいくのがよく分かった。
 2Bの鉛筆はいつも先が丸くなるようにしていた。あまり削りすぎると線が強くなる。少し丸くて、薄くて柔らかいのがいい。鉛筆削りではそのニュアンスが出せないから、カッターナイフで少しずつ、理想の丸みが出るように削る。
 中学では友達たちがみなそろって運動系の部活を選んだ。美術部に入ったのは学年で水太一人だけだった。将棋部に入ったいじめられっ子は、将棋部に入ったことで余計にいじめられた。しかし水太はそういう対象にはならなかった。絵がうまかったからだ。水太は授業中、同級生や先生の似顔絵を描いた。そして休み時間にそれを皆に見せると、教室が大きな笑いに包まれるのだった。
 それはいわばあの小さな社会で生きていくための仕事のようなものだった。したくない仕事をしながら、本当にやりたいことを夢見ていた。いつかきっと自分は大きなキャンバスに自由な絵を描くのだろう。人気取りの小手先の技術ではなく、誰も見たことのないような表現で、皆を賑わせ、震わせるのだろう。
 夏休みになると水太は自宅に引きこもって下絵作りに没頭した。リフォームしたばかりの化学臭が残るリビングで、よく冷えたフローリングに腹ばいに寝転がり、正面の大きなアルミの窓枠と、その向こうに広がる一面の芝生を眺めながら、その緑のフレームに空想の下絵を描いていった。
 芝生のフレームの左側には、真っ白な壁の隣家があった。その家には高校生くらいの女の子が母親と二人で暮らしていた。半年ほど前に引っ越してきたその女の子は名前をユフと言った。耳の下くらいまでの短い黒髪に、白と紺の制服で、きれいな茶色のローファーを履いて、よく分からない長い棒のようなものを肩に担いで、二駅離れた高校まで自転車通学をしていた。
 夏休みに入ると、ユフは白い制服を脱ぎ、派手な黄色のTシャツとショートパンツに着替え、水太のフレームの中にしばしば入り込んでくるようになった。水太の空想のイメージはいつもだだっ広い風景画で、曇天の下に樹木が生い茂り、暗い森や湿地や池や獣道がある。どこか遠くで野鳥が鳴き、いつもむっとする草いきれの風が吹いている。その世界にユフの黄色のTシャツはとても場違いだった。ユフが入ってくると水太はため息をつき、頭の中の筆を置く。少し待てばフレームの外に出てくれるだろうと期待するが、ユフはなかなか動かない。何か特別な用事があるのか、彼女の家と水太の家の境目あたりをいつまでもうろうろと歩き回る。家と家の境界には腰くらいまでの柵があるだけなので、彼女の姿が丸々見える。
 ユフがその境界を歩き回る姿はまるで、青々と茂る芝生の上を、黄色い蝶がたゆたっているようだ。蝶は、何かを探しているようにも見える。

 

 子供がプールに行きたいというので、予定を変更して水着やらタオルやらをボストンバッグに入れていると、妻も一緒に連れていけと言い出し、結局三人で行くことにした。
 夏の盛りのプールは水温も温く、べたべたした肌の人々でごった返し、大人たちは皆くたびれた顔をしてパラソルの下で寝そべっている。プールサイトで一人だけ水着ではない妻は、リネンのマタニティワンピースに水しぶきがかかっても涼しい顔をして息子の悪行に目を細める。
「プールサイドを走ってはいけませえーん!」
 大学生らしい女の子の監視員の声が、溶けそうな空に滲んで消えていく。声はもちろん息子には届かない。あっという間に息子の姿は視界から消え、思わぬところから水しぶきが上がる。甲高い笑い声。監視員の声よりもずいぶんはっきりと届く。
「パパも来て!」
 水太がうんざりした顔をするが、妻の視線を感じ、ため息をついて腰を上げる。妻がふと笑顔になる。この笑顔のせいで今までどれだけ余計なことをやらされてきたか。営業先の受付で出会った、とびきりの笑顔だ。
「来て! 来て! 来て!」
 子供は待つことを知らない。水太は小走りでプールに向かい、湯のような子供用プールにつま先を入れる。その皮膚にまとわりつくような温度はまるで羊水だ。息子はプールの水をがぶりと飲み、むせながらケタケタ笑う。
 汚いから止めろと言う前に、もう別の場所に走り出している。そして、親が追いかけようとする前に次の「パパ来て」が始まっている。子供がせっかちなのではなく、時間の方が子供に追いついていないのだ。水太は羊水に腰まで浸かりながら息子の行方を目だけで追った。肺呼吸を始めて5年経った息子でさえ、まだ世界と馴染んでいない。胎児になるともう、我々とは明らかに異なる時間軸の中に存在している。
 遠くから、パパ来て、という声が届いた。水太は再び重い腰を上げる。俺はあの声に、いつになったら追いつくことができるのだろうか。

 

 夏休みが始まって二週間ほど経ったある日、いつものようにユフは同じ黄色のTシャツにグレーのショートパンツで、水太の空想の世界にずかずかと入ってきた。獣道は踏み荒らされ、森の動物たちはスニーカーに蹴飛ばされ、世界の均衡は失われた。水太は立ち上がってがらがらと窓を開け、できるだけ不機嫌な顔を作って、ユフを睨みつけた。
 するとその視線が届いたのか、ユフが振り返って真っ直ぐに水太を見た。
 慌てる水太をユフはしばらくじっと眺めていたが、ふと興味を失ったようで、またふらふらと芝生の向こうをさまよい始めた。
 スイカ、と水太が慌てて言った。ユフがまた振り向いた。
「スイカ、あるけど」
 水太の家の縁側に座り、二人は並んでスイカを食べた。ユフの灰色のショートパンツから百日紅のように光るすねが出ていた。吹き損なったスイカの種がすねに落ち、桃色の濡れた筋をつくった。筋は細くふくらはぎの裏に伝って流れた。水太は少し緊張しながら、君、と声をかけた。
「君、いつも何やってるの、あんなところで」
「散歩してるの」
「うそ」
「うそじゃないよ」
 水太はスイカを両手で持ったままユフの太ももに目を落として言った。
「ここ、窓枠があるだろ、部屋から見ると、窓枠の中に、庭と、家の壁と、芝生があるの。左は君の家の壁のじょうろが置いてるところまで。右は道路に生えてるあの大きな木のところまで。そこまでが、大きな枠」
 ユフはよく分からないという顔でスイカの種を口の中で探りながら肯いた。
「だから、その中に入ってこないで欲しい」
「どうして?」
「絵を描いてるから」
「描いてないじゃん」
「頭の中で描いてる」
「紙には描けないの?」
 水太はむっとして、ちょっと待っててよ、と言ってスイカを放って二階にあがった。茶色のノートブックをユフに見せて驚かせてやろうと思った。ノートは二階の自室の勉強机の上にあった。どれを見せようかと次々にめくってみたが、すぐに、ノートにはユフに見せられる絵が一つもないことに気がついた。描かれているのはクラスメートの似顔絵や、教師たちの特徴をことさら強調したイラスト、くだらないパラパラマンガだけだった。
 水太は言い訳を考えながら階段を下りた。ノートを無くした、まだ描きかけだから、友達に全部あげたから。冷房の効いたリビングに入ると、縁側には既にユフの姿は無かった。
 水太は仕方なくフローリングに置かれたままの食べかけのスイカを台所へ運んだ。皿を流しに置き、リビングの窓を閉めようと戻ってみると、フレームの中、芝生の向こうに黄色いTシャツがひらひらと舞っているのが見えた。

 

 予定日間近になって、息子が熱を出してしまった。よりによってこんな時にと思ったが、産院は小児科もあったので一緒に見てもらった。若い医者が出てきて、知恵熱のようなものだと説明した。ずいぶん遅い知恵熱ですねと看護士に笑われたが、実際、息子はこれまで一度も熱を出したことはなかった。
 息子は初めて体験する高熱に悪戦苦闘しているようだった。何度も寝返りを打ち、熱帯夜のような汗をかき、はっはっと浅い息を吐いてうなされた。身動きの取れない妻に代わり、水太がその世話をした。水のような便が出て、食べ物もろくに消化できていないようだった。やがて食事が点滴になっても熱は下がらず、あと数日様子を見て、それでも症状が良くならない場合は大学病院を紹介するということになった。
 息子が入院して3日目の夜、水太が側でうとうとしていると息子が何やら譫言のようなことを口にした。よく聞き取れなかったが、しらないと繰り返しているようだった。
 しらないの。ちがうの。
 何が知らないんだと聞いても、こちらの声は届いていないようで、息子は顔をしかめながら、何度も寝返りを打ち、病室のあらゆる方角に向かって「しらないの」を連呼した。
 しらない。ぼくじゃないの。しらないの。
 そして翌朝、熱は嘘のように下がった。

 

 玄関のチャイムが鳴り、水太がドアを開けるとユフとユフの母親が並んで立っていた。ユフの母親は手に紙袋を提げ、水太くん、と中腰になって言った。これ、つまらないものだけど、スイカのお礼。黙って紙袋を受け取った水太は自分の母親を呼びにいった。
 二階から水太の母親が降りてきて、あらあ東野さん、と電話で喋る時のような声をあげた。どうしたのあんた、何もらったの。いえうちの娘が先日スイカをおよばれしたそうで。あらあそんなご丁寧に、あれ貰い物なんですよ、たくさんあったし、ユフちゃんのお口にあったかどうか。
 ユフの母親は、ユフにまるで似ていないと思った。ユフはこんな声で喋らない。こんなに手を振らない。こんなに何度も笑わない。
 ふと目を離すと、ユフはまた庭と庭の境界の方へ歩いていったようだった。母親たちが会話を止め、ユフを見る。ユフちゃん、いつもあそこで遊んでるわねえ。リビングからよく見えるんですよ。あらあそれはすみません、お邪魔ですわね。いえそんなこと。
 あの子、あそこで何か無くしたみたいなんです。ずいぶん前のことで、いくら探したって見つかりっこないのに諦めないし、それが何なのか訊いても言わないもんだから、もう放っておいてるんですよ。
 ユフの母親は深々と頭を下げ、帰っていった。水太は玄関口で手を振る母に、ユフの父親はどこにいるのか訊いてみた。父親なら、その落とし物を簡単に見つけられるんじゃないかと思ったからだ。
 すると母親は急に低い声になり、あの子にそんなこと訊くんじゃないよ、と水太の頭を押さえつけるように撫でた。

 

 ユフの黄色いTシャツはよく見ると背中に模様が描かれてあった。
 これ、何の模様?
 見たことない?
 うん。
 これは外国の神様の絵。こっちが女で、こっちが男。
 これって抱き合ってるの?
 そう。
 いいの?
 いいの。
 ぼろぼろにひび割れたプリントの神々は、水太の戸惑いをよそに恍惚とした表情で愛の営みを続けている。リビングに風が吹き抜け、その拍子にユフのTシャツの裾がめくれ上がる。芝生の草いきれの中に、ユフの白い脇腹が一瞬見えた。あっ、と水太は声をあげた。
 何?
 何でもない。
 そう。
 こんなの着ててお母さんに怒られない?
 大丈夫。この柄、大人には分かんないみたい。
 そうなんだ。
 また少し風が立ち、ユフの黒髪とTシャツの裾が揺れた。
 あのさ。
 水太はうわずった声で言った。
 見たい。
 何を?
 さっきの。
 さっきの、何?
 水太が遠回りに説明するとユフは笑った。やらしい。
 ごめん。
 いいよ。
 ユフはそう言うとあっけなくTシャツを胸の下までたくし上げた。水太はそのくぼみの美しさに息をのんだ。今、蝶の身体の中を見たと思った。

 

 あいつさ、譫言で、ぼくじゃないって何度も言うんだよ。しらないってさ。
 夢でも見たんでしょう。
 どんな夢だよ。
 怒られた夢?
 俺、あいつにそんなに怒ってないぞ。
 何か後ろめたいことでもあったのかな。
 そうかも知れないね。
 ねえ、子供の秘密って、守ってあげたいよね。
 何だよ急に。
 隠し事って、かわいくない?
 そうだな。
 私のおばあちゃんが言ってたけど、子供の秘密は、木になるんだって。秘密から生まれた木はどんどん成長して大木になるの。そんな秘密がたくさん集まって森になる。そうしてまた次の子供たちのために森で待ってる。だから親は時々子供たちを森に連れて行くの。森に行くと、決まって子供たちは大人しくなって帰ってくるそうよ。
 森。
 水太の脳裏をイメージが過ぎった。そう言えばあの実家はどうなっただろう。数年前に近くを通った時、ユフの家はもう取り壊されていた。剥げ落ちたペンキの白壁はすべて撤去され、荒れ放題の庭が柵を越えて実家の芝生まで浸食していた。
 実家の芝生もまた、同じように荒れた庭になっていた。水太の就職と同時に両親が街中のマンションに移った後、実家は買い手が付かず、もう何年も空き家になっている。かつての手入れの行き届いた美しい芝生は雑草に覆われ、風に乗って飛んでくる近くの山木の種子があちこちに根付き、中には水太の背の高さほどまで成長しているものもあった。このままあと十年もすれば立派な森になってしまうかもしれない。
 結局、約束守れなかったな。
 水太がぼんやりとテレビのチャンネルを変えていると、突然すぐ後ろで「先生呼んでぇ」という妻の叫び声がした。

 

 目が覚めた時、風景は一変していた。水太がフローリングから身体を起こすと、窓枠のフレームの中は既に飛沫で埋め尽くされ、もうほとんど何も見えなかった。大変大変、と母親が慌ただしく洗濯物を取り入れに走っていった。水太はしばらく目の前の豪雨をフレーム越しに眺めていたが、その塗り込められた色の中に、一瞬、見覚えのある色を見つけた。水太は母親が二階のベランダに行ってしまったのを見届けた後、サンダルを履き、土砂降りの中に飛び出した。
 雨の中に入ったとたん、もう家が見えなくなった。それどころか、自分の足元さえ覚束なくなった。ほとんど目を開けていられないのだった。
 黄色の蝶は、雨に打たれながらふらふらと飛んでいた。何やってんだよ、風邪引くよ。ユフの重く濡れた髪は幾重にも頬に張り付き、表情を隠していた。
「もう止めなよ」
 ユフは泥の水たまりをじゃぶじゃぶと横切り、柵の端まで行くとまた戻ってきた。ガラス玉のついたサンダルがぬかるみに飲まれ、よろけた。
「ねえ、何も見つからないって」
 ユフが振り向いた時、口元だけが見えた。
 水太はそのまま庭と庭の境界に突っ立っていた。夕立というには長すぎる雨だった。少し痛みを伴うほどの大粒の雨に打たれながら、水太は、みるみるうちに冷えていくユフの白いお腹やすねのことを思い、そして、自分の無力さを思った。
 見て、と不意にユフが言った。ユフは自分の足元を指さしていた。視線を落とすと、ユフのサンダルの周りがおぼろげに青く光っているのが見えた。その光はいつの間にか水太とユフを音もなく取り囲んでいた。光の元は、芝だった。若い芝が、日中に蓄えた光と色を、雨粒をレンズにして四方に拡散させているのだった。
 雲の中みたい、とユフが言った。雲の中ってこんなのだっけ、と水太が言った。
 知らないの?
 知ってるわけないじゃん。
 私知ってるよ。
 濃い霧のようなものが膝の辺りから立ちこめ、束の間、雨と霧で前が見えなくなった。どこからか不意に、もういいや、という声が聞こえた。その声はとても小さかったが、雨音を抜け、はっきりと水太の耳に届いた。
「私、もうやめる」
 水太が黙っているとユフは続けた。
「その代わり、君がくれる?」
 いつの間にか、ユフの顔がものすごく近くにあった。ユフの唇を伝う滴が、次の言葉を待たずにこぼれ落ちた。

 

「ずいぶん悠長に考えてるようだけど、もうリミットだぞ」
 クーラーの無い教室で、進路指導の教師がバタバタと扇子を振る。扇子には大きな孔雀の絵が描かれているが、誰の仕事なのかデッサンがおかしい。羽を広げた時の筋肉が関節を無視しているのだ。それが気になって教師の言葉が頭に入ってこない。あと先生、孔雀のメスって、オスの模様をあんまり気にしてないらしいですよ。これ豆知識ですけど。
「お前みたいなタイプは推薦で通したいんだけどなあ、ああいうのは何か一つでも特技がいるんだよ、お前、なんか特技あったっけ。得意な科目とか」
「ないです」
「だよなあ、部活もやってないしなあ」
 水太が高校に上がってほどなく、ユフは母親と二人で次の家へと移っていった。引っ越しには慣れているのだとユフは言った。これまで5回も引っ越しを繰り返しているらしい。そんなことは初耳だった。それが仕事の都合なのか、何か他の原因があるのかは最後まで聞けずじまいだった。
 慣れているというだけあって、最後の日はあっけないものだった。驚くほど少ない荷物が運び出されている間、玄関口で簡単な土産を交換し、お世話になりました、と母親の隣でゆっくり頭を下げるユフは、どこか知らない人のような顔をしていた。
「とにかく何でもいいから志望校決めろ。決められなかったら鉛筆転がして決めろ」
「鉛筆なんて持ってません」
「じゃあアスパラガスでも転がして決めろ、バカ」
 結局、最後まで二人きりになることはできなかった。すべての荷物が積み終わると、驚くほど早くスタッフが荷台に乗り込み、それとほぼ同時に母親とユフが車に乗った。ユフは見送る水太に窓越しに小さく手を振ったが、母親がアクセルをふかした数秒後にはもう視界から消えていた。トラックと車が轟音とともに去った後、水太は荷台に最後に積み込まれた、布巻きの大きなキャンバスのことを思い返していた。

 

 絵を描きたいんだ。
 握りしめた拳の中に汗が滲んでいた。
 君の絵。
 そう言ってから、自分がものすごく恥ずかしいことをしているという自覚が湧き上がり、言葉が続かなかった。ユフは黙って水太の顔を見た。縁側に蝉の鳴き声が冷たく反響していた。ユフは何かを測っているような顔つきで水太をのぞき込んでいたが、しばらくの沈黙の後、ショートパンツの白い足を組んで言った。
 どうすればいい? ポーズとか? 服は?
 大雨の上がった芝は、太陽の日射しを浴びて燃えるような色に変わっていた。水太は長らく使っていなかったアクリルの画材と、ずっと以前に買ってもらったままの大きな張りキャンバスとイーゼルのセットを倉庫から出してくると、それらをリビングの中央に置き、窓枠のフレームの中にユフを立たせた。
 え、なんだか本格的だね、すごいね。
 水太の緊張をよそに、ユフは子供のように興奮していた。アクリルの使い方、大きなキャンバスで描く時の構図の決め方、よくある失敗例。うろ覚えの知識が頭の中で右往左往している。描きたいだなんて言わなければよかった、本当はまともに描いたことないんだ、ごめんなさい、描けそうにない。
 筆が止まっているのを見て、フレームの中のユフが声をかけた。
「今度は君が見せる番だよ」
「何を?」
 Tシャツの裾を暑そうに手ではためかせ、またユフの脇腹が見え隠れする。
「君の秘密」

 

 重い雨雲が果てしなく広がるその下に、山の黒い稜線が幾重にも連なっている。湿り気を含んだ生温い風が暗い森の雑木を揺すり音を立て、いつ雨雲の底が抜けるのか、虫も、植物も、動物たちも、皆同じように空模様を伺っている。静まり返った湿地帯には腐りかけた蓮が点々と浮かび、いつまでも乾かない泥の上を羽虫が飛び交う。どこからか続く消えかかった獣道は湿地を避け、大きく曲がりくねって森の深部へと続いている。
 画面中央、腰ほどまである草むらの中腹に、その鮮やかな色は見え隠れしていた。ほんの米粒ほどの小さな輝きは画面のあらゆる場所に染み込んでいる曇天を弾き返し、生い茂る草むらを両手でかき分け、こちらに背を向けたまま前のめりになって奥へ奥へと進んでいる。
 灰色の風景に黄色を入れると、金色に光って見えるんだよ。
 水太の得意げな説明など耳に入らない様子で、ユフは水太の腕を強くつかんだ。
 ねえ、私ほんとにうれしい。
 ほんとにほんとだよ。

 

 

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