ナユタ緑

ナユタ緑

 

 

 ドラセナの仲間である「竜血樹」という珍しい植物を買った。幹にナイフを入れると赤い血が流れる不思議な木だ。ごつごつした、大人の腕ほどもある幹の先に、濃い緑の葉がちょうどバナナの皮をむいたように何枚も垂れ下がっている。買った個体は高さが2メートルもあり、うちのバルコニーには置けないので、いつも通りビシコに預かってもらうことにした。
 慰謝料の代わりに手に入れたその庭付き一戸建てをビシコは気に入っていなかった。あいつが勝手にいろいろ決めて、キッチン使いにくいし、なんかウッドデッキとかあるし、こんなの貰ってもしょうがない、あたしはお金が欲しい、というか仕事が欲しいの。ビシコは自慢の金髪が災いし、また保育所のパートの面接に落ちたそうだ。
「何言ってんの。恵まれてる方でしょ。旦那さんも話の分かる人で」
「元・旦那ね」
「築浅物件、売ればいいのに」俺がそう言うとビシコは金色の髪を指先にくるくると巻き付けながら、売れっていうけどさぁ、と南の窓から見える美しい木々を睨んで言った。
「このあんたの植物園、どうすんのよ」

 

 植物に興味を持ったのは祖母の影響だ。2年前にばあちゃんが死んで、ばあちゃんの趣味だった観葉植物の世話役が突然俺に回ってきた。ちょうど実家を出ることを決めていた俺は、しょうがないので植物たちを連れて行くことにしたのだが、植木鉢は、引っ越しを手伝ってくれた後輩が絶句するくらいの量だった。
 とりあえずしばらく庭に置かせてくれとビシコに頼み込み、ハイエースを借りてなんとか引っ越しを終えたのだが、そこでふと、自分が植物たちの育て方はおろか、名前さえ知らないことに気がついた。ビシコや後輩に聞いてももちろん何も知らない。詳細をネットで検索しようにも名前が分からない。
 それで自分で図書館に行って調べ始めたのがきっかけだ。手に取った本格的な植物図録には、俺が想像もしていなかった膨大な数の植物が載っていた。数千、数万の植物が「種」と「属」にカテゴライズされ、さらにその上に「科」「目」「綱」「門」などが続く。とんでもないと思った。道ばたに生えている雑草にさえ、正式な名称があり、脈々と続く種としての正式な由来があるのだ。図書館からの帰り道、これは余計なことを知ったと思った。俺はその時から、雑草を気軽に踏めなくなってしまったのだ。

 

 植物を知れば知るほど、見慣れたはずの街が別の顔を見せるようになった。庭木、街路樹、ショップの植栽に至るまで、考えてみれば当然だが、街の景観を形成する植物たちは、どこからか飛んできて勝手に生えたわけではない。無数の選択肢の中から、誰かが何らかの意図で選んだのだ。目の前に広がる緑の風景は人々の意志の集まりなのだ。
「ごめん、何言ってるかわかんない」
「ですよね」
「つまり処分する気ないってこと?」
「いやまあ」
「あんたさっき『家売れ』って言ったよね?」
「え、やっぱ売るの?」
「知らないけど。とにかくこれ以上増やすの禁止。洗濯物乾かない」
 窓の向こう、庭の真ん中の特等席で、新入りの「竜血樹」が元気そうに陽を浴びている。放射状に垂れ下がる重い葉が、昼過ぎの柔らかい風に吹かれている。そのだらんと伸びた影が、家具らしい家具もない、このだだっ広いLDKの複合フローリングに届いている。
 ビシコの家は郊外の山を削って作られた造成地区にある。元・旦那がこだわったという四畳半のウッドデッキを含め、まあよくある仕様の家だった。広いガーデンが売りの注文住宅。延床一○○平米、新しい家族のための真っ白な箱。心地よい風が吹く快適な新生活。充実した収納、ビルトイン食洗機、陽のあたる二つの子供部屋。
「タイチなんか飲む?」
「うん。麦茶がいい」
「よかった。麦茶しかないわ」
 三十路のビシコはぴっちりと身体のラインが出るデニムパンツを穿き、こちらに尻を向けてキッチンに立つ。その腰から太ももにかけて流れる曲線には、学生時代には無かった妙な色気のようなものが漂っている。
「やっぱ金髪がいけないんだよねえ。そりゃそうだよねえ。黒に戻そっかな」
 手渡された麦茶を傾けながら、テーブルに広げられたままの求人広告の切り抜きに目を落とす。どの切り抜きも保育所だ。
「ま、もうちょっとがんばってみ。金髪で」
「カタコト喋るってのはどうかな」
「別の理由で落ちますわ」
 どこにも流れていかない風が竜血樹の葉先をいつまでもくすぐっている。ビシコの痛んだ金髪は、この庭の新緑によく映える。

 

 夕方、駅前を通りがかると知り合いのホームレスがいつものようにけんかをしていた。「土管」と目が合った瞬間、「ダブル」が土管の身体にタックルをしかけ、周りを取り囲んでいたスーツやカップルの野次馬ギャラリーが一斉に携帯で写真を撮った。
 土管は灰色の分厚いカーテンを筒のように巻き付けて歩くホームレスで、遠くから見れば完全に土管に見える。ダブルは長身長髪でいい体格をした、時々大と小をダブルで漏らすホームレスだ。どちらのあだ名も俺がつけた。
 ものすごくどうでもいいことだが土管は春先になると灰色のカーテンを灰色のレースに変えるのですばやさが5上がる。土管はダブルの素人タックルを俊敏な動きでかわすとすれ違いざま横腹にボディブローを入れた。ダブルはうめき声を上げてアスファルトに崩れ落ち、また一斉にシャッター音がする。1ラウンドTKO、防衛成功。土管はアル中で震える腕を高らかに上げてガッツポーズ。腹を殴られ、大の字に転がったダブルの前には神社にあるような古い木の賽銭箱が置かれてあり、そこにギャラリーからいくらかのお見舞い金が投げ込まれる。彼らはこういう駅前のパフォーマンスで金を稼いでいるのだが、ファイト自体はわりと本気でやっているらしい。「ゼニを貰うからには筋は通す」と土管は言う。
 写真を撮っていた野次馬がいなくなってから、ようやくダブルが起き上がった。よく見ると平気な顔をして、服についた汚れを払っている。あいつもっと早く起きれたんじゃないの。
「弱いくせにプライド高いんや」
 ダブルは俺を見ると賽銭箱を抱えてふらふらと近寄ってきたが、もちろん何かしらを漏らしていたので、来るな、とジェスチャーで伝え、それから土管の方を向いて言った。
「冬越しおめでとう」
「おおきに」
「元気?」
「死にかけたわ」
 土管はダブルの手から賽銭箱をひったくり、中の金を数え始めた。ひいふうみいよう、おい、おまえこれ、札入っとるやないか! あいつらアホとちがうか! 喜ぶ土管の、ホームレスらしからぬ血色の良い頬を見るに、とても死にかけたようには見えない。
 実際土管はホームレスとは思えないほど豊かな暮らしをしている。ホームレス歴が長いのでこの街を熟知しており、ナワバリも広い。飲食店の余った食材を効率よく手に入れ、それをキャンプ用の鍋とガスバーナーで調理している。家は駅から徒歩20分の廃工場の中に作られたダンボールハウスで、どこから盗んでいるのか電気が通っており、明かりはもちろん、テレビもラジオも冷蔵庫もある。さらにダンボールは二重張りで、その間に丸めた新聞紙や発泡スチロールなどが詰められ、立派な断熱構造になっているのだ。水はすぐ近くの川で手に入るし、川の土手には勝手に開拓した菜園まで持っている。
「全部で1450円か。札が効いとるなぁ」
 うれしそうに小銭を数える土管の手元をダブルが覗き込む。稼ぎはきっちり二等分だが、土管は現金をダブルに渡さない。ダブルに何かを渡すと口に入れて飲んでしまうのだ。だから土管が管理して、必要な時に必要なものをダブルに買い与えている。
 俺の背後で、ううううう、み、という声が聞こえた。振り向くとダブルが苦しそうな顔をしていた。また漏らすのかと思ったが、ダブルは顔を歪ませ、大きく目を見開き、それから静かに涙をこぼした。
 また発作や。最近多いからかなわんわ。土管は今日の売り上げを懐に隠すと、しっかりせえアホ、と言いながらダブルの背中を乱暴に何度も叩いた。

 

 ううううう、み。

 

 数年前、真冬の朝の四時半、冷え込んだ薄暗い街で、俺は自販機の下に手を入れ、落ちている小銭を漁っていた。べつにホームレスだったわけではない。携帯と財布を飲み屋で無くしただけだ。
「兄ちゃん、何しとんや」
 気がつけば数人のホームレスに囲まれていた。その中で浅黒い皺だらけの顔をした、背の低い、グレーの毛布を身体に巻き付けた、完全に土管の形をしたホームレスが声をかけてきた。
「ナワバリっちゅうの知らんのか」
 凄みのある声に俺はひるんだ。べつにナワバリを荒らす気はない、財布を落として、電車賃が欲しいのだと伝えると、土管は顔の皺を歪めて「金、貸したろか」と笑った。冗談なのか何なのか分からず黙っていると「兄ちゃんよりは持ってるで」とまた笑った。
 俺はてっきり怒られるのかと思っていたが、彼らにそういう気持ちはなく、むしろ俺を怖がってさえいるようだった。土管以外のホームレスたちはただ土管の後ろに群がり、光のない目で俺を遠巻きに観察していた。
 いくら拾ったんや、そう言われたので手の中の10円玉を差し出すと「どこに落ちとった」と訊かれた。質問の意味が分からず黙っていると土管は言った。
 地面にそのまま落ちてるやつはあかん。持ち主が気付いてない金やから、窃盗や。そやけどこの側溝、この蓋の下に落ちたやつは違う。持ち主が落としたのを分かってて諦めよった金やさけ、それは天下の回りもんになる。わしらはそれを頂くわけや。
 いやそれも違法だろと思ったが俺は黙っていた。すると土管は側溝の蓋を簡単に開けられる自作の道具を自慢げに見せてくれた。土管と話しているうちに、俺を取り囲んでいたホームレスたちも徐々に笑顔を見せるようになった。
 それから俺はなぜか質問責めにあった。どこに住んでいるのか、何の仕事をしているのか、年齢、家族構成、出身地。たくさんの質問に答えたが、名前だけは訊かれなかったので、俺は自分の名を名乗り、ついでに土管に名前を訊いてみた。しかし土管は「しょうもないこと訊くな」と言って答えようとはしなかった。
 取り囲む輪から外れたところに、一人の背の高いホームレスがいた。そのホームレスは輪の中に入りたがっているようにも見えず、かといって離れる様子もなく、一定の距離を保って周囲をうろうろ歩いていた。あれは? と訊くと「あいつはこの番ちゃんのペットだよ」と他のホームレスが説明した。
「あ、番ちゃんていうんだ」
「好きに呼べや」
「じゃあ土管」
「何やそれ」
 そのうち土管は突然、おまえ、もう家に帰れ、と言い、俺を追い払う仕草をした。わしらにあんまり関わるな、こいつらが勘違いしよる。俺が黙っていると土管は俺の手の中に500円玉を握らせて、これは後でちゃんと返せや、と言って俺の背中を押し出すように叩いた。
 離れて立っていた背の高いホームレスが、宙を見上げ、ううううう、み、と叫んだ。それがきっかけになり、集まっていたホームレスたちは俺に背を向け、散り散りになった。後に残ったのは俺と自販機と500円玉だけだった。高架下へ、地下街へ、ビルとビルの間の路地へ、彼らはあっという間に街の隅々に消えていった。

 

 築50年を超えたビンテージ級のマンション、その5階。風呂に換気扇がなく、エレベーターは時々止まりかけ、廊下の電気はあちこち切れている。結露はすごいし、ブレーカーはすぐ落ちるし、網戸は動かないし、国籍不明の住人が多い。何の話かというと今俺が住んでいる家の話だ。モルタルの浴室にカビと羽虫が大量発生したこともあるし、不法滞在っぽい外人数名に廊下で郷土料理(煮物)を作られるし、ひょっとしたら土管の方がいい暮らししてんじゃねえかと思うことがある。
 なぜそんな物件を選んだのかというと、家賃が異様に安く、かつ巨大なバルコニーが付いていたからだ。家賃の異様な安さと気になる壁のシミについてはまあ置いといて、それよりも各階に段々畑のように設置された、10畳はあろうかという広さのバルコニーが決定的だった。ばあちゃんの鉢物を全部収容するにはそれでも足りなかったが、引っ越しの際はそれでかなり助かった。
 ところが住み始めて数ヶ月後、日当たりの良すぎるバルコニーは一瞬でジャングルと化した。もちろん階上の住人から「ツタが這ってきている」と苦情が入り、階下の住人から「落ち葉がいくらでも飛んでくる」と苦情が入り、結局、その大部分をビシコの庭に預ける形になってしまった。
 俺のマンションはビシコの家の近くにある。植物大移動の際にはおかげでとても助かった。当時ビシコは旦那と別れた直後で、あの大きな家に一人住まいだった。だから俺は植物の世話がてら、ビシコの様子を見に時々家に通っている。
 こっちのボロマンションに比べて、ビシコの家は天国のようだ。冬でもめちゃくちゃ暖かいし、もちろん隙間風はないし、夜になると勝手にライトが点くしトイレのフタが自動で上がるしなんかウッドデッキとかあるし、リビングの大きな掃き出し窓からは美しい緑の木々が見える。ハウスメーカーのパンフレットそのまんまの光景だ。
 音もなく揺れる枝の影、跳ねる光、清浄な空気。これから本格的に暖かくなり、今は動きのない個体も一斉に新芽が吹き出てくる。新緑の季節は生命の季節だ。もう枯れたかと思ってたやつでも、茶色くしおれた幹の脇から、ぷっくりと黄緑色の瑞々しい新芽を覗かせたりする。
 だから正直、ほんの少し、緑に囲まれてビシコも元気になるかなって思わないでもない。離婚というのはとてつもなくエネルギーを使うものだとネットに書いてあった。人よりも生真面目なビシコはもっと疲れてしまったに違いない。
 ビシコは大学時代、とても勤勉な学生だった。遊びもせずにひたすら就職活動を続け、毎日地味なパンプスと地味な黒髪で、よく学校の食堂の片隅で一人で弁当を食べていた。食堂なんだから食券買えばいいのに。カツカレーを頬張りながら俺がそう言ってもビシコは何も答えず、自分で丁寧に作った弁当を小さく広げ、まるで禅寺の修行僧のように、それをぼそぼそ食べるのだった。そのせいで当時クラスメートの間ではビシコが1000万ほど貯め込んでるとか、難病の母親がいるとか、ホストに貢いでるとか、根も葉もない噂が立っていた。
 色白で目が細く、唇も薄く、どこかヘビっぽい感じのビシコ。喋れば面白いのに、人見知りが強いせいで友達は少ない。趣味はネットとマンガだけ。完全なインドア派。学生時代に一度、他の友達とのキャンプ旅行に誘ったこともあったが、ビシコは一日目の夜「昆布の賞味期限が切れる」という理由で家に帰ってしまった。
 そんなやつが、ウッドデッキと薪ストーブのある家に一人で住んでいる。人はお互いに無いものを求め合うというが、やっぱり相性悪かったのかな。
 まあ、離婚なんてどっちのせいでもあるのだけれど。(とネットに書いてあった)

 

 生ぬるい風の中、チャリを立ちこぎして、ビシコの家に向かった。家は山手の高台の造成地区にあるから、立ちこぎできっつい坂を登る。ウールのカーディガンを羽織っているせいで額に汗がにじむのが分かる。汗がにじむなんていつ以来だろう。頭のすぐ上で鳥の浮ついた鳴き声が聞こえる。
 俺の家から造成地区へ行くには山の麓にある寂れた旧市街を通る。まるで全人類がこつぜんと姿を消してしまったSF映画のようなメインストリート。その坂道を、銀杏並木の下を、灰色のシャッターの前を、もう舗装する必要のない、あちこちがひび割れたアスファルトの上を走る。
 造成地区に住む人々の大半は20~30代のファミリー層で、彼らは開発と共に開通した広くて便利な道を通るので、この旧市街の割れた道を使う人はもう誰もいない。残された銀杏並木はそれでも毎年芽吹き、ぼろぼろのアスファルトに立派な葉の影を落とす。
「おそい」
「すんませーん」
「もう冷めちゃったよ」
 俺の家とビシコの家はチャリンコを全力立ちこぎすればスープの冷めない距離と言える。ビシコは「ガス代もったいない」と文句を言いながらコンロに火をつけ、何してたの、すぐ電話したのに、と言ってお玉を回した。
「春だからさ、うちの連中、植え替えしてたんだよ」
「しょうもな」
「しょうもなくないです。ばあちゃんの形見」
「それは失礼」
 はいどうぞ、と言って目の前に熱々のスープが置かれ、その周りにいくつかの総菜が並べられる。いつも食器のジャンルがばらばらなのは、きっと結婚か新築のお祝いの品なんだろう。今日はイギリスの上流階級が使うような上品な陶器の皿でいただく。うーんデリシャス。ディズニーのキャラグッズだろうが、陶芸家の作品だろうが、どの皿で飲んでもビシコのスープは美味い。
「あんたのおばあちゃん、いい人だったよね」
「変人だったけどな」
「今年三回忌だっけ」
「早いよな」
 鶏の出汁がよくきいたトマトスープ。表面にパセリを散らしてある。その他に並んでいる瓶は、オレガノ、クミン、ローズマリー。これだけ広い庭があるんだからハーブくらい自分で育てればいいのに、ビシコはそういうのに全く興味がない。というより、向いてないのを自覚してるんだろう。
 以前、少しでも興味を持ってもらおうとプレゼントしたシェフレラという強健種をビシコはわずか一ヶ月で枯らしてしまった。日本の気候で、屋外管理で、シェフレラを一ヶ月で枯らす人間がいるというのは衝撃の事実だった。ビシコおまえ、むしろ才能あるよ。いやまじで。その言葉がいけなかったのか、ビシコはそれからしばらく、俺の植木鉢に水をやってくれなくなってしまった。
「おかわり」
「はやっ」
 半分ほど開けた窓の向こうから、ぬるい風とともにお隣さんの子供のはしゃぐ声が届いている。今日は日曜日だ。車のエンジンをかける音がする。今からみんなでピクニックにでも出かけるのだろう。しばらくすると車のドアが次々閉まる音がして、エンジン音が遠ざかり、静かになった。ビシコが自分の食事の用意をはじめる。
「テレビつけていい?」
「いいよ」
 リモコンのスイッチを押すと、ニュースを題材にしたバラエティ番組が映った。派手な音楽、司会者のかん高い声、芸人と客席の爆笑。その激しい温度差に思わずボリュームを絞る。ニュースでは若くしてがんで死んだアイドルの娘が中学生になってまたアイドルとしてデビューした、みたいな話をしていた。わ、この子母親そっくりだ。親は享年35歳だって。俺らもうちょいじゃん。ビシコは手を動かしながら「かわいそうだねー」と生返事をする。ビシコは世間のことに興味がないのだ。
 ビシコは自分のスープをよそって俺の向かいに座った。トマトスープ、ほうれん草のソテー、昨日のコロッケ1つ、白米、お茶。
「いただきまーす」
 背筋を伸ばし、きっちり手を合わせるビシコ。そういうとこ、魅力的なんだけどな。いい奥さんだったんじゃねえかな。
 学生時代、俺には恋人がいたけれど、ビシコと冗談半分で30までにお互い独身だったら結婚しようなんて約束したこともあった。俺たちはいつも四人グループで遊んでいて、残り二人のトモローと夏目ちゃんにおまえらはお似合いだから今すぐ付き合えとか、もうやったんでしょとか言われて、当時真っ黒なロングヘアで真性の処女だったビシコが怒って、飲んで、吐いて、夏目ちゃんに介抱されて、なぜか俺が怒られた。
「太一郎! あんたちゃんと見てあげなよ!」
 そんなこと言われてもなー。
 俺は昔から責任感というものがなくて、まあ甲斐性もやる気もなくて、就活もしないでプラプラしているうちに、夏目ちゃんが結婚して福岡に行ってすぐに子供を三人産んで激太りして、俺は当時付き合っていた彼女に愛想を尽かされて、ビシコは文具メーカーに就職したのち、トモローと電撃結婚したのだった。
 運命というのは決まってるんだろうか。未来は変えられるんだろうか。ビシコの静かすぎるリビングでぼんやりソファに座っていると、ふとそんなことを思う。フローリングには傷一つなくて、壁のクロスもまっさらで、まだまだ新築の匂いがする。あの当時の誰一人、こんな未来は描いてなかった。冗談でも、考えたことなかった。
「あ、ごめん」
 俺が食べ終わっていることに気付き、ビシコは食事の途中で席を立って俺にコーヒーを入れてくれる。手際よく俺好みの濃さのコーヒーを入れるビシコを見ていると、なんだか胸がひりひりと痛む。
 あの時に怒った夏目ちゃんが正しかったのかもなあ。俺がちゃんと見てれば、何かがどうにかなったのかもなあ。
 いや、自惚れかな。それは。
 コーヒーカップを傾けながら俺は言った。
「さっきのアイドルじゃないけどさ」
「んー」
 ビシコは箸を置き、新聞の求人広告に目を落としている。
「来週死ぬって言われたらどうする?」
「あたし?」とビシコは顔を上げ、さあね、と首をかしげた。そしてしばらくして口を開いた。
「とりあえず洗い物して、家の大掃除だね。あと冷蔵庫と衣類の整理」
「何だそれ。他にやりたいことないの?」
 だって、とビシコは食べ終わった食器を丁寧に重ねながら言った。
「これ以上、人に迷惑かけたくないもん」

 

 トモローが家を出て、携帯の番号を変えた時、俺に新しい番号のお知らせは届かなかった。
 だからトモローは俺が植物を好きになったことを知らない。ビシコが突然会社を辞め、長かった黒髪をばっさり切り落として金髪になったことも知らない。
 そして俺は、トモローの新しい電話番号と、あいつの方の言い分をいつまでも知らないままだ。

 

「アエオニウム」という植物がある。別名「黒法師」ともいう。アフリカに自生する多肉植物の一種で、厚みのある黒い花のような葉をつける。わりと国内でもメジャーな品種だが、こいつは冬に活動して、夏は逆にぐっすり眠るというややこしい生き物なので、それを知らない人は夏の水やりですぐに枯らしてしまう。
 俺が一番最初にばあちゃんにもらった植物がそれだった。まだ小学生だった俺は、アサガオやヒマワリなんかと同じように、夏にせっせと水をやって、見事に枯らした。
 今思えばそんなややこしい品種を小学生にノーヒントで与えるなんてどうかしてる。ばあちゃんには何を考えてるかよく分からないところがあった。鉢の数だって、その辺の植物好き奥様が庭先に並べるようなレベルではなく、そのゆうに10倍はある。べつに俺の実家が広いわけじゃない。実家はいつもばあちゃんの植物に囲まれて、覆われて、鬱蒼としていた。その上父も母もそういうところに無頓着だから、ばあちゃんの植木鉢は死ぬ直前までいくらでも増え続けていったのだ。
 ばあちゃんは変わり者だったから、友達は河北さんというおばあさん以外、誰もいなかった。家族の誰に話すでもなく、一人でこつこつ世話をして、地味な園芸誌を定期購読して、テレビのガーデン特集みたいな番組を録画して、実家の狭い部屋で背を丸めて何度も見ていた。ばあちゃんは毎日どんな気持ちで暮らしていたんだろう。そんなこと、生前は考えたこともなかった。ただ自分も植物好きになった今、ばあちゃんの気持ちを少しだけ想像することはできる。
 植物を世話するのは、実は大変な作業だ。ただ毎日水やりをすればいいと思ったら大間違いだ。人間と一緒で、植物にもいろんなやつがいる。太陽が好きなやつ、そうでもないやつ、湿気が苦手なやつ、湿気が無いと死ぬやつ、日光不足で病気になるやつ、日光で葉焼けするやつ、かまい過ぎると枯れるやつ、かまわないと枯れるやつ。しかもたとえば陰湿な性格のイタリア人がいるように、陽気でおおざっぱな日本人がいるように、「冬に強い」とされる品種でも、買ってきた個体が冬に強いとは限らない。
 そんな連中に毎日水をやり、診察するように土の状態、葉の色、虫の有無、幹の固さ、根の動きなんかを見回っていると、なんというか、いつの間にか、彼らと会話しているような気分になる。植物に話しかけたらいいなんて言うが、あれは本当だと思う。会話していない鉢は不思議と枯れやすい。
 だからばあちゃんは一人だったけれど、そんなに寂しくはなかったはずだ。お通夜の席で、誰が言ったのか、棺桶の中にかわいがっていたマッソニアーナとビカクシダを入れてやろうという話になった。それは違うと俺は反対した。それじゃ心中じゃんか。ばあちゃんはそいつらに元気でいて欲しいんだろ、そいつらが生きてれば、ばあちゃん向こうで寂しくなんかないんだよ。
 俺のその言葉にいたく感動したらしい両親は、後日、俺を植物の世話役に任命した。まあ当然だ。余計なこと言った俺が悪い。甘んじて受けますよ。毎日ビシコの庭に通い、まめに世話をしながら、ばあちゃん見てるかなぁなんて時々思う。こんだけ頑張って世話してんだ、礼の一つでも言って欲しい。
 ばあちゃん、見ての通り、こっちはみんな元気だよ。
 そっちは元気?

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