ナユタ緑

 春の植え替え作業で、アエオニウムをいくつかの鉢に分けた。そこでふと思いついて、そのうちの小さいやつを土管にプレゼントすることにした。
 これで殺風景な工場のダンボールハウスも少しはましになるかと思っていたら、土管は「おおきに」と言った後、「これどうやって喰うんや」と呟いて止める間もなく肉厚の花びらをちぎって口の中に入れ、すぐにプッと土の上に吐き捨ててしまった。
 なんや、喰われへんのか。ほなこれ何やねん。アロエみたいに塗るんか。
 役に立たないものだと分かると、土管はアエオニウムの鉢をダンボールハウスの脇に適当に置いた。絶対世話をしそうにないので持って帰ろうとすると、ダブルがその鉢を抱え、つついたり、おずおずと匂いをかいだり、離れて眺めたりして、やっぱり最終的に口に入れた。なんでやねん。
 ダブルは土管のダンボールハウスの「離れ」に居候している。ダンボールとは言え、工場の中にあるおかげで雨風のことを考えずに済むので、設計の自由度は格段に高くなる。土管は元現場監督のホームレス仲間に頼み、少しずつ集めた端材で構造を作り、増改築を重ねていったらしい。現在の家は3LDK+離れという嘘みたいな豪華仕様になっており(ただし天井は低い)、そのうち4畳半の離れをダブルに与えているのだった。
 その日のダブルはいつもより落ち着きがなく、アエオニウムを両手に抱え、巨大な工場の中をうろうろと歩き回っていた。時々空模様を確認するみたいに、工場の天井を仰ぎ見た。3~4階くらいの高さのある鉄骨の天井は、屋根を支える野太い鉄のフレームに支えられ、その向こうには明かり取りのガラスが何枚もはめ込まれている。割れた時に入れ替えたのか、ガラスの半分くらいが波ガラスになっていて、そこを通過した光が、薄暗い工場のコンクリートの床に不規則な模様を描いている。
 ダブルはその模様が大好きだ。光の模様は工場の奥の方まで続いている。ダブルはその光に導かれるようにふらふらと奥まで行ってしまい、最奥部にある廃棄されたままの巨大な重機械に登ってしまい、それを土管に見つかってめちゃくちゃ怒られたりする。
「床にオイルが残っとるさけ、そこ歩かれたら、家が汚れてかなわんのや」
 元々何の工場なんだろうか。郊外の家電量販店くらいはすっぽり入りそうな広さのワンフロア。コンクリートの床には何やら白線と数字が書かれているが、堆積した埃と泥で判別できない。奥にある見たこともない巨大な機械は一体何を作るものなのか、動くかどうかも分からない。工場の天井が高いのはきっとこの機械のせいだろう。
 ダブルは「おっおっ」と吠えながら光の波を追いかける。ボロ雑巾のようなロングコートの裾を翻し、光の揺れるままにくるくると回る。ダブルの両足にはサッカーのスパイクと脛当てが装備されているが、もちろんサッカーをやるわけではなく、どこかに捨ててあったのを拾ったのだろう。スパイクがコンクリートに当たる粒のような音ががらんどうの工場に反響する。
 チャキ、チャキ、チャキ。
 おまえもうそれ止めとけ。またおかしなる。
 土管はダンボールハウスの玄関を全開にし、中から酒とつまみを出してきて外に置きっ放しのテーブルに並べた。
「もうだいぶ温なったな」
 俺は差し出された缶コーヒーのプルタブを開け、テーブル脇のパイプ椅子に座った。ダブルはまだ工場の奥の暗がりで踊るように回っている。
「おまえもう止めぇ」
 奥に向かって土管が叫ぶ。
「あいつ、春になったらしょっちゅう発作起こしよんねや」
「病気で?」
 土管が首を振る。
「あいつは昔は漁師やったさけ。海の幻でも見とるんちゃうか」
 ううううう、み。
 声が聞こえてきた直後、ダブルのスパイクの音が止まり、少ししてダブルの長身が床に崩れる音がした。
 もう知らん、勝手に死ね。土管はそう言うと手に持ったワンカップ大関を恐ろしい早さで飲み干し、空き瓶を工場の暗闇に投げた。そして演歌を歌うような調子で、工場に響き渡るほどの声をあげた。
 どこにも、何も、あらへんぞォ。海どころか水たまりも無いわ!

 

 久々にビシコを誘い、行きつけのインド料理店に二人で行った。旦那と別れてからのビシコは超絶倹約家になったので外食はほとんどしない。ただし奢ってやると言うと簡単についてくる。いつでもどこでもついてくる。さすが無職だ。
 この街の山手エリアは旧市街と造成地区、そして高級住宅街の3つが三角形を作っていて、インド料理店はその三角形のちょうど中心に位置する。店は緩い坂道の途中にひっそりとあり、黄色のペンキで塗られた板塀と看板、そこに誰が描いたのか下手くそなネコのイラストが目印だ。チャリに鍵をかけながらビシコが言う。
「いつも思うんだけど、この看板、まずいよね。ネコ的に。ネコの肉的に」
「わかる」
「なんでネコなんだろ」
「カレー美味いし、俺は別にネコ肉でもいいけど」
「ひどいニャ!」
 重い木のドアを開けると、強いスパイスの香りと共にイラヤイマセー、という声が届く。スタッフは厨房2人とホール2人の合計4人。インドで修行して秘伝のスパイスを会得したという日本人のオーナーシェフが厨房に入り、ホール2人はどちらも美人のインド人女性。そしてオーナーの右腕のような感じで、もう一人、外国人が厨房に立つ。
 外国人、と書いたのには理由がある。その人は実はインド人ではない。サウジだかクウェートだかその辺からお越しの出稼ぎ青年だ。中東出身の彼はカレーも秘伝のスパイスも何も知らないが、「それっぽい」という理由だけでオープン厨房に入れられたかわいそうな男だ。名前はムバラくん。デブで大人しくて、きれいな心と大量のあごひげを持っていて、死ぬほど要領が悪くて毎日死ぬほど怒られている。
 ヒサシブリネーとホールの美人さんから声がかかる。俺とビシコは久しぶり、と手を振る。いつものチョイスセット2つ。ドリンクはラッシーね。
 ビシコはおしぼりで両手を丁寧に拭き、それを四角にたたんでテーブルの隅に置く。うるおいも張りもない長く白い指は、そこだけが無数の経験を積んだ別人のように大人びている。少し伸ばした爪には何も塗られていない。昔からそうだ。メイクも最低限、ピアスもせず、唯一のアクセサリーだった地味な結婚指輪も今は無い。
 窓側の席に座ったビシコは頬杖をついて通りを眺めている。窓からの日射しは強く、ビシコは細い目をさらに細め、長いあくびをして、ぽりぽりと頬を掻いた。
「ビシコってなんかネコっぽいよな」
「何それ。褒めてる?」
「さっきネコの話したから」
「食べちゃいたいって?」
「いやおれ草食だから。ベジタブルカレーだから」
 しばらくするとサラダとカレーが運ばれてきて、オーナーカラデス、といってスペシャル杏仁豆腐もサービスでついてきた。ビシコの顔がぱっと明るくなる。一時期、週2で通っていたおかげで、ここのオーナーとは仲がいいのだ。
 少しオイルが垂らされた熱々のナンを頬張っているとビシコが言った。
「あんたさ、ホームレスと付き合ってる?」
 俺は驚いてビシコの顔を見た。
「え、なんで知ってんの?」
「駅前で見かけた。二人組? 仲良さそうに喋ってたじゃん」
「うん、まあ」
 俺は曖昧な返事をしながら、どう説明したものか迷った。土管とダブルのことはビシコには何も言っていなかった。
「変なことに巻き込まれてない?」
「ないない。むしろ世話になったくらい」
「ああいう人たち、普通じゃないでしょ。法律とか関係ないんだから。あんた、いくらお金ないからって道踏み外しちゃダメだよ」
 俺はラッシーを口に含みながら曖昧にうなずいた。
「そっちのチキンカレーちょうだい」
「どうぞ。お肉も食べていいよ」
「道、ねぇ」
「なによ」
 入り口ドアが開いて、賑やかな家族連れが入ってきた。上の子は小学生低学年くらいの男の子で、出迎えたホールスタッフに「ガイジン! ガイジン!」と指をさし、母親に「やめなさい!」と怒られていた。下の子は幼稚園くらいの女の子で、ガイジンが怖かったのか突然泣き始めてしまい、ホールスタッフの美人さんはおろおろして、母親が「うるさい!」と下の子まで怒るので余計に火が点いたように泣き叫び、その様子を厨房から見ていた心の優しいムバラくんが助けに出てこようとして、駄目だムバラくん、余計泣く! と俺は心で叫んだが遅かった。
「大変だね、お母さんって」
 ビシコはナンをゆっくりちぎりながら呟いた。俺はまた曖昧な返事をした。
「ちゃんと聞いてる?」
 俺はナンを丸め、その先をカレーにつけ、しばらく眺めたあとで言った。
「ビシコさあ、なんで保母さんなの? 転職先」
「わかんない。母性本能?」
 ぎゃああという声が店内に響き渡る。母親は怒りながらすみませんすみませんと全方位に向けて謝っている。父親は興味がないのか携帯を見ていて、子供が泣き叫ぶ原因になっているムバラくんは店長に首元をつかまれ厨房に引っ張られていった。
「やっぱ、子供欲しかったん?」
「そういうわけでもないんだけどねー」
「また事務仕事やんないの?」
「そりゃそっちの方が向いてると思うよ。自分でも」
 人の進む道にケチをつけてもしょうがないが、俺はビシコが保母さんになる姿をうまく想像できない。エプロン姿で折り紙の輪っかをつくり、ピアノの伴奏に合わせて手を叩いて歌を歌っているビシコ。それはどこか作り物の不自然な映像のように思う。なぜそう感じるのかは分からない。とにかくその絵は居心地が悪い。
「道って、決まってるのかね」
「なに子供みたいなこと言って」
「過去から今までの道があるとするじゃん、それはもうきれいに真っ直ぐ、ずっと向こうの過去から今の足元までピッシーと続いているわけだよ。そんで、前見ると、今度は未来の延長線が全く逆の方角にピッシーと延びててさ、あ、こっち行けばいいのかって思うじゃん」
 ビシコはラッシーをちびちび飲みながら俺を見た。俺は続けた。
「でもさ、それ実は一本じゃなくて、足をどけてみると、足の下で二つにちぎれてるかも知れないって、思うんだよ。自分が気付かないだけで」
「何の話?」
 ビシコは不穏な空気を感じ取ったのか顔が少し険しくなった。
「あんた、あたしに助言しようとしてる?」
「いえいえまさか」
「そんなのいいから、お金貸して」
「今日奢ってやるじゃん」
「ゴメイワク、オカケマシタカラー」
 変な日本語とともにムバラくんの巨体がやってきた。ムバラくんはさっきの騒ぎのお詫びにスペシャル杏仁豆腐を各テーブルに配っていた。きっと店長ではなく心優しいムバラくんの心遣いなのだろう。でもムバラくん、そういうことすると、日本人の母親はますます恐縮するんだよ。言っても分かんないだろうけど。
「タイチ、ゲンキ?」
「ゲンキゲンキ。これもらっていいの?」
「ダイジョブ、テンチョさん休憩してるカラー」
「そんなことするから怒られるんだよ」
「イイカライイカラー」
 その後ムバラくんはなぜか騒ぎの張本人の家族連れにも杏仁豆腐を持っていって、また子供に泣かれたりしてめちゃくちゃだった。ビシコは本日2つ目のスペシャル杏仁豆腐を普通にたいらげ、あー得した、と笑った。
 帰り道、二人で自転車を押して坂道を歩いた。俺もビシコも、羽織っていた上着を一枚脱いで自転車のかごに入れた。
「ビシコ知ってる? ムバラくん、ほんとは大工になりたいんだよ」
「え、そうなの?」
「昔TVで見たキンカクジのゴジュータワーに感動したんだって」
「なんでカレー屋さんの厨房に入ってるの?」
「さあ」
「ていうか、だったら京都に住んだ方がよくない?」
 坂の上の交差点には長い橋がかかっていて、そこに着くと急に視界が広がる。交差点で信号待ちをしながら、俺は眼下のどこまでも続く河川敷に目をやった。一級河川、白湖池川。湖なのか池なのか川なのかはっきりしろと人々にツッコまれ続ける、この街の宝だ。
 俺たちは荒くなった息を整えながら信号を待つ。川の流れに沿って山から吹き降りてきた風が、ビシコのシャツの裾を翻して抜けていく。
「汗乾いて気持ちいいねー」
 高台から見下ろす河川敷は、ふらふらと左右に揺れながら、旧市街地の方へ続いている。そして旧市街を抜け、国道を抜け、浜手の漁村を通り過ぎて、最後は海へたどり着く。
 そう、日本人なら誰もが知っている。街のインド料理屋からキンカクジへは、道は続いていない。
 タイチ、お茶してく?
 イイトモー。
 また温い風が吹いて、今度は本格的にビシコの白い腹が見えた。

 

 その後、株分けしたアエオニウムをムバラくんにもプレゼントしてあげた。
 ムバラくんは、この植物は自分の故郷にも生えている、と言ってとても喜んでくれた。
 故郷で見たアエオニウムは、これよりずっと太く、背が高く、たくましいそうだ。
 俺は、それは環境に合っているからだよ、と教えてあげた。
 ムバラくんは、日本でひょろひょろに育ったアエオニウムを両手で受け取り、デモコノコ生きてるネ、ダイジョブネー、と言った。

 

 ダイジョブ、ダイジョブ。
 ムバラくん、うちのばあちゃんみたいなこと言って。

 

 これはあまり大っぴらにしていないが、うちのばあちゃんは晩年、新興宗教に入信していた。といっても別に害のある宗教ではなく、むしろあまりに控えめで、地味で、大人しいので、俺の新興宗教観が覆されてしまったほどだった。
 教団の名は『北曜会』。全国に一定数の会員がいて、いくつかの支部もあるらしい。活動内容は特にない。勧誘も、販売も、海外進出も何もしない。ただ会員はそれぞれ自宅で仏壇や神棚に向かい、毎日手を合わせ、ひたすら祈るだけ。その祈る時に色々細かいルールがあるのだが、まあ端から見ればどこにでもいる年寄りだ。
 ただ、祈りの内容は伏せられている。それが人ごとに違うのか、みんな同じ内容を祈っているのか、外部からはそれすら分からない。ひょっとしたら皆で力を合わせてすごい邪悪なことを祈ってたのかも知れないが、ほんとに祈るだけなので、世の中的にはまったく無害なのだった。
 一度、ばあちゃんに聞いてみたことがある。ばあちゃん、何をお祈りしてるの?
 するとばあちゃんはあまり表情を変えずに言った。
「人に言うたら叶わんのやよ」
 そっか、と言ったきり俺は何も聞けなくなってしまった。まあ確かにそういうものかも知れない。黙っているとばあちゃんが続けて言った。
「たいっちゃん。ばあちゃんもうすぐ死ぬけど、あんたは大丈夫やでな」
 その言葉に俺は驚いた。ばあちゃん死ぬの? どこか悪いの? 当時まだ小学生か中学生くらいだったから、一瞬で気が動転した。ばあちゃんはその質問には何も答えてくれず、ただ、あんたは大丈夫やでな、ともう一度俺に言った。
 ばあちゃん死なないで!
 と思ったが、結局ばあちゃんはそれから普通に20年近く生きて、普通に老衰で死んだ。その間に2回急性大腸炎にかかって救急車で運ばれた俺よりもよっぽど大丈夫だったじゃねーかと思うが、まあ、それもずっと祈りを捧げてきたおかげかも知れない。ばあちゃんは重い病気にもかからず、みんなに看取られて、穏やかでいい最期を迎えた。実際、そういう願いだったのかもしれない。
「あんたは大丈夫」
 そう言われて、悪い気はしない。ひょっとしたら本当に大丈夫なんじゃないかって、ちょっと思えてしまうからだ。今でも時々夢に見る。夢に出てくるばあちゃんは、決まって同じことを言う。たいっちゃんは大丈夫。
 おれ、大丈夫なのかな? ほんとに?
 そうだったらいいな。
 夢の中でまどろみながら俺はにやける。
「きみは大丈夫」だなんて、いつか俺も誰かに言ってあげたい。

 

「大丈夫ちゃうわ、見たら分かるやろボケ!」
 前日、この街に記録的な雨が降った。春の嵐というやつだ。翌朝にはすっかり収まっていたが、俺は念のため土管の家を見に行くことにした。もし川が氾濫していたら、土手よりも少し低い位置にある土管の家はひとたまりもないからだ。それに天井の明かり取りもあちこち割れているからずいぶん雨が吹き込んだに違いない。豪邸とは言え所詮はダンボール、水が一番の大敵なのだ。
「タイチお前、あるだけ土嚢持ってきてくれ!」
 見に行くと、大変なことになっていたのは家ではなく畑の方だった。土砂降りで増水した泥水が、川の土手に作られた土管の菜園を襲っていた。流れは緩やかだが、泥水は着実に水かさを増し、今にも畑を丸ごと飲み込んでしまいそうな勢いだ。土管は土嚢を積み上げてバリケードを作り、流れ込もうとする泥水をぎりぎりで凌いでいた。
 ダブルはそんな土管を土手から見下ろし、何を勘違いしているのか「あみ、あみ、」と嬉しそうに声を上げた。あみじゃねーよ、ちょっとは手伝ってやれよダブル。俺は言われるままに工場前に積まれた土嚢を汗だくになって運び、土管の立つ1メートル下の川縁へと投げ込んでいった。
 すべての土嚢が積まれる頃には、増水の勢いは落ち着いていた。土管はこれ以上水位が上がることはないと判断し、手を休めて岸に上がってきた。土管は髪も顔も手足も泥だらけになり、全身で息をしていた。
「おつかれさん」
「すまん、助かったわ」
「顔色やばいよ」
 川から上がった土管は土気色の顔をしていて、身体が小刻みに震えていた。土管はダウンボールハウスに戻る気力もなく、工場の入り口付近で力尽きたように横になった。身体に巻き付けた灰色のレースが泥水を吸い、全身がまるでコンビニの濡れたトイレに落ちているどろどろのティッシュのように見えた。
「火でも焚こうか?」
 土管は「アホか、ポリ来るがな」と掠れた声で言った。倒れ込んだ土管を見てもダブルが無表情なので俺はむっとした。お前さ、畑の野菜、毎日喰ってんだろ? お前ほんと役に立たねえな。
 俺がそう言うと土管は首だけを起こして言った。
「前に土嚢積んどけ言うたん、こいつやぞ」
 俺は驚いてダブルを見た。
「こいつ天気読めるんや。めちゃくちゃ当たる」
 ダブルは「あみ、あみ、あっ、あっ」と繰り返して頭を振った。海藻のようにべったりとした長髪が翻り、ものすごい臭いがして息を止める。
「あとお前、こいつに偉そうに言うな、アホやけどお前より年上や」
 ダブルは工場の奥の方へふらふらと歩いていき、急に歌を歌い始めた。ナンサー、アイヨー、ドッコイドッコイ。ナンサー、アイヨー、ドッコイショ。初めて聞く歌だ。しかもコブシがきいてたりして妙にうまい。なんの歌だろう。
 土管は苦しそうに寝返りを打ち、コンクリートの上で仰向けになった。よく見ると土管の胸が激しく上下している。あの小さい畑が、そこまでして守るべきものなのか俺には理解できなかった。土管なら、他からいくらでも食材が手に入るはずだからだ。
「あかん、わしはもう死ぬ」
「言うと思った」
「わしが死んだら、レタスと、キャベツと、ブロッコリーを、お前にやる」
「青野菜ばっかじゃん」
「死なんかったらやらんぞ」
「いらねーよ」
 急に空が晴れ、光線が射した。工場の入り口から少し入ったところにある土管のダンボールハウスに光が届く。突然の朝の光は鋭角の影を作り、ハウスの天井と側面を白く飛ばし、反対側に見えないほどの暗がりを生んだ。コンクリートの床の光と影の間に、濡れたゴミのような土管が転がっている。
 土管の腰から下が光の中にあった。たっぷりと水を含んだ灰色のレースのまくり上がった裾から、土管の両足が突き出ていた。他のホームレスに比べて格段に清潔にしているとは言え、あちこちに皮膚病のような発疹がある。垢なのか元々色黒なのか、褐色の肌には濃いめの臑毛が貼り付いている。ふくらはぎは異常にがっしりとしていて、スポーツ選手のように太く、固く締まっている。何歳なんだろう、とふと思う。
 ナンサー、アイヨー、ドッコイショ。ナンサー、アイヨー、ハマテニヨー。ダブルの歌う調子がより大きく、派手になっていく。ダブルのスパイクがチャキチャキと鳴る。仰向けの土管が呟いた。
「すまん、あいつの相手したってくれ」
 俺は嫌な予感がして工場奥の暗がりに目をやった。こういうことが前にもあったことを俺は思い出した。しばらくすると、突然歌が止まった。
「どこじゃここは!」
 突然、奥から別人のような声色の怒鳴り声が聞こえてきた。チャキ、チャキ、と一歩ずつゆっくりとスパイクの音がして暗がりからものすごい形相をしたダブルが出てきた。
「おまん、誰じゃ」
 ダブルは年に何度か、数分だけ普通に喋れるようになる瞬間がある。何がきっかけでそうなるのかは分からない。俺も過去に一度しか見たことがない。喋れるようになったダブルは直前の記憶が途切れているようで、今の状況について質問攻めされるのでかなりめんどくさい。自分は誰で、俺は誰で、ここはどこで、今何をしていて、という質問に答えなくてはならない。ただ数分経てばタイマーが切れて元に戻るので、それまでの我慢だ。
「そこに転がってるのが土管でー、俺はその友達でー、ここは土管の家でー、」
 前と同じように適当に返事をしているとダブルが言った。
「和久はどこじゃ!」
 俺は土管を見た。土管は掠れ声で言った。
「もうおらん」
 ダブルが床に寝ている土管に気付き、睨みつけた。土管は構わず続けた。
「嫁はんもおらんぞ」
 その言葉にダブルは長く垂れた前髪を両手で掻き上げ、コンクリート床に目を落とし、不思議そうな顔をした。強い眉、睫毛の長い両目、高い鼻と締まった唇。伸びっぱなしになった髭のせいで顔の大部分が隠れているが、よく見れば整った顔立ちをしている。
「和坊はどこじゃ」
 急に気弱になったダブルは呟くようにそう言って再び工場の奥へと歩いていった。土管は寝返りを打ち、くぐもった声で言った。
「知らん、自分で探せ」
 しばらくして、暗闇の中からまた歌が聞こえてきた。ナンサー、アイヨー、ハマテニヨー。ハマテニャハチキンアミマイテー。晴れた空からの、天井のガラス窓を通過した光がコンクリート床にいくつも落ちていた。チャキ、チャキ、チャキ、とへたくそな足取りで踊るダブルのコートの裾が、光の中でくるくると回った。

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