ナユタ緑

 いつか土管が言っていた。
 あいつは身体のどっかに穴が空いとる。口に入れたもんが全部そこから出よる。そやからなんぼ口に入れても腹いっぱいにならんのや。
 俺はその日の予定をキャンセルし、家に帰ってベッドに倒れ込むと布団を頭からかぶった。土嚢を運ぶのは予想以上に重労働で、土管ほどではないが、全身が疲れていた。身体を丸め、光と音が遮断された布団の中でじっとしていると、時間の感覚が少しずつ消えていった。
 その間に、少し夢を見た。
 真っ暗がりの視界に、ぼんやりと昔の記憶が浮かんでいた。父親と母親が砂浜に座っていた。背景はどこかの広い海だ。父は僕に、あそこの岩まで泳いでみろと言った。母が僕に「がんばって」と声をかけた。僕は必死で泳いでみせたが、突然の波にのまれて水を飲んでしまい、途中で足をついた。鼻と目の奥がキンキンしていた。足の下は岩場になっていて、片足をついた時に足の裏が切れたらしく、鈍い痛みがあった。助けてもらおうと思って浜を振り返ると、父は「もう一度チャレンジだ」と声を上げ、母は不安と期待の入り交じった目で僕を見た。その目で僕は助けてもらうという選択肢がないことを知った。太一郎がんばれ、と父の声が聞こえた。お前なら絶対できる、がんばれ、俺の息子なんだから。
 僕はもう一度、打ち寄せる波に身を投げた。目をつぶり、得意のクロールで、無我夢中で波をかいて足をばたつかせた。けれどいくら水をかいても、足を上下させても、前に進んでいるという感覚はなかった。そのうち息が苦しくなってきたが、息をすると水を飲んでしまう。僕は祈るような気持ちで水をかいた。あと一かきすれば岩場に届くのだと自分を騙して泳ぎ続けた。突然波が腹の下に潜り、直後、僕は跳ね上げられるようにひっくり返った。その力は圧倒的だった。クロールのフォームや、練習や、経験なんか何の役にも立たないと思った。一瞬で目と耳と鼻に同時に海水が入り、何も見えなくなって、上下も分からなくなって、もう、泳げなかった。恐ろしいほどの濁流と、足の裏の痛みと、息苦しさだけが強く残った。
 浜に上がると、父は落胆を隠そうとはせず、身体に怒りをため込んでいるようだった。母に身体をタオルで拭いてもらっていると、耳の奥からどろりとした温い水がひとりでに溢れ、耳たぶを重く濡らした。
 ダブルの話を聞いたからか、川の濁流を間近で目にしたからか、またこの夢を見た。あれ以来、父は海に連れていってくれなくなった。だからこの夢は何度も繰り返し見る。自分の人生でやり直したいことがあるとすれば、この挑戦なのかも知れない。わりと本気でそう思う。小さい頃から習っていたスイミングは中学で辞めた。その辺りから、俺は何事にも本気で打ち込むことをしなくなった。親に期待をさせたくなかったからだ。部活もせず、勉強も怒られない範囲で適当にこなした。そこそこの高校に進み、受かる範囲の大学に進学し、就職活動もせず、生活費を適当なバイトで稼ぎ、親孝行をしない代わりに特別困らせることもしていない。
 ビシコにはよく怒られる。「負のオーラが伝染る」とかひどいことを言われる。まあ俺も否定はしない。人生において大変なことがあって、それでもそれを乗り越えようと履歴書を書き続けるビシコは俺なんかよりずっとえらい。俺も頭のどこかに穴が空いているのかも知れない。そこから何かが漏れ続けているのかも知れない。
 でも、何を言われようが、本気で何かをしようという気にはなれない。植物の土の様子を見て、枯らさないよう水をやるのが精一杯だ。
 俺は今「大丈夫」な状態なんだろうか。
 人は生きてさえいればいいのだろうか。

 

 白湖池川の川べりを散歩していると『北曜会』の河北さんに会った。河北さんはばあちゃんの唯一の友達で、ばあちゃんよりいくらか年下の白髪のおばあさんだ。俺と同じ街に住んでいて、愛らしい茶色のトイプードルと一緒によく川べりを散歩している。俺が河北さんに初めて会ったのはばあちゃんのお通夜の席で、この街に引っ越してからは散歩途中に何度も会うことがあって、俺とも話すようになった。
 河北さんは「もうずいぶん春ですねえ」と言って俺に柔らかくほほえむ。河北さんの、表裏の無い上品な笑顔、丁寧にセットされた銀髪の髪、春物のストールと同じデザインの長袖シャツ、日よけの白い手袋と日傘、心地よい余韻が生まれる深い声、ついでに足下のトイプードルの丹念にブラッシングされたふわふわの毛並みと賢そうな顔。その佇まいは見る者すべてに住んでいる世界が違うことをなんとなく感じさせる。本当の金持ちとはこういうものだ。腕時計や乗っている車ではなく、印象のレベルが違う。
 河北さんは、さる大手船舶メーカーの会長の令嬢さんだ。結婚せず、養子もとらず、莫大な資産の管理を弟に任せ、自分は山手の屋敷でお手伝いさんと二人で暮らしているらしい。
「太一郎さん、この街にはもう慣れましたか?」
 河北さんはこの街の大先輩なので、こうしていつも気遣ってくれている。大通り沿いにある有名パティシエのケーキ屋さん、輸入チーズが充実しているスーパー、生ハムとワインがおいしいスペイン料理のレストラン。河北さんは会うたびに俺に街の有益な情報を教えてくれるが、世界が違いすぎて情報を活用できず、いつも申し訳なくなる。
「太一郎さん、今日はどちらに?」
「いやまあ、べつに用事ないんです。暖かいからブラブラと」
「それなら私とおんなじね」
 そう言って河北さんは軽く口に手を当てて笑う。声は出さず、口元と目尻を少し緩めるだけで、人は楽しそうな表情ができるのだ。俺はこんなに品良く笑う人を他に知らない。こんな人が、どうしてうちのばあちゃんなんかと仲良くしてくれたのか謎だ。
「そうそう、うちのベンガレンシスがまだ元気ないのよ。春なのに、葉がどんどん落ちちゃって。言われた通りお水は控えてるんだけど」
 うちのばあちゃんの影響で、河北さんもいろいろな観葉植物を育てていた。ばあちゃんはその相談役だったのだが、なぜかその役目が俺に引き継がれていて、河北さんは植物の様子がおかしくなると俺を頼る。
「一度様子見に行きますよ」
「そうしてくださると助かるわ。お忙しいのに、ごめんなさいね」
「いえいえ。見ての通り、暇ですから」
 俺がそう言うと河北さんはまた目尻だけでほほえんだ。ビシコの家がある造成地区とは別の高台に、河北さんの住む昔からの高級住宅地がある。造成地区と同じく山の中腹につくられた住宅地だが、住環境は造成地区とはまるで違う。日本の平均的なファミリー層をターゲットにしたのが造成地区なら、その高級住宅地は本当に昔から財を持っているごくわずかな人種のための町だ。
 その証拠に、まず最寄りの駅が無い。一番近くの駅でさえ、坂道を歩いて下ってゆうに30分はかかる。といっても町が山奥にあるわけではなく、駅までの道は普通に整地され、片側二車線の広さがあり、コンビニも自販機も街灯もある。じゃあなぜ最寄り駅が無いのかというと、必要無いからだ。住民たちは基本的に車移動だ。運転手付きの高級外車か、ハイヤーを呼ぶか、いずれにしろわざわざ切符を買って公共機関を利用するような人はいない。
 逆に、高速道路の出入口が不自然にその町に存在している。すぐ近くに別のICがあり、わざわざそこにもう一つICを設ける必要はない。つまりそれはそういう方々が住民のためだけに作らせたものなのだ。
 そんな町をチャリで走っているとよく分かる。造成地区のハウスメーカーがカラフルなパンフレットでどんなに高級感を出そうが、所詮は庶民同士のドングリの背比べなのだ。この、消失点が見えるほど続く純白の漆喰の壁。それに沿って何十枚も続く縁側の吹きガラスの木製戸。見事な本瓦葺きの大屋根、100年以上前の腕利きの彫り師が細工したケヤキの欄間、小粋なデザインの枡目格子が入ったトイレの明かり取り、長い廊下の端まで続く継ぎ目のない一枚物のヒノキの床板。河北さんの家に上がると、部屋じゅうを案内されてあちこちに置かれた植物を診察するのだが、建物に目移りしてしまい植物どころではない。
「あなたのおばあさんには本当にお世話になってねえ。この植物もみんな吉崎さんが選んでくださって、それぞれのお部屋に似合うように、鉢までご用意してくれて。来客があるとよく訊かれるのよ。この珍しい植物と鉢は一体どこで手に入れたんですかって」
 俺は河北さんのお手伝いさんが入れてくれた飲んだことのない飲み物に口をつけ、いつまで経っても座り慣れない重厚なソファに浅く腰をかける。窓の少ない薄暗い洋室に、古い家特有の匂いが漂っている。昔の家は日当たりなんて重要視してないもんだから、こういう部屋を飾るための植物の選別と置き場所にはかなり気を遣う。俺はばあちゃんが配置したという完璧な選別とレイアウトを見て、さすがプロだと感心したりする。
「このお家も私一人でしょう、年をとるとなんだか寂しくって。そんなお話を吉崎さんにしたのが始まりね。吉崎さんは私にね、旅行やお食事もいいけど、植物を育てるって特別なのよって教えてくれたの。命を育てると、自分のことが分かるんですって」
「へえ。そういうもんですか」
「あら、太一郎さんならとっくにご存じだと思っていたわ」
 ふと、部屋の天井付近に神棚があることに気付いた。天井や鴨居に比べてそこだけが新しい木で作られている。河北さんは『北曜会』の会員だから、毎日何かをお祈りしているのだ。これほど恵まれた人が、これ以上何を願うというのだろう。
「そうそう、前に仰ってた、この子たちの増やし方を教えて欲しいの」
「挿し木ですか。今からやってみます? 季候もちょうどいいし」
 俺と河北さんは洋室の掃き出し窓から大きなパーゴラのある庭に出た。河北さんのお屋敷の庭はほぼすべてが美しい日本庭園で、先代から付き合いのあるという庭師が完全に管理しているので俺の出番は無い。ただこのパーゴラの周囲、煉瓦敷きになったエリアだけはバラや藤などのツタ系、ラベンダーやベロニカ、様々なハーブ類など線の細い植物が植えられた洋風ガーデンになっている。暖かくなってくると室内の鉢のいくつかはこの煉瓦敷きエリアに移動させ、秋の終わりまでここで育てる。
 俺は元気がないというベンガレンシスの余計な枝をばっさり切って、それを水に浸しながら河北さんに説明した。このままコップに入れて、促進剤入りの水を入れ替えながら様子見てください。そのうち発根してくるので、根が出たらパーライト多めの水はけのいい土を作って、そこに挿すだけです。簡単ですよ。
「うまくできるかしら。時々様子見てくださる?」
「もちろん」
 挿し木の方法を覚えた河北さんは、俺に矢継ぎ早に質問をしてきた。挿し木はどんな品種でもできるのか、夏や冬でもできるのか、挿し木した個体は枯れやすいのか、親と同じくらい大きくなるのか。
 まあ、大体大丈夫ですよ。植物って強いから。俺がそう答えると河北さんは嬉しそうな顔になり、これでどんどん増やせるわね、と目尻で笑った。
 それから俺は食べたことのないお菓子を頂き、見たことのない画集を見せてもらい、お屋敷を後にした。帰り際、チャリにまたがりながら、ちょっと気になったことを河北さんに訊いてみた。
「河北さん、どうして挿し木で増やしたいんですか? 普通に買えばいいと思うんだけど」
 そうねえ、と河北さんは頬に手を添えた。俺は付け加えて言った。
「うちのばあちゃんも、買うより増やしてたみたいで」
 河北さんは頬に添えた手を離し、別のものより、似たものが欲しいのよね、と俺に言った。
「似たものが増えると安心するのよ」
 よく分かんないです、と俺は言った。
 河北さんは、あなたまだお若いから、とほほえんだ。

 

 山の中腹を削ってゼロから作られた人口の丘には、まったくゆがみの無い直線が風景のいたるところに存在する。直線は山を切り取り、土を塗り固め、風を遮り、光を切断してその町の風景を構成する。
 歴史の無い丘には、歴史から切り離された名前が付けられる。たとえば、希望ヶ丘。たとえば、せせらぎ台。歴史に無い名前の、歴史には無かった風景が、驚くほどのスピードでそれまでの歴史を塗り替え、過去をアスファルトの下に隠蔽する。
 直線が集まる町では、家は奴隷のように規律正しく整列している。人々は直線に沿って家を出て行き、直線に沿って帰宅する。家の中にも直線は存在し、リビングからキッチン、脱衣所へと向かう動線は間取りプランにおいて最重要視される。ビシコの家も動線がしっかりしていて空間に無駄が無い。延床一○○平米の家をできるだけ広く使えるように、できるだけ明るく採光できるように、たくさんの収納が得られるように、無数の直線を組み合わせ、合理性を突き詰めて完璧に設計されている。
「あのさ、それって褒めてる? 貶してる?」
「高値で売れそうってことだよ」
 合理性を突き詰めると個性が無くなる。そしてそういう無個性の商品は生産しやすく、売りやすい。これは以前バイトしていた不動産屋の店長の口ぐせだ。いいか吉崎、これから商売するならお前はそういうものを扱えよ。昔と違って今は色気のねぇものが売れるんだ、へたに色気があると面倒だ、金もかかるし時間もかかる、まるきり女と一緒なんだよガハハハ。
「実際、売るんだったら査定いくらよ」
「うーん、過去の経験からいえば、500万」
「うっそ! そんなに安いの?」
「うそでーす」
「あんたの植物園燃やしてやろうか?」
「うわ、金髪が言うと本気っぽい!」
 時々ビシコは俺に家の相談をしてくる。リフォームをかけた方が売りやすいのか、住み続ける方が得なのか、賃貸で人に貸した場合のメリットデメリット。何度も同じことを訊いてくるビシコに対し、俺の返事も決まっている。
「売ればいいじゃん」
 ビシコの返事は無い。
 俺はダイニングテーブルに突っ伏したまま、キッチンでコーヒーをいれるビシコの尻を眺めている。どうせずっと家にいるくせに、スウェットやジャージは一切持たず、足のラインが出る細身のデニムパンツをよく穿いている。三十路になったビシコの腰回りには柔らかな曲線が生まれ、それが13オンスの厚い生地を圧迫している。まるで厚い皮が破られるのを待っている柑橘系の果肉のようだ。
 ビシコー、と俺は呼んでみる。
 ちょっと待って今いれてるからー、とビシコは答える。
 七菱かなこ。
 通称ビシコ。
 最初にそう呼んだのはトモローだ。
 最初っから、俺たちは、そうだった。何度タイムマシンに乗ったって、最初にビシコと呼ぶのはトモローで、最初にトモローと呼ぶのはビシコなのだ。
 ビシコ、と呼ぶのは俺じゃないんだ。
 コーヒーをいれる相手を間違えてるんだ。
 本当にどうしてこうなったんだろう?
 査定が1000万でも3000万でも同じことだ。ビシコはこの家を売る気なんかさらさら無い。
「明日また面接行ってくるよ」
「おー。がんばれよ」
「緊張しちゃうわ」
 合理的で完璧な直線だらけのこの家で、柔らかい曲線が椅子に座ったり、歩いたり、考えごとをしたりしている。その落ち着かない曲線は熱いコーヒーカップを持ったまま、光る庭に目をやって、一体どんなことを考えているのか俺には分からない。

 

 駅前の公園以外でケンナイさんを見たのは初めてだったので驚いた。
 ケンナイさんは情報屋として駅界隈で有名な人だ。分からないことがあったら何でもケンナイさんに訊けばいい。最新のスマートフォンとWiFiのフリースポットを駆使してどんなことでもすぐに調べてくれる。さらにケンナイさんはその日のニュースを街頭に立って毎日大きな声で喋ってくれるので、情報源を持たない人々にとってはとてもありがたい存在だ。ただしフリースポットの圏外に出るとケンナイさんはパニックを起こし挙動不審になってしまうので、基本的に駅前から動けない。
 そのケンナイさんが、駅から浜手の方に向かって幹線道路を歩いて行くのを見かけた。珍しくパニックも起こさず、不自由な左足を引きずって黙々と歩いている。興味本位で後をついて行くと、どうやら浜の工場地帯へ向かっているようだった。工場地帯には土管の住む廃工場もあるので、ひょっとして土管に会いに行くんじゃないかと思っていると、思った通りケンナイさんは土管の工場へ繋がる川沿いの小道に入り、川に沿ってゆっくりと進んでいった。
 道は途中で二股に分かれる。右手に降りれば土管の菜園に、左手にそのまま進めば廃工場の正面入り口に突き当たる。ケンナイさんは右手の菜園に降りてゆき、そこでちょうど野良仕事をしていた土管に会い、二人で何かひそひそ喋った後、土管からビニール袋いっぱいの採れたての野菜を受け取り、俺の横をすり抜けて帰っていった。
 その後、入れ違いに畑に顔を出した俺を見て土管は言った。
「なんや、お前もおったんかい」
「あれ何やってたの?」
「頼み事や」
「てか、知り合いだったんだ」
「弱いもん同士、助け合っていかんとなあ」
 土管は畑の脇に盛られた腐葉土にシャベルを突き刺すと、それを畝の無い土に蒔いてすき込み、何かの薬をかけた後でその一帯に黒ビニールをかぶせ、四辺に石を置いた。同じ植物でも、鑑賞用と食物用では育て方がまるで違う。鑑賞目的なら樹形と葉の状態に気を配るが、食物用は何よりも「味」が重要になるので、主に土に手を入れることになる。土管の作業が肥料を作っているのか、新しい畝を作る下準備なのか、俺には菜園の知識が無いのでまるで分からない。
 畝が作られているエリアには様々な春の野菜が顔を覗かせていた。キャベツ、アスパラ、じゃがいも、玉葱、枝豆、大根。まだ青いがトマトのツタも見える。この痩せた土壌でこれだけの野菜が収穫できているということは、土を全部入れ替えたか、時間をかけて改良を重ねてきたか、いずれかだ。
「野菜喰っとったら病気にならんさけ」
 土管は黒い長靴を履き、土嚢と板で川の水を引き込んだ水くみ場でバケツに水を入れ、それをひしゃくで丁寧にまいた。水が畝に黒く染み込んでいく。
「わしの親父の口癖や」
 水やりが終わると、俺と土管は工場に戻り、一息ついた。土管は冷蔵庫から冷えた缶ビールを出してきて俺にすすめた。毎回土管の生活レベルには呆れてしまう。
 正面の出入り口に切り取られた空は知らない間に黄色く色づいていた。時計を見ると夕方の5時を回っていたが、まだ空は明るく、陽もずいぶん長くなった。優良企業のサラリーマンならもうネクタイを緩めて帰り支度をしている頃だ。主婦はスーパーに行って夕食の用意を始め、子供たちは部活を終えてそれぞれの家に帰る。これから夜がやって来て、パパと子供はTVを見てから一緒に風呂に入り、ママはキッチンで洗い物をして、明日のお弁当の下ごしらえ。
 久しぶりのアルコールで、もう酔いが回ってきていた。酔いついでに訊いてみる。
「親父さんってどんな人? 生きてるの?」
 ちょっと目を離した隙に、土管はもう3本目を空けていた。褐色の肌が赤黒く変色している。4本目のプルタブが乾いた音をたてて開けられる。無視されるかと思っていたが、意外にも返事があった。
「農家やっとったんや。土のこと、一から教えてもろたわ。なんも喋らん人で、酒飲みやったけど、野菜のことはよう教えてもろた。まあ生きとったら80過ぎとるさけ、もうくたばってんのとちがうか」
 土管は大きなゲップをして続けた。
「地面には土があるやろ。土があったら種をまける。芽が出たら育てられる。ほなもう大丈夫や。野菜喰って健康で生きていける。世の中、土の無いところは無い。アスファルトで固めとっても、あんなもん薄皮一枚や。剥いだら景色変わる。タイチ、覚えとけよ。わしらはどこでも生きていける」
 土管はたまに良いことを言う。確かに、鉢植えの植物を地植えにした時の成長速度は圧倒的だ。大地から引きはがされ、オシャレな鉢に据えられた植物は、本来の力を半分も出せていない。ところが地面に適切に植えた途端、根が爆発的に広がり、大地のエネルギーを吸い上げ、みるみる巨大に成長するのだ。土の力はすごい。
「せやから、なんぼ上を飾っても、下にある土のことは忘れたらあかん」
「それも親父さんの?」
「これはオリジナルや。カッコええやろ」
 土管はニカッと笑い、6本目の缶に手をかけた。土管はいつもペースが早すぎる。缶ビール1本を手に入れる苦労とは裏腹に、飲む時はまるで迷惑な残り物を処理するように飲んでしまう。もう止めなよ、と俺が言うと、その言葉を遮るように土管が言った。
「お前も喋らんかい」
「何を」
「親の話でも何でもええさけ、何か喋れや」
 矛先がこちらに向いたので俺は言葉に詰まった。そんなの訊いてどうすんだよ、と言いかけたが、こっちが先に訊いたのだ。渋々俺は言った。
「普通のサラリーマンだけど」
「普通のサラリーマンなんか世の中におるかい」
 髭を泡だらけにした土管が俺を睨んだ。
 まいったな、と俺は言った。土管は椅子から落ちるように床に移動し、足を伸ばして寝そべった。
 俺は先日見た夢の話をした。海に泳ぎに連れていってもらったこと、途中で波に飲まれたこと、親父が無言で怒ったこと。その記憶を誰かに話すのは初めてだったので、妙な勢いがついて、止まらなかった。
 土管は俺の話の途中で目を閉じた。興味が無くなったのか、眠くなったのか分からないが、それには構わず俺は続けた。
「どうしても親の思い通りになりたくなくて、でも好かれたくて、どうしたらいいのか分からないまま大きくなって、どうしようもないから家を出て、現在に至る。そんな感じ。恥ずかしながら」
 床の土管に目をやると、眠っていると思っていた土管の濁った目がこちらを真っ直ぐに見ていて俺はぎょっとした。土管はしばらく俺の顔を見つめた後、滑舌の悪くなったしわがれ声で言った。
「ホームレスっちゅうのはどんな連中や」
「え?」
「答えんかい」
 俺は質問の意図がよく分からないまま答えた。
「家のない人」
「アホぬかせ、わし、家あるがな」
 確かに、言われてみればそうだ。じゃあホームレスの定義って何だろう。住民票の固定住所とかそういう話だろうか。それならエスキモーは? 遊牧民は? 吟遊詩人は?
 黙っていると土管は言った。
「ホームレスちゅうのは、自分がどこに住んだらええんか分からんやつのことや」
 工場の出入り口の形に切り取られた空から、オレンジ色の西日が工場内に長く射し込んでいた。その色は土管の身体を包み、ダンボールハウスを飲み込み、さらに工場の奥へと手を伸ばしていた。気付けば自分の膝から下も同じ色の中にあった。床に転がった無数の空き缶のすぐ後ろに強い影が生まれていた。強い影は工場奥の闇とつながり、オレンジの侵入を頑なに拒んでいるようにも見えた。
「今日はよく喋るじゃん」
「おのれが喋っとるんじゃ」
 俺は目をこらしてオレンジ一色になった土管を見た。おのれ、が土管の口から出ると危ない。土管は酔うと最初機嫌が良くなり、ペラペラと饒舌に喋るのだが、途中から様子が変わり、最後にはものすごく不機嫌になって何もかもをぶち壊してしまう。まるで帳尻を合わせるかのように、機嫌が良くなればなるほど、後半の荒れ方もひどい。今日も嫌な予感がしたのでもう帰ろうとすると、土管は俺の足をつかみ、押し殺すような声で言った。
「おのれは、なんでわしらに構うんや」
 足をつかむ握力が凄まじかった。俺は何も言わずにその手を振り切って外に逃げた。こういう時は逃げることしていた。どうせ土管は翌日何も覚えてない。工場を飛び出しながら「ビールごちそうさん」と俺は叫んだ。走る俺の背中に、「わしの野菜、狙とるんか。殺したろか」という声が浴びせられた。
 走りながら俺は考えた。土管の畑のように、何かを守って生きるという気持ちが俺には無いのだ。植物の世話はするが、植物のために疲労で倒れるまで土嚢を積み上げることはきっとしない。土管は自分をホームレスだと言うが、どこに住んでいいのか分からなくても、守るべきものがあるのならそこがホームだ。
 川の土手に出ると、圧倒的な夕日が目の前にあった。工場は浜手にあるので空が広い。その夕焼けに染まった空が夜へと向かうグラデーションの途中に、俺の好きな色がある。何色と言うのかは知らない。暗いような、奥の方が明るいような、赤の炎と、藍色の夜の狭間に生まれる、俺がまだ名前をつけていない色がある。
 その色の向こうのどこか遠くに、俺の戻るべき家があるのかも知れないなんて、子供のような空想をしてしまうのはきっと、ひどく酔っているせいだ。

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