ナユタ緑

 翌日、予想通り、駅前で土管にものすごく謝られた。わし何言うたか覚えてない、せやけどお前の顔見たら分かる、すまん、堪忍してくれ。
 その殊勝な態度が面白かったので、俺は少しからかってやった。
「殺す、とか言われたんだけど」
 土管はうつむき、しばらくして真剣な顔つきになって言った。
「手は出してへんか」
 俺が頷くと、土管は「すまん」と呟き、駅ビルの壁に背を預けて座り込んだ。少し離れたガードレール脇ではダブルがスパイクでアスファルトを蹴って楽しそうに跳ねている。
 空は暖かく、快晴だった。平日の駅前の昼下がり、人々の往来は途切れることなく続いている。新卒の社員のまっさらな革靴が、シャツ姿になったOLのヒールが、乾いた音を立てて目の前を通り過ぎる。どこからか春の花の香りがする。冬の忘れ形見のような枯れた葉っぱが縁石の縁を転がっていく。
 土管は急に立ち上がり、シャドーボクシングのような真似をしたので、行き交う人々がぎょっとして振り返った。
「若い時分、格闘技やってたんやけどな、酔って人をどついて、ケガさせて、お縄になった。女にも逃げられたわ」
 土管はその後、タクシーの運ちゃんになった。
 運ちゃん時代、座席シートが身体に合わずに腰痛持ちになった。だから腰にいつもコルセットを巻いているらしい。格闘技で痛めたんじゃないんだ。ダサッ。
 土管は一息ついて、また口を開いた。
「お前、和歌山行ったことあるか」
 ない、と俺は答えた。
「ええとこやさけ、いっぺん行ってきたらええ」
 俺は曖昧な返事をした。
「行ったらついでに頼みがある。親が生きてるか見てきてくれ」
「無茶言うなよ」
「大丈夫や。珍しい苗字やさけ、すぐ分かる」
 俺は土管を見た。土管はいつもの表情のまま、道で遊ぶダブルを眺めていた。身の上話も親のことも、これまで一度も土管の口から語られることのなかった話だ。俺が昨日親の話をしたからだろうか。人の過去をほじくるような余計なことを言ったのかも知れないと思った。おまえ、危ないさけ道に出るな! 土管の声にダブルが顔を上げる。道行く人々がまたぱらぱらと振り返る。
「なんでダブルを名前で呼ばないの?」
 叱られたダブルは慌てて歩道に戻ろうとガードレールをまたぎ、バランスを崩して歩道に倒れ込んだ。驚いた人々が放射状に広がり、OLの短い悲鳴が聞こえた。土管は立ち上がり、人だかりの中心にいるダブルを担ぎ起こし、こっちに引っ張ってきた。背後で携帯のシャッター音がした。もちろんダブルは大を漏らしていた。
 土管が公園の水でダブルの尻を洗っている間、俺は携帯でホームレスを収容する施設のことを調べていた。生活能力の無いダブルであれば、国やNPOやらが助けてくれると思ったからだ。ダブルは水が苦手らしく、尻に濡れ雑巾が当てられるたびにオッオッと叫んで飛び跳ねた。
 ダブルにスパイクを履かせる土管に、俺はホームレス保護施設一覧の画面を見せた。
「余計なお世話だと思うけど」
「余計なお世話や。そらそういうとこに放り込んだ方が早いけどな。こいつの天気予報、便利なんや」
 土管は大便のついた雑巾を公園の立水栓で洗い落とした。そこに手を洗いにきた2歳くらいの子供が土管を見てぎょっとなり、同時に「ダメッ!」というその子の親らしき叫び声が公園に響き渡った。
 子供を抱えて走り去る母親を見送った後、土管は言った。
「この辺もなんや肩身狭なってきたなあ」
 土管はどこに隠し持っていたのか缶ビールを取り出し、プルタブを開け、温くなったそれをまずそうに飲んだ。
 昔なあ、この前の通りを浜手に降りたとこにごっつい家があったんや。広い芝生の庭でおとなしい犬が寝とった。子供が二人おって、どっちも女の子や、かいらしいピンクの自転車が停まっとった。わし、ようその家の前歩いとったんやけどな、そこの家のおばはん、冬に、わしに毛布くれたことあるんや。もういらんから言うて、もろてくれたら助かるわ言うて、見たらまださらぴんや、冬にさらぴんの毛布ほかすアホおるかいな。おばはん、はよせな主人に見つかる言うて押しつけよってな、わし、頭下げてその毛布もろたんや。わし、それから何や知らん、人にタダでものもらうのが恥ずかしなってしもた。それで「拾い」もやらんようになったんや。
 何年かして、その家、売りに出されてな。まだ子供ちさいのに、何があったんか知らんけど、あっちゅう間に更地にされて、パーマ屋と薬局とコンビニになったわ。お前も知っとるやろ、坂下った富士薬局のとこや。
 土管はまだ少しビールが残ってる空き缶を、先の母親が逃げていった方に投げた。空き缶はゆっくり回転して金色の液体を吹き出しながら草むらに落下した。ダブルが空き缶の落ちた辺りへ走っていく。
「放っといても皆どんどん変わっていくわ」
 ダブルが空き缶を見つけ、もうほとんど中身の入っていない缶に舌を入れる。それでは飲めなかったのか、舌を抜き、角度を変え、もう一度挑戦する。舌を入れたまま、缶を激しく振ってみる。おーいダブル、それ舌切るよ。
「変わらんもんは無い。そない考えると皆一緒や」
 俺は頷いて言った。
「生きてるか、死んでるかだけで」
 俺がそう言うと土管は顔をしかめ鼻毛を見せた。
「どうせ皆死ぬ。わしらは生きてるだけでじゅうぶんや」

 

 大学の同窓会があり、終電で帰宅した。
 いつもは騒がしいこのボロマンションの廊下も深夜になると不気味なほど静まり返る。天井の蛍光灯だけがあちこちで不定期に点滅している。深海の潜水艦のような重い音を立ててエレベーターが上昇し、5階に着く。聞き慣れたベルの音がして、苦しそうにドアが開く。マンションの廊下は中央が吹き抜けになっていて、落下防止の網が張られている。そこに投げ込まれた、あるいは落ちてしまったいくつもの残骸が、蛍光灯の呼吸に合わせて暗がりに浮かび上がる。
 水鉄砲、カラフルなボール、ビニールのスリッパ。熊のぬいぐるみ、トイレットペーパーの芯、不在通知表。灰色の渡り廊下を抜けて、一番奥の角部屋、深緑色のスチールのドアの前に立つ。ポケットから鍵を出して右に回すと、がちゃん、という音が響き渡る。
 俺はこの、がちゃん、という音が苦手だった。なぜだか分からないが、家に帰ってきてこの鍵を回す時が一日で一番みっともない瞬間のように思えてならない。がちゃん、という音を聞くと、家に帰ってきたというよりむしろ、逆に家に拒絶されている気さえする。
 靴箱の上に鍵を投げ、青色のニットを脱ぎ、狭いキッチンでコップの水を飲み干した。チャリをこいで喉が渇いていた。最近よく水を飲む。煙草をやめたせいかも知れない。同級生たちの中には、そろそろ健康を崩している者もいた。一日に適度な運動を行うだけで、体力がつき、病気にもならず、体重も減るのだと、仕事で海外を飛び回っている同級生が喋っていた。みんな忙しいからついつい運動系が後回しになるんだよね、でもそこを無理して走るんだよ。分刻みのスケジュールで動いてるアメリカの大統領だってジムの時間は確保してんだ。俺、それ知ってから頑張れるようになってさ。まあ西洋圏の国は日本よりずっと公園が多いし、広いから、気が向けばいつでも走れる環境だっていうのも大きいけどね。
 学生の頃に無理して買ったレザーソファに身を沈め、正面のバルコニーに並べた植物を眺める。窓の外の植物たちが、少し強い夜風にざわめき、白色の外灯の影をガラスの向こうで揺らめかせる。このマンションを設計したやつは何を思ってこんなに広いバルコニーを用意したのだろう。子供とキャンプするため? 家族同士のBBQパーティ? 餅つき大会、社交ダンスの練習場、鉢植え植物たちのためのコロニー?
 深夜、植物たちは沈黙している。暗くなると彼らは眠るのだろうか。田舎の植物は寝るのが早く、都会の植物は寝不足だったりするのだろうか? 俺はブランケットにくるまり、窓の外を眺めたままソファに横になった。窓の内側には小バエがたかっていた。また風呂から湧いたのだ。この際、食虫植物でも買ってやろうか。このマンション風呂は春先から夏にかけて小バエが大量に発生する。風呂にネペンテスなんかを吊るしまくって、ネペンテスが小バエを次々に食べ、巨大化し、自分も頭から食べられそうになって必死で逃げている最中に、あ、これ夢だと気付く。
 夜風が強くなっていた。俺はバルコニーに出て、倒れやすい鉢を壁際に移動させた。人間の都合で、こんな国に持ってこられて、こんな小さい鉢に入れられて、根を張れず、幹も細く、頭だけが大きくなって、ちょっと強い風に吹かれると倒れてしまう。鉢を運びながら、ごめんなあと俺は思う。でも俺はお前たちがいないとなんか辛いんだ。このボロマンションの、一人暮らしには広すぎる部屋は、広すぎるのになんか息苦しいんだ。
 風対策を終えて部屋に戻り、コーヒーを用意した。何か熱いものを口に入れたかった。コーヒーを飲みながら、今ビシコ何してんだろう、とふと思った。久々の同窓会だったが、ビシコは欠席。トモローも当然欠席、夏目ちゃんは子供の発表会だか県大会だかで欠席。俺はその他の顔を覚えている連中と中華を喰って、カラオケに行って、三次会に行く道の途中で帰ってきた。
 一人でいることに、特に不満は感じていない。周りが出世しようが家庭を築こうが自分にはあまり関係のないことだと思っている。一人だと気楽だし、バイトで生きていけるし、誰かのために自分を犠牲にするなんてことも発生しない。この国の都市部においては、これも悪くない選択肢だと思う。
 ただあの「がちゃん」はきつい。あの瞬間だけ、自分が間違ってるんじゃないかという思いがよぎる。慣れない宴会の場で、頭も身体も疲れているのかも知れない。熱い風呂に入れば元に戻るのかもしれない。
 ビシコに電話しようと思った。でも、電話かけて、何喋るんだ。トモローも夏目ちゃんも来なかったことなんて最初から予想してる。あいつにこのタイミングで用も無いのに電話する俺は最高にダサい。
 ブランケットにくるまっていると、どこか別の部屋で、がちゃん、という音が聞こえてきた。俺は今すぐ飛び起きて、玄関を出て走って行って、誰か分からないその隣人に声をかけたい衝動に駆られた。

 

 そう言えばこの前、ムバラくんがヘタクソな日本語で言っていた。
 たくさんの車が忙しそうに行き交う交差点を歩道橋の上から見下ろしていると、なぜか無性に悲しくなるのだそうだ。
 俺とビシコは、それホームシックじゃーん、と言って笑った。
 今、俺はムバラくんに謝りたい。
 ビシコには言っていないが、実はムバラくんは自国から逃げ出して日本にやって来たのだ。ムバラくんの覚悟はそんなヤワなもんじゃない。ムバラくんの悲しみは、きっとそれとは全然別のところにある。
 彼の言う「カナシイ」は、きっとこういう感情のことを言うんだろう。
 だとしたらムバラくん、また日本語間違ってるよ。

 

「タイチサーン」
 駅前のスーパーを出たところで、買い出し中のムバラくんに声をかけられた。おーう、と俺は返事をして手を振った。
「ムバラくんも買い物?」
「ディナーの野菜、足リナイカラー」
 ディナータイムが始まるまで少し時間があったので、ムバラくんの買い物が終わるのを待って、俺たちは駅前の公園に向かった。ベンチに並んで座ると、ムバラくんが急にアイスクリームを差し出して言った。
「オワビデス」
「え、何の?」
「グルィーン」
 ああ、と俺は言った。お詫びじゃないよ、お礼って言うの。どうもありがとう。
「オルェイ」
 ムバラくんは語彙もやばいが「ら行」の発音もかなりやばい。オルェイ、じゃないよ。オ、レ、イ。
「オルェイ」
 まあ、オワビよりましか。じゃあいいよそれで。グッドだよ。このアイスおいしいね。
「ヨカッター」
「グリーン元気?」
 俺が訊くとムバラくんは目を輝かせて言った。
「ゲンキゲンキ、カワイソナイデスネ。とってもゲンキ。ノビル。ノビタ」
「それ、ムバラくんの家の環境が合ってたんだよ」
 そう言いながら、ふとムバラくんはどんな家に住んでるんだろうと興味がわいた。どうせ低賃金でこき使われてるに違いないから、俺のようなボロマンションだろうか。
「ムバラくんの家ってどこにあんの?」
「イエ? イッパイ沢山。ドレデスネ?」
 ほら、また分からないことを言う。家だよ。家。寝るとこ。
 ムバラくんは少し考えてから言った。
「マンションはイエですか? マンションじゃないイエは3つ。マンション2つ、遠くは1つ」
 俺はその意味不明な日本語を解読しながら、ちょっと嫌な予感がした。俺は試しに一つ質問してみることにした。
「ムバラくん、故郷に家あるよね」
「マイホーム。アルデスネー」
「その家と、この公園と、どっちが広い?」
 ムバラくんは何かの冗談だと思ったのか、巨体を揺すって笑った。
「マイホーム、コンナニ小さくナイカラー」
 なるほど、了解。君の実家、スーパー金持ちなんだね。そういや石油国だもんな。分かったよ。もうこれから店長にいじめられてても同情できないわ。ていうかなんであんなとこで働いてんだよ。
 ムバラくんは巨体の揺れが収まった後、少し悲しそうな顔になって言った。
「でもホーム、カエレナイカラ」
「あ、そだっけ。ごめん」
 以前聞いた話では、ムバラくんの国では兵役があって、学校卒業後に強制的に軍隊に放り込まれるのだそうだ。そこでエリートになれば前線へは行かず、海外で語学などを学べるらしいが、ムバラくんは普通の歩兵として登録され、戦場へ送られる可能性のある部隊に所属することになった。
 心優しいムバラくんは、戦争に荷担することに耐えられず、軍を抜け出し、ほとんど密入国のような形で各国を渡り歩き、この日本に辿り着いたのだという。ムバラくんはこの穏やかな顔と、愛らしいテディベアのような体型からは想像できないほどハードな状況におかれているのだった。金持ちだけど。
 大工になる夢は諦めていないが、自分を拾ってくれた店長に恩返しがしたい。俺の通訳が間違っていなければ、ムバラくんはそんな事情でこの街で暮らしているらしかった。
 アイスの礼にと思い、俺は自分のスーパーの袋の中からスナック菓子を出してムバラくんに差し出した。ムバラくんは「アリガト」と言い、「ポークナイ?」と俺に訊いた。えっ、豚エキスもダメなの? 俺が驚くと、ムバラくんは複雑な顔をして言った。
「ポーク、コッソリ食べる、イケナイ、デモ食べる人イマス、私食ベナイ、イケナイコトダカラー」
 同様の理由でムバラくんは酒を一切飲まない。自国では法律で禁止されているのだそうだ。絶対に土管が旅行してはいけない国ナンバーワンだ。
 それだけでも充分ひどい話なのに、さらにムバラくんを縛るものがある。スナック菓子を不安そうに食べていたムバラくんは、時間が来ると急に立ち上がり、椅子から降りて地面に膝をつき、そのまま額に土をつけて土下座した。ムスリムの風習として有名なアレだ。最初見た時は驚いた。仕事の途中だろうが店長に叱られている最中だろうが、彼はそれを平気で中断し、地面に這いつくばり、メッカの方角に祈りを捧げる。そんなことしてたら普通はクビになるが、あの店長はなかなか度量が大きい。
 祈りが始まって少し経った頃、身なりのいい家族連れが、土下座しているムバラくんの前を通りがかった。旦那の方がムバラくんをちらりと見て、何を勘違いしたのか財布から小銭を出し、まるでコイの餌やりのように、自分の子供に教えながら小銭を投げた。十円玉と五円玉がムバラくんの目の前に鈍い音を立てて落ちた。ムバラくんは祈りを終えると、投げられた小銭を拾い、落トシマシタカラーと言って家族連れを追いかけた。もちろん家族連れは悲鳴を上げて逃げ回った。俺は爆笑した。日本の庶民がアラブの大富豪に小銭を恵んでやったのだ。
 小銭を返すことを諦めて戻ってきたムバラくんが、困った表情で小銭を俺に渡した。俺はそれを受け取りながら言った。
「メッカの方角ってどうして分かるの?」
「イツモここにアッラーがいる、だから、ワカリマス」
 ムバラくんは分厚い胸をどんどんと叩いた。なるほどそういうものかと俺は感心した。ムバラくんはアッラーが大好きなのだ。アッラーがこの世を作り、人間の心臓を動かしているのだと、いつか真剣な表情で教えてくれたことがある。アッラーが豚を食べるなと言えば食べない。酒を飲むなと言えば飲まない。アッラーを信じているからだ。
「明日も、キットワカリマス」
 ムバラくんはいつでもメッカの方角が分かる。だから祖国を捨ててもダイジョブなのだ。客席がざわつくほど店長に怒鳴られても、ダイジョブなのだ。
「ムバラくん、強いね!」
 俺はムバラくんの手を取って、その中にさっきの小銭を握らせた。
「これ、ファイトマネーだよ」
 ムバラくんが戸惑う。
「デモコレ、あの人たちのモノダカラー」
 不安そうなムバラくんに俺は笑って言った。
「持ち主が拾わなかったお金は、もらっていいんだって。俺の友達が言ってたよ」

 

 以前頼まれたベンガレンシスの挿し木の様子を見に、河北さんのお屋敷に行った。チャイムを押すと、お手伝いさんの「今お迎えにあがります」の返事がスピーカーから聞こえた。けれどそこから五分ほど待つことになることを俺は知っている。本宅の玄関から長屋門まで、徒歩でそれくらいかかるからだ。
 玄関で靴を脱ぎ、スリッパに履き替え、古いヒノキの床板の上に敷かれたカーペットをそろそろと歩く。足下には縁側のガラス戸からこぼれる陽光がゆらゆらと影を遊ばせ、えんじ色のカーペットを艶やかに彩っている。廊下を真っ直ぐ歩いて行くと、右手に坪庭があり、左手には庭が見え、左右がガラスになっている廊下はまるで空中の渡り廊下のようだ。
 坪庭にはいくつかの小ぶりな石と、墨汁で染めたという砂利、美しいコケ、紅葉の新緑が控えめに調和していて、左手の大がかりな庭とはまた違った趣がある。
 坪庭を過ぎ、薄暗い廊下の突き当たりで右に折れると、そこから屋敷は一気に洋風に変化する。建具が引き戸から開き戸になり、真鍮のドアノブがついた洋間が3室続く。その部分は過去に増築されたのかも知れないが、河北さんは詳しくは知らないらしい。この屋敷は先々代の社長が誰かから譲り受けたもので、河北さんはこの屋敷で生まれ育ったが、自分が生まれてから一度も使われていない部屋がまだいくつかあるという。
「私はこのお屋敷のこと、誰が建てたのか、どんな方が住んでらしたのか、何も分かっていないんですよ。それなのに勝手しちゃって、あちこちに植木鉢置いたりして、申し訳ないの」
 3室の洋間のうち一番奥にある部屋が河北さんの自室になっている。部屋のしつらえはとても簡素だ。十畳ほどの空間に、大きな木製ベッドと英国製の化粧台、ダイヤガラスの開き戸がついた本棚と小さなコーヒーテーブルがあるだけ。あとは特別気に入った植物の鉢が十字の格子入りの窓際にいくつか。
 河北さんの自室は、どこか建物に遠慮しているように、ひっそりとしている。
「でも一番申し訳ないのは、継ぐ人が誰もいないということね」
 河北さんの弟さんは既に東京都内に自邸を構えており、親族も地方に散らばって、そこで幸せに暮らしている。仮に誰かが継いだとしても、これほどの土地の税金を納めるのは不可能なのだそうだ。「この国の仕組みがそうなっているのよ」と河北さんは寂しそうに笑う。
 このお屋敷を守るには、どこかの物好きな資産家に保護してもらうか、何十億単位の募金が集まるか、そのどちらかだという。
「こればかりは、神さまにお祈りするしかないわね」
 俺は隣部屋にある、新しい木で組まれた神棚を思い出した。河北さんは毎日このことをお祈りしているのかも知れない。「北曜会」の話はあまりばあちゃんから聞かされていなかった。俺何も分かんないですけど、と俺は前置きして訊いた。
「お祈りしてれば、叶うんでしょうか」
 河北さんは、そうね、と言った。
「いつかきっと叶いますよ。ただそれは、太一郎さんが今思っている形とは、少し違うでしょうね」
 薄暗い室内で、飲んだことのない紅茶に唇を浸しながら、俺は前から考えていたこのお屋敷の新しい植栽プランを伝えた。ばあちゃんの残したレイアウトを活かしつつ、窓の外にも世界を広げて、地植えできる品種を増やしたらどうですか。
 河北さんは、それは素敵ね、と言ってくれたが、あまり乗り気ではないようだった。河北さんはなぜか地植えに興味を示さない。これだけ広い庭があるのに、いつも室内の鉢植えばかりを増やしている。最初は鉢植えの小ぶりなサイズ感が好きなのだろうと思っていたが、どうもそういうことではなさそうだ。河北さんは、この屋敷のほんの一部でしか生活していない。この自室と隣の洋室、そしてダイニング、トイレ、浴室。それだけが河北さんの生活範囲だ。
 良く晴れた日射しが、ニス仕上げの板張りの床に届いている。上げ下げ窓の格子の十字架が床一面にくっきりと描かれる。敷地と建物が広すぎるせいで、耳には何の音も届かない。河北さんは自分の紅茶のおかわりをお手伝いさんに頼むと、さっきのお話だけど、と言って俺に「北曜会」の教義を語った。
 お手伝いさんが、奧様、お紅茶をお持ちしました、と言ってドアをノックするまで、河北さんはまるで歌うようにして、俺に大切なことを教えてくれた。

 

 私たちの祈りは、一人だけのものではないの。
 誰かの祈りを、別の誰かの力で叶えてあげるの。
 一人のお祈りで足りない時は、何人も力を合わせて助けてあげる。
 順番なのよ。急いでは駄目。
 その人の祈りが叶わなくても、その人の祈りで、誰かの祈りが叶えられる。
 吉崎さんが何をお祈りしていたのか知らないけれど、私にはなんとなく分かるの。
 太一郎さん、
 あなたって幸せね。
 たくさんの力があなたの身体に入っているわ。
 それはいつか誰かの祈りとつながって、何かのきっかけになるでしょうね。

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