ナユタ緑
「あの金髪の姉ちゃん、紹介してくれんか」
その日、会ってすぐの土管に出し抜けにそう言われ、俺は面食らった。
「ツレちがうんか。時々、仲良う歩いとるやないか」
この街はつくづく狭い。ビシコと一緒にいるところを何度も見られていたらしい。というかそれよりも、土管が。ビシコに。
「無理だろ、どう考えても」
「そんなんやないわダアホ。頼み事があるんや」
土管が真面目な顔をしていたので、俺も真面目な顔になって答えた。
「たぶん、逃げられる」
「なんでや」
「臭いから」
「風呂入るわ」
「ヒゲが汚い」
「剃ったるわい」
「オッサンだから」
「それは堪忍せえや」
「あのさ、これってマジで言ってんの?」
土管は仏頂面で答えた。
「心配すな。わし、腰いわしてからインポや」
というわけで俺はビシコの家に出向き、その旨を伝えた。ホームレスのおっさんにあなたを紹介することになりました、すいません。
「絶対ヤダ」
「ですよね」
「なんであたしなの?」
「さあ。若い女だったら誰でもいいんじゃない」
「最低」
「てか、若くないし」
「ほんっと最低」
怒ったビシコはキッチンの出窓に置かせてもらっているパキラの葉をちぎり始めたので俺は謝った。
「会って話聞いてあげるだけでいいから。お願い」
「臭くない?」
「風呂入るって言ってた」
「セクハラしない?」
「伝えとく」
「あたしオッサン嫌いなんだけど」
「そこは勘弁してよ」
ビシコはため息をつき、書類で散らかったダイニングテーブルを片付けながら言った。あたし、そんなことしてる場合じゃないんだけどね。
「また落ちたん?」
就職情報誌、何度か使い回された履歴書、空になった修正液、爪切り、付箋紙、求人のチラシ、資格講座の受講パンフレット。ビシコはそれらを乱暴にまとめ、部屋の片隅に追いやった。そして何もなくなったテーブルを固く絞ったふきんで丁寧に水拭きして、ふきんをシンクにかけ、テーブルに戻ると電池が切れたように上半身を天板に突っ伏した。
ごっ、という痛そうなおでこの音がした。
「何やってんだよ」
ビシコはテーブルに額をつけたまま言った。
「あたしもう駄目」
俺は頬杖をついた。
「もう駄目、ってところから本番らしいよ。なんか気持ち良くなるんだって。マラソンの誰だっけ、有名な誰かが言ってたけど。あ、ボクサーだっけ?」
ビシコは少し間を置いてから言った。
「ほんとにもう駄目」
ビシコが顔を上げないので、俺はリビングの掃き出し窓に目をやった。一等席に据えられている竜血樹の背が知らないうちに伸びていて、葉の数も増えていた。成長の遅い木だと聞いていたが、春の力はすごい。よく見ると他の連中も少しずつ樹形が変わりつつあった。
こいつらには人間の思惑なんて通用しない。平気で姿を変え、過去を捨て、生き延びる。
「金髪やめろ」
俺は少し強い口調で言った。
「やめない」
ビシコはさらに強い声で返事をした。
バカじゃねえの。俺は席を立ち、リビングの二人掛けソファに寝転がった。14畳もあるリビングにはこのソファと小さいテーブルとTVとゴミ箱しか無い。ものが少ないという点では河北さんの洋間と似ているが、雰囲気はまるで違う。
このリビングには人の姿が無い。かといって、空き家でもない。なんともちぐはぐな家だと思う。俺の部屋のように息苦しい感じはしないが、こっちもこっちでキツそうだ。家具がみんなそっぽを向いているように見える。
ビシコがテーブルからゆっくりと顔を上げる。おでこが赤くなってる。タイチ、何か飲む? 焦点の合ってなさそうな細い目で、ビシコはコーヒーの粉を探す。俺の胸がまたひりひりしてくる。
ビシコ、と言いかけ、口ごもる。
何か言った?
俺はソファに寝転がり、つるつるのリビングから天井に跳ねている複雑な光の模様を眺めて言った。
「そのホームレス、インポだから大丈夫だよ」
「そういうのをセクハラっていうんだけど」
駅前の喫茶店で、土管とビシコは向かい合って座っていた。俺はビシコの隣に座り、フルーツジュースをちびちび飲んだ。周りの客は俺たちを見てどんな関係だと思っただろうか。リストラされたオッサンが、自分よりはるか年下の自営業夫婦のバイトの面接を受けている、そんな哀れな絵のように思われただろうか。
そう思われてもしょうがないほど、その日の土管は萎縮していた。聞くと昨日から一滴も呑んでいないそうだ。それを聞いて俺は驚いた。もう一つ驚いたのは、土管が本当に風呂に入り、汚れのないブルゾンを着て、髭を剃ってきたことだ。喫茶店に座っている姿を見て、一瞬誰だか分からなかった。
「見違えたじゃん!」
俺がそう言うと土管はばつの悪そうな顔をした。ビシコはビシコで、見違えたとしても小汚いおっさんに変わりはないので、同じような顔をして、土管と視線を合わせなかった。そうして沈黙の15分は過ぎていった。
「あのう」
俺のフルーツジュースが無くなる頃、ようやくビシコが口火を切った。土管は俯いたまま眉を上げた。
「用事、言ってください。忙しいので」
土管は目の前でどんどん溶けていくオレンジジュースの氷を睨みつけ、激しい腹痛を我慢しているような顔で黙っていたが、やがて、タイチ、と小さな声で言った。
「何」
「これ、飲んでええか」
見ると手元にワンカップ大関が忍ばせてあった。俺は周囲を素早く見回し、OKの合図を送った。土管はいつもの異常な早さで蓋を開けてそれを飲み干してしまうと、豪快なゲップをして、それから大きく息をついた。
「姉ちゃんすまんな、わし、飲まんとあかんねん」
土管のアホみたいな笑顔にビシコが凍りついた。土管はそれでスイッチが入ったのか、いつも通りの雰囲気に戻ってようやく本題を話し始めた。
「わし、コレおるねん」
土管はそう言って俺たちの目の前で小指をピンと立てた。
俺とビシコは顔を見合わせた。土管は続けた。
「ほんで、来週がそいつの誕生日や。もう用件分かるやろ。わし、何買うてええんか分からんのや」
土管はつるつるに剃った頬を指でかいた。
「え、それが相談?」
「悪いか」
ビシコが明らかにほっとした顔になって言った。
「その人、奥さんですか? 年齢は? どこに住んでる人?」
土管はその問いになぜか黙り込んだ。俺とビシコはまた顔を見合わせた。長い沈黙の後、土管は呟いた。
「それは言われへん」
なんでやねーん、と俺は言った。土管、何恥ずかしがってんの。それ言わないとさすがにビシコも選べないって。
そうなんか、と土管は不安げにビシコを見る。
「せめて年齢くらいは」
ビシコの言葉に、土管は「年上や」とだけ返した。
ビシコはそれから予算を聞き出し、真剣にプレゼントを考えてあげたようだった。その結果、プレゼントは「高級メガネケース」に決まった。
「地味じゃない?」
俺がそう言うとビシコはなぜか怒ってまくしたてるように言った。
「うちのヒット商品なんだよ。デザインから生産まで全部日本でやってて、デザイナーはあの有名なGGショップを立ち上げた芦山さんで、表はハイテク素材、裏地は職人の手織り生地で、富山の伝統工芸職人集団のチームTESHIGOTOさんとコラボしてて生地の染め方が…」
そう言えばビシコ、文具メーカーにいたんだっけ、と俺は思い出した。
「てうか予算余ったから、あんたも何かもう一つ決めて」
「えー。じゃあ、観葉植物」
「何それ適当に」
「適当じゃねえよ。植物嫌いな人はいないぞ。知らないけど」
俺たちのやりとりを、土管は不安げな顔で見守っていた。でもこんな地味なセレクトでいいのか? と俺が言うと、土管は「そんなんやない」と言って氷が全部溶けてしまったオレンジジュースを一口飲んだ。
ビシコの選んだメガネケースは近くの百貨店で扱っているということで、俺たちはその日のうちに三人で電車に乗り、数駅離れた百貨店に足を運んだ。移動中、身なりを良くした土管がものすごく緊張しているのが分かった。まるで突然インターンとして現場に放り込まれた学生のように、電車の切符を買った土管は、その瞬間から社会の一員として振る舞わなければならなかったのだ。俺はそれが何かすごく嫌で、土管に冗談めかして車内で飲酒しろとか、ダブルも呼ぼうとか言ったのだが、土管の固い表情は変わらなかった。
目当てのメガネケースはすぐに見つかった。ところがそれを買う段になって、また土管がよく分からないことを言い出した。それをギフト包装して相手に贈りたい。それはまあいい。問題は、送り主に自分の名前を書きたくないというところだった。
「なんど書かんならんのやったら、タイチの名前で出してくれ」
「いや、それおかしいだろ」
「直接渡せないの?」
「遠方や」
ビシコが配送カウンターで確認したが、やはり送り主の氏名住所と電話番号は必要とのことだった。そりゃそうだ。どうするんだよ、と土管に迫ると、土管は腹痛が再発したような顔をして頭を抱えていたが、結局、渋々自分の名前を書くことを了承した。住所は廃工場のものを使い、電話は俺の番号を貸してやることにした。
伝票が渡され、こちらとこちらにご記入願います、ときっちりメイクした受付の女性がまるで判決を読み上げるように土管にきびきびと言い渡した。土管は腫れ物に触るようにボールペンをつまみ、小刻みに震える赤黒い手で、受取人の名前から書き始めた。
俺は、全く見るつもりはなかった。けれど、正しい電話番号が書けているか確認しようと思って、ちらっと伝票を見てしまったのだ。
受取人、那由多セイ。
差出人、那由多番次。
そして宛先住所に「和歌山県」の文字があった。伝票に書かれたひらがな混じりの汚い文字を見た瞬間、俺の胸にものすごい不快感がせり上がってきた。俺は見なければ良かったと強く後悔した。そもそも、百貨店なんかに来なければ良かったのだ。
伝票を書き終えた土管は、静かにボールペンを置き、待合用のプラスチックの椅子に浅く座った。きれいなブルゾンを羽織り、髭をつるつるに剃った土管は、まるで魂でも抜けたかのように、何もない白い壁を、焦点の合わない瞳で見続けていた。
帰り道、土管は俺とビシコに、沈黙の合間を縫って途切れ途切れに口を開いた。
わし、土の無いところは好かんわ。
今日は疲れたわ。
おおきにな。
俺は、何と言っていいのか分からなかった。プレゼントの植物、今度持っていくよ、タダでいいよ、とだけ伝え、地元の駅前で土管と別れた。
二人になった後でビシコは言った。
「思ってたより、普通の人だった」
そうだよ、と俺は答えた。
それから数日後、俺はビシコと駅前を歩いていた。道行く人々はいっそう軽装になり、通りにワイシャツやロンTが目立つ、本格的な陽気が到来していた。街路樹の木々は力に溢れ、体の先から緑色の命をほとばしらせている。公園では午前で授業を終えた小学生の集団が遊具ではしゃいでいる。傷一つ無かったランドセルには早くもいくつかの思い出が刻まれ、喋ったことのなかった隣の席の子と一緒に帰るようになる、子供たちにとってはそんな始まりの季節が訪れていた。
その日も公園にケンナイさんの姿が見えなかったので、また土管の家に行ったのかもしれないと思い、俺はビシコに土管の家を見学させてやろうと思いついた。ここから歩いて15分くらいだよ。すぐ着くよ。ダンボールハウスなのに断熱構造になっててさ、3LDKに離れまであるんだ。嘘みたいだろ。
ビシコが興味を示したので、俺はビシコを連れて幹線道路を浜手に向かい、坂道を下っていった。幹線道路はやがて白湖池川の下流にぶつかり、それを乗り越えて隣街へとつながっていく。俺たちはその橋を渡らず、川の手前の土手に沿って海の方へ進んだ。
土管の畑へと続く二股の道が見えてきた辺りで、先にビシコが異変に気付いた。
「ねえ、何の音?」
何かがぶつかるような音が、途切れ途切れに聞こえていた。泥の土に重い石を何度も投げつけているような音だった。音は菜園の方から届いていた。二股道を右に進み、菜園を覗き込んだ瞬間、俺は声をあげた。土管が誰かに馬乗りになり、めちゃくちゃに殴りつけていたのだった。
組み敷かれているのはケンナイさんだった。俺は坂道を駆け下り、そのままの勢いで土管に体当たりをした。土管は体勢を崩して畑に転がり、腰を押さえてうめいた。身体がぶつかった瞬間、強烈な酒の臭いがした。ビシコがケンナイさんの手を引いて身体を起き上がらせると、ケンナイさんは頭と鼻と口から血を流したまま、ビシコの手を振り払って土手に逃げていった。
俺は畑の側に転がっていたポリバケツを拾い、川の水を汲むと、畝の間に転がっている土管に思い切り浴びせかけた。土管は何かを叫んだが俺はそれを無視して何度も繰り返しバケツで土管の顔面に水を浴びせた。最初は立ち上がろうとしてもがいていた土管だったが、俺の両手が疲労で震え始める頃にはもう何の抵抗もしなくなっていた。
翌日の夕方、俺とビシコは改めて土管を訪ねた。俺はビシコに来なくてもいいと言ったのだが、ビシコは連れて行けと譲らなかった。
廃工場の前まで来ると、入り口付近に置かれたパイプ椅子に土管が座っているのが見えた。土管は俺たちに気付くと、一度工場の中に入り、何かのビニール袋を持って外に出てきた。
こんにちわ、と声をかけたビシコに、土管は黙ってビニール袋を差し出した。中を覗き込むとそこには採れたての野菜がぎっしり詰め込まれていた。
「わしは汚いけど、こいつらは綺麗やさけ」
土管は俺をちらっと見て、目を逸らした。また覚えていないのだ。自分がどうしてあんなところでずぶ濡れで転がっていたのか、どうして両手の拳の皮が破れているのか。
俺が黙っていると土管が言った。
「手は、出したんやな」
「ケンナイさんにね」
土管は顔を伏せて俺たちを追い払う仕草をした。
「お前ら、もうわしと関わるな。それ持って帰ってくれ」
「今さら何だよ」
「頼むわ。もう誰にも恥を晒したない」
またそろそろと長い夕日が忍び寄ってきていた。俺たちが動かないので、土管は溜息をつき、冷蔵庫から缶ビールを出してそれを飲んだ。
そのうち、工場の暗がりからダブルが現れた。ダブルも何かとばっちりを受けたらしく、奥から出てきたものの、うう、と唸ってなかなか土管に近付こうとしなかった。
「暴力は駄目だよ」と俺が言うと、わかっとる、と土管が小さい声で呟いた。どうしてあんなことしたの、とビシコが訊いた。
土管は出入り口横の辺りを顎で指した。俺たちがその方角に目をやると、そこには先日の百貨店から送ったはずの小さい化粧箱が転がっていた。
あいつが調べた住所、デタラメやったんや。
郵便の若いやつが、こんな住所は無い、正しい住所を書けと言うて、荷物置いていきよった。
わし、あの人の正しい住所ら知らん。
タイチ、これ、もう届かんのんか。
もうあかんのんか。
夕日の色が俺の腰の高さまで広がっていた。工場の出入り口から、その奥の方に向けて、オレンジ色の太い直線が走っていた。ダブルがそのオレンジと暗がりの境界を、またいだり、ふさいだり、混ぜようとしたりしていた。どれほど手で擦っても境界は変わらない。怒ったダブルはスパイクでチャキチャキと踏みつけるが、そのスパイクごと光と闇に分断される。無駄だよ、と俺は言った。
土管は震える指で何本目かの缶ビールのプルタブを開けようとしたが、うまく開けられず、爪を何度もプルタブのリングに引っかけては失敗していた。
仕事も、家族も、これで失うた。わしの欠陥や。いつもそうや。もう取り返しがつかへん。どついたらあかんのや。なんで、人の手は、人をどつけるようになっとるんや。これはほんまにわしのせいか。誰かのせいちゃうんか。
しばらくしてビシコが口を開いた。
「取り返しのつくこともあるよ。きっと」
ダブルが光と闇の遊びを諦め、また奥の暗がりへと帰っていく。
「すまんかった」
土管は誰に言うでもなく、一人でそう呟き、うなだれた。
確かにビシコの言う通りかもしれない。
失っても、別の何かを得ることだって、たまには。
土管の事件から数日後、ビシコは家を出た。
俺はそのことを土管から知らされた。まだ朝の早い時間だった。駅前のスーパーに牛乳を買いに行くと、入り口で待ち伏せていた土管に腕を捕まれた。
「おい、なんや、あの女」
出し抜けにそう言われて俺は混乱した。土管は俺の腕を掴んだまま、どういうつもりや、と俺にすごんだ。
土管によると、昨日の深夜、突然寝袋を持ったビシコが訪ねて来たらしい。用件を聞くと、ここにしばらく寝かせて欲しいという。当然断ったが帰らない。放っておいたら勝手に中に入ってきて、工場の隅で寝られた。それで朝一番にスーパーに行き、俺に会えるまで待つつもりだったらしい。
「あいつ頭おかしいんか。寝袋だけで、コンクリの上で寝よったわ」
状況が飲み込めないまま俺は土管と一緒に廃工場へ向かった。工場前に着くと、ちょうどビシコが大きなダンボールを折りたたみ、何かを作っているところだった。
俺と目が合うとビシコは「おはよう」と言った。
「何してんだよ」
「家出」
「家出、じゃねえよ」
ビシコはガムテープと発泡スチロールで器用にローベッド的なものを作ると、それを工場の中に引きずっていった。俺はビシコを追って中に入った。
土管のダンボールハウスから少し離れたところに、ビシコのダンボールハウスが作られようとしていた。土管ほどの完成度は無いが、ちゃんと入り口があり、カッターで切り抜いた窓もあった。
「どう? この隠れた才能」
「説明しろよ」
「これ作ってから。ちょっと待って」
ビシコは一人でダンボールを切り貼りし、時にはちょっとした角材と金物も使い、2時間後には自分なりのワンルームダンボールハウスを作り上げてしまった。
「ごめん、勝手に材料使っちゃって」
ビシコは額に滲んだ汗を手の甲でぬぐって土管に謝った。
「使ってから謝るアホがおるかい」
土管は自分のテリトリーを荒らされることを明らかに嫌がっていたが、先日の負い目もあるのか、強くは出なかった。土管は苛立った声で言った。
「お前、ここに居座る気か」
「ううん。ちょっとだけ」
「ちょっとって何日や」
「ちょっとだけだよ」
土管は俺を睨むように見た。俺はビシコに言った。
「風呂、ないぞ」
「銭湯あるし」
「メシは?」
「コンビニあるし」
「土管が困ってる」
するとビシコは「交換条件出すよ」と言い、着ていたデニムジャケットのポケットから携帯を取りだした。
「名前と都道府県は分かってるんでしょ? 珍しい苗字だし、調べてみるよ。見つかるか約束はできないけど」
ビシコが足りないものを買ってくると言って工場を離れた後、土管は再び俺に詰め寄った。
「タイチ、あれどうにかしてくれや。わし、知らん人間が側におるのがあかんねん」
土管はそう言って鼻から深い息を吐いた。ただビシコは自分で一度決めたことは絶対に途中で曲げない。今のビシコを説得できる人間はこの日本にいない。俺は諦めて言った。
「じゃあ俺も泊まるわ」
「なんでそないなるねん」
土管は俺の顔を見て本気だと気付いたらしく、黙った。それから土管は何やら考えていたが、やがて顔を上げ、もうええわ、と言った。
「お前らには世話になったさけ、ちょっとだけ言うんやったら、もう勝手にせえ」
俺はビシコが帰って来ると俺も泊まることになった旨を伝えた。ビシコは「えっ、なんで?」と言ったがそれはこっちのセリフです。
「じゃあ寝袋あげる。もう一つ予備があるから」
そう言ってビシコから手渡された寝袋にはトモローの名前が書いていて、あ、それで角材とか扱えるようになったんだ、と余計なことに気付いたりした。
夜が来ると、ビシコは本当にコンビニ弁当を食べ、本当に銭湯に行って、本当に寝袋に入って「おやすみなさい」と言った。しょうがないので俺も寝袋に入ってみたが、ダンボールを敷いたとは言え当然コンクリの床は冷えるし、固いし、工場内部は古い油の臭いが充満してるし、おまけに初めて知ったが土管の歯ぎしりがものすごくてまいった。こんな生活続けられるわけがないと思っだが、ビシコの石頭とどっちが勝つだろうか。
深夜になると、海近い工場エリアには強い風が吹き始めた。夜になって冷え込んだ陸に海から風が吹き上げてくるのだ。工場の明かり取りの割れた天窓から、ごうごうという陸風の音が漏れ聞こえていた。その音と床の固さで俺はなかなか寝付けなかった。土管やダブルは毎日こんな冷たい床で、こんな音を聞きながら眠っているのかと思った。目の端をネズミか何かが横切った。工場のずっと奥に眠る、嘘のように巨大な重機械も気味が悪かった。俺はビシコのダンボールハウスのすぐ横に寝転がり、高い天井からプレス機のようにゆっくり下りてくる夜の暗闇を眺めていた。
「起きてるよね」とビシコがダンボールの中から言った。
うん、と俺は返事をした。突風で飛ばされたのか、工場の外壁に何かがぶつかる音がした。その何かはガラガラと乾いた音を立て、そのうち遠くに転がっていった。
あたし、あそこに帰りたくない。
うん、と俺は繰り返した。わかるよ。
わかるの?
なんとなく。
どこに帰ればいいのか分かんない。
俺もだよ。
ねえ、風の音がすごいね。
うん。誰かの鳴き声みたいだ。
誰の? 動物の?
そうだな、とっくに滅んだ、太古の時代の、ビシコっていう名前の魚。
魚は鳴けないよ。
鳴くかも知れないよ。海の底で。
あたしたちが知らないだけで?
そう。俺たちがまだ知らないだけで。
土管が寝言で「カレーの方がええんじゃ」と言った。
ビシコがくすくす笑った。