ナユタ緑
風景はまたあの海だった。父親と母親に見守られ、俺はクロールで泳いでいた。晴れているのに空はなぜか暗かった。息継ぎをする時に右腕のストロークを強めにすることで上半身に浮力が生まれ、波があっても水を飲まないで済むことが分かって、俺は波を何度もうまくやり過ごしていた。前に進むコツも分かった。押し戻されそうなほどの大きな波が来たら、ストロークをやめ、顎を引き、波の下に頭を入れて潜り込むのだ。そうすれば波は自分の上を通り過ぎて抜けていく。この二つの発見はとても重要だった。以前と違い、俺はどんどん前に進むことができた。今度こそあの岩に手が届く。そう考え、希望が見えた瞬間、これまでに体験したことのないほどの巨大な波に襲われ、俺はでたらめな海流と共にあっけなく海底へと沈んでいった。
沈みながらも意識は明瞭だった。俺は身体中に海藻を巻き付けながら海の底へ近づいていった。肺に空気は残っておらず、浮力はゼロだった。波を受けた瞬間、身体のあらゆる穴に海水が注ぎ込まれていたのだ。ふと、もういいかなという気がした。やるだけやったんだ。父母の怒りと悲しみの顔が浮かんだ。父さん、母さん、ごめんね。俺、一生懸命やったんだけどなあ。沈んでいくにつれ、海水の温度が徐々に下がっていった。もうこれで終わりなのか。何かやり残したことがあるような気がして、ものすごく不安になった。それと同時に、自分が海の一部になったような感覚があって、不思議な安心感もあった。水温が下がるにつれ、自分の身体と海との境界線が曖昧になっていった。やがて海の色が青から黒に変わるあたりで、見たことのない魚が俺の目の前を横切り、それから周囲をくるくると泳いだ。
海底まで辿り着くと、実に様々な種の魚が生息していた。彼らは海面を見上げて一様に鳴いていた。その鳴き声はとても小さく、耳を澄まさないと分からなかった。魚が鳴けることを知らなかった俺は、自分もその声を出そうとしてみたが、その時になって初めて自分がもう魚になっていることを知った。俺は丸い口を大きく開き、エラで息を吸い、見よう見まねで鳴こうとして、そこで気付いた。
しまった、魚になったらカレーが食えない!
その事実に衝撃を受け、それで目が覚めた。
「おはよう」
とっくに起きていたビシコはなぜか笑っていた。
「何なのあんたたち、カレーカレー言って」
ムバラくんは初めて見る廃工場のダンボールハウスにいたく感動した様子だった。土管とビシコにつたない日本語で、素材と構造を矢継ぎ早に質問していた。特に土管の3LDKの家を「ジャパニーズペーパーハウス」と評し、しきりに感心していた。たぶんショージやフスマなんかと勘違いしているのだろうが面白いので黙っておいた。
ムバラくんの指導で、川沿いの土手にレンガがコの字に積み上げられた。俺が薪に火をつけ、ムバラくんがコンロでカレーを煮込み、ビシコがナンの生地を練った。鍋とピザストーンと食器とアウトドア用のチェアは俺がビシコの家からレンタカーで運んできた。
ムバラくんは慣れた手つきで石の隙間に泥土を詰め、鉄板を差し込み、炉内の温度を測った。彼の故郷にもナンのような食べ物があるらしい。ムバラくんは軍隊に入れられる前、ずっと家で弟と妹に食事を作ってあげていたのだという。料理好きダカラー。
窯焼きのナン。チキンとほうれん草のカレー。ついでにバジルとトマトの窯焼きピザ。その日のムバラくんは店であれほど罵倒されている彼とは別人のように生き生きと手際よく料理をこなし、廃材で作ったテーブルに次々に皿を運んだ。
カレーは5人分用意された。ナンがすべて焼き上がると、ビシコはこの一連の作業を遠巻きに眺めていた土管とダブルに手招きをした。土管は「いらん」というジェスチャーをしたが、ダブルは香ばしい匂いに連れられてふらふらとやってきた。
土管はなかなか近寄らず、しょうがないのでカレーをつけたナンを一切れ持っていって食べさせてやった。それを口にした土管は、なんやこれは、と俺を見た。なんなんやこれは。カレーか。こんなカレーがあるんか。俺は笑った。
「早くおいでって」とビシコが土手から叫んだ。「食べてもらわないと困るの。あんたの野菜、たくさん使ってるんだから」
臭うダブルを風下に座らせ、俺とビシコが風上に座った。いただきます、と俺が言って皆が手を合わせた。結局席についた土管は、笑てまうわ、と笑いながら言った。何やこれ。何ゴッコや。
ムバラくんのオリジナルカレーは絶品だった。ペーストにした野菜とやわらかく煮込んだチキンにムバラくんしか分からない無数のスパイスが加わり、表面にはオイルと生クリームで丁寧に模様がつけられている。繊細な彼そのものを体現したかのような至高の一品に、これは既に店長を超えてるんじゃないだろうか、と俺とビシコは言い合った。
「近々あの店にクーデターが起きる気がする」
「これ店長絶対知らないだろうなー」
サービス精神が旺盛なムバラくんは、自分が食べるのは二の次で、せっせと土管とダブルに料理を提供していた。
「なんや、気ぃ遣わせてすまんなあ」
ナンを一枚食べ終わる頃には酒も回ってきて、土管はいつも通りの調子に戻っていた。二枚目のナンをテーブルに置きながらムバラくんは言った。
「あなた、ホームナイカラー」
「なんや同情かいな。見た目より優しい兄やんやな」
チガイマス、とムバラくんは首を振った。「あなた、ホームナイ、孤児、日本語、アッテマスカ? コジデスネ? アッラーは、『孤児の財産』守リマスカラ」
誰が孤児やねん、と土管が怒り、ビシコが笑った。「ジブンの方が孤児やないかい」と土管が言うと、ムバラくんは「孤児違う、アッラーがイマスネ」と胸を張った。
ダブルはカレーだけを素手ですくい取り、一気に口に入れ、激しく咳き込んでおならをした。彼らは基本的に胃腸が弱っているのでムバラくんにはできれば辛さを控えめにして欲しいと伝えていたのだが、口の中も弱っていたようだ。すぐにビシコがダブルに水を飲ませてやり、ダブルがオッオッと水を飲む。口の端から水がどんどんこぼれて、ビシコが口や胸をふきんでぬぐってやる。姉ちゃん、わしのここも拭いてえやー。酔っ払った土管が下半身を出し、ビシコが悲鳴を上げ、ムバラくんが不快感をあらわにする。
ひとしきり騒いだ後、カレーパーティはお開きになった。皆が口々に「美味しかった」と言い合ったのでムバラくんは巨体を丸めて照れていた。みんなで調理器具と食器を川で洗い、工場の前のブルーシートに並べて乾かした。残った具材は土管が引き取り、余ったルーはムバラくんが持って帰ることになった。
ムバラくんは帰り際、俺に「ワタシを呼んでアリガトウネ」と嬉しそうに言った。何言ってんの、礼を言うのはこっちだよ、と俺は返した。土管は「大工になりたいんやったら、木造の現場やっとったやつ、知っとるさけ紹介したるぞ」と怒鳴った。ムバラくんは「アリガトウ」と言って深々とお辞儀した。「オワビシマスカラー」
これは7日間続いたビシコの家出騒動の、最も幸福な記憶となった。
ビシコの家からレンタカーで運んできたものは、他にもあった。
ムバラくんと二人で、ビシコの家にある植物の一部を廃工場に運び入れたのだ。
量を減らす目的もあったが、それよりも、殺風景すぎる工場に彩りを入れようと思ったからだ。俺は工場の天井高にふさわしい、特に背の高いものをピックアップして軽トラックに乗せた。樹齢数十年の2メートル超えのシェフレラ。卸業者の温室から直接仕入れた3メートル級の巨大モンステラ。鉢植えのオリーブ、アカシア、コルディリネ・インディビサ。どれも一人ではバルコニーに出せなかったものだが、ムバラくんはそれらをひょいひょいと軽トラに乗せてくれた。
廃工場の入り口付近に植物を並べただけで、急に景色が華やいだ。それまでは生き物の方が場違いだったコンクリートの風景が、今では生き物が主役で、建物の方が追いやられているように見える。植物の力は大したもんだと俺は改めて思った。
選んだ中にはうちのルーキーである竜血樹も入っていたのだが、土管に「赤い血が流れる」と竜血樹の説明をすると、そんな気持ちの悪いもん堪忍してくれ、と言って鉢に近寄らなくなってしまった。
その日、夜までダブルはいつも通りに過ごしていた。俺とビシコがやってきても、カレーを喰わせても、特に変わった様子もなかった。
ところが翌日の朝、ダブルが発作を起こした。それはこれまでに無く激しいものだった。ダブルは頭をかきむしり、皮膚が破れて血が出ても動きを止めなかった。大と小を漏らし続け、油まみれの床を転げ回った。俺は医者に連れて行くべきだと言ったが、土管は「春の風物詩や」と言って取り合わなかった。土管は酒を飲みながらその様子を黙って眺めていた。
ダブルの発作は1時間に数回の頻度で起きた。落ち着くとけろりとした顔になるが、またすぐに再発する。これはいつ治るのかと土管に訊くと、梅雨まで治らん、というぶっきらぼうな返事があった。死ねへんさけ、ほっとけ。ダブルはうううううう、と唸って身体をよじらせた。
ううううう、み。
ううううう、み。
これ、海に行きたいんじゃないの、とビシコが言った。そんな感じだよなあ、と俺は答えた。海ならここから歩いて10分で着く。砂浜は無いが、埋め立てられた工場群の隙間に小さな漁港もあった。海に連れて行けば治まるんじゃないかと土管に提案すると、おまえら、勝手なこと言いくさって、ええことしとると思とんのか。そいつは放っとくのが一番ええんじゃ、と怒鳴られた。なぜ土管がそこまで怒るのか分からなかったが、俺たちは取りあえず土管に従うことにした。
ううううう。ううううう。
苦しそうなダブルを置いて、俺とビシコは買い出しに出かけた。
浜手の工場から駅前のスーパーまでは平坦な道が続く。浜手には古くからの漁村があった。今はほとんどの海岸線が埋め立てられ、かつて漁で栄えた村の面影はないが、幹線道路を一本内側に入ると、車がぎりぎりすれ違えるくらいの道があり、その道の両脇には古い瓦葺きの屋根が軒を連ねている。家々のトタンは潮風でみんな錆び付き、プラスチックの雨樋だけが日射しを浴びてきらきらと光っている。狭い通りに人影はなく、海から吹き抜ける風がスナック菓子の空袋をどこまでも運んでいく。錆びてぼろぼろになった看板が軒の合間合間に数多く掲げられているが、それはこの狭い通りがかつてメインストリートとして使われていたことを示している。木造の家々は、よく見ると通り側に塀が無く、玄関がすべて通りを向いている。今は雨戸で締め切られたそれらの家々は、以前は魚屋や乾物屋、電気屋、八百屋であったのだろう。
俺は少し寄り道をして通りの途中にある高台に登った。その高台からはこの街の海が一望できた。煙を吐き続ける巨大なプラント群と、それを囲むようにして埋め立てられた海岸線が、光を跳ねてなめらかに揺らぐ海を切断している。隣に立ったビシコが、きれいだね、と風で暴れる髪を押さえながら言った。俺は海の眩しさに目を細めながら、埋め立てられる前のかつての海岸線を想像してみた。
海を見ていると、あまりに巨大で、圧倒的で、ふと何かを諦めたくなるのは俺だけだろうか。プラントの幾何学的なシルエットと、定規で引いたような埋め立てライン、それらのあちこちに海に踊る光の粒が跳ねている。その輝きを縫うように奥の方に目を凝らしてみるが、ここからじゃとても輝きの裏側は見えない。
工場に戻ると、ダブルはまだ床に転がっていた。俺は改めて、ダブルを海に連れて行くことを土管に提言した。また怒鳴られるかと思ったが、土管は落ち着いた口調で俺たちに言った。
「ほないっぺんやってみい。その代わりわしも連れて行け」
ダブルを連れていったのは、漁村の中央にある、今はほとんど使われていない漁港だった。工場から連れ出されたダブルは、途中から潮の香りに気付いたのか、急に大人しくなって歩いた。土管は俺たちから離れ、一言も喋らずに後をついてきた。
漁港には数隻の漁船が停泊していたが、そのうち使われているのは2隻だけのようで、残りの船は錆が回っていたり、甲板が割れていたりした。コンクリートの接岸部分には黒々とした海藻とフジツボが付着し、藻に覆われた緑色の係留ロープがだらしなく海に垂れ、所在なげに波に揺れていた。
ダブルは黒い海を黙って眺めていた。俺の目には、ダブルが一時の心の平穏を取り戻したように見えた。不意に強い潮風が吹き、ダブルの案外整った横顔が露わになったが、その睫毛の長い瞳が黒い海のどこを見ているのか俺には分からなかった。
ビシコは「海だよ。良かったね」と言った。
突然、ダブルが弾かれたように海に向かって走り出した。ダブルは俺とビシコの間を抜けていこうとしたので、身体がぶつかり、俺たちは左右にはじき飛ばされた。その直後、今度は土管がものすごい速度でダブルを追いかけて走った。俺とビシコはとっさの出来事に反応できず、ただ二人の背中を見送った。俺は、土管あんなに速く動けるんだ、と頭でぼんやりと考えていた。
ダブルが海に向かって飛ぼうとした瞬間、土管の指がダブルのコートの裾を掴んだ。二人はコンクリートの上にもつれ合って倒れ込み、くそたれ、と土管が叫んだ。ダブルはコンクリートに爪を立て、それでもまだ海へ入ろうともがいていた。静けさに包まれた漁港で、二人の荒い気遣いだけが聞こえていた。
おのれらも手伝わんかい、土管に怒鳴られ、俺は我に返った。土管はダブルの首を絞めながら、おまえも、何回言うたら分かるんじゃ、アホンダラ! とわめき散らした。俺は走り寄ってダブルの両手を押さえ、土管と二人で引きずるようにして海から遠ざけた。完全に海が見えなくなってからもダブルは背を剃り返らせて暴れていた。
港に落ちていた苔だらけのロープでダブルをぐるぐる巻きにしてから、俺たちは暴れるダブルを引っ張って工場に連れ帰った。土管は工場の隅にダブルを転がすと、俺とビシコに「ちょっと来い」と言って顎をしゃくった。
俺とビシコは工場の裏手に連れていかれた。何をされるのかと不安になったが、土管は裏手の草むらを指さした。見るとそこには太めの角材が2本突き刺さっていた。大小二本並んだ角材には何も書かれていなかった。
「あいつは、嫁はんと息子を海の神さんに盗られたと思っとるんや」
これ、あんたが? ビシコの問いに土管は「ハッ」と笑った。
「そんなお人好しやあらへんわ。あいつが勝手にこさえたんや。アホなりに色々考えとんのやろうが、嫁はんも息子もほんまに死んだんか、知らんとこでピンピン生きとるんか、自分かて分からんくせに」
その角材の表面にはうっすら緑の苔が生えていた。土管は先の騒動で腰を痛めたらしく、工場の壁に身体を預けて座り込んだ。そして膝を立てたまましばらく黙っていたが、しばらくして口を開いた。
「あいつは、まだ死なん方がええんちゃうかと思うんや。クソ漏らしてても、まだなんや役目がある気がするんや」
「天気予報したり?」
せやなあ、と土管は空を仰ぎ、少し間を置いてから独り言のように言った。
「あのカレー、またあいつに食わせたってくれや」
その夜は満月だった。
妙に暖かい夜だったので、皆で月見をしようと言って、工場の出入り口にパイプ椅子を出して酒とつまみを用意した。ダブルはあれから何度も発作を繰り返したが、日が変わると落ち着いたようだった。
宴会が始まって1時間ほど経った頃、俺が買ってきた安い発泡酒でべろべろに酔った土管が言った。
「おまえら、何か肴になるような話せえや」
どんな話だよ、と俺が訊くと、何でもええさけ、おもろい話あるやろ、と乱暴に言われた。しょうがないので高校の時に万引きで警察に捕まった話をしようとすると、それを遮ってビシコが口を開いた。
むかしむかしあるところに、嘘つきな女の子がいました。
その子はとても嘘つきなので、一番大事な友達にも嘘をつきました。
「おっ、何や。何劇場や」
土管が茶々を入れるが構わずビシコは続けた。
その子は、それが嘘だということを、どうしても友達に打ち明けることができませんでした。だからその嘘が本当になるように頑張ってみました。
その子は家を売る計画を立てました。電話がかかってきても出ませんでした。記念日を忘れようとしました。
「何の話やねん」と土管が言った。
「知ってたよ」と俺は言った。
ごめん、とビシコは俺から視線を逸らして言った。
なんで謝るんだよ。
土管は俺とビシコを交互に見て、なんや、色恋かい、気楽でええのう、と言って舌打ちした。
満月が厚い雲に隠れてしまうと、土管は「おひらきや」と言って屋内に戻った。俺とビシコもパイプ椅子を畳み、土管に続いて工場の中に入った。工場の中ではダブルが明かり取りの天窓を見上げたまま、再び月が出てくるのを待って、丸い瞳を輝かせて突っ立っていた。土管は「おまえら、オメコすんのやったら隅の方でやれや」と言い残し、自分のダンボールハウスに入っていった。
遠くの踏切の音が聞こえていた。どこかで細い糸のような途切れ途切れのクラクションが鳴った。風は無く、奇妙に静まりかえった夜だった。ビシコは自分のダンボールハウスには入らず、コーヒー飲もうよ、と言ってカセットコンロでお湯を沸かした。
俺とビシコは、コンクリートの上に敷いたダンボールに並んで座りながら、インスタントコーヒーを紙コップで飲んだ。
あのさ、昨日ふと思い出したんだけど、と俺は言った。
学生の頃にさ、みんなで知らない道を走ってみようって、4人で車乗って、ガソリン空になるまででたらめに走ったことあったじゃん。覚えてる?
覚えてるよ。夏目ちゃんが泣いたやつでしょ。トモローにおしり触られて。
あれ? そうだっけ? ムネ揉まれたんじゃなかった?
それあたし。顔面にグーパンしたのもあたし。
おまえ、よくあいつと結婚したよな。
ほんとに。
でさ、その旅行の時に、占いの館みたいなところに行ったじゃん。廃ビルみたいな暗い階段登ったとこの、すごいお香の匂いしてて、婆さんが座っててさ。
あっ!
そうなんだよ。俺たちそこで「あんたたち二人はホームレスになる」って言われてさ。なんでそうなるんだよって、みんな爆笑してたけどさ。当たってんじゃん。
うわー、すごいねえ。
すごいよな。
ビシコはコーヒーを飲むのも忘れて、紅潮した顔で俺を見た。こんなことって本当にあるんだねえ。
天窓の辺りで風の音がした。また陸風が吹き始めていた。厚い紫の雲が流れてゆき、俺たちの正面にある廃工場の出入り口に再び月明かりが射した。月明かりは、出入り口に置いた植物たちの強いシルエットを生み出していた。シェフレラの細長い葉の影と、モンステラの穴だらけの巨大な葉の影が、不意に陸風に揺られて交差した。
俺は言った。
「目に見えないものがあるんだって、最近思うんだよ。そういうのが少しずつ分かってくるというか。いいものも悪いものも、どっちもあると思うんだけど」
タイチ、とビシコは言った。
「ありがと」
俺は言った。
「話聞いてた?」
ビシコは風に揺れて変化する植物たちの影に目を落として呟いた。
「あたしはずるい」
「普通だよ」
コルディリネの鋭いナイフのような影が、ヤマボウシの弱々しい幹に刺さった。モンステラは気まぐれにそれを守り、すぐに背を向けた。シェフレラのがっしりとした幹は微動だにせず、オリーブの徒長したひょろひょろの枝が、だらんとした竜血樹にちょっかいを出していた。無数の曲線が、風の一吹きに混ざり合い、溶け合って、また離れていく。奥の方で寝ていたダブルがその饗宴に気付き、オッオッと声を上げて喜んだ。
工場の内部に染み込んだ夜の色が変わりつつあった。日没直後には漆黒だった壁の下半分が、徐々に藍色へと染まっていく。底に溜まった月明かりが、壁伝いに浸透し、這い上がっているのだ。ふと俺は、これはどこかで見た風景だという気がした。正面出入り口のゆらゆらと揺れる影を見つめているうち、この風景が夢の中の海底にとても似ていることに気が付いた。
ビシコ、と俺は言った。ここ、海の底みたいだ。
海の底の植物は、目に見えない大きな揺らぎの中にあった。彼らはわずかな月明かりに照らされ、黙ったまま、俺たちに何かを見せていた。
ダブルがふらふらとヤマボウシに近付き、咲きかけている花のつぼみを不思議そうに指でつまんだ。ビシコが不意に顔を上げ、あれってもうすぐ咲くの、と俺に訊いた。
そうだよ。白い花がたくさん咲くよ。
植物って、毎日何考えてるの。
さあねえ、と俺は腕を組んだ。どうだかなあ。
知ってるんでしょ。
まあね。
言ってよ。
俺は立ち上がり、二杯目のコーヒーのためにお湯を沸かしながらダブルに目をやった。どうせつぼみをむしって喰うのかと思っていたら、ダブルは指先でつぼみを弱々しくつついた後、両手を下ろし、何もせずにじっと眺めていた。
俺はビシコにコーヒーを手渡しながら言った。
ヤマボウシは違うけど、植物の中には、一度花を咲かせただけで枯れるやつもいるんだよ。だから観賞用として楽しむためには、つぼみが出たら慌てて切ったりするんだけど、それでもこっちが油断してるとすぐにつぼみを出すんだ。だから基本的にこいつら、花を咲かせることしか考えてないよきっと。
ふうん、とビシコが鼻を鳴らす。
興味わいた?
ちょっとだけ。
ダブルがふと何かに気付いたようで、小走りに工場の奥へ走って行った。それを目で追うと、ダブルの行く先には月の光によってあの不規則な模様が生まれていた。ダブルはスパイクを鳴らしながら、コンクリートの床に描かれたその模様をつなぐようにして左右に駆け回った。
「あいつは何考えてんだろな」
ビシコが言った。
「あの人、漏らしちゃうでしょ。でも我慢してるみたいなの。漏らしてもいいと思ってるんじゃなくて、トイレが分かんないんだと思う」
俺は驚いてビシコを見た。お前、ひょっとしたらほんとに向いてるかもな。
何に?
保母さんに。
ビシコは短く笑った。
それはもういいよ。
気付くとダブルが月明かりの模様に導かれ、工場の最奥部に辿り着いて巨大な重機械によじ登っていた。あ、止めなきゃ。俺は立ち上がって「降りろよー」と声をかけながら走り寄った。ダブルはその間にもどんどん機械を登ってゆき、かなり上の方にあるガラス張りのドアを開け、中に入ってしまった。
やばいと思って俺が階段を探している時だった。がちゃん、という音が工場に響き渡った。それと同時に重機械に付けられたいくつかの赤いランプがすべて光り、回転し始めた。海底の藍色は一瞬で吹き飛び、真っ赤な光が無軌道に軌跡を描いた。そして、ウオオオオオ、という轟音が辺り一帯に響き渡った。
何か分からないがものすごくまずいことが起きていると思った。ダンボールハウスから飛び出した土管が俺を追い越し重機械を登っていった。その間にも、ウオオオオオ、ウオオオオオと重機械は叫び続けた。工場内の空気が震えているのが見えた。俺の隣でビシコが放心したように機械を見上げていた。土管に引きずり下ろされたダブルが小便を漏らしながら手を合わせて機械を拝んでいた。轟音は頬に突き刺さりそうなほど鋭く、激しかった。俺はあの海の強烈な波を思い出した。長い時間をかけて溜められていた力が解放されたのだと思った。
工場の雄叫びは天窓を破り、闇を裂き、厚い雲の向こうへ恐ろしい速度で突き抜けた後、何かを吹き飛ばしたように見えた。
あの夜の叫びを耳にした人間は、俺たちの他に何人いただろうか。
彼らはその夜、何を考えて眠りについただろうか。
彼らのうちの誰かが警察に通報し、不法侵入がばれ、工場は解体されることになった。
また景色が変わるなあ、と土管が他人事のように呟いた。