ナユタ緑

 工場が完全に封鎖されてからも、土管は時々ダブルを連れて川の土手の畑に通っているようだった。
「今植えとるやつで最後にするわ。離れてしもたら世話できんさけな」
 俺はあの夜、ダブルを止められなかったことを少し気に病んでいたが、土管は「ええ機会や」と言って気にしなかった。これ以上おまえらと付き合うとったら、元に戻れんようになる。
 工場が封鎖されてから少しして、俺は土管に植物をプレゼントする約束をしていたことを思い出した。結局ビシコのネット捜査でもあの人の住所は分からなかったが、約束は約束だ。俺は迷惑をかけたこともあって、一番気に入っている、うちのルーキーである竜血樹をプレゼントすることにした。
 そのことを土管に伝えると、それはダブルにやってくれ、という返事が返ってきた。あいつ、前におまえにもろたやつ、大事に育てとんのや。そやからあいつにやったってくれ。
 俺はビシコと二人で竜血樹を運んだ。どこに運べばいいのか訊くと、畑に植えるのだという。あそこやったら大丈夫や。あの土地は誰のもんでもあらへんさけ。竜血樹は日本の冬にも耐えることができる品種だったので、俺はそれを了承した。
 台車をごろごろ転がしてようやく辿り着いた川沿いの土手には、もう土管とダブルが待っていた。あの日以来二人に会っていなかったビシコが「久しぶり」と言った。土管は「なんやええ匂いさせよって。自分の家の方がええやろがい」と言った。
 土管の畑は春の勢いに負けて既に荒れ始めていた。土管は先日の洪水の水位から数十センチ余裕を見て一段高くなった辺りを指さし、この辺でどうや、とダブルに訊いた。ダブルは状況が分かっているのかいないのか、ううう、と唸って土を掘り始めた。
「解体で全部潰されてまうさけ、代わりにちょうどええわ」
 ダブルは両手をショベルカーのように揃え、伸びっぱなしの爪で土を掻いた。土管が時間をかけて育てた土はふかふかで柔らかく、ダブルの爪でも簡単に掘ることができた。穴はみるみる大きくなり、子供が入れるくらいになったところで、俺がストップをかけた。ダブルは肩で息をしていた。ビシコが川に連れて行って両手を洗ってやった。俺はその穴にパーライトと腐葉土を混ぜ込み、植樹用の土を準備した。
 竜血樹のプラ鉢は根が回って抜けなかったので割ることになった。鉢を割り、余分な根を落とし、俺と土管で根を穴に埋めた。ようやく植え終わった竜血樹にダブルが怖々近づき、長く垂れた葉を持ち上げ、次に丸く太い幹におそるおそる触り、大丈夫だと分かるとそれを両手で掴んだ。
 ダブルの様子を眺めながらふと土管が言った。
「この木、寿命あるんか」
 そりゃあるよ、と俺は答えた。生き物なんだから。
「そうか」と土管は呟いて、そしてまた訊いた。
「何年生きるんや」
 俺は答えた。竜血樹は確か5000年。自生している地域だったら最長で7000年らしいけど。
 俺の言葉に土管は目を見開き、空を仰いで笑った。それから竜血樹を撫でているダブルの両肩をつかみ、大きく揺さぶって言った。
 よかったなあ、こいつ、おまえより絶対に長生きするわ。絶対に死なへんぞぉ。

 

 工場の解体が本格的に始まったのはそれから一年後の初春だった。ある日の昼下がり、俺は久しぶりに土管と言葉を交わした。ビシコの懐妊を報告しに、二人で新しい住み処に行ったのだ。
 土管は「そらおめでとうさん」とビシコに言った。
「わしが育てたろか。立派なアル中になるで」
「結構です」
「ほな名前付けさせてえや」
「もう決めてあるから、ダメ」
 しばらく近況を報告し合った後、ビシコは伸びた黒髪をひるがえし、それじゃまたね、と土管に手を振った。
 俺とビシコは旧市街を抜け、ビシコの家に向かった。途中でムバラくんのカレーを食べたくなったが、あの店も今は営業停止になっていて入れない。近所の人の話では、不法滞在の外国人を雇っていたのだいう。
 坂の上の交差点まで、チャリを立ちこぎする。身重のビシコは徒歩でゆっくり歩く。先に着いた俺は、光る川面を眺めながら、ダイジョブ、ダイジョブと呟いてみる。ビシコの新しい家族の箱となったあの家に、俺の植物はまだ置いてもらっている。遠慮する俺にビシコは「どうせ置くとこないでしょ」と笑う。
 それどころか、子供の名前を「緑」にするのだそうだ。旦那にも了解を得たらしいが、本気なのか冗談なのか、どういう心境の変化なのか俺には分からない。
 ビシコの家でお茶をいただき、夕暮れ時まで長居した。いつもの坂道を下って家に帰る頃には、青い夜の色がどこまでも広がっていて、俺はマフラーに顎を埋めて走った。マンションに着き、誰もいない廊下を歩き、重苦しいエレベーターのドアが開く。等間隔で並ぶスチールのドア、マジックで書かれた表札、どこかの階から騒がしい外国語が聞こえてくる。宴会でもやっているのだろうか、それともTVの音だろうか。5階の奥の角部屋の前に立ち、冷たい鍵を差し込んで右に少し回すと、がちゃん、という金属音が反響する。
 ただいま、と俺は言う。
 いくつもの命が、俺の側にある。
 今夜から一気に暖かくなり、いよいよ春が到来するらしい。俺は室内管理していた連中を外に放り出すため、まずはバルコニーの掃除から始めることにした。

 

 

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