それは俺の未来

それは俺の未来

 

 丘の上の貯蔵庫には誰一人近づく者はいなかった。
 いつからあれがあるのか、俺は一度ばあちゃんに訊いたことがある。ばあちゃんは、この辺りは空襲がなかったさけ、家も畑も残ったおかげで、あんたのひいおじいさんは余所へ逃げなんでもこの土地で暮らすことができたんや、一家八人、助け合うて必死で生きて、子供も生まれて孫も増えて、その子らに家も土地も残してやれて、ほやさけ、そのおかげでテンちゃん、あんたはここで生まれたんやでえ。と五万回くらい聞いたことのあるどこが感動ポイントなのかよく分からない話をリピートしただけだったので詳しいことは分からずじまいだったが、その後ばあちゃんの友達のヨシコさんに同じ質問をしてみたら「あたしの若い頃にはなかったと思うわ」という証言を頂いたので、それほど古いものではないらしかった。
 真っ黒な立方体の形をしたあれは、少なくとも俺が物心ついた時にはそこにあった。サイズはちょうど普通の住宅くらいで、一つも窓がなく、入り口もなく、それゆえ二階建てなのか平屋なのか、人が住んでるのかどうなのか、外から見ただけではさっぱり分からない謎の建造物なのだが、誰が言い始めたのか「丘の上の貯蔵庫」という異名がついていて、それは中学の先輩の、さらにその先輩も同じ呼び方をしていたから、何かを貯蔵している倉庫なんだろう、とみんなが漠然と考えていた。
 俺たちの住むだだっ広い平野の中にまるで虫刺されのように膨らんだ土地があり、俺たちはその場所を単純に「丘」と呼んでいた。丘は宅地ではなくほとんど山林で、道らしい道もなく、ただその頂上付近だけ山林が伐採されて地肌が見えていて、その禿げた土地の中心部に貯蔵庫は建っていた。貯蔵庫を除いて、その土地に他の建造物はなかった。
 もちろん噂はいろいろあった。異星人説、旧日本軍の遺構説、古代文明説。高校のある先輩は、貯蔵庫に忍び込もうとしたら中から大量の鳩の鳴き声が聞こえてきて慌てて逃げ出した、あれは絶対に鳩サブレーの秘密工場に違いない、と触れ回り、別の先輩は後輩たちを連れて探索に向かったところ後輩の一人が突然苦しみ出して倒れ、全員が散り散りになって逃げた、あれは確実に細菌兵器の貯蔵庫だ、カルト宗教の道場なんだと騒ぎ立てた。鳩サブレーはともかくその後輩というのが俺の友達のEタニくんだったので俺はその話の真実を知っている。彼はお調子者のくせに空気が読めないという迷惑な人物でその時も冗談で胸を押さえて倒れたそうだ。自分ではめちゃくちゃウケると思っていたが緊張のピークに達していた学生集団にそのネタは通じず彼は盛大にスベった。スベった、というよりひどい風説を流布してしまってそれ以来うちの高校では貯蔵庫に近づく者は誰もいなくなった。
 というエピソードから分かるように、俺はアホな学校にいて、アホに囲まれ、アホのまま卒業した。アホだからいい就職先もなく、優れた能力も具体的なスキルもなく、そのまま実家に居着いてしまってどこにも行かずに部屋に閉じこもって、そのおかげでばあちゃんの最期を看取ることができた。出張先から駆けつけた親父、旅行先から始発で戻ってきた母親、二人とも間抜けな顔をして病室の入り口に突っ立っていた。俺は黙って病室を出た。彼らとすれ違う時、ふっと俺の家の臭いがした。それが何かたまらなく嫌で、俺は自分にも染み込んでいるであろうその臭いを病院に置き去りにするように早足で歩いた。
 一階に降りた時、ばあちゃんの友達のヨシコさんがタクシーでやってきて、病院の入り口で俺と鉢合わせた。ヨシコさんは俺にすがりついて声を上げて泣いた。俺は嗚咽にむせぶご老体をどう扱っていいのか分からず、ただ背中をさすって、落ち着くまでそうしていた。ヨシコさんの白髪からは香水のいい匂いがして、俺は自分の臭さが浄化されるような気持ちになりながらしばらくヨシコさんと抱き合っていた。
 やがて十分ほどでヨシコさんは落ち着き、おばあちゃんに会ってくるわ、とハンカチを鼻に当てながらエレベーターで病室に向かった。一人になった俺は急にどっと疲れてその辺のベンチに身を投げて目を閉じた。倒れたばあちゃんの救急車を呼んだのも、救急車が遅れてタクシーに切り替えたのも、死亡確認して葬儀屋と役所の手配をしたのも俺だった。俺には社会経験がほとんど無かったがスマホがあればそういうことは大体分かる。けれど、収入がないので、決定権がない。収入のないやつには決定権も発言権も人権も認められないのがうちの家のルールだったのでいろいろなことを勝手に決めた俺はあとからひどく怒られるだろうと思った。無神論者の父とドケチな母はもしかすると葬式をキャンセルするかもしれない。親族の誰にも言わずに二人だけで火葬場へ直葬するかもしれない。でも俺は、ばあちゃんの葬式をあげてやりたかった。あんなに先祖に感謝して、一族の繁栄と無事を仏壇に祈り続けたばあちゃんは、親戚のみんなに送り出してもらいたいって思うんじゃないかな。
 さらに十分後に戻ってきたヨシコさんにそんなことを言うと「そうよお、テンちゃん、あんたおばあちゃんのことよーく分かってんのねえ」と頭を撫でられて俺は赤面した。ヨシコさんは吹っ切れた顔になっていて、もう大丈夫そうだった。
「テンちゃんがあたしに知らせてくれたからには、直葬なんてさせないわよ。少人数でもいいから、ちゃんと式はやんないと駄目よって、お母さんに言っておいたからね」
 関東からこの村に移住してきたヨシコさんは七十代後半になってもポジティブで世話焼きでエネルギッシュだ。帰りのタクシーに乗り込む直前、ヨシコさんはふと俺の顔を見て、そういえば前に言ってたあの黒いサイコロね、と耳打ちしてきた。
「あれって芸術家の作品だと思うのよ。あたしこないだアルバム整理してたら、あの建物とそっくりのイラストが出てきてびっくりしちゃって。ほら七○年に万博あったでしょ、その頃あたしこっちに嫁いできたばっかりで、知り合いもいなくて一人で行ったんだけどね、その時にもらったパンフレットに同じ建物が描かれてたの。建築家の先生の名前は忘れちゃったんだけど、関西で活躍した先生らしいから、あれもきっとその人の作品なのよ」
 タクシーの運ちゃんが車から降り、早く乗れという表情でこちらを見てきた。ヨシコさんはそれには構わず俺の手を取り、目を細めて呟いた。
「その当時おばあちゃんと友達になれてたら、絶対一緒に万博見に行ったと思うわ。新しいもの好きだったもんね、おばあちゃん」
 タクシーが走り去ったあと、俺は自分もタクシーを呼ぶか、両親の車に乗って一緒に帰るかを迷い、結局、金銭的な事情で両親の車に同乗することにした。踵を返してエレベーターに乗り、病室に戻ると、廊下の突き当たりでイライラしながら電話をかける親父の姿が目に入った。漏れ聞こえる話を聞くに、親父は葬儀屋ともめているようだったが、俺に人権はないので黙っていた。一方、母は病室で黙ってばあちゃんを見下ろしていた。事あるごとにばあちゃんを叱りつけていた母は今どんな気持ちなんだろうとその横顔を盗み見たが、少なくとも喜んではいないようで俺は安心した。
 電話を終えた父が母を呼び、俺はその後についていった。病院の駐車場から出る時、親父が後部座席の俺を振り返り、くしゃくしゃの五千円札を握らせた。
「お前、タクシー使ったやろ。迷惑かけたな」
 俺はその金を握りしめ、窓から投げ捨てるか一瞬迷い、でも、五千円が欲しかったから、ポケットにねじ込んだ。

 

 家に帰ると俺は真っ先にばあちゃんの部屋に行った。親父によってありとあらゆるものが捨てられる前に、形見を守らないといけなかった。親父には恨みがあった。お気に入りのぬいぐるみを捨てられた。思い出の自転車も捨てられた。集めていた雑誌も置き場所がないという理由で捨てられ、大事に履いていたスニーカーも汚いといって捨てられた。子供の俺は金を稼いでいないので人権がなかった。そして今も金を稼いでいないので同じ立場のままだった。けれど今の俺には知恵と経験がある。捨てられる前に行動を起こすことができるのだ。
 久しぶりにばあちゃんの部屋に入ると、古い畳の匂いと、部屋中に染みついた線香の匂いに包まれ、俺は目的も忘れてしばらくぼんやりとしてしまった。その複雑な匂いはとても懐かしかったが、同時に、やっぱり中心の大切な部分が空っぽのような気がした。そこには晩年あまり風呂に入らなかったばあちゃんの、あのなんとも言えない体臭が足りなかった。俺はばあちゃんの体臭を嗅ぎたいと思った。いつも着ていたよく分からない暗い色のモコモコした上着に顔をうずめ、鼻から息を思い切り吸い込み、自分の中をばあちゃんの臭いで満たしたいと思った。
 俺は自分が泣いているのを親に悟られないように廊下に通じる磨りガラスの引き戸の鍵をかけた。俺の実家は築五十年で畳敷きの仏間があり、それがばあちゃんの部屋になっていた。仏間にはばあちゃんの箪笥が二つと、小さい本棚と机が一つずつあって、その机の前に古びた座布団が置いてあった。子供の頃はその座布団を投げて遊んでいたので俺の脳裏にその黄色と青の格子模様がくっきりと刻み込まれている。しばらくして落ち着いた俺はその座布団に座り、いつもばあちゃんがそうしていたように、小さい机にむかって、手元のライトを点けて、誰かに手紙を書くふりをした。
 ばあちゃんは筆まめだった。あんなにたくさん一体誰に手紙を書いていたのか、今となっては分からない。ばあちゃんは先祖や一族の話はするが、考えてみれば自分のことをあまり語らない人だった。ヨシコさんが言っていた、ばあちゃんが新しいもの好きだという言葉は意外だった。この村で生まれ育ち、一歩も外に出ず、地元のしょうもない会社に事務で就職して見合い結婚をしたばあちゃんがそんなキャラだなんて信じられなかった。もしかしてばあちゃんはずっと我慢していたんだろうか。それとも、諦めた後だったんだろうか。
 親父に似て物を持たず、つつましく暮らしていたばあちゃんの遺品の中に形見として取っておけるものはあまりなさそうだった。色々漁って、とりあえず愛用していた万年筆とウールの膝掛けをもらうことにした。どうせこの二つが無くなっても俺の両親は何も気付かない。俺は膝掛けを脇に抱え、最後に本棚を漁った。晩年は健康マニアだったから蔵書のほとんどが健康に関する本で、残りがレシピ本だった。ばあちゃんは舌がぼけて味付けがおかしくなっていると俺の親父と母の二人に言われてからは料理をしなくなっていたが、俺はばあちゃんが料理をしたがっているのを知っていたし、その料理がおいしいことも知っていたので、俺が一人の時はばあちゃんによく料理を頼んだ。ところが母親はそれも気に食わなかったので、俺が全部自分で作っていることにしないといけなかった。だから俺の両親は俺が料理好きでなんでも作れると思っている。両親は俺に興味がないのでこの程度の嘘を信じさせるのは簡単だった。
 思い出のレシピが載っている本を探そうと棚から本をごっそり取り出した時、ふとその中に紛れていた一冊のパンフレットに目が留まった。古びて角が取れ、表紙が変色したパンフレットだった。その表紙には「みんなの万国博」と書かれてあった。俺は驚いて中をめくった。そこには俺の知らない過去の世界が広がっていて、時々、ばあちゃんが差し込んだであろう付箋が貼られていた。
 ばあちゃん、と俺は思った。万博、行ったのか。それとも、行きたかったのか。また涙が出そうになったので俺は慌てて別のことを考えた。そうだ、確かこのパンフに貯蔵庫と同じ家が載ってるんじゃなかったか。急いでページをめくると、確かに黒いサイコロのイラストが載っていた。けれどそれがあの丘の上の貯蔵庫と同一なのかどうかは分からなかった。ばあちゃんはこのことを知っていたんだろうか。二階からどすどすと親父が降りてくる音がしたので俺は慌てて膝掛けと万年筆だけを持って部屋を出た。
 逃げる俺の背中に親父の声が届いた。
「お前、喪服持ってんのか。持ってへんのやったら、古い安もんのやつあるさけ、貸したるわ」
 俺と入れ替わりで親父がばあちゃんの部屋に入っていった。もちろん形見の品を選別しに入ったのではない。遺品を捨てるのに、軽トラに積めるか、業者に頼まないといけないのかを見積もるために物量を見に来たのだ。俺の親父は、自分の親が亡くなったその日のうちにそういうことをする人間だった。そして親父は、ばあちゃんの部屋に何が置かれているか、どんな暮らしをしていたのかをまるで知らない人間だった。俺は親父が仏壇の前で手を合わせる姿を見たことがない。先祖を大事にするばあちゃんからなぜこういう人間が生まれてきたのか分からない。
 ただまあ、向こうもそう思ってるだろうな、とは思う。そこそこいい大学を出て、こんなに朝から晩まで仕事に熱中する自分から、なぜこんなアホで非社会的なクズが生まれてくるんだと思っているに違いない。親父は毎日悩んでいる。世間に申し訳が立たんと。親に恥をかかせるなと。
 俺は、親父が投げつけるようによこした、古い安もんの喪服に袖を通した。肩幅も身幅もウエストも股下も、サイズは悲しいほど自分にぴったりだった。喪服を脱いでハンガーに吊しながら俺は、自分の身体のかたちが若い頃の親父と似ているのだという事実を、絶望的な気分で受け入れるしかなかった。

 

 結局、というか案の定、不安は的中した。
 ばあちゃんはお通夜も葬式もなく火葬場に直葬され、キラキラした安っぽい内装のホールの少し奥まった場所に並んで立った親父と母と俺の前であっけなく灰になった。
 お骨を拾い、外に出て葬儀場を振り返ると、そこには何もない白っぽい空が広がっていた。俺はその漂白されたような美しい初秋の空を仰ぎながら、最近の火葬場は煙が昇らないことを知った。
 遠いなあ、と俺は思った。
 ばあちゃん、あの世で先祖に会えてるかな?
 俺の力が足りないせいで葬式を挙げることができなかった。俺が金を稼いでないから、ばあちゃんはこの世の誰にも会えなかったのだ。なんで世の中がそんな仕組みになってるのかアホな俺には理解できなかった。俺は親父が運転する車で家に戻り、親父に喪服を返し、母親がつくるメシを食い、親父が建てた家のベッドで眠った。そしてその夜、深夜、俺はここから歴史が一巡するのだと何の前触れもなしに直感した。俺の六畳の子供部屋という宇宙からすべてが始まるのだ。親父は死に、母の味付けは狂い始め、俺はいつしか親父になって喪服を自分の息子に譲る。長い歳月をかけて人々の記憶は混ざり合い、未来が虚構となり、現実が過去となって一方的に語られ始める。俺はその円環の先端に立ち、大勢の火葬された魂を見送っている。魂は巡り、そのうち再びばあちゃんが生まれ、再び大阪に万博がくる。ばあちゃんは万博に行こうとして、お洒落をして誰かの手を取るが、それは俺の手ではない。俺は光の速さで未来へ進み、触れられる俺はすべて過去の存在で、一瞬でも現在に立ち止まることができず、どうしたってばあちゃんには会えない。
 目が覚めたら喉がからからに渇いていた。水を飲もうと台所に降りて行き、食器棚からガラスのコップを取り出した時、暗闇の中で親父が椅子に座っていることに気付いて叫び声を上げそうになった。親父は公園の夜のブロンズ像のように固まって動かなかった。酒も飲まずテレビもつけず、親父はただ暗闇の中で石化していた。俺の方をチラリと見もしないので気味が悪くなり、俺は水を一口で飲み干すと逃げるように自室へと階段を駆け上がった。階段を上りながら、あいつはもう過去になったのかも知れない、と思った。
 しかしもちろんそんなわけはなく、翌日の朝から親父は俺にいつもの小言を言い、俺の存在を全否定してからすっきりした顔で会社に行った。母は無言で親父の意見に完全同意していた。ここでいつもならばあちゃんが全然関係ない先祖の話を始めて俺の傷を癒やしてくれるのだが、ばあちゃんはもういないので、俺は朝飯を半分残して自室に戻り、内側から鍵をかけた。
 ベッドに寝転がろうとして身体を投げ出したら少し勢いがつき過ぎて、俺の身体はワンバウンドしてベッドと壁の間にすっぽり挟まってしまった。俺は隙間に挟まったままこれからのことを思った。宇宙が一巡した後も俺は俺で、俺だけがなぜか社会から取り残されて、こんな宇宙の端っこの、築五十年の六畳間の、たまにダニに噛まれるような汚いベッドと壁の狭い隙間に挟まり、朝から親に罵倒されて何も動けずにいる。しかしちょっと待ってくれ、これは本当に現実なのか? 俺の勘違いってことはないか? 俺はこれからどうなるんだ、そういえばあいつらはどうなったんだろう、かつて俺と同じような連中がたくさんいたはずだと俺はスマホで古い友達の名前を検索してみた。
 するとかつて貯蔵庫の件で胸を押さえて倒れて一躍時の人となったEタニくんの名前がITコンサル会社のサイトに載っていた。プロフィールの生まれた年も出身地も一致したのでそれは本人らしかった。それからさらに調べてみるとEタニくんはSNSをやっていて俺は少し躊躇したが連絡を取ってみることにした。久しぶり! 覚えてる? おれおれ。おれだよ。あのさ、ちょっと困ったことになってさ、話聞いて欲しいんやけど。Eタニくんは数分後に既読を付けたあと三時間以上俺の魂のメッセージを無視したので「貯蔵庫のこと先輩にバラすぞ」と軽く脅してみたら即レスで反応が返ってきた。
「うっそ、テンちゃん? めちゃ久しぶりやん! 今何してんの?」
 何してるって?
 あれ? 俺今何してる?
 そこで初めてEタニくんのアイコンが妻と子供の家族写真であることに気付き、完全に指が止まってしまった俺にすぐ次のメッセージが届いた。
「俺、地元にマンション買ったんよ。遊びに来る?」

 

 Eタニくんの新居はこんなところにこんな高層マンション建てて一体どんなアホが住むんだと俺が憎しみを込めて毎日自室から睨んでいたタワマンの最上階にあった。
「引っ越したばかりで何もないんです、すみません」
 と言いながらおしゃれなカップでインスタントではない挽き立てのエスプレッソを持ってくる肌がきれいな美人の奥さんと、広くて明るいリビングの隅の方で高価な知育玩具を使って遊んでる二歳の娘さんをちらちら盗み見ながら、俺は俺の家には絶対に置けないサイズのふわふわのソファに身体を包み込まれ、とにかくその純白のふわふわしたソファにエスプレッソをこぼさないよう、そのことだけに意識を集中し、首を突き出し、オットセイが水を飲むような感じで(実際のオットセイの挙動は知らん)必死に苦いエスプレッソをすすっていると、仕事のメールを一本だけ送らせてくれといって自室に入ったEタニくんがリビングに戻ってきて、いやあ、ほんま久しぶりやなあ、と満面の笑みを見せた。
 最初、玄関で会った時は比喩ではなくほんとに別人かと思った。それもそのはず、Eタニくんは整形していたのだった。あの間抜けな角度の眉毛、起きてるのか寝てるのか分からない細い目、そしていつも半開きのだらしない唇が、すべて医療の力で整えられ、過去が書き換えられていた。そこにかつてのEタニくんの面影はなかった。Eタニくんが「テンちゃーん!」と握手してこなければ俺は確実に人を間違えたと思って玄関ドアを閉めていただろう。
 Eタニくんは高校卒業後に浪人し、一年間死に物狂いで勉強して大学に入り、その大学のゼミで奥さんと出会い、卒業後はアルバイトして貯めたお金で二人でオーストラリアに留学して、ひょんなことからシドニーの酒場で酔っ払っていたベンチャー企業のCEOと仲良くなり、帰国後、ちょうど日本法人を設立したばかりのその会社で働くことになったのだという。
「今はちょっと大きいプロジェクト任されてて、それがほとんど向こうの仕事やから、ほぼリモートやねん。そんでどうせずっと家にいるなら、もう家買うか、ってなって」
 Eタニくんは自然な笑顔で俺にそう説明した。奥さんは彼の整形のことは知っているのだろうかと思い、俺は部屋の隅の二歳の娘さんに目をやった。
「乱暴はだめよ、あーちゃん。諦めずに、しっかり考えれば分かるからね」
 あーちゃんはモンテッソーリのものだというカラフルな知育玩具を掴んでは片っ端からガンガンと床に打ち付けていた。どうやら決まった場所にいろんな形のものをはめ込んでいくというパズル型の玩具らしく、あーちゃんはそれがうまくできなくて癇癪を起こしているのだった。俺は無表情で木製のお星さまを床に叩きつけるあーちゃんの顔を見た。あーちゃんは見事に旧型のEタニくんそっくりの不細工だった。
「おほしさまは、そこじゃないの。ね? しっかり考えてみて」
 あーちゃんは手に握りしめたお星さまを見つめ、しばらくしてもう一度四角い穴の中へ通そうとした。Eタニくんの奥さんはあーちゃんの手を取り、無言で星形の穴へと誘導する。しかしあーちゃんはなぜか激しく抵抗する。その様子を眺めていると、Eタニくんがエスプレッソに唇を軽く浸し、嘘のように大きくなった目を輝かせて言った。
「それでテンちゃんは、今何やってるの?」
 もちろんその問いにうろたえるような俺ではない。当然のその質問に対する答えはあらかじめ準備してきていた。俺はEタニくんの両目を見返して言った。
「ばあちゃんの介護やってんのよ」
 えっ、とEタニくんが驚いた顔をする。ばあちゃんって、あのおばあちゃん? 具合悪いん?
 Eタニくんが意外にもその話に食いついてきたので俺は少し焦った。そういえば、Eタニくんはうちにたびたび遊びに来ていて、うちのばあちゃんによくお菓子をもらっていたのだった。俺はできるだけ悲痛な感じを演出しながら言った。
 そうなんよ。もう寝たきりになってて、でも親父もおかんも仕事あるし、施設に預けるのもかわいそうやし、だから俺がさあ、
 そこまで言って、俺は驚いた。Eタニくんも奥さんも、あーちゃんまでもが驚いていた。俺は新築の白いフローリング材にばたばたと落ちる自分の涙をまるで他人事のように眺めていた。それにつられたのか、あーちゃんが突然泣き出して、その絶叫で俺は我に返り、慌てて自分のシャツで顔をめちゃくちゃに拭いた。奥さんはあーちゃんをあやして、Eタニくんは何を勘違いしたのか黙って俺の肩を抱いた。
 奥さんが二杯目のエスプレッソを用意してくれている間、俺は広いバルコニーに出て、この最上階から見渡せる俺の村を眺めていた。Eタニくんが、思ったより小さいやろ、と隣に立って言った。時間はちょうど夕暮れ時にさしかかっていて、オレンジに色づいた光線が村の全体を斜めに照らし、無数の建物の影が幾何学的な模様のように大地に伸びていた。
 Eタニくんの言う通り、生まれて初めて見下ろした俺の村は、あまりにも小さかった。小さいだけでなく全てが褐色に色褪せ、干からびているように見えた。俺はこんなところで生まれ育ち、今もなおこの村に縛り付けられているのかと思うと、本当に自分がくだらない存在のように思えてきた。Eタニくん、と俺は言った。この景色、初めて見た時にどう思った? するとEタニくんは上層階特有の吹き上げる気流に顔をしかめながら言った。
「この景色って、誰かが一気につくったものじゃなくて、何百年もかけて自然に生まれたものやん? てことは、俺がここからレーザービームで焼き払ったとしても、また何百年かすれば自然と元通りになるんかなって思ったら、なんか死にたくなって、いっそここから飛び降りたろかって思ったよ」
 Eタニくんは俺の顔をちらりと見て、再び視線を外して言った。
「もし俺が海外に行かずにずっとここに暮らしてたら、ほんまに飛んでたかもな」
 俺はEタニくんの横顔を見た。そこには過去のどこにも存在しないEタニくんの横顔があった。俺はEタニくんが整形したのは実はごく最近なんじゃないかと思ったが黙っていた。俺が何も言わずに村の遠くに視線を投げていると、Eタニくんが「ほらあそこ」と指をさした。その方角に目をやると、村の外れの丘が見え、その中心にはあの四角い貯蔵庫の姿があった。
「あれのせいで俺、退学になりかけたよなあ」
 Eタニくんは笑って遠い目をした。高層マンションからは逆に丘を見下ろす形になり、目をこらすと貯蔵庫の屋根部分がはっきりと見て取れた。貯蔵庫の屋根には大きな天窓があった。どこにも窓が無いと思っていた建物だったが、ちゃんと採光は取られていたのだ。ということは、人が住んでいた可能性もある。Eタニくんは乱れた髪型を整えながら言った。
「結局あれ、何やったん?」
 ぶっきらぼうに俺は答えた。
「知らん」
「そもそも貯蔵庫って、何を貯蔵してるんやろ」
「そら、あらゆる生き物の種の保存ですよ」
「ノアの箱舟的な?」
「中身ほぼ鳩やけどな」
「あかんやん」
 俺たちは数年ぶりに笑い合った。そんな風に笑うのは数年ぶりどころか、ひょっとすると数十年ぶり、数百年ぶりかもしれなかった。あれから永い時が光の速さで流れていった。宇宙が回転し、Eタニくんは別人となり、俺は再び同じ汚いベッドの隙間に挟まった。ばあちゃんが死に、ヨシコさんが泣き、命が巡り、あーちゃんが生まれた。その渦が、この眼下に広がる、こんな小さな村の中でぐるぐる回っているのだと思った。
 帰り際、靴を履いているとあーちゃんにシャツの裾を引っ張られた。あーちゃんはママに見つからないよう、こっそりと何かを手渡してくれた。別れの挨拶をしてエレベーターに乗り込み、握った手を開くと、そこには傷だらけで角が取れたお星さまがあった。俺はありがたくその厚意を受け取ることにした。

 

 雑木林の足下は綿のように軽く、いくらでもスニーカーが沈み込み、俺はその自然の優しさに軽い恐怖を感じた。
 一人で行くことは決めていたから、せめて時間はできるだけ怖くないようにと真昼を選んだのが間違いだった。出発直前、今日の気温のピークは真夏並なので熱中症に充分ご注意ください的なニュースが流れてきて、うそつけと思って何も持たずにチャリにまたがったら、その一時間後に「暑さで朦朧とする」という小学生以来の体験をする羽目になり、俺はとにかく湧き水を探しながら歩いた。そして水源を見つけるとそこにシャツをひたして体温の上昇を防ぎ、水が飲めそうなら両手ですくって水をすすったりして、いつか辿り着くはずの丘を目指して歩き続けた。長年引きこもっていた俺は自分でもびっくりするほど体力が落ちていて、歩き始めて五分もしないうちに膝が笑い、息が上がり、まるで別人のようで情けなくて涙が滲んで、それでも必死に丘を目指しながら俺は一体何やってんだと100回くらい思い、101回目からは「見て分からんのかアホ」と声に出して自分で自分に切れるという、端から見ればかなり危険な状態に陥っていた。
 どれくらい斜面を登ったのか、やがて突然視界が開け、強烈な太陽の陽射しに目がくらんだ。それが丘の上に出た合図だということは、目を開ける前に分かっていた。顔を上げると眼前にあの建物がそびえ立っていた。俺は顎に滴る汗を手の甲で拭い、人間を警戒する野生動物のような動きで足音を忍ばせながら、その周囲を注意深くまわった。
 窓も入り口も無いと聞かされていたが、入り口はあった。ただしそれは一見して気付けないデザインで、人の目から巧妙に隠されているように思えた。ドアは外壁と同じ色、つまり真っ黒に塗りつぶされ、凹凸も無く、ドアノブも手掛かりも無く、少し離れたところから見れば長方形のラインが薄く入っているだけのただの壁のように見えた。それがどういう意図でそんなデザインになっているのか、オシャレでそうしているのか、あるいは俺たちのような野次馬からこの建物の目的を隠そうとしているのか、建物の周りをぐるりと一周しても判然としなかった。
 そのドアはどうやって開けるのか見た目からは分からないが、切れ目があるということは開くということで、端をぐっと押したり、あるいは小さなボタンがあったり、何かしらのギミックがあるのだろうと思ったが、俺は貯蔵庫に近づいてドアに手をかけることはできなかった。その理由は、単純に怖かったからだ。窓やドアのことなんかどうでもいい。最大の問題は、貯蔵庫の外壁がまったく劣化していないということだった。もしこの丘に立派な道路がついて、ハウスメーカーの営業車でここを案内されたら、俺はこれが新築のモデルハウスだと勘違いしていただろう。
 外装をやり替えた? 一体誰が何のために? この場所への道は、俺が山の中をうろつき回った限り見つけられなかった。数十年昔にはどこかに存在していたとは思うが、少なくとも現在、この貯蔵庫へ至る道は無い。つまりこの建物には誰も住んでおらず、塗装業者の車も辿り着けないのだ。そのことに気付いた瞬間、俺は何かこの世のものではない存在に触れているような気がして身震いした。
 もう一つの発見は、貯蔵庫の裏手にかけられたハシゴだった。そのハシゴは地上から貯蔵庫の屋上に続いていた。ハシゴの存在に気付いたのはおそらく俺だけだろうと思った。貯蔵庫の裏手は山なので、村やEタニくんのマンションからは見ることができないからだ。
 俺は日陰を探して太い木の麓に腰を下ろし、シャツで顔と頭の汗を拭いながら目の前の貯蔵庫をぼんやりと眺めていた。するとそのうち、頭がぼうっとしてきて、時間の流れが狂い始めるような感覚があった。霞がかかったような、水で滲んだ俺の視界の隅に、ハシゴを登るばあちゃんの姿が見えた。あっそうか、ばあちゃんが貯めてるんだ、と俺はすぐに納得した。つまりこれは未来のためのアレで、だからここだけずっと未来なんだ。なるほどなあ。俺は薄れていく意識の中でもう一度ばあちゃんの姿を目で追ったが、もうそこには誰もいなかった。
 身体を起こした時はもうどっぷりと日が暮れていた。日中の暑さは反転し、山の夜は恐ろしく冷えていた。俺は慌てて立とうとして、足がもつれて地面に転んだ。吐き気が凄まじく、俺は四つん這いで数歩進んでからそのままの姿勢で吐いた。
 俺は近くの木の幹にもたれ、体調が戻るのを待った。三十分ほどそうしていると、徐々に視界がクリアになり、指先の感覚も甦り、吐き気も震えもましになった。木の幹に手をついて立ち上がると少しくらっときたが、それからは普通に歩くことができたので、俺は貯蔵庫に向かって歩き始めた。もうほとんど足下は見えなかった。そんな状況で下山する自信もなかったので俺は野宿の覚悟を決めた。親はどう思うだろうか。これまで引きこもっていた息子が突然いなくなり、一晩帰ってこないという状況で、やつらがどういう反応をするのか興味があったが、気付かない場合も大いにあると思って想像するのをやめた。
 ハシゴの前に立つと、俺は意を決してハシゴに手をかけた。金属製だった。金属って錆びるんじゃないのか。俺はその新品同様のつるつるした感じに一瞬ひるんだが、もう余計なことは考えないでおこうと、力強くそれを握りしめ、足を踏みしめ、一段ずつ昇っていった。
 ほどなく俺は屋上に到達した。Eタニくんのマンションから見た屋根はすべてがフラットな斜面のように見えていたが、実際はハシゴで昇りきった付近の床だけが一部水平になっていた。しかしそこにテーブルや椅子があるわけでもなく、周囲に落下防止の柵も無く、一体何の目的で屋上に昇れるようになっているのか分からなかった。屋根を見渡すと、斜面の中央に例の大きな天窓が見えた。ここからは角度的に中は見えず、斜面を歩いていって中を覗き込んだとしてもどうせ夜なので何も見えないだろうと思い、俺はただ、立てるスペースに立ってみた。
 それから何気なく顔を上げて遠くを見た瞬間、俺は眼下に広がっている光景に思わず息を呑んだ。そこから見下ろす村は昼間の風景とは一変していた。村全体が、宇宙の運河のように瞬いて発光しているのだった。一粒一粒の星が明滅を繰り返し、それが大きな一つの呼吸となって、闇に墜ちた周囲の山や森や川から村というものを切り離し、浮かび上がらせていた。初恋の子の実家も、最近できたスーパーも、親戚の叔父さんの家も、ここから見えているはずの俺の家もみんなその呼吸の一部なのだった。俺はこの村で生まれ死んでいった自分の先祖のことを思った。そして屋上に立ち尽くしたまま、いつまでも運河に蠢く輝きの粒に目を奪われていた。
 俺は知っている。
 ばあちゃんは毎日仏壇にご先祖への感謝を欠かさなかった。そして一族の歴史を語り継ごうとした。でもばあちゃんが一番祈ってたのは、俺の未来だ。
 今、俺は未来の先端に立ち、この小宇宙を眺めている。未来において今までの俺はすべて過去だ。過去は焼かれて魂となり、等しく空へと還っていくだろう。親父に馬鹿にされた俺も、母に無視された俺も、ハローワークの太った中年職員に鼻で笑われた俺も、宇宙が一巡したのにまたベッドと壁の隙間に挟まった俺も、過去の俺たちはみんな燃えて灰になる。俺はひとりぼっちですっからかんだ。すっからかんの身体のまま、暗闇に飲まれ、家に帰ることもできず、恐ろしい速度で未来へ運ばれていく。でも大丈夫だと俺は思う。ばあちゃんが貯めてくれたアレがあるから大丈夫。俺は未来から銀河系に目をこらし、やがてその無数の輝きの中に小さな自分の星を見つけた。その星で暮らす俺は、そろそろベッドの隙間から這い上がり、大きく伸びをして、一度だけこちらを見たような気がした。



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