夏には世界が

 

 遠くの丘にぽつんと影が見えて、それは虹村さんだった。
真夏の強いコントラストの中に虹村さんは立っていて、何か遠くの方を向いてじっとしていた。白紙のように消し飛んだ空が虹村さんの向こうにあって、彼女はひょっとするとそれを眺めているのかも知れないと思った。僕はそんな虹村さんの後ろ姿に何の言葉もかけられずにその場に立っていた。僕たちはまるで不揃いな彫像のようだった。
 虹村さん、夏ですね。暑いですね。そんな言葉でも呟けば良かったんだろうか。

 

 虹村さんの話す言葉がカタカナになったのは春先のことだった。もちろん漫画みたいに吹き出しがあってセリフの字体が変わったりはしなかったけれど、僕の耳には虹村さんの声がすべてカタカナに聞こえるようになった。例えば「ソレトコレトハ違ウ」とか「幸セナ気ガスル」とか「ドッチモ好キダナ」とか。それはまったく突然だった。僕は訳が分からなくなって虹村さんに理由を訊いたりしたけど、僕の混乱は虹村さんに届かなかった。彼女自身そのことに気付いていなかったからだ。僕は必死でそのことを説明して、虹村さんは変な顔をしたまま肯いて。
 理由や原因なんてものはあれから数ヶ月経った今でも分からない。何かにショックを受けた様子もないし、大きな事件があったわけでもない。僕は一人で随分と考え、結局、虹村さんは何かをやめたんだろうと思うようになった。説明は出来ないけど僕にはそんな気がした。何かに飽きたんだろうか、それとも何かを諦めたんだろうか。
 それ以来、虹村さんはよく丘の上に立つようになった。丘はこの街のはずれにあって、誰も手を着けていないぼうぼうの雑草が茂る場所だった。ちょうど丘の手前に僕の通う予備校があったから、僕は帰り道に丘に立っている虹村さんを何度か見かけたことがある。彼女はまるで柔らかい避雷針のようにそこにいた。涼しそうな服を着て。長い黒髪をそのままにして。
 丘に虹村さんのシルエットを見つけてもそのまま通り過ぎることが多かった。話しかけるのが悪いことのような気がしたからだ。第一、その場所で何を話せばいいかなんて僕には分からない。バカな質問しか頭に浮かばない。
 ずっと前に理由を訊いたことがあるけれど、思った通りそれはまるで無意味だった。
「虹村さん、そこで何してるんですか」
「別ニ」
「どうしてそんなところに立っているんですか」
「マタドコカニ行キタクナッチャッテ」
「答えになってませんよ」
 虹村さんは行きもしない旅行の計画を立てるのが好きで、家に遊びに行くと大抵いろんな旅行雑誌と時刻表が畳の上に散らかっていた。彼女は広い畳の部屋の真ん中で、扇風機の風に髪を遊ばせて、だらだらとそんなものを眺めているのだった。スペイン6日間の旅、アメリカまるごとツアー、日帰りで行く日本の秘境。格安チケット、お得な回数券、マイルを貯める裏技。でも僕は虹村さんが決して旅をしない人だということを知っていた。虹村さんは旅行に行きたいけどお金がない、なんて愚痴をいつも言っているけど、彼女はそこから先に進むことがなかった。例えば家事手伝いをやめて短期のアルバイトをしてみるとか、何かを売ってお金をつくるとか、無職なんだから旅行なんて行こうと思えば簡単に行けるはずだった。でも彼女は何故かそうしない。いつもそこで止まってしまう。たぶん旅を想像するのが好きなだけなんだろう、彼女の部屋には雑誌の他にもたくさんのパンフレットが散らかっていた。駅前にあるような薄いペラペラの、色とりどりの美しい風景。虹村さんの頭の中には空想の旅があって、彼女はその世界を歩いているのだった。小さいコップでお茶を飲みながら、長いスカートで畳に三角座りをして、虹村さんはカタカナのままでどこの国を旅しているのだろう。

 

 言葉がカタカナに聞こえるようになったからと言ってそれが日常生活に支障を来すということはなかった。第一彼女の言葉がそう聞こえるのは僕だけなのだった。僕の友達に言っても、虹村さんの友達に言っても、妙な顔をされるだけだった。
 あまりそのことばかり考えていても仕方ないので、それ以後も虹村さんとは普通に会い、普通の無駄話をしていつも通りに笑う。虹村さんが好きな公園に行き、そこでジュースを飲む。虹村さんは僕の恋人のことをからかい、僕は虹村さんの男っ気の無さをからかう。春から夏になり、今ではカタカナのことも以前より気にならなくなった。別に虹村さんが話せなくなったわけじゃないし、外国語になったわけでもない。そう思うと結構どうでもいいことのような気がしてくるのだった。
ある日虹村さんは僕の隣で現在構想中の旅行のことを話してくれた。この夏にせっかくだから大きな旅がしたいのね、そう言って虹村さんは僕に地図を広げてみせた。
「ホラ、ココニ大キナ湖ガアルデショ。ソコガスタート地点デ、アトハ印ノツイタ場所ヲ全部マワルノヨ」
 虹村さんの見せてくれた地図にはマジックで所々に印が付けられていた。それは観光名所であったり、国立公園であったり、温泉街であったりした。
「でもこれって国内じゃないですか。あんまり大きな旅じゃないですね」
「イヤイヤ、ソンナコトナイヨ。国内ナメナイデヨネ」
「お金ないんですか。やっぱり」
「失礼ナ」
「どうせならバーンと海外とか行ってみましょうよ」
 僕がそう言うと虹村さんは少し考え、言った。
「ソンナ勇気ナイモン」
 初めて聞く言葉だった。以前から薄々感じていたことだけれど、彼女の口から聞いたのはこの時が初めてだった。虹村さんはそういう人なのだった。
 僕はまずいことを言わせてしまったような気がして、遠慮がちに言ってみた。
「まあ国内なら安全ですもんね。それもいいかもね」
「本気デ言ッテナイデショ」
「いや、虹村さん、国内の方が現実味がありますよ。国内だったら行きそうだもん」
「ソンナ話ジャナクテ、私ノコノ計画、イイッテ思ッテクレナイノ?」
「いや、いいと思います。ホントに」
 僕はホントに、いつもの無謀な計画よりは今回の方がいいと思った。今回こそは実行に移しそうだし、その方が虹村さんにとって良いことのような気がした。何かを始めるのは悪いことではない。そう思って僕は賛成した。
 それからも虹村さんの話は続いた。僕たちはいつも通う公園の木陰に座っていて、日本地図を広げ、二人でお互いの旅のイメージを話し合ったりした。カメラを持っていくなら重くても一眼レフがいいとか、安宿の方が味があって面白いとか、日記は絶対つけるべきだとか。旅行の話をする虹村さんはいつも楽しそうで、僕はそんな虹村さんを眺めているのが好きで。
 真夏の芝生からこみ上げてくる熱気と、澱んだ風と、閃光のような日差しが僕たちの前にあって、旅行の話をしながら僕と虹村さんはそんな光景をぼんやりと眺めた。
 僕は手元に置いてあった缶ジュースを一口飲み、それから言った。
「虹村さん、夏は好きですか」
 虹村さんは長いスカートの裾をパタパタと仰ぎ、ハンカチで目の淵を拭いて言った。
「好キダナ」
「どういうところが?」
「白ッポイトコロ」
「ふうん」
 虹村さんの言う通り、目の前の世界は高温で白く溶け落ちているように曖昧だった。遠くに見えるビルも、空も、僕たちの頭上を覆っている真緑の木々さえも、熱線によって色が溶けて褪せたように見えた。僕がそんなことを思っていると虹村さんが言った。
「何ダカ世界ノ終ワリミタイニ見エルデショ」
「はい」
「デモソンナコトハナイノヨネ」
 僕たちの目に映る景色は現実味を失い、確かに世界の終わりのようにも見えた。僅かに輪郭だけを残して激しく輝いているビルや、気が遠くなるほど手応えのない空や、かき消されそうになっている公園のベンチ。でもそんなことはないんだろうか? 僕は虹村さんの呟いた言葉の意味が気になって彼女の横顔を見た。するとそこには少し違った虹村さんがいた。顔つきがどこか違っていた。
 それはどうも僕の知らない虹村さんではないような気がして、いつかどこかで見たことのある、確か、そんなことを考えているとそれがあの丘で見る彼女の表情だということに思い当たった。
 虹村さんは確かこんな顔をして丘に立っていた。凛々しくもあり、寂しそうでもあり、不思議な目の色をして何かをじっと見つめている。僕はいつも何か気高い雰囲気を感じてしまって言葉をかけられないのだった。この時もそうだった。僕はその横顔に黙り込んだ。
 僕たちの会話は止まり、静けさと熱気だけがあり、虹村さんはまるで僕なんか初めから側にいなかったかのような真摯さで何かを見つめていた。ねえ虹村さん。いったい何を見ているんですか。僕はその一言を言えず、ただ黙って、虹村さんの下僕のように同じ方向をぼんやりと眺めていた。視線の先の、その眩しい消失点に何があるんだろうか。その向こうに何を見ているんだろうか。僕の不器用な頭がくらくらと遅い回転を続け、そのうちに虹村さんが静寂を破った。
「チョット暑スギルヨネ。奢ッテアゲルカラ、ドッカ行カナイ?」
 そう言うと虹村さんは立ち上がり、おしりの土を払って空を見た。

 

 丘は予備校の裏手になだらかに続いていて、よく昼休みになると生徒たちが弁当やコンビニの袋を持って歩く姿が見えた。公園でもなく、個人の土地でもないその丘は誰の目から見てもただの原始的な丘で、ポツポツと頼りない木が生えていたり、泥の水たまりに枝が浮いていたりするような場所だった。おそらく都会にはこういった場所は無いのだろうと思いながら、田舎も悪くないなと思いながら、僕はよく友達たちとそこで昼食をとるのだった。
 丘は果てしなく続いているわけでもなく、頂上を中心にわずか百メートルほどの大きさしかない。その向こうは工場であったり、フェンスに遮られた新興住宅地であったりする。虹村さんがいつも立っている場所はその斜面の中腹の、工場と住宅地の狭間を見渡せる方角にあった。彼女がそこで何を見ているのか気になっていた僕は、虹村さんに内緒で同じ場所に立ってみたことがある。授業をサボって、一人でその場所まで歩いていった。
 結論から言うと、僕にはやっぱり何も分からなかった。その高さと方角から見えるものと言えば、工場と住宅地に挟まれた残り物のような中途半端な土地、ただ何となく街路樹があって、余った地面をアスファルトで固めただけのような道。まるで何も無かった。道の先には両者の建造物に切り取られたような空があって、それもただの空だった。僕は溜息をつき、その場所でゴロンと横になって、日が暮れるまで寝た。

 

「小サイ頃ニネ、父サント一緒ニヨク来タノ」
「俺、こんな所があったの知らなかった」
「友達ト遊ンダリシナカッタノ?」
「世代が違うんですよ」
「君、最近失礼ネ」
 深夜、神社に来ていた。丸い森に囲まれた、この街に昔からあるらしい小さな神社で僕は虹村さんと会っていた。もう時計は十二時を回っただろうか。虹村さんの両親は心配していないだろうか。そんな僕をよそに虹村さんは湿った夜の空気をいっぱいに吸い込み、それを気持ち良さそうに吐いた。
「ネ、虫ヨケスプレー貸シテ」
「はいどうぞ」
 急に電話があって、話があるから、と言われて深夜のコンビニに呼び出されたのだ。何事かと思って心配しながら行くと、そこにはいつも通りの虹村さんがいて、いいところがあるの、さっき突然思い出したの、まだそこがあるかどうか気になるから一緒に来てよ、なんて言われてこの神社に連れて来られたのだった。
虹村さんは社の裏手にある小さな石段に腰を下ろし、さっきコンビニで買ってきたおにぎりを頬張った。僕はつい先程まで風呂上がりでテレビを観ていた感覚が抜けなくて、何が何だか良く分からないまま虹村さんのおにぎりを眺めていた。
「ドウ? イイデショ、静カデ」
「まあ、確かに静かですけど」
「怒ッテル?」
「そんなことないですよ」
 虹村さんは二つ目のおにぎりを手に取り、片方の手で虫避けスプレーをシュッシュと吹いた。虫は多かったけれど覆い茂る木々のおかげで暑くはなかった。社の石段はまるで夏と関係なくひんやりしていて湿っていて、この社の中はもっと冷たく暗いのだろうと思った。
「旅行、ヤメタノ」
 不意に虹村さんが言った。僕は虹村さんの顔を見た。
「そうですか」
「ウン」
 いつもより虹村さんの声は小さく、このひんやりとした石段に溶けて消えた。僕は虹村さんのことを何も知らないと思った。カタカナのことも、丘のことも、何一つ知らないのだ。こんな狭い田舎町の、こんな狭い境内の中で僕たちは一体何をやっているんだろう?
 虹村さんは黙っている僕を気遣ったのか、少し明るい口調で言った。
「デモネ、マタ秋ニ新シイ計画ヲ立テタノ」
「そっか」
 そう答えながら僕は別のことを考えていた。しばらくして僕は背中の社を振り返り、虹村さんお祈りしましょう、と言った。
「何ヲ?」
 虹村さんはきょとんとした顔で僕を見た。それでも僕は一人で合掌し、虹村さんのために祈ろうと思った。
「何ヲオ祈リスルノ?」
 何を祈ろう。虹村さんが旅に出ますように? 虹村さんのカタカナが治りますように? どれもピンと来なかった。しばらく合掌したまま僕は考え、そして溜息をついて言った。
「やっぱやめー」
「何ソレ」
 虹村さんは変な顔をして、残りのおにぎりを片付けた。

 

 神社を離れる時、また明日から夏が始まるのだと思った。あの公園で見た、眩しく消し飛んだ空白の世界が再び僕たちの前に現れる。だったらせめて秋まで、と思った。
 虹村さんが秋に旅に出るまで、どうかその時まで、世界に終わりが来ませんように。

 

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