序
くだらないものに唾を吐き /
大切なものを手にしてる /
そんな目つきをしたくない /
マヌーサ /
もっとしてほしい /
もっともっとしてほしい
名前 1 青井麻子。十九才。 大検は合格しました。今は予備校に通って、次の春に大学に入学したいと思っています。 「これは、あなたが二才のときに書いたお話」 おかあさんがそう言って見せてくれたのが、この本です。 はじめて見せてもらった時から、こんなにボロボロでした。 今になって思えば… [more]
高校に上がるくらいまで、水太(みずた)はよく絵を描いていた。 覚えているのは茶色の表紙のノートブック。2Bの鉛筆。アクリルの8色セット。モノクロームの絵ばかり描いていた時、ふと思い立って色をつけてみたことがあった。ところが完成した絵は、気付けば自分の思っていたものと全然違ってしまっていて、それきりカラーは使… [more]
倍音階全鍵録音方式に似て いまのはソのおと。 これはレのおと。 ド♯。 またド♯。 いまのはわかった? ぜんぜん。 ファ。 ソ。 ソレ。 ソレソ♯。 しずかだ。 シだ。 いまのは? シでしょ? あってる。 ほんとに? うそ。 なにかんがえてんの? ともだちの… [more]
涙の向こうに来たるべきものに手をかけて。 狂ったように強いシャワーがプラスチック製の椅子に座り込んだ彼女の頭の先から降り注ぎ、黒く長い髪はじっとり重く濡れて首に絡みついている。朝から不吉な熱い雨。霧の中に忘れ去られた石灰岩の塑像のように孤独なポーズ。美しい背中を細い川が蛇行し、尻の谷間へと流れ込んでいく。北… [more]
もうすぐ深い霧に包まれることを動物達は知っていたようで、うきうきとしたような、そわそわとしたような、足音や息遣いがその大きな沼の周りに満ちていました。 やがて名も無ければ顔もない指揮者が息を止め、その場に居合わせた様々な形をした者達のざわめきが引いて、彼らの謙虚で無垢な視線が尖った指揮棒の先に… [more]
自分の生まれ故郷のことを風子はよく知らなかった。五歳の頃に引っ越したからだ。実家はもうなかった。時間貸しの駐車場になっていた。 新築だったのにね。 彼女の父と母は、その家のことを思い出したくないようだった。家のことはよく分からない風子だが、その気持ちはよく分かると思った。 私だって、買った… [more]
コトちゃんのこと 有名なスナック「うかあれ」の中でも、あまり人気のないコトちゃんが言っていた。 コトちゃんは滅多に話さないので、その声は貴重だ。 常連客達の最低に上品な笑い声。ママ達の激しすぎる相槌。そして止めどなく湧き出てくる色褪せぬ冗談の渦の中に、コトちゃんの言葉は弱々しく浮かんだ。 あた… [more]
文ちゃんはいつも思案顔です。思案顔なのでぼくは不安になります。文ちゃんは何かをいつも考えている。何を考えているのか、とか、どういうふうに考えているのか、とか、そういうことは全然わかりません。友達の輪の中で話を聞いている時の文ちゃんの笑顔も、ぼくには思案顔に見えます。国語の時間に立って朗読している横顔も他のクラ… [more]
迷子になった飛行機が東の方角へ流れていく。私達は冷たい部屋の中からそれを見送っている。私達の冷たい床と壁の部屋の外には途切れることのない雑踏がある。飛行機、そっちに行っても何もないよ。陸も国も村も果ても。機体に大きく描かれた「我ら、汝らと我らの望んだ侭に」の引用を見ながら、そういうことなら私達も同罪かもしれな… [more]
湿度九十パーセント。 その女子高生は持っていた黒い傘を振り回したが、若い男は振り下ろされたそれを掴んで強引に奪い取り投げ捨てた。もう一人の男が女子高生の襟口を掴んで力任せに引っ張る。女子高生はいとも簡単に床に倒れた。黒い髪が薄汚いクリーム色の床に広がる。 ひとけのないセンタープ… [more]